2017年01月12日
翼の向こうに(43)
「昨日はいろいろと勉強になりました。飛行長にも礼を申し上げましたが、皆さんにもいろいろとお世話になりました。今まで自分の世界にばかり閉じこもって、そこにあるものが真実と思っていましたが、少し視野が広がったように感じました。
正直なところこれまで海軍にはあまりよい印象を持ってはいなかったのですが、今は見方が変わりました。これからは陸海軍が力を合わせてこの国を護っていかなければいけないと思います。命が惜しいとは思いませんが無駄に捨てることなく戦いましょう。」
そう言い残すと敬礼をして飛行機に向かって駆けて行った。その後ろ姿を見ていて私は沖縄の部隊に異動していった例の憲兵隊の下士官を思い出した。彼ももう激戦の中にいるはずだった。それから間もなく陸軍機は離陸すると飛行場を一周してから南東の空に消えて行った。その日の午後になって我々にも九州への移動命令が伝えられた。
移動日当日、滑走路には久しぶりに五十機近い戦闘機が掩体から引き出されて並べられた。移動部隊の総指揮官は山下隊長、私は高瀬の小隊の第二区隊長だった。
移動の前日、私は小桜を尋ねて九州に行くことを伝えた。心の準備をしていたのか小桜は慌てる様子もなく黙って頷いた。私たちはほんの僅かな時間を抱き合って過ごした。その僅かな時間私は小桜の温もりを貪った。
「行って来る。」
私はすべてを振り払うように立ち上がった。その時私はもうこれで小桜に会うことはないだろうと思った。
「ご無事で。」
小桜はそっとお守りを差し出した。私は小桜が差し出したお守りを受け取ると黙って頷いた。
機体に乗り込んで離陸の順番を待つ間、私は昨晩小桜と過ごした時間を思い出していた。
「行くぞ。」
無線に高瀬の声が響いた。
「了、了。」
私は風防から身を乗り出すようにして前方を確認してからゆっくりとスロットルを押した。機体が滑り出すと滑走路脇で手を振る残留隊員に目を移した。そのずっと先に鉄条網に行く手を遮られて佇む女の姿を見つけた。
『小桜。』
私はマフラーを襟から引き抜くと左手につかんで精一杯高く掲げた。その青いマフラーは風に長く翻った。
「さよなら。元気で。」
私は小さく手を振る小桜の方を見ながら呟いた。
私達は上空で編隊を組み終わると何時かの陸軍機のように飛行場を一周してから北西に進路を取った。前後左右きれいに編隊を組んだ五十機近い戦闘機は空を圧するように翼を広げ、海軍の、いや、日本の運命そのものが絶望的になったこの時期でも頼もしさを感じさせた。
松山を離陸して一時間ほどで大村に到着した。飛行場上空にさしかかると、それまで一つの生き物のように一体となって動いていた戦闘機は順次編隊を解いて着陸した。我々は飛行場上空の制空任務を引き受けていたため部隊全機が着陸した後、最後に着陸することになった。
地上に降り立つとすぐに明日の搭乗割が伝達された。それを確認してから割り当てられた宿舎へと向かった。先日輸送機を護衛して来た時は僅かな滞在だったのと緊張感から周囲の光景はあまり目に入らなかったが、飛行場の周辺には見張塔と指揮所、それに爆撃で半ば破壊された格納庫の他には目立った建物はなく、また相当な数の航空機が配備されているであろうことは間違いないにもかかわらず滑走路脇に損傷機らしい数機の機体が置かれているだけで飛行場はまるでがらんとしていた。
着陸した戦闘機にはすぐに整備員が取り付いて何所かに運んで行った。空襲による被害を避けるために飛行場の周辺に作られた掩体壕に分散して格納するためだった。搭乗員は一旦招集がかけられて宿舎の割り当てや簡単な指示があってからトラックに乗せられて割り当てられた宿舎に運ばれた。しばらく走って降ろされたところは林の中に設置された一体どこが宿舎かと思われるような半地下式のバラックだった。兵舎の中に入ると冷気と湿気が押し寄せてきてまるで墓の中にいるようだった。
「なんだ、なんだ。主計はこんな湿気っぽいところに俺たち戦闘機乗りを押し込めておくつもりか。」
「今、西日本の制空権を握っていられるのは誰のおかげだと思っているのか。」
「その我々戦闘機乗りをこんなところで飼っておこうというのか。」
誰もが劣悪な宿舎に口々に不平を漏らした。それは先遣隊として部隊の受け入れを担当していた主計科に向けられた。
「何だ、海軍は手回しよくもう俺たちに墓穴を掘ってくれていたのか。」
丸山という海兵出の中尉が大声をあげた。それにつられて一同がどっと笑った。
「付近の農家の借り上げができたらそちらに移っていただきますのでしばらくここで辛抱してください。食事はトラックで運びます。」
入口から顔を出した主計科の下士官が申し訳なさそうな顔をした。
「構わん。気にしないでくれ。外地では食うものも薬も、そしてろくな武器や弾薬さえ与えられずに戦っている将兵がたくさんいる。それに比べればここは天国のようだ。それに爆撃には普通の木造宿舎よりもずっと安全だ。文句を言ったら外地で戦っている仲間にあの世で顔向けができん。」
高瀬が海兵出の士官に向かって言い放った。高瀬の空戦技量と戦歴は部隊の誰も知らない者はなかったので海兵出の士官と言えども高瀬の言うことにあえて反抗しようとはしなかった。
「主計の皆さんにはお世話になります。よろしくお願いします。」
高瀬は笑顔で主計科の下士官に礼を言った。何でも戦闘部隊を重視して主計や兵站を軽視する日本の軍隊で、今はその中核となった航空部隊の中でも最も重視されている戦闘機隊の士官が主計科の下士官に頭を下げるなどと言うことは大げさな言い方をすれば前代未聞だったに違いない。恐縮しきった様子で主計科の下士官が帰ってから高瀬は宿舎にいた全員にこの宿舎の責任者である小隊長から指示というかたちで自己の所信を含めて概ね次のようなことを言い渡した。
