ビルマ戦記を追う<23>
兵隊や軍医、捕虜、外国人といった、さまざまな人が書き残したビルマでの戦記50冊を、福岡県久留米市在住の作家・古処誠二さんが独自の視点で紹介します。
◆ ◆
インパール作戦を知らぬ日本人は少ないとしても、同作戦における最大の激戦地コヒマはどれだけ知られているだろうか。たとえば西日本新聞を読んでいる博多っ子の何割がコヒマにおける先人の戦いを知っているだろうか。歩兵第百二十四連隊に触れると同時にそんな不安にかられたので本書を紹介する。
著者のアーサー・スウィンソン氏は元イギリス軍将校である。英第二師団の大尉としてコヒマ戦に参加している。執筆にあたっては両軍の資料を集めており、本書はまず間違いなくコヒマ戦記の決定版である。
コヒマの町の重要性はインパール作戦の概要をさらえば分かるだろう。すなわち日本軍は「一個師団でコヒマを押さえて敵の増援を阻止し、その間に二個師団でインパールを占領する」つもりでいたのである。
コヒマの戦闘はおのずと熾烈(しれつ)を極めた。第百二十四連隊の属する第三十一師団はコヒマの九割をいったんは占領したが、インパールの危機を救うべく英印軍も死力を尽くした。
寸土を争う戦いに白兵戦が頻発し、両軍陣地の中間に腐乱死体の転がる状況となる。「これほど手強(てごわ)い、近接した、血腥(ちなまぐさ)い戦いは第二次世界大戦を通じていくつもない」とスウィンソン氏は記している。わずかな土地を奪い返しては壕(ごう)を掘る。すると日本兵の死体や糞(ふん)便が出てくる。イギリス兵にとってもインド兵にとってもグルカ兵にとっても地獄だった。それでも彼らは補給や航空支援があるだけ日本兵よりは恵まれていた。乏しい食糧と弾薬で戦い続けた第三十一師団は限界を超えても督戦(とくせん)を受け、二カ月に及ぶ戦闘を経て師団長は命令無視の撤退を決意する。建軍以来初めての事態だった。
閣下と呼ばれる方の命令無視も異常なら、補給もない師団が二カ月ものあいだ近接戦闘を戦えたこともまた異常である。スウィンソン氏は第三十一師団長を次のように評している。
――どこの将軍がこれ以上のことができるだろう。 (こどころ・せいじ、作家)
*****
古処誠二(こどころ・せいじ) 1970年生まれ。高校卒業後、自衛隊勤務などを経て、2000年に「UNKNOWN」でメフィスト賞を受賞しデビュー。2千冊もの戦記を読み込み、戦後生まれながら個人の視点を重視したリアルな戦争を描く。インパール作戦前のビルマを舞台にした「いくさの底」で毎日出版文化賞と日本推理作家協会賞をダブル受賞。直木賞にも3度ノミネートされている。(西日本新聞)
一個師団2万人が戦闘を行うには毎日何百トンと言う武器、弾薬、燃料、食料、衣類、医薬品などの補給が必要だという。一人毎日1キロの米を食べたとして2万人が食べる米の量は20トンになる。それを2か月間全く何の補給もなく戦闘をさせるなど狂気の沙汰を通り越している。太平洋戦争では日本軍はどこでもそんな戦いを強いられた。それでも最初の2年間は補給の努力は続けていたが、後半は米軍に押しまくられてもうほとんど手つかずだった。特にインパールは6万、7万の軍団クラスの部隊を派遣しておきながら最初から補給の目途が立たない状況だった。2万の軍隊が人の手で運べる程度の武器、弾薬、糧食しか持たずに空輸で十分な補給を受けていたイギリス軍と2か月にわたって互角の戦闘を続けたことは奇跡を超えている。それが命令を無視して撤退したからと言って責められるべきは作戦を立案した司令部であって現地軍ではない。当時の日本人は恐るべき忠実さ、強靭さを持ち合わせた人種だったんだろうけど今もそのDNA は受け継がれているんだろうか。亡くなった方たちの冥福を祈る、・・。
ブログ一覧 |
軍事 | 日記
Posted at
2019/11/30 17:10:35