2016年12月01日
翼の向こうに(38)
その晩遅くなってから簡単な夕食を済ませた後、私たちは床を取って横になった。今日祝言を挙げたばかりの私たちはおそらく今生の別れになるだろう明日の朝までの時間をどうして過ごせばいいのか分からずにお互い黙り込んでいた。
「お疲れになったでしょう。」
小桜が口を開いた。
「明日は早いのですから、どうぞ早くお休みになってください。」
「君こそ疲れただろう。」
私は小桜に言葉を返した。しかしその後何と言ったらいいのか思いつかなかった。そしてまたお互いに黙り込んだ。そんな沈黙の中で私は今自分の考えていることを小桜に伝えておこうと考えていた。それはどう言ってみても別れの言葉になってしまうことは分かっていた。そのことが私に口を開かせることを躊躇わせた。
「私のことは心配しないで、どうぞ思うように働いてください。私はあなたが帰ってくるのを何時までも待っています。」
「今日、若い兵や下士官の屈託のない笑顔を見ていて考えた。俺も、たとえにわか雇いでも彼等の上に立つ海軍士官だ。今この国とこの国の国民が俺達の命を必要としているのなら逃げる訳にはいかない。」
「分かっています。」
私は腕を伸ばして小桜を抱き寄せた。そして小桜の感触を刻み付けるように腕に力を込めた。
目が覚めると辺りはまだ暗かったが、朝がきていることは気配でよく分かった。私の腕の中にいる小桜は起きているのか眠っているのか身動きもしなかった。私は時計に手を伸ばそうとして腕を止めた。
「時間は大丈夫です。まだ五時を回ったばかりですから。もう少しこのままにしていてください。」
それまで身動きもしなかった小桜が私の胸に顔を埋めたまま小さな声で言った。
「時計を見なくて済むのならどんなに幸せだろうとずっと考えていました。」
私たちはそうしてしばらくの間抱き合っていた。おそらくこれが最後になるだろう二人だけの時間は静かに流れた。
「月並みな言い方しか出来ないが、君に会えてよかった。思い残すことがないといったらうそになるが、皆の前で恥をさらさずに死ねるかもしれない。」
「私はあなたが立派に戦って帰ってくるのを待っています。さあ食事の支度をしましょう。すぐに用意しますから。」
小桜は起き上がると前掛けをかけて土間に降りた。私も起き上がって小桜に水を貰うと荷物をまとめ始めた。簡単な食事を済ませると昨日高瀬に届けてもらった第一種軍装に着替えた。そして負傷した時に着けていた血で汚れた白いマフラーを小桜に手渡した。
「もしも俺が帰らなかったら、これを埋葬してくれ。」
その時私は生きて帰れるとは思っていなかったし、そのつもりもなかった。小桜は黙って頷いてマフラーを受け取った。七時五分前に発動機の爆音が響いて側車が家の前に止まった。時間は何時もどおり正確だった。
「お迎えにあがりました。」
運転していた若い下士官が敬礼した。
「ご苦労。」
私は一言言葉を添えて敬礼を返した。そして雑嚢を側車に投げ込むとその脇に乗り込んだ。
「いっていらっしゃい、ご無事でご奉公を。」
小桜が私に向かって頭を下げた。下士官は私が乗り込むとすぐにサイドカーを発進させた。後ろを振り返りたかったが未練を悟られるのを嫌って、前を向いたまま動かなかった。視線を僅かにずらして側車に付いた後写鏡を覗くと小桜がこちらを向いたまま立っているのがしばらく見えていた。その姿も車が角を曲がると視界から消えてしまった。
部隊に帰ると真っ先に飛行長に帰隊申告して宿舎に戻った。部隊は移動の準備でごった返していて三日前とは全く様子が違っていた。滑走路には数機の大型輸送機が駐機して物品の搭載が盛んに行われていた。そして滑走路脇に分散して構築された掩体壕に引き込まれた戦闘機には整備員が取り付いて動き回っていた。
私は忙しそうに走り回っている整備兵を何人も捕まえて自分の機体がどこにあるかをやっと聞き出した。そして機体の様子を見に行くと損傷はすっかり修理されて磨き上げられた機体の表面は春の日を浴びて輝いていた。
「分隊士、戻ってこられましたな。もう傷の加減はよろしいのですか。」
整備長が私の姿を見つけて声をかけてきた。
「大丈夫だ、それより乗り物はどうか。」
「すっかり治って上機嫌です。後は発動機の調整だけですがそれも午前中には仕上がりますから午後にでも試飛行をしてみてください。」
