2017年07月14日
あり得ないことが、(144)
「あんた、お母さんが誰だか知っているの。」
クレヨンは今まで見たことのない冷たい視線を投げかけた。
「知ってるわ。」
「そう、知ってるの。」
「あなたはどうしてそんなことを知っているの。」
突き刺すようなクレヨンの視線にややたじろぎながら僕は北の政所様からその話を聞いた時のことを思い出していた。彼女も特に口止めするようなことは言っていなかったので当のご本人に話すことはかまわないだろうと思ったが、ここではたと考えた。
『もしかしたらこいつははったりをかまして僕から事実を聞き出そうとしているんじゃないか。』
そうだったらここで『お前のお袋は北の政所様だと本人から聞いた。』なんて口走ったらとんでもないことになるかも知れない。そこまで考えてから僕は口を開いた。
「私が知っていることが事実かどうか分からないし、間違っていたらいろいろと迷惑をかけるかもしれないから言えないわ。」
クレヨンは黙って立ち上がると机の引出しを開けて何かを取り出した。そしてそれを僕の前に投げ出した。それはちょっと古くなった写真だったが驚いたことにそこには今よりもずい分若い金融翁と北の政所様に挟まれたあどけない姿のクレヨンが写っていた。こんな決定的なものをこのサルは持っていたんだ。
「あなたもかわいそうと言えばかわいそうな子よねえ。」
僕は写真を拾い上げてため息混じりに呟いた。
「でも普通の人が得られないような恩恵も受けているんだからそれはそれで仕方ないのかもね。」
「どうしてそのことを知っていたの。」
クレヨンはもう一度僕に聞いた。
「状況証拠の積み重ねのようなものよ。それでも事実を特定できるでしょう。違う。」
「母から聞いたんでしょう、きっと。きれいごとばかり言うんでしょう。あの人って。」
僕はこの複雑な関係には関与したくもなかったしまたすべきでもないと思っていたのでクレヨンには沈黙を守っていた。
「ねえ、何も言わないの。」
クレヨンはそんな僕に苛立った様子で畳み掛けて来た。
「答えるも何も私には何も言えないわ。あなた達親子のことに関して何か意見を言えるほどの知識も何もないから。またそのことに関して私が何かを言うべき立場でもないわ。あなた達親子の間に何か問題がるとしたらそれはあなた達自身がよく話し合うことじゃないの。
結局あんたは母親に捨てられたと恨んでいるんでしょう。でもね、いろいろ事情があるんじゃないの、向こうは向こうで。だから淋しいんならはっきりとそう言いなさい。あなたのことを一生面倒見ることは出来なくてもあなたに別の生き方が見つかるまで私はあなたを見捨てたりはしないから。
伊藤さんもきっと同じことを言うと思うわ。ただ私達に出来ることはそばにいてあげることだけであなたの心の中のことまではどうしてあげることも出来ないわ。それはあなた自身が自分で解決することよ。」
「それは私だけに責任があるということなの。」
「あなただけじゃないでしょう。あなたのお母さんとお父さんも当然責任があるでしょう。三人で良く話し合って解決するのが一番いいことだし、それが基本でしょう。でもね、みんないろいろ事情があるのだし、あなたの場合、ご両親は出来るだけのことはしてくれているのだし、決して恵まれていないという環境ではないのだからあなた自身が大人にならないとだめよ。」
「どうして私だけが大人にならないといけないのよ。」
「それはね、あなたの心の中にあるわだかまりを解消すればこの問題は解決だからよ。要するにあなた次第でどうにでもなることなの。分かった。」
「分からないわ。そんなこと。あの人達はどうして何もしなくていいのよ。そんなのおかしいわ。」
「おかしくなんかないでしょう。あの人達はあなたが幸せになってくれればそれでいいのよ。あなたに何かして欲しいなんて思っていない。だから何とかあなたの心のわだかまりを消したいと腐心しているのよ。
ただね、あなたに負担を負わせて申し訳ないと言う気持ちが強いから手を出しかねているところがあるだけじゃない。あんたがそういうことを分かってあげなきゃだめでしょう。」
「あの人のために私はずっと辛い思いをして来たのよ。その気持ちをどうすればいいのよ。」
「辛い思いをして来たってねえ、少しは淋しかったかも知れないけどこんなに良い環境にいて贅沢言うんじゃないの。この世の中にはね、そんなこと比べ物にならないくらい不幸な人がたくさんいるのよ。何時までも自分の気持ちばかり撫でているんじゃないの、いいわね。」
クレヨンは何も言わなかった。こんなことを言われたのは初めてなんだろう。でもこういうことを言ってやるべきだと僕は思う。こんな時辛いのは自分だけではない。誰も皆がその置かれた立場なりに辛いんだ。それを理解してこそこうした問題への解決への道が開けるのだと思う。また相手に対してそのくらいの思い遣りを持てる人間であるべきなんだ。自分の傷ばかり嘗め回していてはこの手の問題は決して解決しない。
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Posted at
2017/07/14 17:39:10
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