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2021年12月12日 イイね!

織田信長の戦い人気トップ3だって、・・(^。^)y-.。o○。

2021年11月13日から2021年11月19日までの間、ねとらぼ調査隊では「織田信長が行った戦いで一番好きなのは?」というアンケートを実施していました。印象的な戦が数多く存在する中で、果たして一番人気はどの戦なのでしょうか。今回のアンケートでは計304票の投票をいただきました。たくさんのご投票ありがとうございます! それではアンケート結果を見ていきましょう。

※各戦いの解説は、2021年12月現在までに定説とされているものをベースとしていますが、現在も歴史的な発見や研究によりさまざまな事実が解明されてきており、戦いが行われた日時をはじめ、参戦した兵力や援軍の有無など、実際の記録と記載内容に誤差が生じる可能性があることがございます。予めご了承ください。

●第3位:姉川の戦い【元亀元年6月28日(1570年7月30日)】
 第3位は「姉川の戦い」でした。得票数25票、得票率8.2%で3位にランクイン。浅井長政・朝倉義景の軍勢と、織田信長・徳川家康の軍勢が姉川(滋賀県長浜市周辺)で激突した戦いです。倒れた兵士の血で川が赤く染まったという言い伝えが残るほどの激戦の末、織田・徳川連合軍が見事勝利を収めました。この戦いが浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となります。

●第2位:長篠の戦い【天正3年5月21日(1575年6月29日)】
 第2位は「長篠の戦い」でした。得票数46票、得票率15.1%で2位にランクイン。織田信長・徳川家康の連合軍が、武田信玄の息子である武田勝頼を打ち破りました。織田信長は防御陣地の有効活用や鉄砲による攻撃で武田軍を総崩れに追い込み、馬場信房ら多くの重臣を討ち取って甚大な被害を与えたといわれています。とくに「鉄砲の三弾撃ち」は戦の常識を覆す画期的な作戦として有名ですが、史実かどうかは疑問視されています。

●第1位:桶狭間の戦い【永禄3年5月19日(1560年6月12日)】
 第1位は「桶狭間の戦い」でした。得票数95票、得票率31.3%で堂々の1位です。東海地方に一大勢力を築いていた今川義元は、大軍を率いて京都を目指しますが、その途中にある尾張国で織田信長とぶつかることになりました。信長はわずか2000~4000程度の兵を率い、休憩をとっていた今川本陣を雷雨の中急襲して勝利を得たといわれていますが、実際に奇襲だったかは諸説あります。この後信長は一躍、全国にその名を轟かせることになりました。「信長にしてはめずらしく寡兵で大軍を撃ち破った桶狭間で」「桶狭間の戦いで戦力差があるのに今川に奇襲をかけて勝利したのは凄いと思う」といったコメントがありました。(ねとらぼ調査隊)


織田信長の戦いのハイライトと言えば「桶狭間の合戦」だろう。今川義元は上洛のために大軍を率いていたと言うが、実際は織田信秀が死んで混乱状態にあった織田家との国境紛争に決着をつけるための出陣と言うのが事実のようだ。織田勢は情報収集を徹底して今川勢の本隊は5千人程度でその大部分は乱取りに出ていて即応ができないことを承知の上で今川本陣に正面から突っ込んで勝利を収めたと言うのが本当のところらしい。今川の本陣を守っていたのは側近衆だけだったとか。織田信長さんがこのような一か八かの戦いを行ったのはこれが最初で最後であとは必勝態勢を固めて臨んだそうだ。桶狭間の奇襲は帝国陸軍の戦史研究部門が作った創作だったそうだ。桶狭間はまさに自分と織田家の存亡をかけた乾坤一擲の決戦だったんだろうが、信長には勝てると言う自信があったのだろう。



