余市の坂本さん製作 「設計者の思い知って」
【余市】町内栄町の店舗デザイナー坂本仁さん(68)が製作した旧日本海軍の戦闘機「震電(しんでん)」の実物大模型が8月、福岡県のテレビ局が放送する終戦記念特集で取り上げられる。太平洋戦争末期に開発され、実戦での飛行はなく幻の戦闘機と呼ばれている。設計者らを描く再現ドラマも盛り込まれ、7月に余市町内で撮影を行う。坂本さんは「特攻で若者を死なせないために開発された航空機。設計者の思いを知ってほしい」と話す。(竹内博)
終戦記念特集は福岡放送(日本テレビ系)の情報番組「めんたいワイド」内で終戦の8月15日に放送予定。震電が福岡県の航空機会社「九州飛行機」で開発されたことから企画され、設計者や航空機会社の技術者らの苦悩などを再現ドラマとして描く。余市での撮影は7月下旬の予定で、震電の試験飛行の様子を余市農道離着陸場で、戦時中の風景をニッカ北海道工場や旧下ヨイチ運上家でロケする。
震電は主翼の前方に前翼、機体後部にエンジン、プロペラを配置したエンテ型航空機。高高度を飛ぶ爆撃機B―29迎撃の切り札として期待されたが、試験飛行を行っただけで終戦を迎えた。
実物大全長9メートル
坂本さんが木材や車のタイヤなどを使い製作した実物大模型は高さ3・5メートル、全長9メートル、両翼11メートル。昨年7~11月に余市宇宙記念館で公開され、旅客機開発のエンジニアや航空機の整備士など多くの航空機関係者が足を運んだ。
震電の模型は巨大なため、坂本さん方の倉庫に胴体や翼などに3分割され収納されている。撮影に備え操縦席周辺の作り込みを行うなど、坂本さんは準備に余念がない。設計者の鶴野正敬は海軍技術将校とテストパイロットを兼任した人物だけに「防弾や脱出装置など、当時としては操縦者の命を大切にした設計」と坂本さん。「エンテ型という最先端技術とともに、設計思想も知ってもらえたら」と放送を待ち望んでいる。
震電は太平洋戦争末期に跳梁するB29の対策に手を焼いた海軍が作った迎撃機でエンテ型、エンジンとプロペラを機体後部に装着して機体前部には前翼を装備する、として400ノットの高速と30ミリ機関砲を機首に4門装備した重武装でB29の跳梁を阻止しようとした。試験飛行は3回ほど行われたようだが、300キロ弱の速度での飛行で終戦となったようである。大馬力エンジンのトルクで右に傾くなど問題は多かったようで実用化にこぎつけるにはエンジンのトラブルなどを含めて様々な問題に対処しなければならなったように思う。陸軍のキ94ⅡとともにB29対策の切り札だったが、実用化までには相当な時間を要したと思われる。また実用化されたとしても所期の性能を発揮できたかどうか疑わしい。しかしながら軍の横やりなどもあって三菱が烈風の制作でもたつく中、戦争末期の混乱期に航空機製造会社としては二流の九州飛行機や立川飛行機があれだけの機体をまとめ上げたことは特筆に値する。震電は適当なジェットエンジンが開発されればすぐにジェット化されただろうし、キ94Ⅱは非常にきれいな機体で陸軍戦闘機の白眉とも言われている。それから防弾装備だが、防弾の必要性は戦争初期から言われてはいたが、大馬力エンジンを持たない日本としては要求性能を充足させるためには切り捨てざるを得なかったようだ。紫電や疾風など後期の戦闘機は相応の防弾装備がなされているが、重量増加で性能が落ちるのを嫌って取り外してしまうパイロットも多かったそうなのでこれは思想の問題であってあながち軍部が人命を軽視したとばかりは言えないようだ。もっとも戦って勝つのが軍人の仕事だから防弾装備などで機体の性能を落とすのならそんなもの下してしまって性能を上げて勝てばいいんだという考え方は分からなくはない。いずれにしても日本の貧弱な工業生産力と遅れた技術が引き起こしたことでそれを語らずにただ人命軽視を叫ぶのもどうかと思う。日本軍も戦争中盤まではガダルカナル、キスカから兵員を撤退させたりしているし、決して人命を軽視していたわけでもない。後半には米軍に押しまくられてそんな余裕など消し飛んでしまったというのが実際だろう。もっと言えばあの時期に米国にケンカを売ること自体が無謀極まることだったのだが、現代もそうだが、時の勢い、時代の流れと言うのは恐ろしいものがある。しかしながら、震電、キ94Ⅱにしろ、橘花、秋水などのジェット機、ロケット機にしろ、海防艦の急速大量建造にしろ、戦争末期の混乱期によくぞあれだけのことはできたものだと思う。その辺の日本の底力と言うのは現代にも通じて生きているように思う。
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Posted at
2017/07/09 12:07:00