2016年11月26日
翼の向こうに(37)
小桜が走り去っていくトラックを見送りながら私に言った。
「飄々としていらっしゃるけれど優しい方なのですね。高瀬中尉は。」
小桜は独り言のように付け加えた。
「智恵さん、智恵さん。」
木戸を入ると大家の奥さんが小桜を呼ぶ声が聞こえた。
「智恵さん、智恵さん、戻って来たの。こっちに来て衣装を合わせておいてくださいな。明日は忙しいわよ。」
「はい、今伺います。」
小桜は荷物を置くと「ちょっと行って来ます。」と母屋の方に小走りに走って行った。小桜が戻って来たのは夕方に近かった。大家に貰ったと言って重箱を手に下げていた。重箱の中にはこの時期よくこれだけのものがそろったと思うほどの料理が詰まっていた。その心づくしの料理で夕食を済ませ入浴を済ませた私に床を延べて小桜は待っていた。
「どうぞ、お休みください。今日は遠くまで歩いてお疲れになったでしょう。」
「今晩は君を抱いて眠りたい。」
小桜は顔を赤らめて下を向いた。
「今晩は君を抱いて眠りたい。残された時間はもう僅かしかない。だから無駄にはしたくない。智恵、君を抱いて眠りたいんだ。」
私はもう一度繰り返した。小桜は下を向いたまま小さく頷いた。そして小さな声で「お風呂を使ってきます。待っていてください。」と言って立ち上がった。小桜が風呂に入っている間私は起き上がってタバコに火をつけた。世間ではもうほとんど手に入らなくなった貴重品だったが、部隊には豊富とは言えないまでも不足はしていなかった。ゆっくりとタバコを吸い込むと今度はそれをゆっくりと吐き出した。煙は部屋に広がっていった。タバコはまだ数箱も背嚢に入っていた。
『そうだ、自分でこんなに吸うわけでもないし、明日、大家に置いていってやろう。自分で吸わなくとも役には立つだろう。』
最後に大きく吸い込んで勢いよく吐き出すとタバコをもみ消した。小桜は風呂から上がると古ぼけた鏡台に向かって髪を梳き始めた。
「タバコを吸ったのですか、珍しい。何かあったのですか、何時もは吸わないのに。」
「特に理由はないさ。ちょっと吸いたくなっただけだ。あと何箱か残っているから大家に置いていこうと思っている。」
「きっと喜びますよ、大家さん。タバコが手に入らないとこぼしていましたから。お好きなんだそうですよ、タバコが。」
「そうか、それならなおさらだ。明日、一番で置いてきてやろう。」
小桜は髪を梳く手を止めて振り返った。
「あなたは優しい人ですね。そして高瀬中尉さんも。お二人とも本当に激しく戦っているのに戦って人を斃し傷つけることを苦にして、そしてそれを憎んでいらっしゃいます。私にはただ見ていることだけしか出来ませんが、早くこの戦いが終わってお二人がそれぞれの世界でご活躍されることを祈っています。」
小桜はそう言ったが私にはこの戦が終わって自分がどんな世界で生きていくのか見当もつかなかった。それよりもこの戦が終わった後に一体どんな世界が来るのか、それさえ考えも及ばなかった。
「お茶でも入れましょう。」
小桜が鏡台の前から立ち上がると湯飲みに茶を入れて持ってきた。白湯にほんの申し訳程度に色がついたような味も香りもしない茶だったが、そんなものでさえ世間では貴重品だった。私はもう一本タバコを取り出すと火を点けた。小桜は私の前にそっと灰皿を差し出した。一回二回と私は深くタバコを吸い込んではゆっくりと煙を吐き出した。
「こんな世の中人の命なんぞはこの煙のように一掻きで消えてしまう。儚いなんてものじゃない。幻以下だね。」
小桜は下を向いたまま動かなかった。何かをじっと堪えているようにも見えた。突然小桜が私の腕をつかんだ。
