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2023年03月26日 イイね!

不世出の天才戦略家織田信長も人の心情を計ることは欠けていたのかもしれない、・・(◎_◎;)???

日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、何度味方から反逆を受けても、頑なに裏切りを信じなかった信長の秘めた想いを紹介。 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を再発信する。

他人の情緒を理解するのが不得意だった信長
信長と足利義昭の蜜月関係は長く続かなかった。義昭を奉じて上洛した翌年には、早くも仲違いが始まっている。永禄12年秋のことだ。御所の義昭を訪問した信長が、突如岐阜に帰国してしまう。心配した正親町天皇が、帰国の理由をたずねるために勅使を派遣するという騒ぎにまでなった。信長の返答は不明だが、奈良興福寺の多聞院日記にも「信長十二日ニ上洛、十六日上意トセリアイテ下了ト」という記述がある。12日に上洛した信長が、16日に上意つまり将軍と意見が対立して岐阜に下ったというのだ。興福寺は義昭が幼少期から将軍になる直前まで過ごした縁の深い寺だ。その興福寺の多聞院英俊が義昭の動向に敏感なのは当然としても、関心の焦点が信長と義昭の関係にあったことがうかがえて興味深い。

義昭の将軍任官でもたらされた都の平和の後ろ盾が、信長の軍事力であることは世間の誰もが知っている。ふたりの関係が良好なら、この平和は長く続くかもしれない。けれど、それがもし壊れたらどうなるか。信長が手足のように動かす数万の軍勢は、そのまま大規模な戦乱の火種になりかねなかった。英俊に限らず、この時期の畿内の人々が、薄氷を踏む思いでふたりの関係を見守っていたことは疑いない。その危惧が現実化し始めたのがこの時だった。翌年4月、信長は3万の軍勢を率いて越前へ向かう。手筒山城、金ヶ崎城と朝倉氏の支城を落とし、越前国に乱入しようとした矢先、北近江の浅井長政が寝返ったとの注進が届く。

「虚説たるべし」
そう言って、信長は最初報告を信じようとしなかった。信長の理屈はこうだ。長政には妹のお市を嫁がせてある。長政は義弟であり歴然たる縁者だ。しかも、北近江全体の支配を任せている。彼には何の不足もないはずだ。だから自分を裏切るはずがない……。(TEXT=石川拓治)



織田信長と言う人は超合理主義者で物事を合理的に判断している。その合理主義が人間関係にも取り入れられている。信長の部下に対する評価は利益を与えることだった。松永久秀も荒木村重も浅井長政も十分な利益を与えているのだから謀反など起こすはずがないという結論に至る。そこには謀反を起こした側の心情など入り込む余地がない。部下にしてみればあまりに先進的な思考について行けずに不安になって謀反を起こすという自己保身パタンがあっただろう。明智光秀もこのパタンだと思う。もう少し信長がそうした部下の心情に配意していれば本能寺の変はなかったかもしれないが、あれほど急激な時代の変化は成し遂げられなかっただろう。信長が今の時代にいても彼の革新性について行けないものが大勢いるだろう。やはり織田信長と言う人物は戦国時代を平定するために時代が登場させた人物かも知れない。信長は不世出の天才戦略家だと思うが、天才にも至らない点があった。それは他人の心情を計ることだったのかもしれない、・・(◎_◎;)???
Posted at 2023/03/26 18:12:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2023年03月12日 イイね!

桶狭間の戦いは奇跡の勝利だったのか、・・(◎_◎;)???

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の冒頭で描かれた桶狭間の戦い。ドラマでは岡田准一さん演じる「魔王」織田信長と、信長軍の圧倒的な威圧感が強調されていたことは記憶に新しいでしょう。しかし、史実の桶狭間の戦いを見てみると、少なくとも家臣たちは「大慌て」だったようです。家臣の大反対を前に、信長はなぜ無謀な戦いを挑んだのでしょうか。今回は、最新の歴史研究をベースにした『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』から、桶狭間の戦いを解説します。

戦国時代の尾張国(現在の愛知県西部)。この国で大きな力を持っていたのが織田家でした。織田家は、信長の父・信秀の代で一気に力を伸ばしました。しかし、その織田家を長年苦しめてきたのが、駿河国(現在の静岡県中部)の今川義元です。今川氏は「海道一の弓取り(東海道で一番強い大名)」と称された義元のもと、東海地方屈指の戦国大名としての地位を確立しました。この義元の妨害により、織田家は信秀の代で尾張統一をできず、代替わりした信長も一族の内紛に手を焼いていました。1559年にはなんとか内紛を片づけ、尾張のほとんどを統一することができますが、「義元がいる限り、先はない」という状況に信長はいたのです。

■作戦会議はなぜか雑談で終わる
1560年、信長は動きます。尾張国の中にありながら、義元におさえられていた鳴海城・大高城の奪還を試みたのです。そのために、信長は2つの城の連携を遮断しようと城攻め用の砦(鷲津砦・丸根砦)を築きました。つまりは、信長が義元にケンカを売ったのです。これに対し、義元はケンカを買います。「信長をおとなしくさせるにはいい機会だ」と考えたのか、義元は4万5000ともいわれる大軍を率い、尾張へと出陣しました。義元軍は5月17日に尾張の沓掛城へ入り、先発隊に朝比奈泰朝と徳川家康を指名。泰朝には鷲津砦の攻撃を、家康には大高城への兵糧(食料)運び入れと丸根砦への攻撃を命じました。この両者は見事に作戦を成功させます。優秀な武将たちが圧倒的大軍を引き連れ、首尾よく作戦を進めていく状況……。どう考えても信長は存亡の機に立たされていました。