長篠の合戦は織田の鉄砲隊と武田の騎馬隊の戦いと言うが、実際には野戦築城された陣地に陣取る織田方に武田方が正面突破をかけた戦いのようだ。現地を見れば分かるが、現地は真ん中に川が流れる低湿地で多数の馬を擁する騎馬隊が活動できるようなところではない。おそらく狭い畔などを一列になって突撃する武田方を陣地に拠った織田方が鉄砲を使って撃破したと言うのが真相だろう。三段撃ちは江戸時代に甫安信長記で創作された作り話のようだ。江戸時代は平和が続いて刺激がないのでそうした面白おかしい活劇が好まれたようだ。織田方は堺を押さえて火薬の原料である硝石を豊富に入手していたが、武田方は入手できず、鉄砲は持っていたが、火薬と弾が不足していたそうだ。そのため鉛の弾が作れず自国内で産出する銅を使って弾を作ったりもしていたようだ。そのために武田方は突撃前の斉射などで弾が尽きてしまったのではないかとも言う。攻城戦では攻める側は守る側の3倍の兵力を必要とすると言うが、武田方の兵力は織田方の半分以下なので端から勝ちはないだろう。



姉川の戦いは浅井、朝倉軍と織田、徳川連合軍の戦いで朝倉軍は朝倉義景ではなく親族の朝倉義健が総大将だったことに浅井長政はかなり不満だったとか。戦いは朝倉勢と徳川勢が激突して始まったが、徳川が大活躍したと言われるが、これは徳川が天下を取ったことで話を盛ったんだろう。ほぼ互角の戦いだったとか言う。一方で浅井軍は織田の13段の構えのうち11段まで突破したと言うが、部隊が伸び切って陣形が乱れたところに横山城を囲んでいた3千が横合いから攻めかかって浅井軍を崩したと言う。朝倉軍は戦意に乏しく徳川軍が横合いから攻めかかると退却したそうだ。この戦いで浅井、朝倉は戦力を大幅に減らして滅亡へと向かったそうだ。



織田信長はこれ以外にも数々の戦いを戦っているが、何と言っても最も強敵だったのは本願寺衆だろう。あちこちの一行衆に痛い目に遭わされ、本願寺を降伏させるのに10年もかかっている。織田信長は90回ほど戦って70勝20敗とか。しかし、負けた戦も後に必ず敵を打ち破っている。天下を取るためにと言うが、自分や親族と一族郎党の生き残りをかけた戦いだったんだろう。ただ足利義昭を追放してからは天下静謐のために戦っていたのかもしれない。その辺は本人に聞いてみないと分からないが、‥(^。^)y-.。o○。
Posted at 2021/12/12 13:32:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2021年05月19日 イイね!

黒人と出会った信長さんはどうしたのか、‥(^。^)y-.。o○。

NHK・BSプレミアムでドキュメンタリー『Black Samurai ~信長に仕えたアフリカン侍・弥助~』が放映された。今や弥助はアニメにもなるなど、関心が非常に高い。改めて弥助について考えてみよう。


■弥助とは
弥助とは、天正7年(1579)にイエズス会の巡察使・ヴァリニャーノが日本にやって来た際、インドから連れて来た黒人の使用人(奴隷)である(『日本教会史』)。弥助の出身地は、現在のモザンビークにあたるポルトガル領の東アフリカだったといわれている。それ以上の詳しいことが不明なのは、仕方がないだろう。


■織田信長との謁見
織田信長が弥助に会ったことは、信長の一代記『信長公記』に記されている。天正9年(1581)2月、ヴァリニャーノは弥助を伴って、信長と面会すべく本能寺を訪れた。初めて弥助を見た信長の感想は、以下のとおりである(『信長公記』)。
きりしたん国より、黒坊主参り候。年の齢廿六・七と見えたり。惣の身の黒き事牛のごとく、かの男健やかに器量なり。しかも強力十の人に勝たり。
この記述によると、弥助の年齢は26・7歳で、皮膚は牛のように黒かったという。しかも体は丈夫で力が強く、10人の男の力にも匹敵したという。信長は、大いに弥助に関心を示した。なお、『家忠日記』には、「タケ(丈)ハ六尺二分」と書かれているので、弥助の身長は約1.8mだったと考えられる。当時の日本人の体格(男子の平均身長は約160cm)からすれば、かなりの大柄だったようだ。信長は初めて黒人を見たこともあって、最初は体に墨を塗っているのではないかと考えた。今まで見たことがなかったのだから、いたしかたないだろう。そこで、信長が弥助の体を洗わせたところ、いっそうその肌は黒光りしたという。


