2017年02月15日
あり得ないことが、(130)
女土方が更衣室に入ってから少し間を置いて僕は更衣室に入って行った。女土方は化粧を直しているところだったが、ドアが開いた音で手を止めてこっちを見ていた。
「遅いわね、何時ものことだけど本当にご苦労さま。」
女土方は僕を見ながらそう言った。
「今日は仕事をしていたわけじゃないわ。あなたを待っていたの。あなたに用事があるのよ。今の私には仕事なんかどうでもいいの。」
僕は出来るだけ感情を押さえて平面的なもの言いをした。
「どういうこと。私は特に何もないけど、あなたには。」
「あなたがどうであろうと他の人がどうであろうとそんなこと私には関係ない。私には私自身の必要があってここであなたを待っていたの。あなただって今決して平静じゃないでしょう。顔に書いてあるわ、どんな用事か、それを聞きたいって。そうでしょう。意地ばかり張らないでよ。人の話も何も聞かないで。あなたはヒロイン気分に浸ってそれで良いのかも知れないけど、それじゃあ一方的に放り出された私はどうなるの。」
「もう済んだことでしょう。終わってるじゃない、あなたとのことは。」
「何時、どうして終わったと言うの。何も終わっていないわ、私の中では。そして間違いなくあなたの中
でも。そうじゃない。自分の胸によく聞いてみなさいよ。」
女土方は唇に引こうとして手に持った口紅を取り落とした。女土方は明らかに動揺しているようだ。
「あなたが何と言おうと終わったものは終わったのよ。他に何も言うことはないわ。」
「勝手に終わらせないでよ。私は何も分からないわ。どうしても終わりにしたいって言うなら私に分かるように説明してよ。だからちょっと私と付き合って。いいわね。」
「せっかくだけどお断りするわ。何度も言うけど私には特に言うことはないわ。」
「そう、分かったわ。じゃあどうしても私の頼みは聞いてくれないのね。それじゃあ仕方がないわ。今日は力づくでも連れて行くから。いいわね。」
「そんなことをしたら大きな声を出すわよ。」
「もう誰もいないわ。それに私は女よ。あなたと私の関係も皆知っているでしょう。大声を出しても無駄よ。そんな気もないでしょうけど。さあ荷物を持って。行くわよ。」
女土方は僕の顔をじっと見詰めたまま動こうとはしなかった。暫らくにらみ合いが続いたが、僕は女土方に近づくと手を取った。忘れもしない女土方の感触が懐かしくもありまた心地良かった。
「さあ」
僕はもう一度女土方を促したが女土方は動かなかった。僕は手に持ったバッグを床に落とすと女土方の方に踏み出して女土方を自分の方に引き寄せた。女土方は特に抵抗するでもなく僕の腕の中に収まった。
「どうして勝手に離れようとするのよ。私が何をしたの。あなたとずっと一緒にいるって言ったじゃないの。」
僕は腕の中の女土方を抱き締めた。そしてしばらくそのままどちらも言葉を発することなくじっと抱き合っていた。僕は女土方の唇に自分の唇を重ねたが、女土方はこれも拒否することもなくとても自然に応じてくれた。そしてその後僕をそっと押し戻すようにして体を離した。そして僕が落としたバッグを拾って僕の方に差し出した。
「分かったわ。行きましょう。」
女土方は僕に微笑んだ。
「ありがとう。久しぶりね、二人で一緒って。」
僕は女土方に微笑み返した。女土方はロッカーに鍵をすると「さあ、行きましょう。」と僕を促した。僕は黙って頷いて歩き始めた。僕たちは言葉を交わすこともなく無言で歩いた。エレベーターの中でも無言だった。ビルを出る時に警備員には会釈をして「ありがとうございました」と言って外に出た。警備員に挨拶をした僕を見て女土方は一瞬怪訝な顔をしたがまたすぐに普通の表情に戻った。
外に出ても僕達は何も言葉を交わさなかった。女土方も特に何所に行くのかなどとは聞かなかった。特に言わなくても何所に行くかくらいのことは分かっているのかも知れない。例のビアンバーにかなり近づいたところで女土方が口を開いた。
「あの店に行くのね。」
「そうよ、他に適当な場所がなかったの。込み入った話になるかもしれないから。あそこなら周囲を気にしなくてもいいでしょう。」
女土方は特に何も言わなかった。
「ねえ、私ね、決めたの。私はあなたから離れないわ。どんなことがあっても。」
僕は店に入る前に自分の思うところを伝えたが、女土方は何も答えなかった。店の前まで来ると女土方は立ち止まって僕を振り返った。僕は黙って「どうぞ」と身振りで示したので、女土方も特にためらうでもなくそのまま店に入って行った。
「咲ちゃん、いらっしゃい。しばらくね。」
店に入るとママが声をかけて来た。
「お久しぶり、ママ。本当に暫らく来なかったわね。でもママも元気そうね。お店も何も変わっていないみたい。」
女土方は笑顔でママに答えるとさっさと自分の定位置になっているカウンターの奥に座った。僕もママに会釈してから女土方の隣に座った。そしてそれぞれ飲み物と食べ物を注文するといよいよ開戦だった。僕達はそれぞれグラスを合わせて「乾杯」と言うとまず一口お酒を飲み込んだ。僕達はこれがそんなに拗れたカップルかと言うくらいに打ち解けた雰囲気だった。
「ねえ、私はね、あなたと別れるつもりなんてこれっぽっちもないからね。」
とにかく僕は自分の思うところをしっかりと女土方に伝えておきたかった。
「あなたが突然どうして私と別れたいなんて言い出したのか私にはさっぱり分からないけど、もしもあなたに何か理由があるのならそれを話して。私もしっかり聞くから。でもあなたが何を言っても私は別れないわよ。それだけは承知しておいてね。」
女土方は僕の言うことを聞くと笑い出した。
「じゃあ、何を言っても私のことは聞いてくれないってことなの。」
「話は聞くわ。」
「でも言うことは聞かないんでしょう。」
「納得がいくような理由があれば話し合いには応じるわ。」
「そういう強引なところがとてもあなたらしいわね。私にもそういう強さがあれば良かったのに。」
女土方は僕を見ながらちょっと淋しそうに微笑んだ。
「今日でお終いよ、そっぽを向き合って暮らすのは。いいわね。」
僕は極めて断定的に通告したのだが女土方は黙ったまま何も答えなかった。
「どうして黙っているの。何か支障があるの。あなたには別の考え方があるの。」
「そんなに畳み掛けるように言わないでよ。そんなに急に答えられないわ。ちょっと待ってよ。」
女土方はグラスに入ったカクテルを一気に飲み干すとお代わりを頼んだ。そしてそれも飲み干すと「ねえ、ママ、これじゃあいちいち面倒ね。ワインをグラスでお願い。」と言って大きなグラスにワインを並々と注がせた。そして「取り敢えず」と言って出させたピーナッツやチーズ,サラミなどのつまみをぽんぽんと口に放り込んでいた。普段の女土方からはちょっとかけ離れたその姿は何とはなしに女土方の心に開いた溝の深さを感じさせた。
女土方は何も言わずにワインを飲み続けた。そしてグラスに三杯も飲んで少しばかり回ってきたのかなと思わせる頃いきなりとんでもないことを言い始めた。
「あのね、私ね、ずっと昔、まだ若かった頃、性転換手術を受けたの。男だったのよ、元は。そのことがね、ずっと引っかかっていたんだけど、ねえ、黙っているのはあなたに悪くて。」
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Posted at
2017/02/15 17:51:48
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