が、当の信長は18日の夜に家臣を集めて会議を行うも、まったく戦の話を出さず、普通に世間話をしていたと言われています。「殿はついに頭がイカれてしまったか……」と家臣が考えても無理はありません。信長は、いったい何を考えていたのでしょうか。翌19日、義元軍の攻撃があったと知らされた信長は、即座に出陣を決断します。通常、兵力的に不利な場合は城に籠もって持久戦をすることがセオリーなのですが、信長はそれをあえて無視した形です(実際、家臣からも籠城を勧められたという話もあります)。出陣に際し、信長は「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり(人の世の50年など、天の世界ではたった1日の出来事に過ぎない)」というフレーズで有名な「敦盛」を舞ったと言われています。一方、義元軍は桶狭間の山に陣を敷いていました。「負ける要素など1つもない」という余裕な状況だったことでしょう。

そんな義元軍に対し、まず信長軍が仕掛けます。2名の家臣が300騎ほどで義元軍に突撃します。しかし当然これは、あえなく敗退となります。この動きは、信長の陽動作戦とも、単に功を焦った家臣の暴走とも言われていますが、信長はその裏で衝撃的な行動をとります。敵陣の真正面、低地にある中嶋砦に入ったのです。何が衝撃かといえば、義元は山の上にいるわけですから、信長軍の動きは義元軍から丸見えになってしまいます。家臣たちは「これでは義元軍から丸見えです! ただでさえ人がいない(信長軍の兵は2000足らずだったとされる)ことがバレちゃいますよ!」と猛抗議。が、信長は意に介さなかったと言います。奇行に次ぐ奇行。いよいよ、何を考えているのかわかりません。

■もはや狂気の正面突破
なぜか低地の中嶋砦に陣を敷いた信長。彼の奇行はまだ続きます。中嶋砦から、何の工夫もなく正攻法の正面攻撃を仕掛けようとしたというのです。これも、セオリーとしては迂回攻撃をするほうが合理的。というより、正面突破はあまりにもムチャな選択です。当然、家臣たちは中嶋砦に進んだとき以上の猛抗議。信長を羽交い締めにしてでも進軍を止めさせようとします。が、信長は「相手は疲れきっているが、こちらは元気だ。大軍を恐れちゃいけない。運は人間の力ではどうにもならないという言葉もある。もしこの戦いに勝てば、お前たちの名は末代まで語り継がれるぞ!」と家臣を鼓舞します。

 これで納得したのか、はたまたあきらめたのか……信長軍は結局そのまま出撃することになります。こうなっては、もはや家臣たちにできることは「死ぬ気で戦う」以外にありません。戦場の兵士たちは誰もが死を覚悟したでしょう。信長に隠された秘策はあるのでしょうか。……あるはずです。

4万5000の大軍を率いる義元に向かって正面突破を試みる兵2000の信長。信長軍は豪雨の中で兵を進めてゆき、雨が上がったタイミングで襲いかかります。ここで信長に隠された秘策は……何もありませんでした。本当に、ただただ死ぬ気で正面突破を試みただけなのです。もはや自滅作戦以外の何ものでもありません。しかし、この狂気じみた行軍がなんと大成功します。信長軍の圧倒的な気迫に押されたのか、義元軍は統率がとれず、一瞬で崩れはじめたのです。仕方なく義元は立て直すために本軍ごと撤退を開始しますが、前軍が崩壊した混乱が本軍にも波及したようです。なかなか思うように進めず、義元軍はますます大混乱。そんな中、信長は撤退する義元たちの姿を見つけます。「義元はあそこにいるぞ!」。信長がそう叫ぶと、両軍は壮絶な戦いを始めたのです。

多数の死者が出る乱戦となる中、事態は大きく動きます。信長軍の毛利新介らが、義元と直接戦うことに成功したのです。さらに毛利新介はこの戦いに勝ち、義元を見事に討ち取りました。大将を失った敵軍は総崩れとなり、信長は歴史に残る大勝を挙げたのです。近年、合戦直前までの悪天候による今川軍の疲弊と鉄砲の威力低下を勝因に挙げる学説も登場しているものの、信長が多くを語らなかったため「なぜ勝てたのか」は実はよくわかっていない「桶狭間の戦い」。しかし1つ言えるのは、信長は合理性を超えたところに自分の勝ち筋を見出し、それを信じたということ。それにより、信長の言う「運」をも味方につけたのでしょう。(齊藤 颯人 :歴史ライター)



