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イイね!
2016年11月15日

翼の向こうに(35)




私は食事の支度が出来上がるまでずっと小桜の言ったことを考えていた。小桜は私に時々笑顔を向けるだけで何も言わずに黙っていた。


「明日の朝、大家に仮祝言のことを頼んでみよう。今は海軍の評判もいいし問題はないだろう。」

 
小桜は小さな声で「はい。」と言っただけで他には何も言わなかった。私たちはその後黙って食事を済ませた。小桜は食事が終わるとお茶を入れてから片付けを始めた。私には小桜が言った「無力の神」という言葉がずっと頭を支配していた。そして片付けを終わって座敷に上がってきた小桜にもう一度たずねてみた。


「無力な神ということはどういうことなんだ。君はどうしてそんなことを言うんだ。まさか高瀬と同じように君もクリスチャンじゃないんだろうな。」


「私はクリスチャンではありません。特別信仰している宗教もありません。」


小桜は小さな声で答えると後はまた下をむいて黙ってしまった。


「無力な神という考え方をこれまで聞いたことがなかった。高瀬でさえそんなことは言わなかった。あまり珍しい考え方なので興味を持っただけだ。気にしないでくれ。」


小桜の苦しそうな表情を見ていて気の毒になって私はそんな言い訳をしてその場を紛らわそうとした。


「お話しておかなければいけなかったのですが、つい今日まで言いそびれてしまって。でも話しておかなければいけなかったのです。」


小桜は伏せていた顔を上げて私を見据えると和服の裾を折り込んで座り直した。


「私は以前子供を産んだことがあるのです。いえ、結婚していたわけではありません。ある人を好きになってその人の子供を産んだのです。」


処女性とかそうしたものがどうのこうのというよりも今では特に珍しくもない未婚の妊娠出産が当時は女性失格にも等しい重大事だった。


「呆れ返ったでしょうね、結婚もしないで子供を産んだ女なんて。そのころは私もほんの子供で相手の男の人がただ好きで好きで仕方がなくて、気がついた時には妊娠していたのです。」


感情を押し殺したようにできるだけ低い声で私は小桜に尋ねた。


「生まれた子供はどうしたんだ。」


「父の親類の田舎で出産してそのまま里子に出されました。」


「そうだったのか。それで相手の男は。」


「招集されて中国で戦死したそうです。」


「子供さんは元気なのか。」

 
それまで私を真直ぐに見据えて話していた小桜は初めて目を伏せた。それを見て私は触れてはいけないことを聞いてしまったのに気がついたが、その時にはもう手後れだった。


「子供は里子に出してからしばらくして風邪を拗らせて死にました。」

 
小桜は下を向いたまま何度も目をそっと拭っていた。私は小桜を手酷く傷つけてしまったことを後悔した。そして同時に子供を失い、愛する男と肉親を戦争で失い、ひっそりと生きているこの女が一層いとおしくなってきた。


「もういい、よく分かった。辛い思いをしてきたんだな。」


小桜は涙で濡れた目を大きく開いて私を見つめた。


「私はあなたと結婚できるような女ではないのです。ただ、あなたにやさしくしていただいてつい甘えてしまったのです。明日の仮祝言などどうぞやめてください。そう言っていただいただけでもう十分です。」


「いきなりそんなことを言われて少しばかり驚いたが、宗だからと言って俺達の何かが変わるわけでもないだろう。君の方で差し支えがないのならこのままでいいのじゃないのか。」

 
突然のことで何もかも納得することが出来たわけでもなかったが自分の気持ちを後退させるような感情も沸かなかった。私自身にしても心底小桜を愛しているのかどうかそんな自信さえなかった。ただ小桜にすがって自分の弱さを取り繕おうとしているだけなのかもしれなかった。実際明日の命の保障もないようなこんな時代に戦争が終わったら正式に籍を入れると言ってみても、それはその場の口約束以上の何もなかった。