■評判となった弥助
弥助に関心を抱いたのは、信長だけではなかった。京都市中では弥助の噂が広がり、やがて見物人が殺到するような事態となった。それどころか、人々は弥助を見るため、喧嘩をするようなありさまだった。同時代に活躍した絵師の狩野内膳は、「南蛮屏風」の作者として知られている。「南蛮屏風」のなかでは、傘をさす黒人の姿が描かれている。これが弥助か否かは不明であるが、誠に興味深い。もともと好奇心旺盛な信長は、大いに弥助のことを気に入り、ヴァリニャーノに頼んで譲ってもらった。信長は弥助を武士として身辺に置き、将来的には城持ちにまで引き立てようとしたという。また、信長は弥助に邸宅と腰刀を与えたとも伝わる。


■本能寺の変と弥助
天正10年(1582)、弥助は信長をお供して、本能寺に宿泊していた。しかし、同年6月2日、突如として明智光秀が本能寺を襲撃し、信長は自害に追い込まれた。光秀が本能寺を襲撃すると、弥助は信長の嫡男・信忠の居所だった二条新御所に急行し、光秀の謀反を知らせた。そして、弥助は二条新御所で明智軍と交戦したが、最後は奮闘虚しく捕らえられたのである。光秀は弥助の処分について、黒人(弥助)は動物のようなもので何も知らず、また日本人でもないので殺すことはない、と明言した。結局、弥助は南蛮寺に送られ、命だけは助かったのである。その後、弥助の動静はまったくわからない。


■ワールドワイドな時代
当時、ポルトガルはアフリカに進出し、黒人を捕らえて奴隷としていた。弥助もその一人である。弥助は、たまたま信長に気に入られたので、われわれの知るところになった。もしかしたら、弥助以外にも、宣教師に日本へ連れてこられた黒人がいたかもしれない。なお、ポルトガルの宣教師とともに商人も日本にやって来たが、豊臣秀吉の時代になると、ポルトガルの商人は日本人を奴隷として購入し、東南アジアなどで売買していた。こうした時代背景があったことも忘れてはならないだろう。


今でこそ日本にはあらゆる外国人がいるが、つい最近までは外国人が珍しい国だった。まして戦国時代となれば黒人と会うということは今で言えば宇宙人と出会うにも等しいことだっただろう。そんな状況でも体に墨を塗っているのではないかと疑い、「洗ってみろ」と言うところなど非常に冷静客観的な対応ではある。さすがは超合理主義者の信長さんではある。多分体格なども小柄な日本人に比較したらずいぶん大きかっただろうし、10人力かどうかは別にしてもそれなり当時の日本人を超えた力もあっただろう。そうした能力を評価して取り立てたのだろう。この弥助と言う黒人はなかなか頭も良かったと言う。この辺も能力があれば出自は問わないという信長さんらしい。そこに行くと「黒人は人間ではなく動物だから放してやれ」と言った光秀とはやはりものの見方や考え方に大きな差があるように思う。行く行くは黒人舞台を作るなんて言うことも考えていたというが、真偽のほどは定かではない。能力があれば出自は問わないという信長さんの超合理的な考え方はうまく回れば効果は絶大だが、それが信長さんの命取りになったところはあるのかもしれない。いずれにしても時代をはるかに超えた人物だったことは間違いない、‥(^。^)y-.。o○。

Posted at 2021/05/19 17:30:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2021年02月24日 イイね!