今川勢は4万5千とか言うが、今川の領地石高が7、80万国程度だったことを考えると動員兵力は2万5千程度、領国に残置する兵力を考えると1万5千から2万程度ではなかっただろうか。侵攻軍2万5千と言うのは戦闘部隊1万5千、補給部隊1万ほどだったようだ。織田軍は領地石高60万国程度だったが、当時信長が統治できたのはその半分程度で動員兵力は最大9千人ほど、実際には5,6千人だっただろう。その半数を出城や砦に配備すれば手元には3千程度が残っただけだったようだ。今川義元は上洛を考えていたとか言っていたが、現在では織田との領土紛争を解決してうまく行けば織田の領土を切り取ってやろうと考えていたようだ。それでも1万5千対5千程度なので織田側が圧倒的に不利ではあるが、籠城は援軍があってこそ成立する戦法で援軍が来ない状況で籠城してもただ先細りになるだけなので援軍のない織田側にとってこの状況では適切な戦法とは言えない。今川方の実戦部隊1万5千と言ってもこれが一か所に固まっていたわけではなく丸根、鷲津の砦攻めや大高城への食糧運び込みなどで1万程度は前線に展開して義元本陣は5千程度だっただろう。そうすると5千対2千で数は2倍以上だが、戦勝で気が緩み、乱取りなどに出ている部隊もあったので義元本陣の護衛部隊はさらに少なかっただろう。信長は自分が信頼できる子飼いの2千の親衛隊を率いて義元本陣に一撃を加えて引き上げる予定だったと言われる。まさか義元を打ち取れるとは思わなかったらしい。義元本陣に一撃を加えて混乱を引き起こし、領地争奪戦に勝ったと言う実績を作ればそれでよかったようだ。ところが今川方は豪雨の中を進軍してきた織田軍に気が付かず雨が上がったら目の前を駆けて行く軍団があり、「なんだ、なんだ」と思っているうちに本陣に飛び込まれて義元が打ち取られてしまったと言うのが実際のところらしい。両方の総兵力で比較すると今川軍2万5千対織田軍5千程度だが、先手を取って勝利した今川軍は気が緩んで実際には織田側2千に対して義元を守って戦ったのは馬回りの親衛隊3百程度だったと言う。織田側にしてみれば5千でも自軍の2倍以上でまともに戦えばどうなったか分からない乾坤一擲の戦闘だったが、様々な要因が織田側に有利に働いて歴史的な大勝利を収めたのだろう。桶狭間の戦いはその後面白おかしく話が盛られた部分もあったようで世に言われるような奇跡の勝利でもないのだが、それにしても大博打の綱渡りのような戦いではあったのだろう。それ以後信長はこうした一か八かの博打的な戦闘はしなかったそうだ、・・(◎_◎;)。
Posted at 2023/03/12 13:19:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2023年02月19日 イイね!

織田信長は意外なほど常識人だったけどやっぱり短気ですぐキックだった、・・(◎_◎;)???

織田信長とはどんな人物だったのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「感情ではなく論理を優先する武将だったと考える。家臣の裏切りに対し、まずは説得を試みたのはそうした気質だったからだろう」という――。
■NHK大河で強烈な印象を残した岡田准一の信長
今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」において、信長の攻撃的な言動が話題になりました。岡田准一さんが演じる織田信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破った際、その首をぶら下げた槍を、敵陣めがけて投げ付けるという挙に出ています。今川方の部将だった徳川家康(演・松本潤さん)のもとに迫る信長。それを知った家康は「あの男はまともではない!あれはケダモノじゃ。飢えた狼じゃ」と身体を震わせて、信長のことを恐怖するのでした。「待ってろよ、竹千代(家康の幼名)。俺の白兎」と馬を走らせ、不敵な笑みを浮かべる信長。「どうする家康」の初回にして、早くも信長は迫力と狂気に満ちた「覇王」との印象を視聴者に与えたのでした。ちなみに「俺の白兎」というワードは、ツイッター上でもトレンド入りをするほどの反響を呼びました。思えば、1996年に放送された大河ドラマ「秀吉」でも、渡哲也さんが演じる信長は、テレビ画面を通してでも、その迫力と威厳に圧倒されたことを今でもよく覚えています。

■史料に残されている意外な姿
信長の性格を象徴する話として、比叡山焼き討ち(1571年)があります。越前の朝倉氏、近江の浅井氏に加担する比叡山延暦寺を敵とみなした信長は、一堂一宇余さず、焼き払い、さらには、逃げ惑う山下の老若男女。彼彼女らが逃げ込んだ先にも、信長軍は攻め入り、僧俗・児童を捕らえ、首を刎ねたと伝わります(『信長公記』)。

数えきれぬ女性や子供らも信長の前に引き据えられてきました。「悪僧は首を刎ねられても仕方ありませんが、我々は違います。命ばかりはお助けください」と哀願する人々。しかし、信長は命乞いを許さず、首を刎ねよと命じたのでした。数千の死体が辺りに散乱していたと言われます。宣教師ルイス・フロイスも『日本史』において、「彼(信長)は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した」と記しています。そうしたことから、これまでのドラマや小説において、周りから畏怖されるような恐ろしい存在として描かれるのは当然だとは思います。ただ、史料を読み込むと、そうした姿とは真逆の意外な信長像が浮かんでくるのです。

■裏切り情報を信じようとしない
1570年、越前の朝倉義景を討伐するため、信長は軍勢を進めました。その途上、驚くべき情報が舞い込みます。信長の妹・お市を嫁がせていた北近江の浅井長政が、朝倉方に寝返ったというのです。このままでは挟み撃ちにされてしまいます。浅井の裏切り情報は、次々に信長のもとに届けられました。一般的な信長のイメージならば「何っ!」と怒って、家臣に八つ当たりをしたりして、その後、すぐに退却しそうですが、現実はそうではありませんでした。まず、浅井の裏切り情報を信じようとしなかったのです。浅井長政には、北近江の支配を任せてあるし、縁者でもある。何ら不満・不足はないはずである。そう思って、すぐに撤退しようとはしなかったのです。が、その後も、続々と裏切り情報が寄せられたことから「是非に及ばず」(仕方ない)としてやっと退却を決意したのでした。謀反と聞いても、すぐに信じようとしない信長。一件だけなら「偶然か」と思うかもしれませんが、他にもまだあるのです。