「それよりもどうして君は『無力の神』などということを言ったんだ。そのわけを聞かせてくれないか。何か神というものについてそうした概念を持っているのか、それとも・・・」

 
私は曖昧な自分の心を見透かされないように少し話を逸らすつもりもあって、もう一度神についての話題を持ち出した。


「何もあなた方のように専門的な学問をしたわけではありません。師範学校の時には少しは本も読みましたけど、もうすっかり忘れてしまいました。あなたが全能の神と言った時『もしもそういう神が存在するのならこんなことを許しておくはずがない。』とそう思いました。そんなことを考えながらあなたの話を聞いていてふと思いついたのです。親子の関係を。

 
親は子供にとっては創造主、絶対の存在です。子供の意思などとは全く無関係にこの世に新たな生命を送り出すのですから。そういう点ではもしも天地創造の神が存在するのならこの世を創った神と今存在するこの世の中との関係に似ているような気がするのです。

 
新しい命をこの世に送り出すということについては絶対の創造主でも、一度この世に送り出した命には親は子供の人生には手を触れることも出来ません。実際にはそれ相応の影響力はあるのだと思いますが、子供が自分の意思を決定する能力を持ってしまったら、もう後は恙無く人生を送ることを祈るだけです。大きく傷つくことなく穏やかな生涯を終えて欲しいと。

 
子供を身篭った時、私自身がほんの子供でしかありませんでした。でも女は自分の中に別の命を宿したときから親に変わることが出来るのです。例え自分自身がまだほんの子供でも。私も子供を手放す時、心から自分の子供の無事と幸せを祈りました。子供が病気だと聞いた時もひたすら子供の回復を祈りましたが、病気の子供に私は無力でした。ただ子供の回復を祈ることしか出来ませんでした。

 
子供が死んだと聞いた時私は勝手のこの世に送り出しておきながら何も親らしいことをしてやれなかったことを、この手で子供を抱いて看病さえしてやれなかった自分を呪いました。毎日毎日自分を責め続けました。そうして自分を責め続けても罪の意識は少しも軽くなりはしませんでした。ある日私は子供の墓参りをさせてくれと父に頼みました。親に反抗などしたことのなかった私がこの時だけは決して引き下がりませんでした。そんな私に根負けしたのか、自分を責め続ける娘を不憫に思ったのか、父も子供の墓参りを許しました。

 
小さな白木の墓標の立てられた墓に額ずいて私は一日中泣き続けました。そうして私の身勝手でこの世に送り出しながら守ってやることも出来なかったことを子供に謝りました。日が傾くころになって私は子供の墓の前に伏したままほんのしばらくまどろんでしまいました。その時に子供の声を聞いたんです。


『そんなに自分を責めないでください。私は自分の運命を精一杯生きました。そのことを誉めてください。』

 
私の子供はそう言ったのです。勿論それは私が自分の頭の中で自分が罪を逃れようと勝手に作った言葉なのはよく分かっていました。それでも私はどうしてなのか、その理由を説明することは出来ませんがその言葉に自分なりに納得しることができたのです。私はただ祈ってやるだけで何もしてはやれませんでしたが、例えほんの短い一生でも私の子供は自分の力で自分の運命を精一杯生きてくれたんだと。

 
だから、今、そう思うのです。あなたたちが言うように、本当に神がこの世に存在するのなら、そして神が我々の創造主なら神はきっと私たちを見て身を切られるより悲しい思いをしているだろうと。それでも神はこうして血を流しながら戦い続けている私たちに早くこの悲惨な戦いをやめて穏やかな生活を取り戻して欲しいと思いながら自らは私たちには何も手を下すことも出来ずに祈っているのだろうと。」