NHKに裏切り者扱いされた細川藤孝が気の毒ではある、‥(^。^)y-.。o○。

総集編が23日に放送されたNHKの前期大河ドラマ「麒麟がくる」は、まさかの“ナレ死(最期のシーンが描かれず、ナレーションによって死亡が説明されること)”となった主人公・明智光秀を巡る考察などでいまだ余韻を残している。全話平均14・4%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)と直近10年では5番目の数字を残した同ドラマにあって、損な役回りとなったのはこの武将だった。

「一番のババというか、光秀以上にマイナスポイントが見える役を引いてしまったというのがあるのですが…」

こう振り返ったのは、眞島秀和が演じた細川藤孝(幽斎)のゆかりの地・京都府舞鶴市の学芸員氏。7日の最終回で放送された藤孝の行動が、ネット上で大きな反響を呼んでいた。いわく「裏切り者」。この言葉は主君の織田信長を討った光秀の“定番”だが、藤孝にそのイメージを呼ぶ場面があった。

盟友である光秀から謀反の可能性を察知した藤孝は「急ぎ、備中の羽柴(秀吉)殿に使いを出せ。何も起こらぬことを願うが、あるかもしれぬと伝えよ」と側近に命じた。これが密告と受け取られたようで「一番男を下げたのは細川藤孝さん」「細川藤孝ヘイト高まる」といったネット投稿が相次ぐ一方、「裏切り野郎みたいな終わり方でかわいそう」「ショックでした」との同情も寄せられた。

光秀が信長を殺害した本能寺の変後、藤孝は光秀の参戦要請を断り、隠居したとされる。備中から電撃上京した秀吉軍に光秀は敗れ、三日天下に終わる。藤孝が秀吉「中国大返し」に一役買ったかのような説は珍しいとみられ、新しさを感じた視聴者もいた。

前出の学芸員氏は藤孝密使派遣説について「明らかにそのことを示唆する史料はない。ただ、状況から判断してその可能性はあるとにおわせている研究者はいる」。とはいえ「舞鶴で一番期待していた藤孝の描かれ方が悪役になったので、ちょっとそこは残念だなというのはあります」と複雑な思いを語った。(東京スポーツ)


こういう話は時代ファンタジーで主人公は作者の意思でどのようにも描けるのだが、この話は光秀をきれいに描きすぎだろうな。光秀は実際には40歳くらいまではどこで何をしていたのか良く分からない人間でそれまではずい分と苦労をしたらしい。奥さんは若い時に疱瘡か何かであばた面になってしまって父親が「許婚の姉に変わって妹を娶ってくれないか」と言ったそうだが、光秀はそのまま婚約者だった姉さんを娶ったそうだ。この奥さんも髪を切って売ったりしてずい分と苦労をしたらしい。信長に仕えるようになってそれなりの俸禄を得て落ち着いたらしいが、それまでは家計は火の車だったらしい。そんなこんなで苦労人だったせいか、家族に対する思いは人一倍だったと言う。城持ちとなり、信長に一生懸命仕えたが、様々意見を異にすることが多くなり、自分も用済みで切り捨てられるのではないかと思った光秀が信長と後継の信忠が大した護衛も連れずに京都にいると言う千載一遇の機会を得て一族の存亡をかけて謀反を企てたと言うのが事実だろう。主だった武将に計画を打ち明けた時に賛同したのは信長に切腹を言い渡された斎藤利三一人で残りはすべて反対だったそうだが、光秀の決意が固いので従ったそうだ。変を起こした後の行動も場当たりで計画性などないので千載一遇の機会を得て急遽思い立ったんだろう。細川藤孝も裏切り者のように描かれては気の毒ではある。「やっちゃったから味方してくれ」と言われても細川藤孝も自分の一族の安全を考えたんだろう。光秀は変後に朝廷の承認を得るために安土でうろうろしていて時間を浪費して秀吉に敗れたが、あれだけ見事にクーデターを成功させたのだから、すぐに中国地方に向かって毛利と組んで秀吉を攻めてこれを破ったら義昭を奉じて京に戻ると言う手もあったんじゃないか。信長を討って信長に追放された将軍を京に連れ戻して幕府を復活させると言えば筋は通る。まあご本人に聞いてみないと分からないが、天下安泰、万民平穏などを願って謀反を起こしたわけではないことは確かではある。あの時代、天下万民の平和よりも一族の繁栄安泰が何よりの時代だったんだから。最も今でもそうかもしれないが、・・。しかしながら理由は何であれ謀反などと言うのはやはり卑怯ではある。何でもありの戦国時代でさえあれだけ完璧な成功を収めていても誰も味方をしなかったのだから。細川藤孝も事前に光秀の謀反を知っていれば間違いなく信長に通報しただろう。謀反は伸るか反るかの一世一代の賭け、もしも光秀が失敗すれば事前に知っていた自分も連座して処分されることになる。やはり謀反は引き合わないと言うことだろう、‥(^。^)y-.。o○。

Posted at 2021/02/25 00:57:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2021年02月13日 イイね!