1577年、大和を本拠地とする家臣・松永久秀が謀反した時、信長は「どのような事情があるのか。思うことを申せば、望みを叶えてやろうではないか」(『信長公記』)と述べたのです。わざわざ使者を派遣して、松永に機会を与えていますが、松永はそれに応じることはありませんでした。

■「物わかりのいい上司」として
1578年、今度は摂津国の荒木村重が「逆心を抱いている」との情報が入ってきます。ここでもまた、信長は荒木の謀反情報を事実ではないと思ったようです。そればかりか「何か、不満でもあるのだろうか。荒木が考えることがあるなら聞いてやろう」ということで、荒木村重のもとに使者を派遣するのです(『信長公記』)。

使者に対し、荒木は「野心は少しもありません」と返答。使者から、この事を聞いた信長は大喜び。しかし、現実には荒木は謀反心を抱き、程なく挙兵します。一般的な「信長イメージ」ならば、味方の裏切りに激怒し「一気に松永、荒木を攻め潰せ」などと言いそうです。ところがそうではなく、まずは家臣に調停を命じているのです。味方と争わず、穏便に収めることを信長は願ったのでした。結果として、両者は主君の思いを受け取ることはありませんでした。このように、信長は何度も裏切られていますが、容易にそれを信じようとはしていませんし、「不満があるなら聞いてやろう」と「謀反人」に対し、温かく接しようとしています。怖い上司ではなく、物わかりの良い上司、そういった感じです。信長は「魔王」とまで言われることがありますが、前掲の逸話を総合すれば、まるで「菩薩」でしょう。

■「是非に及ばず」の本当の意味
その姿勢は死を迎えるまで続いたのかもしれません。1582年、本能寺の変で、1万を超す軍勢に囲まれた信長は「如何なる者の仕業か」と周囲に尋ねます。家臣の「明智の手の者と思われます」との返答に「是非に及ばず」と述べたと伝えられています。「物わかりのいい上司」としての信長の姿を知ると、「是非に及ばず」という言葉の意味も少し変わってくるように思います。死に対する達観と併せて、部下を説得できなかったことへのどうしようもなさを口にしたのかもしれません。
ちなみに、江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の『三河物語』にも本能寺の変の記述があるのですが、軍勢が本能寺を包囲した時、信長は「城の介の裏切りか」と言い放ったようです。城の介とは、織田信忠。信長の子でその後継者でした。その時、京都にいました。

■感情ではなく論理を優先する
幾度もあった家臣や味方の裏切りに対し、怒りをぶつけるのではなく、まずは話を聞こうという姿勢を貫いてきた信長。その時の心理とはどのようなものだったのでしょうか。考えるに、無駄な争いは避けたいという心があったと思います。家臣や味方の不満や要望に応えて、それで余計な戦をしなくて済むならば、それが一番と考えていたように推測します。戦をするということは、兵糧も必要であるし、人的被害が出る可能性が高い。争って双方に被害を出すことは敵を利することであり、なにより敵対勢力との抗争に戦力を投入した方が良いとの考えが信長にあったのではないかと思います。感情ではなく論理的に物事を考える。考えてみれば、信長は出自を問わず優秀な部下を抜擢、出世させていました。

■人間臭いエピソード
とはいえ、短気な面もやはりありました。徳川家康を安土城下に招いて(1582年)、能見物をした際、演じた梅若大夫が不出来だと言うことで、とても怒ったようです(『信長公記』)。別の者(幸若大夫)に舞を演じさせて、その出来が良かったことで、機嫌は直り、幸若大夫には黄金10枚が下されます。梅若大夫には、能の出来が悪かったので「褒美などやりたくない」と感じたようですが、黄金を出し惜しみしていると、世間の評判となっても恥ずかしいと思い、梅若にも黄金10枚をやるのでした。このように、信長は世間の目(評判)というものも気にする人だったのです。
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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家・1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。


