
NHK大河ドラマ「どうする家康」第26話は「ぶらり富士遊覧」。織田信長(岡田准一)や徳川家康(松本潤)を苦しめてきた甲斐の大名・武田勝頼(眞栄田郷敦)の最期が描かれました。長篠合戦(1575年)の敗戦後、勝頼は小田原の後北条氏との戦いに注力。遠江国に目を向ける余裕がなくなり、同国の重要な拠点であった高天神城が徳川家康に攻められても、救援に向かうことはありませんでした。
同城は、天正9年(1581)3月、ついに落城します。高天神城を見捨てたことは、勝頼の求心力を低下させました。その影響は、翌年(天正10年=1582年)に大きく現れます。武田信玄の娘婿・木曾義昌が織田方に寝返ったのです。その報は、すぐに信長にも届けられました。武田家を壊滅させるチャンスと見た信長は、迅速に動きます。軍勢を武田領に向けて、進発させたのです(2月3日)。
織田軍の侵攻に、武田方の諸城は、次々に降伏していきました。信玄の娘婿・穴山梅雪も寝返る有様でした。3月2日には、高遠城(長野県伊那市)が織田信忠軍により攻められ、籠城方も奮戦しますが、落城してしまいます。勝頼は新府城(山梨県韮崎市)にいましたが、織田軍迫るの報に、武田方の人々は次々と逃亡。勝頼自身も、新府城から退城します(3月3日)。勝頼一行は、小山田信茂の岩殿山城(大月市)を目指すも、信茂もまた寝返ってしまうのです。家臣らが次々と逃亡してしまい、哀れな状況となった勝頼。3月11日、田野(甲州市)にいるところを、織田方の軍勢に包囲されてしまいます。ここで、最後の抵抗が行われますが、最早これまでと悟った勝頼は自刃。勝頼の子・信勝は16歳ではありましたが、自害して果てました。勝頼・信勝親子の首は、信長に進上されます。勝頼の首を見た信長は「日本にまたとない武人であったが、運が尽きて、こうなられたことよ」と言ったとされます(『三河物語』)。信長を苦しめてきた勝頼でしたが、それ故に、信長は勝頼を一流の武将として認めていたのでしょう。
さて、信長は武田征伐の帰途に、富士に立ち寄るが、その際、家康は富士の裾野に茶屋を予め建てておき、信長を接待しました(『信長公記』)。大宮(静岡県富士郡)においても、家康は金銀を散りばめた豪華なご座所を設けて、信長を歓待したと言います。その他の地域でも家康の接待は続き、その心遣いに信長も感動し、大層、喜んだようです。信長が武田勝頼を滅ぼしたのは、天正10年(1582)。そう、それは本能寺の変が起きた年でもありました。(歴史学者・濱田 浩一郎)
武田氏討伐の主力は信忠軍で信長は貴族などを引き連れて後方からついて行ったに過ぎない。信長自身は実際に戦闘は行ってはいない。武田勝頼の首級を見た信長は「バカな奴だ」と足で首を蹴飛ばしたとか言う話があり、これが光秀の謀反の一因になったなんて話もあるが、これも江戸時代の作り話だろう。信長は今で言う世論を非常に気にしていたという。自分がこういうことをしたら世間は何というだろうかといつも考えていたそうだ。周囲が「殺すべきだ」といくら言っても何度も歯向かった足利義明を殺さなかったのも「主殺し」と言う評判を嫌ったからだという。明智光秀の謀反は自分の一族郎党を守るためで黒幕など共謀者はいない。光秀は自分の息子に坂本、丹後の領地を継がせたかったという。信長を殺して京都を制圧すれば自分に従うものも出てくるだろうからそうした勢力をまとめて織田の残党と戦えば勝機はあると踏んだのだろう。あれだけ見事にクーデターを成功させたのだから黒幕がいれば必ず動き出すが、それがないのはいなかったからだろう。また光秀に従う者もいなかったのは光秀にとって大誤算だっただろう。信長は少数の護衛で上洛したりあちこち動き回ったりとけっこう危ないことをしているが、本能寺の変の際は絶対に安全と思っていただろう。せめて3千程度の兵を従えていれば光秀も謀反を思い止まっただろう。織田信長と言う人物は超合理主義者だが、意外に常識人なので本能寺の変がなかったとしてもびっくり仰天するようなことはしなかったかもしれないが、それでも時代を超越した不世出の天才的戦略家だったのは間違いないのであそこで命を落としたことは何とも残念ではある、・・(>_<)。
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2023/07/10 13:56:02