本能寺の変、その原因は、‥(^。^)y-.。o○。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、明智光秀が正親町天皇や足利義昭に心を寄せていたが、あり得ない話である。それはドラマの中のことなので置くとして、本能寺の変が勃発した理由については、驚倒すべきトンデモ説がある。それらを検証することにしよう。

■織田信長は明智光秀の妻に抱き着いたのか
まったく取るに足りない話であるが、『落穂雑談一言集』という俗書には、明智光秀が織田信長に恨みを抱くに至った逸話を載せている。ある日のこと、信長は家臣らとともに女色談義をしていた。すると、家臣の1人が光秀の妻こそが、天下一の美人であると話題にした。すると信長は、毎月1日と15日にお礼として家臣の妻に出仕を命じたという。信長の目当ては、光秀の妻だった。出仕の当日になると、物陰で待ち構えていた信長は、長廊下に光秀の妻がさしかかると、背後から抱きしめようとした。抱きつかれた光秀の妻は、驚いて持っていた扇子で信長を激しく打ち据えた。信長は本懐を遂げることなく、その場を去ったという。しかし、ここからが大変だった。事件の話を妻から聞いた光秀は、妻を襲った犯人が信長であると確信した。以後、光秀は信長の態度に注意を払っていたが、やがて信長は家臣らの面前で光秀に恥辱を加えるようになった。恥をかかされた光秀は信長に怒りを禁じ得ず、のちに逆心を抱くようになったというのである。この話はコメントすらしづらいが、まったく無視して差し支えないレベルである。単なる興味本位のくだらない逸話にすぎないといえよう。

■光秀は不安だったのか
光秀が信長に仕えるなかで、将来に不安を抱いたという説がある(不安説)。その根拠は、光秀が信長から近江・丹波を召し上げられ、代わりに石見・出雲が与えられる予定だったというものだ。光秀は、天正元年(1573)に近江国志賀郡を信長から与えられた。天正7年(1579)には丹波を平定し、丹波一国を拝領した。近江も丹波も京都に近く重要な地域であり、順調に出世を遂げていたのである。光秀が与えられるという石見・出雲は京都からの遠隔地で、未だに毛利氏の勢力下にあった。つまり、半ば実力で支配せよということである。その難しさは容易に想像され、とても円滑に支配できる状況にはなかった。このように酷い仕打ちを信長から受けた光秀は、左遷されたと思い込み、将来に不安を感じたという。光秀が石見・出雲に左遷されるという話は、『明智軍記』という編纂物に記されている。『明智軍記』は17世紀末期から18世紀初頭、つまり光秀の没後から約100年後に書かれた光秀の伝記である。残念ながら、著者はわかっていない。同書は誤謬も多く、他書の内容と整合しない記述が多くある。よって、同書は質の低い二次史料と指摘されており、「誤謬充満の書」と評価されている。その点から、光秀が石見などへ移される話は裏付けが乏しく、否定的な見解が多数を占めており、光秀の将来に対する不安説は、成り立ち難いようである。

