日本本土を空襲するB-29の迎撃に特化した夜間戦闘機「月光(げっこう)」を駆使し、16機を撃墜したB -29狩りの名人・遠藤幸男(えんどうさちお)。その戦歴と愛機「月光」のメカニズムに迫る!
1930年代中頃は、世界的に双発戦闘機の人気が高まっていた時期だった。当時のエンジン1基だけでの出力の限界を超えた速度性能や長距離侵攻に対応するため、エンジンを2基搭載して速度の向上を目指したり、機体の大型化による燃料搭載量の増加を図って長距離飛行を可能とすることが考えられたのだ。
かような情勢下の1938年11月、日本海軍も、陸上攻撃機の長距離護衛を行える双発戦闘機の開発を中島飛行機に発注した。この機体は十三試双発陸上戦闘機と称され、1941年5月に初飛行した。ところが、すでに同機よりも戦闘機として性能的に優れた単発の零戦による陸攻の護衛が行われていたため、1942年7月に二式陸上偵察機として、機数を限定したうえで採用された。ところが、実戦に投入してみると予想外に損耗が多く、やがて同機はあまり使われなくなった。
こうして、いったんはお払い箱の瀬戸際になった同機ながら、20mm機関砲を機体前後の水平軸に対して前方向き仰角30度前後で取り付ける「斜め銃」を小園安名(こぞのやすな)中佐が考案。これを二式陸上偵察機の原型となっている十三試双発陸上戦闘機に搭載し、ラバウルでボーイングB-17フライングフォートレスやコンソリデーテッドB-24リベレーターといった重爆撃機に対する夜間迎撃に用いたところ、短期間で相応の撃墜を記録。この戦果により、十三試双発陸上戦闘機と二式陸上偵察機は、にわかに脚光を浴びることになった。結果、斜め銃を装備した夜間戦闘機への改修が推進され、1943年8月、この夜間戦闘機は改めて「月光」として制式採用された。
かくして月光は、ラバウル方面では夜間爆撃に飛来するB-17やB-24を迎撃して一定の戦果をあげた。そして夜間戦闘だけでなく昼間の対地・対艦攻撃にも投入されたが、こちらのほうの戦果は芳しいものではなく、やはり夜間戦闘に専従させるのが最良と考えられた。また、日本本土空襲に飛来するボーイングB-29スーパーフォートレスに対しては、当初は昼間高々度爆撃の迎撃にも参加した。ところがノースアメリカンP-51マスタングの護衛が付くようになると、一方的にやられてしまうことになった。
その後、B-29の戦術が夜間低空爆撃に変更されると、護衛のP-51がいないため、月光は再び活躍できるようになった。特に、遠藤幸男は「B-29撃墜王」とも呼ばれたパイロットだった。1915年9月9日、山形県で生まれた遠藤は1930年に乙種飛行予科練習生として海軍航空隊に入隊。艦上攻撃機のパイロットとなった。日中戦争に出征後、帰国して教官職に。1943年1月、第251航空隊に配属されて二式陸上偵察機に乗る。この頃、旧知の小園に乞われて、ラバウルでの月光試作機の実戦試験に参加。1944年3月、遠藤は第302航空隊に転属し、月光の搭乗員訓練に従事した。
ついにB29による日本本土空襲が始まった後の同年7月、月光の分遣隊を率いて長崎県大村基地で防空任務に就いた。8月20日午後、B29の編隊が北九州に来襲すると、遠藤は他の搭乗員7人とともに出撃して大戦果を得た。この戦功に対し、感状と軍刀が授与されている。その後、厚木に戻った遠藤は月光による撃墜機数を着実に伸ばす。1945年1月14日には、名古屋に飛来したB29を白昼に迎撃。1機を撃墜し1機を撃破したものの、遠藤機も被弾。炎上する乗機を人口が少ない渥美半島まで飛ばしてから、偵察員の西尾治上飛曹の脱出を確認後に自分も脱出したが、西尾は開傘せず、遠藤は脱出高度の不足で戦死をとげた。なお、「B-29撃墜王」遠藤のスコアは同機撃墜破16機で、このうち撃墜が公認されているのは8機。(白石 光)
