2016年11月24日
翼の向こうに(36)
翌朝は小桜が朝食の支度をする物音で目を覚ました。何時ものようにここで迎える朝は戦いの匂いの全くしない平和な朝だった。
「お目覚めですか。」
小桜が振り向いた。
「お加減はいかがですか。」
小桜が微笑んだ。穏やかな笑顔だった。
「ああ、大丈夫だ。水をくれないか。」
蒲団から起き上がって私は座敷の縁まで歩いて行った。小桜は湯飲みに水を汲んで渡してくれた。湯飲みの水を飲み干してあちこち見回したが、発動機の音も機銃を試射する音も空襲警報のサイレンも人が走り回る音も怒鳴りあう声も何もしなかった。私は大きく伸びをして見せた。そんな私を見て小桜が微笑んだ。
朝食を済ませてから小桜を連れて大家の家に行った。仮祝言の仲人を頼むためだった。唐突な頼みだったのでさすがに気が引けたが、大家は大喜びで引き受けてくれた。
「おおい、智恵さんがとうとう祝言を挙げることになったぞ。明日は祝言だ、忙しくなるぞ。」
大家は満面笑顔で奥に向かって大声で言った。奥さんも割烹着で手を拭きながら出てきて小桜に向かって「私が三国一の花嫁にしてあげるから。」と祝福してくれた。見ず知らずの我々の唐突な頼みを快く引き受けてくれた大家に丁寧に礼を言って大家の所を辞してから急いで支度をすると小桜と二人で連れ立って高瀬の恋人や子供たちの墓参りに出かけた。
バスなどの交通機関などあるはずもないので十数キロの道をずっと歩かなければならなかったが、それが当たり前の時代には特に苦にもならなかった。目的の場所に着くと道を外れて川原へと降りて行った。そこで先に歩いて行った小桜が何かに驚いたように突然立ち止まった。私が小走りに走って行って小桜に追いつくと小桜は先の茂みを指差した。そこには錨のマークをつけた海軍のトラックが偽装でも施されたようにうまく茂みに隠されて停めてあった。一目でそれがうちの部隊のもので乗ってきたのは高瀬と分かった。高瀬はちょうど自分の恋人が倒れていたあたりに胡座をかいて腰を下ろしていた。小桜は邪魔をしないようにと思ったのか近くの茂みの陰に姿を隠そうとしたが、高瀬の神憑りのような鋭い勘には何の役にも立たなかった。
「誰か。」
高瀬の声が飛んだ。
「俺だ。邪魔するつもりはなかったんだが、まさかお前がいるとは思わなかった。」
私は高瀬の方に歩み寄っていった。
「何だ、お前たちか。」
高瀬は立ち上がって振り返った。
「部隊の方はいいのか。」
「損傷機が多くて飛行機も皆医者通いだ。稼動機数は三十機そこそこだ。開店休業だよ。勝った、勝ったと喜んでみても実情はこんなものだ。」
高瀬はズボンについた砂を払いながら立ち上がった。そこに入れ替わりに小桜がひざをついて手ごろな大きさに石の上に途中摘んできた花と小さな握り飯を供えた。
「ごめんなさいね、沢山あげられなくて。」
小桜は目を瞑って手を合わせた。
「あれからもう一週間にもなるのにまだあちこちに血がこびりついて残っている。人間は到底神にはなれんが悪魔には簡単になれるんだなあ。」
高瀬は周囲を見回した。あちこちの石には黒いしみのようなものが点々とついていた。中でも高瀬が座っていたあたりの石にはひときわ大きな黒いしみが残っていた。そこは高瀬が愛した女が子供を助けようと飛び出して敵の機銃弾を受けて絶命したところだった。
「無力な神、ただ見守って祈ることしか出来ない神か。」
私は独り言のようにつぶやいた。
「武田、今何と言った。」
高瀬は私の方を振り向いた。
「無力な神、祈ることしか出来ない神と言った。」
「誰がそんなことを言ったんだ。武田、貴様じゃあるまい。」
高瀬は食いつきそうな顔で私を見つめた。
「俺じゃあない。小桜だ。小桜がそう言ったんだ。」
何時も冷静な高瀬が驚いたような表情を浮かべた。そして手を合わせている小桜のところに歩いて行った。
「君はどうしてそんなことを言うんだ。教えてくれ。」
いきなり問いかけられて小桜は驚いた様子で振り返った。そして涙にぬれた目を大きく見開いて高瀬を見つめた。
「君はどうして神が祈ることしか出来ない無力な存在だと言うんだ。それが君の神に対する理念なのか。」
高瀬は小桜に向かって性急に言葉を投げつけた。あまりの性急さに小桜が戸惑って声をあげて泣き出した。
「高瀬、小桜には理念なんてそんなものはないよ。彼女が体験してきた事実に基づいて『無力な神』という概念を創り出したんだ。学問や信仰から導き出したものじゃないんだよ、彼女の考えは。」
私は小桜のために助け舟を出したつもりだった。
「面白い考え方だ。無力な神、祈ることしか出来ない神。どうしてそんなことを考えついたのか、それをぜひ聞きたい。」
「夕べ、武田中尉さんに聞かれたんです。」
ほんのわずかの間に落ち着きを取り戻した小桜が話に割って入った。