■光秀には野望があったのか
光秀が信長を討とうとしたのは、自らが天下人になるという、野望があったとする説がある。こちらも、おおむね二次史料の記述による。『惟任謀叛記』という二次史料には、「(光秀による信長への謀反は)急に思いついたものではなく、長年にわたる逆意であると考えられる」と記している。つまり、光秀は長年にわたって信長に何らかの逆心を持っており、とっさのことではなかったというのである。『豊鑑』という二次史料には、「(光秀は)なお飽き足らず日本を治めようとして、信長を討った」と記し、さらに続けて、光秀の欲が道を踏み外して、名を汚しあさましいことだと述べている。こちらは信長への恨みというよりも、天下取りの野望である。『老人雑話』という二次史料には、光秀が居城の亀山城(京都府亀岡市)に続く北愛宕山(京都市右京区)に城を築き、周山と号したと記す(周山城)。光秀は自身を周の武王になぞらえ、信長を殷紂に比した。これは、周武王が宿敵の殷紂を滅ぼし、天下を獲った歴史にちなんだものである。そして、あるとき羽柴(豊臣)秀吉が光秀に対して、「おぬしは周山に夜に腐心して謀反を企てていると人々が言っているが」と尋ねると、光秀は一笑して否定したというのである。『惟任謀叛記』はほぼ同時代の史料であるし、『豊鑑』『老人雑話』は後世に成ったとはいえ、成立年が早く同時代を生きた人の話なので信憑性が高いと見る向きもある。しかし、この3つの史料のうち、『惟任謀叛記』は秀吉の顕彰という意図があるので、割り引いて考える必要がある。『豊鑑』と『老人雑話』の記述内容は根拠不詳であり、まったく取るに足りない。『豊鑑』は、光秀の主君殺しは、近世初期に広まった儒教に反する行為という、教訓のようなものである。『老人雑話』は、単なるおもしろおかしい創作に過ぎない。光秀が野望を抱いていたとするには、一次史料から蓋然性を導き出すのも困難で、野望を抱いていたにしては、変後の対応があまりにお粗末で展望がない。したがって、光秀に野望があったというのは、首肯できない説である。


信長の女性の好みは当時としてはかなり変わっていたそうだ。胸や尻が大きくていかにも庶民の「おっかさん」然としたタイプを好んだそうで家臣は「どうして上様はあんな女を、・・」と首をひねっていたそうだ。正室待遇とした吉乃さんも出戻りの年上の女性だが、どちらかと言えば美人よりも年上で頭のいい女が良かったのかもしれない。あまり女性に執着したという話も聞かないし、世間の評判を非常に気にかけていたというから他人の奥さんに手を出すと言うのは考えづらい。


不安説だが、光秀から「丹波を取り上げて出雲・石見を与える」というのは江戸時代の創作だそうだ。ただ、本能寺の変当時の光秀の年齢は55歳、一説によると67歳とか言うのもあるが、いずれにしても当時としては老齢ではあった。光秀は自分の領地に深い思い入れがあり、ぜひ13歳の息子に継がせたいと望んでいた。ところが佐久間、林などの追放処分で「成果を出さないと自分も追放されるのではないか」との不安を抱き、その後、斎藤利三問題や四国の長曾我部の処遇などを巡り、信長との意見の相違が生じた。この程度では京都と言う当時の首都防衛軍団司令官の光秀にはまだ謀反と言うほどではなかっただろうが、その立場から秀吉の応援に「中国攻めに加われ」と言われて「ついに軍団司令官解任で秀吉の下に組み入れられるのか。そして年齢的にも峠を越している自分は放逐されるのか」と思い、「信長は跡継ぎの信忠と共に大した護衛も連れずに京都に宿泊している。用済みで放逐されるならその前に一族郎党のために、一か八か、・・」と考えたのではないだろうか。信長を討った後は、まず畿内を制圧して掌握下に置き、味方を募り、特に織田方と対立している毛利と結んで義昭を京に迎えて足利幕府を再興し、毛利に管領と言うナンバー1の立場を与えて自分はナンバー2に収まる。それに必要な期間は3ヶ月程度だが、織田勢は各地でそれぞれ敵方と対抗していてすぐには取って返すことはできないだろうという見込みだったのではないだろうか。もっともそうなら変を起こした後に京都辺りでうろうろしていないで直ちに中国地方に進軍して秀吉軍を毛利と挟撃した方がよかったようにも思うが、朝廷の信任を得て、‥などと言うところが形式を重んじる光秀の限界だろうか。「今信長を殺さなければ自分が殺される」と言うのが本能寺の変の原因と思うのだが、・・。


