2016年11月07日
翼の向こうに(34)
『あの時、機銃弾があと1センチ内側を飛んで来たら、気を失った後、気がつくのがあと数秒遅かったら、自分は確実に命を落としていただろう。』
そんなことを考えていると弾の中をくぐったことのない実体の伴わない観念的な死生感に対してただ単に理屈だけで決めていた覚悟などどこかに消し飛んでしまって、じっと横になどなっていられないくらい恐ろしかった。
敵はまもなく沖縄に侵攻を開始するだろう。その時海軍は残る戦力のすべてをつぎ込んで敵との決戦を企図するだろう。先日の戦闘で海軍随一の航空戦力であることを証明して見せた我々の部隊は真っ先に決戦兵力として戦闘につぎ込まれるだろう。海軍随一の航空戦力とは言っても千数百機の敵にたかだか数十機の戦闘機では高瀬に言われるまでもなくその結果は火を見るより明らかだった。そしてそこに待っているものは『死』以外の何ものでもなかった。
自分が死ぬことそれ自体に対する生物としての本能的な恐怖もあった。しかしそれにも増して自分が何故ここで命を捨てなければならないのか、それに見合う理由が見当たらなかった。陛下のため、国のため、そう大声で唱えることはたやすかった。しかし、本当に国や国民のためならば、一刻も早くこの戦を止めるべきだという結論しか思い浮かばなかった。それならば他に何の理由があるのか。そこに至ると迷路に迷い込んだように思考は堂々巡りを繰り返す他はなかった。
『どう考えても戦が続く限り敵はやってくる。日本民族を皆殺しにでもするかのような勢いで攻めかかってくる。そんな敵から日本の国民を守るために敵と戦う。それがこの時代に生を受けた我々の義務であり責任である。』
結論は何時もそこに落ち着いた。しかし、実際に自分が血を流した恐怖は容易には拭い去ることができなかった。そして眠りに逃れようとすると撃ち倒した敵の搭乗員の血に染まった顔が浮かんできた。
柱に掛けられた古い時計が時を刻む音を数えながら私は小桜の帰りを待った。外から聞こえるわずかな物音に体を起こして小桜の帰りを待ちわびる自分に気がついた時私の頭の中にある考えが浮かんだ。
『小桜と祝言を挙げれば・・、それが自分の心の支えになるかもしれない。』
思いつきのように浮かんだその考えが実際正しいものなのかどうか確固たる自信もなかったが、当面何かに縋るとすればそのくらいしかないように思えた。小桜は夕方早い時間に手に野菜や包みを下げて戻ってきた。
「遅くなりました。すぐに支度をしますからちょっと待っていてください。」
手に持っていた荷物を土間に置くと割烹着をかけて食事の支度を始めようとした。
「ちょっと待ってくれ。お茶をくれないか。それに少し話がある。時間はまだ早い。腹もそんなに減っていないから構わないだろう。」
小桜は「はい。」と答えて釜戸の火だけ熾すとそこに薬缶をかけてそのまま座敷に上がって来て蒲団の脇に座った。
「どうしたのですか。傷が痛むのですか。」
小桜は横になっている私の顔を覗き込むようにして言った。
「いや、大丈夫だ。それよりちょっと折り入って話がある。」
私は体を起こした。小桜は少し身を引くようにして居住まいを正した。
「実はお前と祝言を挙げたいと思うがどうだろう。もちろん正式にというわけにもいかないが。これでも士官の端くれなので正式に籍を入れるには海軍大臣の許可がいる。それはこの戦争が終わってお互いの人生が安定してからでもいい。取りあえず仮祝言だけでもと思うのだが。俺のような半端者では役不足かもしれないが大事にはするつもりだ。」
小桜は下を向いてしばらく黙っていたが、やがて顔を上げると私の方を真っ直ぐに見つめた。
「私は何も異存はありません。あなたがそうおっしゃってくださるのなら喜んでお受けいたします。」
小桜ははっきりとした声で言った。
「それならば話は早い。明日大家の夫婦に頼んでみよう。先日も早く決まりを付けたらどうかと言っていたし、簡単な仮祝言なら受けてくれるだろう。」
「とにかく夕食の支度をします。支度ができるまでゆっくりしていてください。」
小桜は立ち上がって土間へと降りて行った。私は小桜の後を追って座敷の縁までいくとそこに座り込んだ。そしててきぱきと支度をする小桜の後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
「どうしたのですか。お休みになっていないと傷に障ります。」
小桜は時々私の方を振り返っては蒲団に戻るよう促がした。
「昨日の空戦で敵を撃墜した時、最初は目の前に敵機が飛び込んできて慌てて引き金を引いたら飛び出した弾が勝手に当たったようなもので特に実感はなかった。その後、乱戦から低空を這うように逃げていく敵の爆撃機を発見した。後方から浅い角度で接近して四機編隊の最後尾の奴に連射を加えた。そういうやり方は敵の後方機銃の反撃を食らう恐れがあるから慎重にしなければいけないと高瀬に再三注意されていた攻撃方法だった。それでも俺は高を括って後方から接敵した。
四機の爆撃機から八門の機銃が俺の機体に集中されて弾が当たる度に機体がガクガクと震えた。それでも撃墜されるなどとは思いもしなかった。
充分に近づいてこっちの機銃を撃つと弾は面白いように当たった。そして敵を引き裂いた。そこで退避すればよかったのだろうが、俺は好奇心に駆られてそのまま敵機に接近していった。敵は機銃を俺の機体の周りに飛礫を投げつけるように撃ち込んできた。