「こんな悲惨な状態を神は何故放っておくのかと。その時思ったのです。神と人間の関係は親と子供のようなものではないかと。親は子供の意思などとは全く関係なく子をこの世に送り出します。その時親は全能の創造者です。ところが一旦世に送り出された子供は親の意思などとは無関係に自分の意思と運命を背負って生きていきます。親はもう子供には何も出来ません。ただ無事にそして幸せな一生を終わってくれることを祈るだけです。例え子供がどんな人生を送っていても。
だからもしも神がいたら、そしてこの惨状を見ていたとしたらきっと心を痛めていることでしょう。そして早く気がついて欲しいと願っているでしょう。戦争がどんなに悲惨で意味のないことかを。武田中尉さんにはそう言ったのです。」
高瀬は小桜の話を黙って聞いていた。小桜が話し終わっても何も言わずに黙って考え込んでいる様子だった。そうしてしばらく黙っていた後に戦闘帽を被り直すと車の方に向かって歩き出した。
「無力な神か。なかなか面白い考え方だ。一考に値するかもしれない。」
高瀬は振り向いて私たちに言った。
「送って行こう、乗れよ。」
高瀬は車のドアに手をかけながら私たちを呼んだ。私は小桜を促がして車の方へと歩き出した。
「本当はな、神なんかこの世にはいないんだとそう思う。」
私たちが車に乗り込むと高瀬は突然話し始めた。
「神というのは我々の理想とする良心の代名詞なのだと思う。人間は神という概念を創り出して理想の良心を語っているのだとそう思う。けれどこんなことをしているのだから我々には良心などないのかもしれないな。少なくとも戦争とは言え人を殺しているのにそのことに体の底から湧きあがってくるような快感を味わっている俺には心の中に悪魔は住んでいても良心などはかけらもないのかもしれない。」
高瀬は自嘲気味に吐き捨てるように言うと車を発進させた。
「ちょっと待て。」
私はあることに気がついて高瀬に声をかけた。
「対空警戒に就く。荷台に出るから車を停めろ。」
高瀬はブレーキを踏んで車を停めた。
「一人前の戦闘員になったな。気がつかなかったよ。頼む。」
高瀬は私の顔を見てにやりと笑った。私は車を降りて荷台に移った。そして手摺に手をかけると荷台に仁王立ちになって空を見回した。トラックは再びごろごろと田舎の砂利道を走り出した。私は精一杯足を踏ん張って空を睨み続けた。しばらく走るとトラックは道をはずれて再び川原に降りて行った。そして茂みの陰で止まった。
「おい、昼飯だ。」
運転席から高瀬が飛び出してきてトラックの陰に腰を下ろした。高瀬は小桜が差し出した握り飯を受け取ると「うまい、うまいなあ。」と屈託のない笑顔で口に運んだ。その顔は『人間には良心がないのかもしれない。』と悲壮な表情でつぶやいた高瀬とは別人のように見えた。
「おい、武田、俺達はここ数日中には九州に行くらしいぞ。」
二つ目の握り飯を食べ終わったところで高瀬は私の方を向き直って真顔で言った。
「敵は沖縄に砲爆撃を加え始めた。上陸は間近だ。海軍は沖縄戦を最後の決戦と位置付けて大規模な特攻攻撃をかけるつもりらしい。特攻機の進路啓開と制空のために俺達も駆り出されるらしい。まあ、俺達の部隊は海軍随一の有力な航空戦力だから仕方はあるまいが連日の出撃で厳しい戦闘が続くだろう。覚悟しておいた方がいい。」
私は突然そう言われて一瞬返答に詰まってしまった。単に来るべきものが来たという感じではあったが目の前に現実を突きつけられると心穏やかにはいられなかった。
「そうか、来るべきものが来たって感じだな。そのためにこの数ヶ月戦闘にも加わらずに訓練に励んできたんだからな。」
私は小さく深呼吸をしてから高瀬に答えた。
「穏やかな時間はもうほんの僅かだ。ゆっくりと味わうといい。」
高瀬は付け合せの煮物を口に放り込むとゆっくりと噛み締めてから飲み込んだ。
「高瀬、俺たち明日仮祝言を挙げようと思うんだ。こんな時だから考えたんだが自分がいなくなった後に何かを残しておきたくて。こいつもそれを賛成してくれたので。」
空を見上げていた高瀬は私たちの方に向き直った。
「何だ、そうだったのか、それはめでたい。こんな時代によく決心したなあ。いいことだよ、本当にいいことだ。」
こっちが照れ臭くなるほどに高瀬は私たちのことを喜んでくれた。そして最後に「命を大切にしろよ。殺し合いをしているのだし戦うのは俺達の仕事だが、無理に、そして無駄に命を捨てることはない。」と言って立ち上がった。帰路も私はトラックの荷台に立って春らしくなった空を睨んでいた。トラックは町に入ると軽快に走り出した。そして私たちを家の前で降ろすと高瀬は軽く敬礼をして走り去った。
「明日、昼ころお出でになるそうです。」
小桜が走り去っていくトラックを見送りながら私に言った。
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小説2 | 日記
Posted at
2016/11/24 18:10:43
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