野望説は全く見当違いと思う。まず光秀くらいの武将であれば信長を殺せば天下が自分の懐に転がり込んでくるなとと夢のようなことを考えるはずもない。信長を殺して織田家中の武将をすべて切り従えて次は各地の諸侯、毛利、上杉、徳川、北条、伊達、長曾我部などをまた一から切り従えて行かないといけない。そのすべての戦いに自分が勝利する保証などない。大体当時の大名が天下を取ろうなどと言うことを考えていたのかどうか、それも疑わしい。当時の大名が最も腐心していたのは自分の領土の拡大と一族郎党の繁栄で天下など勝手にすればいいというところではないだろうか。


まあ謀反の原因を明示する文書なりがないので何とも言えないが、家族や一族郎党思いの光秀の一族郎党の生き残りと繁栄をかけた一世一代の賭けだったと思うのだが、‥(^。^)y-.。o○。


Posted at 2021/02/13 18:57:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2021年02月08日 イイね!

本能寺の変の原因は、‥(^。^)y-.。o○。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」もついに最終回「本能寺の変」で幕を閉じた。最後の舞台は本能寺の変である。本能寺の変がなぜ起こったのかについては、近世以来、さまざまな説が唱えられてきた。現在では、なんと数十もの説があるといわれているが、中には箸にも棒にもかからないような、とんでもなく酷い説すらある。一言でいうならば、妄想の類といってもよいだろう。以下、主要な説に絞って、簡単に解説しておこう。

■怨恨説、野望説など
長らく本能寺の変にまつわるテレビドラマ、映画、歴史小説などで採用されてきたのが、明智光秀が織田信長に恨みを抱いていたという説である(怨恨説)。なぜ、光秀は信長を恨んだのだろうか。天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡した際、光秀は信長ら諸将とともに酒を酌み交わしていた。光秀が小用に立つと、突如として信長が怒り狂って「なぜ中座する。きんか頭(禿げ頭)め!」と怒鳴り、光秀の首に槍を突きつけたという逸話がある。諸将の前で辱めを受けたので、光秀は信長を恨んだというのだ。ほかにも、天正10年(1582)5月に光秀が徳川家康を安土で接待した際、肴が腐っていたので信長が怒り、接待役を辞めさせられた。そのうえで、光秀を羽柴(豊臣)秀吉の与力として備中に派遣したという説などがある。いずれも、信頼に足りうる史料に書かれていない。光秀が信長に代わって天下を取りたかった、という野望説なるものがある。野望説の根拠も後世に成った二次史料に書かれたもので、やはりにわかに信が置けない。

■朝廷黒幕説、足利義昭黒幕説、四国政策説
次に、朝廷黒幕説、足利義昭黒幕説、四国政策説について考えてみよう。朝廷黒幕説とは、信長が正親町天皇にさまざまな嫌がらせをしたので、危機を感じた朝廷が光秀に「信長を討て!」と命じたとされた説である。信長による嫌がらせとは、正親町天皇に譲位を迫ったこと、暦を尾張などで使われているものに変更するよう迫ったこと、京都馬揃えを正親町天皇に披露して軍事力を誇示した(ビビらせた)こと、などである。しかし現在では、それらは朝廷に対する嫌がらせではなく、そもそも朝廷が光秀に「信長を討て!」と命じた書状や記録がないことから、否定的な見解が多数を占めている。足利義昭黒幕説とは、本能寺の変が起こる以前から義昭と光秀は互いに連絡を取っており、義昭が光秀に「信長を討て!」と命じたという説である。こちらは、証拠とされる史料の誤読や解釈について論理の飛躍が大きいがゆえ、今では支持されることがない説だ。四国政策説とは、信長が長宗我部元親に四国を統一した際、その4ヵ国を与えると約束したが、それを反故にしたことが発端となった説だ。当時、長宗我部氏の取次を担当していたのが光秀だったので、両者の狭間にあって窮地に追い込まれた。光秀は立場が悪くなったうえに、信長から取次を更迭された。ゆえに「このままではまずい!」と危機感を感じた光秀は、信長を討とうと考えたという。しかし、この説も決定的な証拠がないので、弱いと感じるところである。