織田信長は覇王、魔王的な描かれ方をしてきたが、それは江戸時代や現代の創作であって実際の信長像ではない。織田信長は超合理主義者だった。また世論を非常に重視していて世間がどう思うかということを非常に気にしたそうだ。桶狭間で今川義元の首級を上げた際にはそれを丁重に扱い、確認後に今川方に返したという。武田勝頼の首級を蹴飛ばしたなどと言う話もあるが、これも江戸時代の創作のようだ。また謀反を起こしたものに対しても何度も言い分があれば聞いてやろうと申し向けたと言う。信長は家臣への報償は経済的な利益と考えていたようでこれも合理主義者として理解できるが、家臣にとってはあまりにも革新的な思考をする信長について行けずに自分の先行きを不安に感じて謀反を起こすものが出たのだろう。特に佐久間や林など織田の旧臣を切り捨てたことも役に立たなくなったものは切り捨てられるという思いを抱かせたのだろう。明智の謀反はこの辺りに原因がありそうに思う。ただそうして説得しても反抗を続けるものは徹底的にせん滅したようだ。一向一揆も信仰心から反抗してくるものを説得するのは不可能と言う合理的な考え方があったのだろう。比叡山はずいぶん時間をかけて説得したようだ。浅井・朝倉に加担せずに中立を維持してくれれば領地を保証すると言って比叡山を説得したが、言うことを聞かなかったので徹底的にせん滅したようだ。これは一向一揆に対する措置もそうだが、宗教の弾圧ではなく反抗勢力に対する処置と言うべきで宗教活動自体は認めている。自身の意思決定については他人の意見は聞かなかったが、不満があれば話は聞くという姿勢は崩してはいない。本能寺の変で明智の謀反と聞いて周囲が「とんでもない奴だ」と言うのを聞いて「是非に及ばず」と言ったそうだが、それも諦念感ではなくて「良いの悪いの言う前に今どうするかを考えろ」と言う意味だったように思う。織田信長は超合理主義者で物事を超合理主義的に考えればあんなふうになるのではないだろうか。その合理主義は現代でも先進的、革新的ではある。ただ短気なことは短気だったようで小姓や家臣などをよく蹴飛ばしたそうだ。息子も何かと言えばすぐ激怒してキックだったそうだ。不世出の天才戦略家だった信長からすれば凡人の思考など歯痒くて腹立たしかったのかもしれない。また信長は結構弱者にやさしかったようだ。秀吉の妻のねねの嫉妬にも非常に理解ある優しい対応をしている。側室の吉野さんにもずいぶん優しかったようで吉野さんが亡くなった時にはずいぶん落胆していたようだ。また女性の好みは当時の武将が「上様はどうしてあんな女が好みなのか」と言うほど変わっていたらしい。美人よりも胸の大きいおばさんタイプが好きだったそうだ。また朝廷に取って代わろうとしていたなどと言う話もあるが、朝廷には非常に忠実で「天皇は日本の精神的な主柱」と理解していたという。織田信長と言う人は超合理的な思考をする天才的な戦略家で当時の思考様式を超越していたが、本音は意外な常識家で決して魔王・覇王的な人物ではなかったように思う。江戸時代に徳川家康を持ち上げるために覇王・魔王的な悪役に利用されたこととそれが現代になってさらに強調されたのだろう。ただ信長の先進性、合理性は現代でもかなり先を行っているかもしれない。おそらくこの先もこんな人物は出ては来ないだろう。明治維新の英傑などと言う作り話の人物とは全く格が違うレベルの戦略家だろう、・・(^_-)-☆。
Posted at 2023/02/19 18:54:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2023年02月13日 イイね!

長篠・設楽が原の戦いの武田軍の敗因は、・・(◎_◎;)?

織田信長と徳川家康の連合軍と武田勝頼軍との間で起きた長篠の戦い(1575年)とは、どんな戦いだったのか。歴史研究家の河合敦さんは「『大量の鉄砲が騎馬隊を退けた』と教科書などにも書かれているが、最新の研究ではいくつもの異論が出ている。武田方が破れたのは、兵種の違いではなく、兵力の差だったのではないか」という――。(第1回)


記事が長いので興味のある人は下のURLで見ていただきたい。長篠・設楽が原の戦いは織田・徳川の鉄砲隊が武田の騎馬隊を撃破したというが、設楽が原の地形を見ればそんなことがあり得ないのは一目で分かる。設楽が原は南北を低い山に挟まれた低湿地で真ん中に川が流れ、その両側は水田になっている。その幅は200メーターほどであんなところで馬を使った戦などできるはずもない。あんな低湿地では馬は走れないし、そんな広さもない。おそらく織田・徳川軍と武田軍はお互いに向かい合って山麓に野戦築城してにらみ合っていたが、南信濃に抜ける今でいう国道151号を織田・徳川勢に塞がれて退路を断たれた武田軍が織田・徳川の陣地を突破しようと陣地から押し出して畦道を突撃したのだろう。それを織田・徳川軍の柵に阻まれ、馬防柵と言うが、馬よりも突撃を阻止する柵のようなものだろう、火縄銃の射撃を受けてせん滅されたのだろう。当時火薬も鉛も輸入品で堺を押さえていた織田方はそれらが豊富に手に入ったと言うが、武田方は火薬も鉛も不足していて銅で弾を作ったりしていたそうだ。火縄銃の三段撃ちと言うのは江戸時代の小瀬甫庵の『信長記』の創作だろう。江戸時代と言うのは太平の世の中が続き過ぎて人々が刺激を求めたので様々な歴史創作物が作られたが、忠臣蔵や真田幸村、そして武田騎馬隊最強伝説などもその一つらしい。だから江戸時代の歴史ものは創作が多いようだ。ただ織田軍が相当数の火縄銃を有していたことは事実のようで100人から150人くらいの鉄砲足軽衆が柵に寄ってそれぞれ発砲すれば交互撃ちのような形になったかもしれない。低湿地に足を取られて進軍がおぼつかずそこに射撃を受ければ徐々に勢力は減退して行って最後は壊滅するだろう。徳川は柵の外に出て戦ったと言うが、織田軍は柵から一切出なかったそうだ。白兵戦をしないで打ち破ったならやはりそれは火縄銃や弓などの長射程兵器が使われたのだろう。武田勝頼も自軍が1万5千で3万8千の織田。徳川連合軍を迎え撃つなどしないでさっさと甲府に戻って織田・徳川が追撃してくれば勝手知った自国の領土内で戦えばよかったんだろうけど家臣団をまとめ切っていなかった勝頼にすれば家臣から軟弱の誹りを受けたくなかったんだろうか。野戦築城した陣地と言うのは城と一緒でそれを攻略するには攻者3倍の原則で織田・徳川が3万8千なら10万以上の兵力が必要だが、織田・徳川軍の半分にも満たない兵力で築城された陣地を突破しようとしたこと自体が無理なことだったのだろう。武田の家臣団も織田信長自身が出陣していると聞いて不利を悟り撤退を主張したと言うが、勝頼はそれを退けて決戦を選択したという。この戦いは単に長篠城攻略から始まった領土争いで不利を承知でここで決戦する必要もなかったのにやはり取り敢えず当て馬領主の勝頼は家臣団に弱気と捉えられるのを嫌ったのだろうか。武田勝頼も有能な戦国大名だったというが、織田信長も勝頼の首級を前にして「勝頼は有能な武将だったが、運がなかった」と言ったそうだ。織田・徳川軍の勝因は兵力に野戦築城陣地、そして火縄銃だろう、・・(^_-)-☆。
Posted at 2023/02/13 01:38:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2022年12月10日 イイね!

