2017年09月01日
翼の向こうに(84)
車輪が地面に着いて機体の行き足が止まると私は風防を空けて機体の外に出た。まだ半ば夢の中にいるようで、たった今目の前で起こったことが現実とは思えなかった。そんな不確かな意識に囚われながら私は無造作に機体から飛び降りると指揮所に向かった。
「只今帰還しました。敵哨戒機及び戦闘機多数と交戦、敵機十機を撃墜するも高瀬中尉以下三名は戦死。」
「高瀬が、・・。そうか、やつも逝ってしまったか。」
飛行長は珍しく肩を落として落胆の表情を見せた。私は敬礼をすると立ち去ろうとしたが、飛行長に呼び止められた。
「分隊士、貴様に詫びなければならないことがある。いや、詫びて済むことではないかもしれない。敵の落とした爆弾が医療所に使っていた壕を直撃した。今、救出作業を急がせているが、そこに智恵さんが、・・。済まん。俺があんなことを了解しなければ。」
私は上空から見た光景を思い出した。『もしや。』とは思ったが、それ以上は考えられなかった。
「誰のせいでもありません。あれが自分で決めたことですから。」
私はもう一度飛行長に敬礼をすると医療所があった場所に歩いて行った。敵機の投下した千ポンド爆弾は狙ったわけではなかったのだろうが見事に壕の中央に命中して壕を粉砕していた。百人を越える隊員が泥やコンクリート片を取り除いて潰された壕を掘り返して救助作業を行っていたが、泥の中から掘り出されるのは巨人が踏み潰したかのように折れ曲がった鉄製寝台や医療器具と引き裂かれ押し潰され、そして焼け焦げた肉塊や人の手足だった。
私はしばらくその場に立って作業を見つめていたが、司令部の伝令が待機所に戻るよう伝えに来たのを潮時にその場を離れた。私は小桜が惨い姿で発見されなかったことに内心安堵していた。待機所に戻ると今戻って来た紫電が待機線に引き込まれて弾薬と燃料の補給が始まっていた。両脚を踏みしめて待機する戦闘機は体を低くして今まさに敵に飛びかかろうとしている獣のように見えた。
『今度出たらこいつと一緒に死のう。もう何も思い残すことはない。』
私はついさっき性能の限界を超えて高瀬を葬り去った敵機を追撃してくれた紫電を見つめながら力みも何もない素直な気持ちで思った。これまで心の中に常にまとわりついていた葛藤がきれいさっぱりと消えていた。死ぬべき理由も何も考えなかった。ただ押し寄せる敵機と戦って戦って戦い抜いて、自分の義務を果たして死ねればもうそれで思い残すことはなかった。私は待機所に戻って椅子に腰を下ろした。そこに島田一飛曹が近づいてきた。
「分隊士、死ぬ気ですね。」
島田一飛曹は私のそばで耳打ちした。
「それは神が決めることだ。今の俺にできることはただ命の続く限り精一杯戦うこと。」
私は前を見つめたまま島田一飛曹に答えた。島田一飛曹はそれ以上何も言わなかった。待機線には十数機の紫電が並んでいた。それが部隊の稼動全機だった。しかしもう彼我の戦力などは全く気にもならなかった。私は前を見つめたまま時を待った。発進待機がかかった。私は腰まで下ろしていた飛行服を引き上げると手袋をつかんで紫電に向かった。
「異常ありません。」
整備兵が敬礼をしながら申告したのに答礼をして答えると操縦席に乗り込んだ。すぐに発進の青旗が振られた。
「第二小隊長から各機、生死を省みず徹底的に敵を撃墜せよ。」
私は列機に激を飛ばすと滑走を始めた。高度を四千に取って待ち構えているところにP三八が三十機ほど飛び込んできた。第一小隊はこれに向かったが、私は高度を上げながら護衛のP五一を狙った。自らを囮にして敵機に身を晒し、それを狙って上空から降ってくる敵機を緩横転でかわしながら降下していく敵機を追った。敵の機銃弾が何度も機体を取り囲んで流れて行ったが、私はまるで意にかけなかった。また敵機を捉えると後ろに敵がいようが、構わずに照準器で捉えた敵を追撃しては射撃した。
護衛のP五一が去ってしまうと、今度は低空を引き上げていくP三八を捉えようと降下攻撃をかけた。そうして機銃弾がなくなるまで攻撃を繰り返したが、機体に何発かの敵弾を受けただけで重大な損傷を受けることもなく基地へと帰還した。
機体から降りると私は滑走路脇に咲いていた花を何本か摘み取って直撃弾を受けた診療所壕に向かった。そして爆撃で抉り取られた大地の淵にその花を置くと大きく口を開けた大地の穴に向かって敬礼をした。
『すぐに君や高瀬のそばに行く。』
心の中で一言つぶやいた。それがほんの数日だったが夫婦として暮らした小桜への暫しの別れの挨拶のつもりだった。他に言うべきことは何もなかった。その晩は宿舎には戻らず、私は待機線に置かれた紫電の翼下で夜を明かした。そして短い夏の夜が明けきらないうちから起き出して機体の整備を始めた。整備員を急き立てて燃料と機銃弾を補給させ、発動機を入念に整備させた。
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小説2 | 日記
Posted at
2017/09/01 23:37:16
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