「悲しい思いをしてきたんだな。」

 
私は小桜の肩に手を伸ばした。小桜はほんの少しの間私の腕に寄りかかるようなしぐさを見せたが、すぐに背筋を伸ばして座り直すと私を押し戻すように離した。


「今日は休んでください。私もあなたに寄りかかっていたい。でもそれよりもとにかく早く傷を治してください。」

 
私は小桜を抱きしめたい衝動に駆られたが、小桜の私を思う気持ちを考えると「休め。」と言う小桜に従わないわけにもいかず、伸ばした腕を引っ込めて布団の上に横になった。小桜はそんな私を満足そうに眺めていたが「お湯を沸かして体を拭いて差し上げます。」と言って土間に降りて行くと手桶に湯を入れて座敷に上がってきた。


「さあ、体を拭いて差し上げましょう。それが終わったらお休みになってください。」


小桜は手拭いを絞ると横になっている私の首筋から拭き始めた。


「ちょっと待ってくれ。そんなに重病ではないのだから起きるよ。」

 
私は起き上がると蒲団の上に座り、両袖から腕を抜いて上半身裸になった。その私の後ろに回って背中を拭こうとした小桜の動きが止まった。背中に回った小桜の姿は見えなかったが、何かを注視していることは感覚で分かった。それでも自分の背中に目をとめて見るようなものがあるとは思えなかった。


「何を見ているんだ。」

 
私が声をかけると小桜は驚いたように「いえ。」と声を出して背中を拭き始めた。そして一通り拭き終わると手拭いを隠すように手桶に浸けて濯ごうとした。


「どうした。何を見ていたんだ。」

 
私は体をひねって手桶の中をのぞきこんで納得した。手拭いには黒く固まった血がこびりついていた。昨日の出血が背中にも流れてそのままこびりついていたのだった。


「昨日は風呂に入るなんてそんなことは出来なかったからな。軍医は傷の治療はしてくれても体までは拭き清めてはくれないから気がつかなかった。」

 
小桜は何も答えずに黙って私の体を拭き続けた。そして一通り拭き終わると着物を調えてくれてから手桶を持って土間に降りて行った。


「ありがとう。」


戻って来た小桜に礼を言うと小桜は黙って俯いた。


「お礼なんて言われても私はあなたに何もしてあげられません。守ってさし上げることも。ただ無事を祈っているだけです。」


「それで充分だよ。祈っていてくれ、無事に戻れるように。」

 
小桜は声を出さずに頷くと私の肩に手をかけてそっと押した。横になって休めと言うつもりらしかった。私はそのまま横になった。小桜は私の体に蒲団をかけると立ち上がろうとした。その腕をつかんで引き寄せて倒れ込んできた小桜を抱きしめた。小桜は突然のことで戸惑ったのか体を硬くして私から離れようとしたが、すぐに力を抜いて私の腕の中に収まった。


「君は今晩どこで寝るつもりなんだ。蒲団は一組しかないのだろう。」


「どこでも大丈夫です。心配なさらないでゆっくりお休みください。」


「ここでこうして一緒に寝ればいい。俺のことを抱いていてくれ。そのほうがよく眠れる。」

 
小桜に遠慮させないために言ったつもりだったが、実際に小桜を気遣ったのか自分自身が小桜にそうして欲しかったのか自分でもよく分からなかった。


「まだ少し縫い物がありますから先にお休みになっていてください。あなたの仰るとおりにしますから。」

 
私が腕を緩めると小桜はその中からすり抜けて起き上がった。そして明かりを消すと古い小さなスタンドを点けてそのうすくらい明かりで縫い物を始めた。私はしばらく縫い物をする小桜を眺めていたが眠気を感じて寝返りを打って目を閉じた。


「ねえ、明日具合がよろしかったら瑞穂さんや子供たちのお墓参りに行きませんか。あの川原まで。誰も来てくれないと皆淋しいでしょう。」


「ああ、そうだな。いい考えだ。」


私は目を瞑ったまま答えた。


「それでは用意をしておきます。」


小桜が答えたが私はそのまま眠りに引き込まれて行った。


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Posted at 2016/11/15 23:41:15

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