
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は家康・織田信長の連合軍と、武田勝頼率いる武田軍が激突した長篠の戦いのナゾに迫る。天正3年(1575)5月21日に行われた長篠の戦い(愛知県新城市)は、日本史教科書でも特筆される合戦である。『高校日本史B』(山川出版社、2014年)には次のように記載されている。織田信長は「1575(天正3)年には、三河の長篠合戦で多くの鉄砲を使って武田氏の騎馬軍団を破り、翌年、近江に壮大な安土城を築きはじめた」と。また、笠谷和比古氏が著した『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016年)にも「武田軍左翼の旗頭である山県昌景は、自ら前線に出て騎馬部隊を率いて突撃を試みたが、織田・徳川方の鉄砲の射撃によってあえなく最期を遂げた。鉄砲の一斉射撃の威力はすさまじく、突撃してきた騎馬部隊の馬上の武士たちが一瞬にして消え去ってしまったという」と記されている。
■明治時代に記述が変わる
信長の鉄砲の一斉射撃という戦術によって、騎馬部隊による突撃を試みた武田軍が撃破されたという点で、先の教科書の記述と同じである。江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が著した『信長記』には、織田・徳川連合軍は、3000挺もの鉄砲を用意したという。そして、実戦においては、敵を引き付けたうえで、鉄砲隊(1000挺ずつ)に「立ち替わり、立ち替わり、打たせた」とある。ところが明治時代になって、日本陸軍の参謀本部(旧日本陸軍の中央統帥機関)が纏めた『日本戦史・長篠役』(明治36年=1903年)には、鉄砲隊を1000挺ずつ3段に重ね、1列目が射撃、2・3列目が弾込めをし、1列目が射撃を終えると後ろに回り、2・3列目が射撃を行う(その間に1列目が弾込めする)「3段撃ち」という新戦術を信長は編み出したと、記述されている。この見解が広まり、大河ドラマ でもそのようなシーンが繰り返し描かれてきた(例えば、1992年の大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』)。しかし、織田・徳川連合軍による3000挺の鉄砲による三段撃ちは、本当にあったのであろうか。比較的信用できる史料から、実態を探ってみよう。信長に仕えた太田牛一が著した『信長公記』には、戦の直前、信長は家康の陣所がある高松山に登ったという。小高い山に登った信長は、敵の動きを見たうえで、命令が下りしだい、すぐに軍勢が動けるようにしておけと命じたようだ。
そして、鉄砲約1000挺を佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政という5人の奉行に配備。敵のほうに足軽を詰め寄らせた。長篠合戦の前哨戦とも言うべき鳶ノ巣山(とびのすやま)砦攻めの際、信長は鉄砲500挺(『信長公記』)を酒井忠次に付けた。3000挺という鉄砲数は『信長公記』には記載されていない。さらに『三河物語』にいたっては鉄砲数すら記されていない。武田軍の将兵が「雨脚のような鉄砲にあたって、戦死した」と記されているのみである。甫庵『信長記』は信憑性が乏しく、太田牛一『信長公記』は比較的信用できる史料と言われていることからすると、筆者は『信長公記』の記述に重きをおきたい。『信長公記』にも、織田・徳川連合軍の鉄砲の全体数が記されているわけではなく、総数は謎と言わざるをえないが、『信長公記』の記述を基に考えると、最低、1500挺の鉄砲を信長は戦場に持ち込んでいたことがわかる。
もちろん、ほかの部隊にも鉄砲を持たせたであろうから、1500挺より多い鉄砲が長篠に持ち込まれたであろう。ただし、それが3000挺であったか否かは確認できない。
■鉄砲の3段撃ちは実際にあったのか
さて、では鉄砲の3段撃ちはどうであろうか。『信長公記』に依り、長篠合戦の流れを再現してみよう。武田軍は、進軍の合図の推し太鼓を鳴らし、織田・徳川軍に打ち掛かってくる。1番手は、山県昌景の軍勢が来襲してきたが「鉄砲で散々にうち立てられ」退却した。2番手は、武田逍遙軒(信廉。信玄の弟)の軍勢であったが、彼の軍勢は入れ替わり立ち替わり、攻めては退き、退いては攻めを繰り返していたという。織田軍は、逍遙軒の軍勢に銃弾を浴びせ、軍兵の過半を討った。すると、逍遙軒の軍勢は退いていった。3番手・西上野の小幡氏の赤武者が、馬を用いて、推し太鼓を打ちつつ、攻めてきた時も、織田方は「軍兵を揃えて身を隠し、鉄砲で待ち受けて、撃った」。小幡氏の軍勢も鉄砲により、大半が撃ち倒された。4番手の黒武者たちも、これまた織田方の鉄砲により、撃たれる。5番手の馬場信春の軍勢も同じ目に遭う。長篠合戦は、『信長公記』によると、5月21日の日の出から午後2時頃まで続いた。