「死なないで、死なないでください。あなたも高瀬さんも。もうこれ以上誰も死なないでください。」
小桜は押し留めていたものをすべて吐き出すように号泣した。私は手に持っていたタバコをそっと灰皿に運んでもみ消すと小桜の大柄な体を抱きしめた。小桜はそのまま私の懐に倒れ込んできた。
また戦の匂いのしない朝が来た。小桜は私の脇で穏やかな寝息を立てて眠っていた。今まで見たことのない穏やかな、そして子供のような小桜の顔がそこにあった。私は上半身を起こして小桜の寝顔に見入っていた。しばらくすると小桜の顔が小さく動いた。顔の小さな動きは腕から体へと伝わっていき、やがて小桜は目を開いた。小桜は正面に私の顔を見て少し驚いた様子だった。
「おはよう、静かな朝だね。」
声をかけると小桜はちょっとはにかんだように微笑んだ。そしてゆっくりと起き上がると蒲団から出てきちんと両手をついて「おはようございます。」と挨拶を返した。
「すぐに食事の支度をしますから。」
小桜は立ち上がって土間に降りて行った。食事を済ませると小桜は式の支度のために大家のところに行ってしまい後には私一人が残された。高瀬に一種軍装を持ってくるように頼んでおいたが、約束の時間にはまだ間があった。私は畳の上に仰向けに転がった。その時表にトラックの発動機の音が響いた。それが止まると木戸が開いて大勢の人が中に入ってくる物音がした。私は跳ね起きて引き戸を開けて外を見た。そこには佐山少佐を先頭に山下大尉、高藤上飛曹など飛行隊の主な面々がすべて控えていた。
「武田中尉、水臭いぞ。せっかくの祝いの席に俺達を招待しないとは。」
佐山少佐が笑顔で言った。
「勿体なくて人様には見せられんのか、恋女房を。」
後ろから山下大尉が茶化した。それで皆がどっと沸いた。
「いや、貴様の一種軍装を探しているところを隊長に見つかって問い詰められてなあ。あまり追及が厳しいので隠しきれずに白状してしまった。」
高瀬が頭を掻いた。それでまた一同が笑った。
「これは司令からの祝いだ。司令も喜んでおられたぞ。」
飛行長は下士官から一升瓶ニ本を受け取って差し出した。
「そしてこれは俺から、」
飛行長はさらに二本の一升瓶を私の前に置いた。そうして次から次へと一升瓶が置かれ、たちまち私の前には一升瓶の山が出来上がった。
「他のものと思ったんだが、急なことで物資が手に入らなくてな。その代わり料理の方は高藤飛曹長たちが都合をつけてきたらしい。」
山下大尉が目で合図をすると高藤飛曹長が後を続けた。
「任せてもらいましょう。主計から都合はつけてありますから。わしらも先の短い命ですから美味い物が食いたいので。」
高藤飛曹長は後ろを指差した。そこには若い下士官が大きな袋を下げて立っていた。
「ところで武田中尉、貴様ここに住んでいる方を知っているのか。」
飛行長が意味ありげな言い方で私に尋ねた。
「海軍におられたとは聞いておりますが詳しくは存じません。」
私が簡単に答えると飛行長はにやりと笑った。
「そうか、それでは教えてやろう。元海軍航空本部長、遠山中将だ。」
「えっ。」
私は絶句してしまった。
「どうして偉いさんにばかり当たるのだろう。」
私が首をかしげるとまた皆がどっと沸いた。
「とにかく花婿殿を着替えさせろ。俺はちょっと中将に挨拶をしてくる。」
飛行長は外に出て行った。下士官兵は台所を使って料理を始め、士官は座敷に上がり込んで酒盛りを始めた。
「おい、皆上にあがって飲んでくれ。」
私は下士官たちに声をかけた。
「分隊士、後でゆっくり飲ませてもらいますから気にせんでください。せっかくの祝いの席ですから気張ってやらせてもらいます。」
高藤飛曹長が包丁を振るいながら笑った。料理は次々に出来上がって母屋へと運ばれていった。そしてその余り物は座敷にも運ばれ前祝も盛り上がっていった。