「わが国の陸海軍には戦闘部隊を重視して主計や輜重と言った兵站補給を軽視する傾向があるが、これからの戦争は単に個人の戦闘技量や一部隊の戦力などではいくら力んでみても到底戦い抜けるものではない。
今の戦争は質のいい兵器を大量に生産してそれをいかに前線に運んで戦力とするか、勝敗の帰趨はそのことにかかっている。いわば我々と共に主計も輜重も最前線にある。その主計や補給を軽視することのないように願いたい。我々と同様に彼等も命をかけて戦っていることに変わりはない。」
高瀬は南の方向を向いて深く頭を下げた。
「南方諸島では大勢の友軍がろくな食い物も傷や病を治す薬も与えられず、戦うための武器や弾薬さえ不自由するような情況で、それでも死に物狂いに戦って死んで行った。フィリピンや沖縄では今もそういう戦いを続けている友軍が大勢いる。内地で三度の据膳を保証されて食にも窮することもなく世界でも一流の戦闘機を与えられて戦っている我々がこの程度のことで不平を言ったら死んでいった友軍の将兵にあの世で何といって詫びるのか。」
高瀬が公然と同僚の士官達に意見をしたのはこれが初めてだった。日頃威勢を張っている海兵出の士官を含めて高瀬に反論する者は一人もいなかった。
身辺整理が終わる頃には昼食が運ばれて来た。握り飯と缶詰、それに漬物の戦闘配食のような食事だったが、さっきの一件があったせいか誰も不平を言うものはいなかった。食事終了後士官は全員仮設司令部に集められた。そこで戦況と作戦に関して説明があった。
ここに進出する前に予想していたとおり海軍は航空機部隊、水上艦艇等残存戦力を総動員して沖縄で勇戦敢闘する友軍を支援する方針だった。そのために九州方面に特攻機数千機をかき集めて配備して連日大規模な特攻攻撃を実施するが、特攻機の進出を妨害しようと網を張っている敵戦闘機を排除するのが我々の任務だった。
戦況説明が終わって宿舎に引き上げる際、出口に張り出された搭乗割りを確認すると私の配置は今日と同様高瀬の小隊の第二区隊長だった。
「大和が水上特攻に駆出されるらしい。」
海兵出の士官が小声で囁き合っているのが耳に入った。私はそれを聞いて自分の耳を疑った。世界最大最強の戦艦の出撃に力強さを感じるどころかすでにその役目を終えて静かな余生を送ってしかるべき者を戦場に引き出すような残酷さを感じた。
「大和が沖縄に出て行くらしい。」
私は後を追ってきた高瀬に囁いた。
「ああ、そうらしいな。多分沖縄に辿り着くことはできないだろうが海軍としては残された最大の戦力である大和を港に繋いでおくことはできんのだろう。大和が敵の航空戦力を引きつけておけば味方の攻撃隊はそれだけ進出が容易になる。」
「本気でそう言っているのか。如何に大戦艦とは言え水上艦艇が航空機に抗し得ないのは今となっては明白な事実だ。それを航空機の掩護もなしに沖縄に突っ込ませるというのは大和を護衛していく艦艇の乗組員も含めれば五千人を越える人員を何ら戦果も期待できないまま無駄に死なせることになる。海軍もそこまで精神主義に走るようになったか。」
「戦争とは本来無慈悲なものだ。世界最大最強の戦艦大和が出て来たといえば、たとえ勝負は決まっていても敵も大和を撃沈しようと群がるだろう。そこに付け入る隙が出来るかもしれない。作戦する側としてはそれが付け目だ。そのために消えていく命の数など問題じゃない。戦争とはそういうものだ。俺たちにしても今回の作戦には刺身のつまの様なものだ。主役は特攻隊だ。その死ぬと決まった連中のために大和の乗組員も俺たちも命をすり潰す。海軍自体が今回の作戦で米軍に打撃を与えることと引き換えにその命を磨り潰そうとしているんだからなあ。」
「何のために誰も彼もがそうして命を磨り潰すんだ。」
高瀬は私の質問には答えもしないで黙って真直ぐに歩いて行った。私は高瀬の後を追ってついて行った。途中何人もの兵員に出会ったが敬礼をされても黙って敬礼を返すだけで声もかけずに高瀬は歩き続けた。そして自分の機体が引き込まれている掩体まで歩き続けた。偽装網をかけられた機体の周りを一回り回ってから高瀬は翼の下に座り込んだ。
「もう誰もが思考力を無くしてしまっている。ただ遮二無二敵に向かっていくだけだ。何のために戦うどころか戦略も戦術もなく軍人の面子と本能だけで敵に向かっている。これはもう戦闘ではない。ただの狂信的な集団自殺だ。海軍の自殺、いや日本の自殺だ。」
「貴様の神は何か答えたのか。」
「何も言わない。黙ったままだ。何も言い様もないのかもしれない。この狂気が収まるまではたとえ神でさえ何も言うことはできないのかもしれない。冷静なのはこいつだけだ。」
高瀬は頼もしげに紫電を見上げた。
「大和魂では飛行機は飛ばない。整備をして部品を換えて油を入れなければ飛行機は飛ばない。こいつはそれをきちんと証明している。頭を冷やして現実を冷静に見ればいい。戦争だって同じことだ。」
高瀬は言い終わるとそのまま後ろにひっくり返るように転がった。
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小説2 | 日記
Posted at
2017/01/12 17:59:20
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