武田軍は、入れ替わり立ち替わり、騎馬武者を差し向けてくるが、織田方の鉄砲により撃退されている。織田方は射撃した後に、足軽を使い、敵方を軽くあしらう程度であった。武田軍は、多くの軍勢が討たれたこともあり、退却を始めるのだが、列が乱れたこともあり、そこを信長により突かれる。山県昌景・馬場信春など武田の重臣が討たれることになる。以上、『信長公記』から、長篠合戦の展開を見てきたが、織田方が鉄砲の3段撃ちをしているとの記載は見られなかった。では『三河物語』はどうであろうか。同書には「武田勝頼も、土屋平八郎、内藤修理、山県三郎兵衛、馬場美濃守、真田源太左衛門尉など度々の合戦で名を馳せた人々を入れかえ入れかえ、ひたすら攻めよせて、退却することもなかったが、これらの人々は雨脚のような鉄砲にあたって、その場で戦死した」とある。『信長公記』の描写と同じく、『三河物語』にも、鉄砲3段撃ちの記述は見られない。よって、鉄砲の3段撃ちはなかったと言っていいだろう。
■武田は大量の鉄砲を確保できず
武田氏も信玄以来、鉄砲の装備を推進してきたが、大量の鉄砲を確保することは難しく、銃兵の訓練もうまくいっていなかった。武田軍が敗れたのは、鉄砲の数量の差、そして軍勢数の差、織田・徳川連合軍の兵力の実態を掴めず、力攻めをしたことによる。その一方、織田軍は、鉄砲や弾丸・玉薬を大量に用意できていた。それは、信長が京都や堺といった畿内を押さえていたことが大きいだろう。京都や堺においては、鉄砲などを購入することは容易である。『信長公記』によると、武田軍が戦場から退却するときにも、多くの者が討たれている。 その数は「侍・雑兵1万ほど」だったという。山に逃亡し、飢え死にした者、橋から落とされ川で溺死した者も数限りなく存在したということだ。家康は信長の大軍が加勢に来てくれたからこそ、武田軍を撃退し、窮地を脱することができた。約8000の軍勢しか動員できない家康が単独で、1万5000の武田軍と激突していたら、敗北していた可能性もあるだろう。
■家康のピンチを助ける信長
家康は信長の勢威と同盟のありがたさを改めて思い知ったに違いない。ピンチに陥ったときに、家康は信長に加勢を頼むということがたびたびあった。「寄らば大樹の陰」(同じ頼るならば、勢力のある人のほうがよい)の実践が、家康の危機脱出法と言えるだろう。(濱田 浩一郎 :歴史学者、作家、評論家)
長篠設楽が原の合戦では織田方の鉄砲の三段撃ちもなかったし武田軍の騎馬隊もいなかった。設楽が原の合戦が行われた場所を見れば分かるが、低山に挟まれた幅が2、300メートルの低湿地で真ん中を川が流れている。当時もそう変わらない地形だっただろう。あんな低湿地で馬が使えるわけもないし、武田方は徒歩で織田方の陣地に寄せたのだろう。武田の騎馬隊自体が作り話と言う説もある。その織田方は土塁と柵を三重に構えた完全な野戦築城で要するに攻城戦だった。鉄砲隊は1千人程度としてもそれが100から150人程度の部隊に分かれて各々鉄砲足軽大将の指揮で射撃したのでほぼ間断ない射撃が行われていただろう。江戸時代はあまり平穏すぎて民衆が刺激を求めたので戦国時代の合戦などもかなり誇張されて描かれているのでフィクションとしては面白いのだろうが、江戸時代の歴史ものは歴史的資料としてはあまり価値がない。武田方は土塁と柵で固めた織田方の陣地を攻略しようと繰り出したが、兵力が少ない上に織田方の鉄砲に阻まれて撃破された。一般に城などにこもる敵を攻めるには「攻者3倍の原則」と言って防御側の3倍の戦力が必要と言う。兵力的にも織田方は武田方の2.5倍ほどもあるので攻めきれるものではない。織田側は信長の命令で陣地から出ないで鉄砲の射撃で対抗したと言う。武田方は信濃に帰る街道、今の国道151号だろうか、を塞がれて織田方の陣地の突破を目指したが、重臣たちは口々に撤退を進言したと言うが、勝頼はそれを受け付けなかったという。武田方にも鉄砲はあったが、数が少ない上に弾丸や火薬も少なくすぐに撃ち尽くしてしまったそうだ。当時は硝煙も鉛も輸入で貿易港の堺を押さえていた織田軍は豊富に手に入ったが、武田方は手に入らなかったという。武田方の敗因は兵力不足の状況でほとんど城のように防御を固めた織田方の陣地に攻撃を仕掛けたことで配下の武将の言うように領国に撤退して勝手知った領国内で織田軍を迎え撃った方が良かっただろう。ただ配下の武将に弱みを見せられなかった勝頼にはそれができなかったのかも知れない。ただ勝頼も決して無能な武将ではなく非常に能力の高い武将であったそうだ。武田氏を滅ぼした信長が、打ち取られた勝頼の首級を見て「運がなくこのようなことになってしまったが、運があればそれなりの武功をなしただろう」と言ったそうだ。決して無能な武将ではなかっただろうが、武田氏の中継ぎと言う立場が勝頼を必要以上に強くさせたのかもしれない、・・(◎_◎;)。
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2023/05/13 22:15:28