2017年07月25日
あり得ないことが、(145)
「私、父から『個人的に母と会って話をして欲しい』と言われているの。会社では毎日会っているわ。でも個人的にあの人と会いたいとは思わなかった。ねえ、どうしたら良いと思う、あなたならどうする。」
「おばか、どうしたら良いなんて何てことを言っているの、会って話をしてあげなさいよ。今すぐにお父さんに電話しなさい。下らないことを電話なんかしていないで。すぐよ、いいわね。会うと言いなさい。今すぐに。」
「良いわ、分かった。会うわ。でも条件がある。その時はあなたが一緒にいて。」
「一緒に行ってあげるのは構わないわ。でも話をする時は私は外すわよ、いいわね。」
クレヨンは黙って肯いた。まあこの親子もやっと和解へと向かって第一歩を踏み出すことになったようだ。これからこの親子がどんな人生の軌跡を描くのかは知らないが、これはこれで目出度いことだ。
クレヨンは受話器を取って父親に電話をした。そして「お母さんに会うわ」と一言低い声で言うと電話を置いた。
「これでいいの」
クレヨンが僕を振り返った。僕は何も言わずに黙って大きく肯いた。
「そういうことで話が決まったんだから後はのんびり過ごそうよ。」
僕はソファに足を大きく開いて転がった。ご丁寧に片足を背もたれに乗せて。まあ女も自宅ではこういう格好をすることは知っているが、元々男の僕は一人でいる時はほとんど慣れ親しんだ男の作法に戻ってしまうことが多い。でもそれはそれで仕方がないと思っているが、こういうところでちょっと気を抜いた時に痛い目を見ることがある。
この時ドアが開く音がした。クレヨンがドアのところに走って行ったが、僕はお手伝いでも来たのかと思ってそのまま放っておいた。すぐに足音がこっちへ近づいて来たがクレヨンが戻ってきたのだろうと高を括っていると「ねえ、お父さんが、」というクレヨンの声が頭の上で響いた。
はっとして振り返るとクレヨンと金融翁が僕を見下ろすように立っていた。まずいことにこの時は何時もはいているトレーナを穿かずにパンツで転がっていたのでかなりまずかった。ただ救われたのは普通女が穿くあの布の切れ端のようなパンツではなくトランクスタイプのものだったのであの部分が丸出しと言う不手際だけは回避出来た。それでもお互いに一瞬目が点になってしまって言葉が出なかった。
ほぼ状況を認識した後に僕はがばソファから跳ね起きてシャワールームに飛び込むとトレーナーを穿いて部屋に出て来た。恥かしいと言う気もあったがどちらかと言えば金融翁に余計な負担を感じさせたくないと言う気持ちが強かった。
「どうもとんでもない格好で失礼しました。」
僕は金融翁の前で丁重に頭を下げて謝った。
「いえ、こちらこそ夜分に女性の部屋に押しかけたりして申し訳ありませんでした。ただ一言あなたにお礼を言いたくてご迷惑とは思いましたがお邪魔しました。
これまでも娘のことではいく度も一方ならぬお世話になっておりましたが、今回のことでまたお礼の申し上げ様もないほどお世話になりました。親として私どもが至らないためにあなたには重ね重ねお迷惑をおかけして大変心苦しく思っております。
しかし娘もあなたには大変なついております信頼も寄せているようですからご迷惑とは存じますが何とぞもう暫らくのお力添えをお願い致します。」
何だか経済界の会合で挨拶しているようなことを言うと深深と頭を下げた。日本の経済界を牛耳っている実力者にこんなに何度も頭を下げられたのは僕以外にはそうたくさんはいないだろう。こうなったら金融翁にバックについてもらって国会でも打って出るか。
「このサル、じゃなくて彼女も少しづつ理解し始めているようですから。もう少しすればきっと分かると思います。ご両親もいろいろご苦労とは思いますけどこの子を信じてあげた方がきっと良い結果になると思います。」
クレヨンは僕の腕を取るとその腕にしっかりと抱きついた。そして金融翁を見た。
「お父さん、まだ何かあるの。もう十分でしょう。私達の時間を邪魔しないで。早く出て行って。」
このサルは何ととんでもないことを言う。僕はクレヨンの股に手を入れるとプロレスの投げ技のように高々と抱え上げてそのままソファに落としてやった。
「あんたねえ、自分の食い扶持も稼げないのに何てことを言うの。今度そんなことを言ったら軒から吊るすからね。」
「もう、野蛮人、何てことをするのよ。もうお母さんになんか会ってやらないから。大体食い扶持とか軒って何よ。分からない言葉を使わないで日本語で喋ってよ。」
僕はすばやくクレヨンの足元に回って両足を掴むと逆さに背中に引きずり上げた。着ているものが捲れて中身が丸見えになったが親子だからまあいいだろう。
「食い扶持っていうのは生活費のことよ。軒が分からなければ分かるようにこれからそこに吊るしてやるわ。お母さんに会ってやらないってどういうことなの、それは誰のためでもないあなたのためでしょう。吊るせば軒も何だか分かるしあなたの頭も冷えるから一挙両得でしょう。」
「いやー、やめて。ごめんなさい。お母さんに会います、会わせて頂きます。許してください。」
背中でクレヨンが喚くので仕方がないから許して降ろしてやった。クレヨンはまた悪態でもつくかと思ったらいきなり僕に抱きついて来た。
「お母さんに会ったら私は何と言えばいいの。分からないわ。何を言っていいのか分からなくて苛立って感情をぶつけてしまいそう。それが怖いの。」
僕はこのサルを抱きしめてやった。役得と言うのか役損と言うのか分からないが、女になってからは男の時にも増して女を抱いているような気がする。
「ねえ、こうしていると温かくて落ち着くでしょう。」
クレヨンは黙って肯いた。
「言葉なんか要らないんじゃない。あなただってそういう温かさを求めているんでしょう。」
クレヨンは僕の腕の中で小さく肯いた。
「ご迷惑をおかけしますが、何卒よろしくお願いします。」
金融翁はまた深深と頭を下げた。僕はクレヨンを抱いたまま黙って頭を下げたが、その一言に経済界が震え上がるという金融翁の目に光るものがあった。
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Posted at
2017/07/25 22:25:20
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