俺も最後尾の敵機めがけてもう一度引き金を引いた。敵機に曳光弾が吸い込まれていって爆発して後部の機銃手がのけ反るのが見えた。操縦手は後ろを振り返った。まるで降って湧いたように現れた悪魔でも見るようにその目は恐怖で見開かれていた。機銃手は顔面を血に染めてのけ反っていた。爆撃手は俯したまま動かなかった。
次の瞬間、機体は爆発して四散した。私はその光景に見入ってしまって退避するのを忘れていた。その時、前面の風防にひびが入った。防弾ガラスなので貫通はしなかったが、それで正気に戻った。機体を翻して離脱しようとした時、風防の右側に幾つか穴が開いた。『しまった。』と思うと次の瞬間頭に衝撃を受けてのけ反った。そのまま意識が遠のいていって目の前が暗くなった。
体が左に押しつけられるような重苦しさに徐々に意識が戻ってきた。気がつくと機体は垂直錐揉みに入っていた。地上が迫っているのに気がついて錐揉みを止めるとゆっくりと機体を引き起こした。発動機から白煙を引きながら何とか機体は水平飛行に戻った。地上まであと数百メートル、気がつくのが数秒遅かったら激突していただろう。
傷ついた機体を操りながら基地に滑り込む途中に自分の頭を敵弾がかすめて肉を削いでいたことに気がついた。それでもまだその時は恐怖などかけらも感じなかった。恐怖を感じたのは治療が終わって意識が戻ってからだった。
戦争とは殺し合いだということも戦えば自分が死ぬかもしれないということも観念的には理解していたつもりだった。けれど昨日までは実際に人を殺したこともなかったし自分が死ぬなどということを実感したこともなかった。そのくせ最初に敵を撃墜した時は鳥肌が立つくらいの快感が全身を駆け抜けた。爆発して四散した敵機に乗っていた搭乗員は間違いなく死んでいるのに。敵とは言え死んでいく人間のことなど考えもしなかった。次にTBFを見つけた時には『しめた。』と思った。カモだと。そこでも敵とはいってもその機体に乗っていた搭乗員を三人も殺しながら自分はそれを眺めていた。敵を破壊することに体を突き抜けていく快感を楽しみながら。そして今度は自分が弾を食らうと急に死ぬのが恐ろしくて堪らなくなった。
高瀬は敵機を撃墜するという行為は人殺し以外の何者でもないのにその行為に口では言い表せないほどの快感を覚えていることを呪って『何と問いかけても神はそのことに何も答えてくれない。自分の中には悪魔がいるのかもしれない。』と言って苦しんでいた。あいつは生まれながらのクリスチャンなんだそうだ。あいつを俺は笑っていた。『俺たちは戦争をしているんだ。』と言ってな。戦争が一体何なのか、そんなことも知らなかったくせに。
治療を受けてベッドに寝ていた俺のところに高瀬が見舞いに来て『貴様もこれで立派な人殺しになったな。』と言って笑いながら出て行ったよ。『戦争がどういうことなのかよく分かっただろう。』とあいつは言いたかったのだろう。
なあ、一体俺たちは何をやっているんだろう。『国のため、陛下のため。』そう言っては国民を死なせて例えようもないほどの辛酸を嘗めさせ、そして敵とは言っても何の罪もない人間達を殺している。戦争をして幸せになる者など誰もいやしない。それなのに誰も彼も死に物狂いで戦っている。皆、一体何をしているんだろう。」
私は心の中にわだかまっていたものを吐きだすように一気にしゃべった。小桜は私の方を振り返って黙って聞いていた。
「どいつもこいつもみんな人殺しだ。俺もそうだ。もう四人も殺した。」
私は最後にもう一度吐きすてるように言うと立ち上がって蒲団の方に戻り体を投げ出すように仰向けにころがった。小桜は座敷に上がってきて私の脇に座った。
「何も考えないで。とにかく今は体を休めて傷を治してください。」
小桜は静かに諭すように言った。
「俺には分からん。高瀬の言うようにこの世に全能の神というものが存在するのなら何故こんな馬鹿げたことを放置して黙っているのだ。どうして止めさせようとしないのだ。どうして罰を与えようとはしないんだ。それともこの戦争で俺達が戦死することが俺達に架せられた罰なのか。」
私は押さえきれなくなって来た苛立ちを小桜に向かってぶつけた。
「もしも神が本当にこの世にいるとしたら、その神は私たちがしていることを見てとても悲しんでいると思います。でも神は何も出来ないのかもしれません。そして、もしかしたら神は悲嘆に暮れながら、私たちに例え血を流しても戦うことがどれほど無益で悲惨なことか早くそれを学んで欲しいと思っているのかもしれません。」
「神は何も出来ない、そうして神は我々に血を流しても戦うことが無益だということを学べとそう言っていると言うのか。」
私は跳ねるように体を起こして食い入るように小桜を見つめた。そんな私に小桜はほんの少し顔を緩めて小さな微笑みを返した。
「とにかくまた後で話しましょう。食事の支度を済ませてしまいますから。」
小桜は枕を整えて私に横になるように促すと土間へ下りていった。私は食事の支度が出来上がるまでずっと小桜の言ったことを考えていた。小桜は私に時々笑顔を向けるだけで何も言わずに黙っていた。
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小説2 | 日記
Posted at
2016/11/07 22:08:39
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