桶狭間の戦い、その真の姿は、・・(^_-)-☆。

これまで「桶狭間の戦い」は、兵力に劣る織田信長が今川義元を奇襲で倒したとされてきた。ところが、これは最新研究では覆されている。歴史学者の渡邊大門さんは「奇襲説の根拠となる史料の信憑性が低く、現在では正面攻撃説を支持する研究者が多い」という――。(第2回)


■桶狭間の戦いにおける今川義元の軍勢の本当の数
永禄3年(1560)5月19日早朝、信長は小姓5騎のみを引き連れ、居城の清須城をあとにした。率いた軍勢は、わずか200と伝わっている。やがて、信長は軍勢を熱田神宮(名古屋市熱田区)に集結させると、今川氏との対決に向けて戦勝祈願を行ったのである。すでに、鷲津・丸根の両砦は落ちており、煙が上がっていたという。一方の義元は、桶狭間山で休息を取っていた。率いた軍勢は、約4万5000。信長の軍勢をはるかに上回っていた。ところで、この約4万5000という数はあまりに多すぎる。もう少し後の時代になると、百石につき3人の軍役を課されるようになった。百万石の大名ならば、3万の兵になる。慶長3年(1598)の時点で、遠江は約25万石、駿河は約15万石だったので、合計で約40万石である。先の基準に当てはめると、約1万2000というのが妥当な兵力である。ただし、右の基準は慶長年間のものなので、実際はもっと少なかった可能性がある。

■昼までには大勢が決まっていた
今川方の動きは、どうだったのだろうか。大高城にいた松平元康(徳川家康)は、丸根砦に攻撃を仕掛けた。丸根砦を預かる織田方の佐久間盛重は、500余の兵とともに打って出たが、敗北し自らも戦死した。鷲津砦を守備する織田方の飯尾定宗、織田秀敏は籠城戦を試みたが、それは叶わず討ち死にした。こうして大高城の周辺は今川方によって制圧され、織田勢力は一掃されたのである。制圧後、義元の率いる本隊は沓掛城を発つと、大高城方面に軍を進めた。その後、さらに向かって西に進み、南に進路を取った。5月19日の昼頃、義元の本隊は桶狭間に到着すると、早くも戦勝を祝して休息し、来るべき信長との戦いに備えたのである。この時点で、今川軍は総勢約2万だったといわれているが、義元の本陣を守っていたのは5000から6000くらいの軍勢だったという。

■信長が見た勝機
信長が桶狭間に進軍したのは、5月19日午前のことである。中島砦を守備する織田方の佐々政次、千秋(せんしゅう)四郎らは、信長出陣の報告を受けて、大いに士気が上がった。早速、佐々、千秋は約300の兵で今川方に攻撃を仕掛けるが、返り討ちに遭い討ち死にしてしまった。佐々、千秋の兵も約50が討たれた。この報告を受けた義元は、「矛先は天魔・鬼人も超えきれぬだろう。心地よいことだ」と大いに喜び、謡いを謡ったという。逆に、士気が高まったのは、今川方のほうだった。信長が出陣しても、事態を挽回するのは困難になったに違いないが、果敢にも出陣し義元に戦いを挑んだ。

熱田神宮(名古屋市熱田区)で戦勝祈願を終えた信長は、5月19日午前に鳴海城(名古屋市緑区)近くの善照寺砦に入った。ここで、織田方は桶狭間に今川方が駐在しているとの情報を得たので、中島砦へ移動しようとした。このとき信長の軍勢は2000だったといわれているが、劣勢には変わりなかった。信長は中島砦に到着すると、さらに兵を進めようとした。すると、家臣らは信長に縋り付いて止めようとした。しかし、信長は敵兵がここまでの戦いで疲れ切っていること、わが軍は新手なので、敵が大軍でも恐れることはないと檄(げき)を飛ばした。そして、敵が攻撃したら引き、敵が退いたときに攻め込めば、敵を倒すことができるとも述べた。戦いに勝ったならば、家の面目になると言ったところで、前田利家らが敵の首を持参した。これにより、織田軍の士気は大いに高まった。こうして信長は、桶狭間への進軍を開始したのである。

