2017年01月16日
あり得ないことが、(125)
それからも僕たちは飲み食いを続けた。飲み食いと言うよりもただ飲んで騒いでいただけかも知れない。その間、マスターには「いい女だ、いい女だ」と言われて何回か抱き締められたり頬にキスをされたりしたようだったが、こっちも酔っていたのでその場だけはぞわっとしたおぞましさを感じるもののその後は特に気にならなかった。いっそのこと胸でも出して見せてやろうかと思ったが、余計に状況を混乱させるだけなのでやめておいた。
一方、言葉屋は「振られた、振られた」と言いながらクレヨンと二人、本当に千鳥足でダンスを踊っていたが、ほとんど自分一人を支えかねるような状態の男女が、お互いにもたれかかっているのであっちによろけ、こっちによろけ、危ういことおびただしかった。
「いや、残念だ。まことに残念だ。慙愧に耐えない。一体この世の中はどうなっているんだ。」
高がどこにでもいるような女一人のためにそこまで大げさに嘆くこともないだろう。まあ、その人にとってはかけがえのない人なのだろうから、その気持ちが分からないでもないが。
「あんな凶暴な男女のどこがいいのよ。私の方が若くて女らしくてずっとかわいいでしょう。私が慰めてあげるからあんな凶暴な女のことなんか忘れなさいよ。」
「おお、ありがとう。俺のことを分かってくれるのはお前だけだよ。」
どうも酔っ払いと言うのは始末が悪い。このまま放り出して帰ってしまうという手もあるが、万が一、酔った勢いでクレヨンと言葉屋がおかしなことにでもなると厄介なのでもう少し成り行きを見ていることにした。
「俺とあいつとは大学の同級生だったんだ。お互いに集団が嫌いでこんな家業に入ってしまったけどな。あいつも堅物だけど悪い奴じゃない。例えばあんたのことなんかも俺なら元男だろうが獣だろうが、今は間違いなく女なんだろうからそれでいいじゃないかなんていい加減に考えるけど、あいつはそうはいかないんだ。それなりに自分で納得が出来ないとだめなんだよ。
あんたが本当につい最近まで男だったのか、両性愛者なのか、同性愛者なのか、そんなことは調べても客観的な結論なんか出やしない。でもな、そんなことはどうでもいいことじゃないか。そんなことをとやかく言うよりも今とそこから先に続いている時間の方が問題じゃないか。」
マスターはグラスを取り上げると一口ビールを飲み込んだ。
「あんた、好きな人がいると言っていたな、彼女と言っていたから女性なんだろう。あんたがどういう思いでその女性と付き合うようになったのか知らないが、余計な雑音に惑わされずに自分の思いを貫いた方が良いと思うよ。
さっきその女性のことを言った時、何となく表情に戸惑いがあったように思えたけど何か困ったことでもあるのか。でもきっとあんたはその女性のことをとても大切に思っているんだろう。あんたのように感情を表に出さない人があんなに戸惑った顔をするんだから。いろいろと複雑な事情もあるんだろう。でもな、あんたの人生にその人が絶対に必要なら離すんじゃないぞ。いいな。」
さすがに客商売を長年続けて来た経験からか、この男独特の感性からか、人の表情の裏側を読むことに関しては抜群の才能を持っているようだった。言っていることもそれなりに納得出来ることなので僕は黙って頷いた。
「さすがに俺が見込んだことはある。物分りが良いな。良い子だ。」
ますターはまた僕を抱き締めるとおでこにキスをした。お前、それはセクハラだろう。
「後悔しないようにな。」
マスターは僕に向かって微笑んだ。何だかこいつにいいように扱われたて初体験をさせられてしまったが、まあ頬っぺたやおでこくらいは女として生きていくための勉強と思えばいいだろう。取り敢えず僕はハンカチを取り出しておでこを拭いてやったところ、マスターはニヤニヤしながら僕を見ていた。
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Posted at
2017/01/16 20:22:51
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