私は整備長に礼を言うと機体の周りを回って各部を点検してみた。被弾箇所はすべてきれいに修復されてほとんど痕跡も認められなかった。そして機体に触れているとただの金属の塊でしかないこの戦闘機に不思議な感情を持ち始めている自分に気がついた。私は自分の左側頭部に手をやった。負傷した部分は肉が盛り上がってはいたが痛みはなかった。そして自分の負傷箇所に触れたその手で自分の感情を確かめるように後部胴体を何回か撫でてみた。
「二十三箇所弾痕がありました。こいつはただの機械かもしれませんが可愛がってやればきっとよく働きます。大事にしてやってください、分隊士。それが長生きするコツでもありますから。」
いつの間にか後ろに立った整備班長が独り言のように言った。私は笑顔で頷いてからもう一度整備班長に礼を言うと宿舎の方に戻った。そしてその足で午後の試験飛行の許可をもらうために飛行長室に向かった。ノックをして部屋に入ると飛行長は顔をあげて私を見た。
「機体の修理が完了しましたので午後に試験飛行の許可をいただきたくお願いします。」
「おう、そうか、どんどんやってくれ。ただし燃料が厳しいので出来るだけ短時間で済ませるようにしてくれ。」
飛行長は手早く書類に署名して押印すると私に差し出した。それを受け取って部屋を出ようとすると飛行長に呼び止められた。
「武田中尉、明日輸送機を護衛して大村に飛んでもらいたい。部隊は移動の準備や補充機体の受け取りで人がいない。ご苦労だが頼む。出発は明朝○七○○だ。二番機には島田一飛曹をつけるが本土ももう戦場だ。輸送機は弾薬、補給部品などの重要物件を満載している。被害を受けると今後の戦闘に大きな影響が出る。しっかり護衛してくれ。」
私は突然のことに驚いたが初めての指揮官任務に思わずこぶしを握り締めた。
「武田中尉、明日○七○○、輸送機護衛のため大村に向かいます。」
命令を復唱すると敬礼をして部屋を出た。心臓の鼓動が耳に響いていた。宿舎に戻る途中、下士官待機所に顔を出した。明日一緒に飛ぶ島田一飛曹に一言挨拶をしておこうと思ったからだった。待機所に入ると数人の下士官飛行兵が立ち上がった。その中に島田一飛曹がいた。
「島田一飛曹、明日貴様と一緒に大村に飛ぶことになった。よろしく頼む。」
「承知しております。精一杯勤めさせていただきます。」
島田一飛曹はいつも控えめな穏やかな青年だったが、マリアナからフィリピン、台湾と転戦して十機以上の敵機を撃墜しているエースだった。歴戦の下士官の中には我々予備士官を馬鹿にする者も少なくなかったが、島田一飛曹はそんな態度は見せなかったし、また先日の戦闘で私が敵機二機を撃墜したことはもう誰もが知っているようで私を見る周囲の目も以前とは違っていた。
自室に帰って飛行服に着替えると士官食堂で早めの食事を取った。そして自分の機体が置いてある掩体に戻り整備員に頼んで機体を滑走路まで引き出した。そこで燃料を補給して最後の点検を行うとしきりに離発着を行っている他の航空機の間を縫って機体を離陸させた。
高度を三千メートルまで上げて左右の旋回、横転、宙返りなどの基本機動を一通りこなしてから戦闘機動に移った。甲高い爆音を響かせて機体は上下左右に機敏に機動した。最後に高度を五千メートルに上げて全力飛行を試みた。スロットルを開けると速度は見る見る上がり最終的に速度計が示した値は三五○ノットに近かった。
これまでは機体を機敏に機動させようと力一杯操縦桿を押したり引いたりして返って無理な機動をさせて返って機体の動きをぎこちないものにしていたが、整備班長の言うように優しく扱ってやると機体の動きも滑らかになり機動も早くなったように感じた。
試験飛行を終わって着陸すると悠然と歩いてきた整備長が「いい動きになりましたなあ、分隊士。一皮むけましたな。」と笑顔で出迎えてくれた。
「明日はお勤めですな。しっかり面倒を見ておきますから今晩は安心してお休みください。」
整備長は班員に指示をして機体を掩体に移動させた。私は運ばれていく機体をしばらく見送っていたが、やがて機体が土手の陰に隠れて見えなくなったのを潮時に司令部に出頭して試験飛行が異常なく終了したことを報告して宿舎に戻った。
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小説2 | 日記
Posted at
2016/12/01 18:15:24
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