■突如、雹混じりの雨が降る
5月19日の午後になると、にわかに視界を妨げるような豪雨に見舞われた。雨には雹(ひょう)が含まれており、今川軍の将兵の顔を激しく打ち付けた。すると、沓掛峠の楠の大木がにわかに倒れたので、織田軍の将兵は熱田大明神の神意ではないかと思ったという。織田方はこの悪天候を活用し、やがて晴れ間がのぞくと義元の本陣に突撃した。信長は槍を取って大声を上げると、今川軍に攻め込むように指示した。今川軍は織田軍が黒煙を上げて突撃してきたので、たちまち総崩れになった。弓、槍、鉄砲、幟(のぼり)、指物は散乱し、義元は乗っていた塗輿(ぬりごし)を捨て敗走した。信長は、容赦なく追撃を命じた。今川軍は300ほどの軍勢で、義元を守りながら退却したが、敵と交戦するうちに兵が討ち取られ、ついに50くらいまで減ってしまった。

■「海道一の弓取り」の最期
信長も馬から降りて槍で敵を突き伏せると、若い将兵も次々と今川軍を攻撃した。不意を突かれた義元は脱出を試みたが、味方は次々と討ち取られた。今川軍は馬廻り衆、小姓衆らが次々と討たれ、窮地に陥った。すると、信長配下の服部小平太が義元に斬りかかったが、逆に膝の口を斬られて倒れ伏した。その後、義元は毛利良勝に組み伏せられ、ついに首を討ち取られたのである。義元を討たれた今川方は戦意を失い、一斉に桶狭間から退却した。

■桶狭間の戦いは奇襲だったのか
ここで、改めて桶狭間の戦いについて考えてみよう。桶狭間の戦いで信長軍が用いた戦法は、奇襲攻撃、正面攻撃という二つの説がある。永禄3年(1560)5月19日、信長は今川義元を桶狭間の戦いで破った。義元の2万~4万(諸説あり)という大軍に対し、信長はわずか2000~3000の兵のみだった。とはいえ、義元の率いた2万~4万というのは、その所領の規模を考慮すると、あまりに多すぎて不審である。

信長はわずかな手勢でもって、今川氏の陣に背後から奇襲攻撃をしたというのが通説だった。しかし、今や有名な「迂回(うかい)奇襲説」には、異論が提示されている。「迂回奇襲説」によると、5月19日の正午頃、信長の家臣・千秋四郎ら約300の兵が今川軍に攻め込んだが敗北。敗北後、信長は義元が陣を敷く後ろの山へ軍勢を移動させ、迂回して奇襲することを命じた。そのとき、視界を遮(さえぎ)るような豪雨となり、信長軍は悪天候に紛れて進軍したという。義元は大軍を率いていたものの、実際に本陣を守っていたのは、わずか4000~5000の軍勢だった。そこへ信長軍は背後から義元の本陣へ突撃し、義元を討ったのだ。つまり、信長は義元が油断していると予想し、敢えて激しい暴風雨の中で奇襲戦を仕掛け、義元を討ち取ることに成功したといえよう。以上の経過の出典は、小瀬(おぜ)甫庵(ほあん)『信長記』であり、明治期の参謀本部編『日本戦史桶狭間役』により、事実上のお墨付きを与えられた。

■奇襲説の根拠は「不適切」な史料
ところが、この通説には異儀が唱えられた。それは、そもそも小瀬甫庵『信長記』の史料としての性質に疑念が抱かれたからだ。儒学者の小瀬甫庵『信長記』は元和8年(1622)に成立したといわれてきたが、今では慶長16~17年(1611~12)説が有力である。約10年早まったのだ。同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。太田牛一の『信長公記』と区別するため、あえて『甫庵信長記』と称することもある。そもそも『信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。それゆえ、『信長記』の内容は小説さながらのおもしろさで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。『信長記』は歴史の史料というよりも、歴史小説といってもよいだろう。先述のとおり、『信長記』の成立は10年ほど早いことが立証された。これをもって『信長記』の史料性を担保する論者もいるが、成立年の早い遅いは良質な史料か否かにあまり関係ない。『信長記』は基本的に創作性が高く、史料としての価値は劣るので、桶狭間の戦いを論じるうえで不適切な史料なのだ。

■有力な正面攻撃説の中身
最近の研究では『信長公記』を根拠史料として、次のように指摘された。千秋四郎らが敗北したことを知った信長は、家臣たちの制止を振り切り、中島砦を経て今川軍の正面へと軍勢を進めた。当初、大雨が降っていたが、止んだ時点で信長は攻撃命令を発し、正面から今川軍に立ち向かった。今川軍を撃破した信長軍は、そのまま義元の本陣に突撃。義元はわずかな兵に守られ退却したが、最後は信長軍の兵に討ち取られたという。これが「正面攻撃説」である(藤本:二〇〇八)。現在では、質の劣る『甫庵信長記』に書かれた「迂回奇襲説」は退けられ、『信長公記』の「正面攻撃説」が支持されている。