月光は日本海軍の夜間戦闘機。日中戦争において海軍は長距離を高速で飛行できる双発複座援護戦闘機という機体の開発を中島飛行機に対し、「十三試双発陸上戦闘機」として指示した。1941年3月26日、十三試陸戦の試作一号機が完成し、5月2日に初飛行しが、速度や航続力はほぼ要求通りではあったものの電動の7.7ミリ4連装機銃塔など重武装で大型の本機は運動性能が劣るため敵の単発戦闘機に対抗できず、すでに零戦が長距離援護戦闘機として活躍していたこともあって戦闘機としては不採用となった。 その後本格的陸上偵察機を持たなかった海軍は本機を強行偵察にも使用可能な偵察機に転用することを計画、試作5号機から7号機までを偵察機に改造し、実用試験を行った結果、4月以降偵察機として50機生産されることとなり、二式陸上偵察機として制式採用されることになった。1942年7月、3機がラバウルに進出、ラバウルからガダルカナルに航空偵察を行い、貴重な情報をもたらしている。その後各部隊に配備されるようになったが、米軍の戦力が増強されるにつれ強行偵察では被害が続出するようになり、より高速の二式艦上偵察機(D4Y1-C)や陸軍から借用した一〇〇式司令部偵察機の方が重用されるようになった。
その後、ラバウル空襲で米軍が使用する撃墜が困難な大型爆撃機B-17対策が急務となり本機をB-17の迎撃に使用しようと考え、新兵器三号爆弾を搭載して出撃させB-17の編隊に投下させたところ1機を撃墜、1機を大破する戦果を挙げたが、この兵器は試作兵器でさらには命中させるのは至難の業であるため小園中佐は月光に斜め機銃を装備しB-17を攻撃することを考え、放置されていた3機の機体に試験的に機銃を装備して遠藤幸男大尉が搭乗、零戦が曳航する大型標的(吹き流し)をB-17に見立てて射撃訓練を行ったが、照準器もない斜銃を遠藤はカン頼りで発射して実射時間約20秒で13発を吹き流しに命中させるという良好な成績をおさめた。そして2機の斜銃装備十三試双発陸上戦闘機と9機の通常装備の二式陸上偵察機の補充を受けてこれらを改造し、1943年5月20日に十三試双発陸上戦闘機が斜銃でたちまち2機のB-17を撃墜、その後も戦果を重ねて6月末にはB-17の撃墜数は9機にもなり、この戦果により軍令部は昭和18年(1943年)8月23日に夜間戦闘機として制式採用した。
夜間戦闘機「月光」の登場により一時はB-17やB-24によるラバウルへの夜間爆撃を押さえ込むことに成功したが、日米の戦力が開いてくると米軍側は効率の悪い夜間爆撃を行わなくなったことから月光は敵基地への夜間攻撃、偵察などに用いられるようになり、フィリピン攻防戦、沖縄攻防戦とともに本土防空戦にも投入され、B-29の迎撃に使用されたが、飛行性能が劣る月光は苦しい戦いを強いられた。そんな中で第302海軍航空隊の遠藤大尉は北部九州、東京、名古屋でB-29を迎撃して戦果を挙げている。遠藤は1945年1月14日にB-29との戦闘で戦死したが、戦死後、全軍に布告され中佐に二階級特進、正六位にも叙せられ功三級金鵄勲章を追贈された。
月光の後継として天雷、電光などが試作されているが、天雷は誉発動機の不調やナセル失速などで期待された高性能が発揮できず、電光はモックアップが完成しただけで実機は完成しなかった。この状況は陸軍も一緒で二式複戦「屠龍」以降、有効な高高度迎撃機を持たなかった。その理由は陸海軍ともに双発戦闘機の活用にしっかりとした定見を持たなかったことが原因のようだ。大型で重い双発戦闘機に単発戦闘機並みの運動性を要求して失敗している。
高速重武装で上昇力に優れた航空機を早い時期に開発しておけばB29迎撃にも有効だっただろうが、双発戦闘機で成功したのは米国のP38と英国のモスキートだけなので双発戦闘機と言うのは難しい機体だったのかもしれない。陸軍のキ96と言う機体はそれなりに高性能だったようだが、高高度迎撃戦闘機と言う機種に対してさほど必要性を認めていなかった陸軍は不採用としてしまった。マリアナ諸島が陥落してB29の脅威が現実的となって陸海軍ともに慌てて高高度迎撃機の試作を始めたが、結局どれもものにならずに終わってしまい、陸海軍ともに性能不足の戦闘機をB29迎撃に使用せざるを得ず、苦戦を重ねることになった、‥(>_<)。
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Posted at
2022/11/30 22:26:17