「松山ももうしばらくでお別れですなあ。」
「沖縄に敵が寄せてきている。我々も九州に移動だな。」
「決戦ですね。この間のように手酷くもんでやりますか、敵さんを。」
「思い切り暴れて目に物を見せてやりましょう。帝国海軍航空隊は無敵だと。」
威勢のいい言葉を聞き流しているのか、高瀬は何も言わずにゆっくりと湯飲みを口に運んでいた。
「無敵だったらこんなに負け戦は続かんじゃろうが。空威勢ばかり張っておらんでどうしたら敵の侵攻を食い止めてこの国を守っていくことが出来るか、それをしっかりと考えろ。俺たちの命は隊長に預けてあるんだからなあ。生き死には考えんでもいいんじゃから。」
舞い上がったような威勢のよさに高藤飛曹長が釘を刺した。
「今日は武田分隊士の祝言だけれどついでに俺達の葬式もやってもらうか。南の海で散っても誰も弔いなんぞやってはくれんだろうからな。しかし弔いといっても湿っぽいのはご免こうむりたいなあ。せっかくのお祝いのついでだ。思い切り賑やかにやろう。」
山下大尉が屈託のない笑顔を見せると一同もどっと笑い出した。
「さあ、そろそろ移動するか。花婿さんは正装に着替えろよ。高瀬分隊士、付き添ってやれよ。」
山下大尉が腰を上げると片付けの兵を残して皆が離れを出て母屋に向かった。それにつられて私も立ち上がると和服を脱いで第一種軍装に着替えた。
「さて、花婿殿、そろそろ参りますか。」
高瀬はいつもの淡々とした調子で私を促がした。私も高瀬に向かって黙って頷くと母屋に向かった。
祝言は簡単に、しかし恙無く終わった。そして祝宴では誰もが一点の曇りもない笑顔で飲み、そして歌い、私達を祝ってくれた。明日の命も知れないという点では私も彼等も立場は同じだったが、ここで酒を飲み、祝いの歌を歌う若い下士官兵たちには死に対する恐れは微塵も感じられなかった。そんな彼等を見ていてこの時代に生きる者の義務を理解しながらその義務から逃れようと心の奥でもがいている自分を恥じた。
「今日は愉快にやってまことによろしい。これでやめよ。」
飛行長の穏やかな声が響いた。時間は午後の五時に近かった。佐山少佐の一声でそれまでめいめい飲んだり歌ったりしていた兵士たちは定められた方式に従って数人づつ任務を分担して動き始めた。するとそれまで乱雑に散らばっていたものが見る見る収まるべき所に収まっていった。すべてが終わると兵士たちは庭先に整列して予備中将に敬礼をして部隊に帰って行った。
「明日〇七〇〇に迎えを遣す。用意をしておけ。」
トラックの窓を開けて飛行長が言った。私は敬礼でそれに答えた。皆が帰ってから私たちは大家夫婦に改めて御礼を言いに行った。老提督は笑顔で私達を迎えてくれた。
「皆、いい仲間だな。海軍はどこかで道を間違えてしまった。そして国民にこんなひどい苦労を背負わせる結果になってしまった。この戦は負けだ。だが、もう少し、誰もがそれを納得するまで、もう少し時間が必要だ。その間この国を支えて国民の盾になる力が必要だ。それを君達に頼む以外はない。どうかこの国の未来のために、・・・」
私は黙って老提督に敬礼で答えた。
「智恵さんのことは私たちに任せてくださいな。どうぞ安心してお国のために。」
奥さんが静かに言った。
「よろしくお願いします。」
私は奥さんにも敬礼で答えた。
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小説2 | 日記
Posted at
2016/11/26 00:17:09
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