■桶狭間戦いの真実が見えにくいワケ
『信長公記』は質の高い史料であるといわれていても、やはり二次史料であることには変わりがない。一般的に、合戦前後の政治情勢はよくわかるのだが、肝心の戦いの中身については、一次史料で正確に把握することは非常に困難である。そもそも広大な戦闘地域で、一人一人の将兵の動きを観察するなど不可能に近い。したがって、実際に戦場に赴いた将兵からの聞き取りなどをもとにして、再構成するしか手がないのである。ほかにも、織田軍は今川軍が乱取り(掠奪(りゃくだつ))に夢中になった隙を狙って、酒盛りをしていた義元を討ったという説がある(黒田:二〇一五)。この説は、『甲陽軍鑑』に基づいた説である。かつて『甲陽軍鑑』は誤りが多いとされてきたが、成立事情や書誌学的研究が進み、歴史研究でも積極的に用いられるようになった。とはいえ、『甲陽軍鑑』は軍学書としての性格が強く、桶狭間の戦いの記述は、『信長公記』の内容とかけ離れているので、そのまま鵜吞みにできないと考えられる。ほかにも桶狭間の戦いに関しては、さまざまな説が提供されている。しかし、史料の拡大解釈や論理の飛躍もあり、定説に至らないのが現状である。
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渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
歴史学者:1967年生まれ。1990年、関西学院大学文学部卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。


桶狭間の戦いの奇襲説は帝国陸軍が戦史研究でそう記載していたという。それは基本的に火力装備に劣る当時の陸軍をして奇襲による勝利を印象付けるためだったようだ。要するに少ない兵力でも奇襲を活用すれば勝てるとすり込むためだった。その大元は小瀬甫庵『信長記』でこれはほとんど創作と言ってもいいようなもので江戸時代におけるエンターテインメント的な歴史小説だった。今川勢は上洛のために進軍したというが、実際には織田との国境紛争に決着をつけるためで上洛にしては織田以外にも斎藤、浅井、三好、六角など京都までの間には敵が多すぎた。今川の兵力は2万5千ほどだが、戦闘部隊は1万5千程度、残りは兵站補給部隊で戦闘力はなかったという。織田側は5千から6千、出城に貼り付けている兵力が2千程度、そうすると信長の手勢は3千ほどになる。今川方は丸根、鷲津の攻略に1万ほどの兵力を割いていたので義元の本陣を守っているのは5千ほど、その5千も戦勝に浮かれて乱取りなどに出ている部隊もあるので実際にはもっと少ない。もしも5千としても信長は自分が手塩にかけた精鋭2千を使えば勝てると踏んだのだろう。そして突然の豪雨に今川勢が休息を取っていた桶狭間山に正面方突撃した。今川勢は織田の主力は清須城にいると思っていたのでまさか正面切って攻め込んでくるとは思わなかったんだろう。今川勢は混乱する中、親衛隊が義元を守って退却するが、織田勢の突撃に数を減らし、遂には義元は打ち取られた。今川義元も貴族趣味の軟弱武将ではなく知性派で領地経営にも優れ、軍事面でも有能だったそうだが、当時の合戦は劣勢な側は城の籠城するというのが常識で優勢な側は出城を落としながら本丸に迫り、有利な条件で和睦を引き出すか、場合によっては包囲殲滅することもあった。しかし戦国時代と言っても無暗に戦って損害を出せば自軍も傷つくので適当なところで手を打つというのが常識だったようだ。だから義元も織田を圧倒する大兵力で攻めて行けば国境紛争に片がつくと言ったレベルだったんだろう。それがまさか信長が精兵2千を率いて本陣に正面攻撃をかけてくるなどとは予想もしなかったのだろう。その辺はやはり信長の常識にとらわれない発想と実行力が功を奏したということだろう。また織田方も義元を打ち取ると言うのではなく今川軍に一撃を加えて出血を強要して追い返すという程度で攻撃を仕掛けたところ義元の本陣まで達してしまったというところかもしれない。戦いは錯誤と失敗の連続で少なく失敗した方が勝つという。桶狭間もそうだったのかもしれない。ただこれ以後信長は桶狭間のような乾坤一擲の博打のような戦いはしていないというので信長にしても伸るか反るかの一戦だったんだろう。だからこの戦いは何万の軍勢を率いた今川義元に数千の信長が挑んだと言うのではなく今川の戦闘兵力は1万5千程度、織田方は5,6千、尾張の石高が57万石とか言うのでもう少しいてもいいのだが、領内の平定を終えたばかりで従う勢力はその程度だったのかもしれない。そして今川方は前線に1万を展開して本陣を守るのは5千程度、織田方は出城に2千ほどを配置して手勢は3千、そのうち千を善照寺、中島の砦に残して直轄部隊の2千を率いて正面から突撃した。そうすると5千対2千で、今川方が油断していることを考えればさほどの戦力差ではない。桶狭間の戦いは迂回奇襲ではないが、結果としては今川方にとっては奇襲に等しい戦いだったのかもしれない。織田信長と言う人は総大将として後方に控えているのではなく常に最前線にあって部下を叱咤激励して勝利を収めてきたという。その大音声と言えるほどの大声に敵は震え上がり味方は奮い立ったというからカリスマがあったんだろう。ただ織田軍が数万の大軍勢になると戦線は拡大して数方面にわたり信長が直接前線に出ることもなくなったそうだ。織田信長と言う人、いろいろ言われるが、少なくとも不世出の天才戦略家だったんだろう。それは間違いない、・・(^_-)-☆。
Posted at 2022/12/10 22:39:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

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