■単独犯説
これまでの説では、光秀の動機(信長への恨み、天下取りの野望)、あるいは信長を排除したい勢力(朝廷、将軍)の存在などが注目されてきた。本能寺の変が注目されるのは、光秀が本能寺を急襲し、見事に討ったという点に集約されよう。しかし、信長に反旗を翻した武将は非常に多く(丹波の波多野氏、播磨の別所氏、摂津の荒木氏など)、その点では珍しいことではない。後者は、奮闘むなしく討ち取られたので注目されなかったにすぎない。特筆すべきは、信長から厚い信頼を得ていた光秀が、わずかな手勢で信長が本能寺に滞在したことを知り、本懐を果たしたことだ。光秀は常時、配下の者に信長の動きを監視させていたのだろう。光秀の動機は不明であるといわざるを得ないが、信長に何らかの不満を抱いていたのはたしかだろう。しかし、計画的でなかったのは事実で、それは変後の光秀の動きからも明らかである。たとえば、細川藤孝(幽斎)・忠興父子は、娘のガラシャが忠興の妻だったのだから、味方になってくれるものと考えていた。しかし、光秀の願いもむなしく、藤孝(幽斎)・忠興父子は味方になってくれなかった。昵懇の間柄だった、筒井順慶も味方になることなく離れていった。

光秀の変後の動きも迷走状態である。朝廷にあいさつに行って献金し、信長の代わりに京都の治安維持を司る権限を得たまでは良いとして、備中高松城(岡山市北区)から東上する秀吉に対する対策がなっていない。結局、光秀は右往左往した挙句、6月13日(本能寺の変から11日後)の山崎の戦いで秀吉に敗れ、その日のうちに土民に討たれて非業の死を遂げた。もし光秀が朝廷や義昭とつるんでいたならば、朝廷から秀吉討伐の綸旨をもらうとか、あるいは義昭が庇護を受けていた毛利氏に働きかけ、光秀の救援に向かうなど、何らかの方法があったはずである。あるいは、変の決行前に諸大名と密約を交わし、味方を増やしておくなどの計画性があってしかるべきである。しかし、そうした事実が史料で確認できない以上、結論としては光秀の単独犯といわざるを得ない。計画性がなかったゆえに、光秀は秀吉にあっけなく負けたのだ。単独説は「おもしろくない!」「あっと驚く結論がないのか!」「平凡すぎる!」とお叱りを受けるかもしれないが、信頼できる史料に基づけば、これが現時点で最も有力な説だ。私はそう考える。 


信長物はドラマとしてはやはり人気があるようだ。今回の大河ドラマは描き方が光秀に偏っていて悪ガキのような信長の描き方もあまり気に入らなかったので見てはいなかったが、最終回だけは見てみた。感想は、「まあこんなものかな」と言う程度ではあったが、日本人は判官びいきで義経にしても秀頼にしても光秀にしても生存説が出てくるが、そんなことはあり得ないだろう。光秀が何で本能寺の変を起こしたかと言うと、それは「信長を殺さなければ自分が殺される」と言う恐怖を伴った自己保身だろう。怨恨説はほとんどが江戸時代に書かれたもので事実無根のものばかりだそうだ。太平の時代に話の展開を面白くしようとしたものがほとんどだろう。黒幕説は様々な作家がこれも話を面白くするために創作したものでこれもあり得ない。本能寺の変は信長を殺し、その後継者の信忠も殺しているのでクーデターとしてはこれ以上ない完璧な成功を収めている。これだけの成功を収めていれば黒幕がいればそこで動き出す人物が出て来るだろうが、誰も動いてはいない。最近は四国説が有力視されているが、主人との一つの政策の違いが原因で一族の命運をかけた謀反を起こすというのも考え難い。光秀は織田重臣の佐久間や林が放逐されるのを見て「不要になれば放逐される」と言う恐怖を抱いた。その後、斎藤利三問題や四国問題などもあり、信長と反目するようなことが多くなった。それでも当時の首都である京都防衛軍団長と言う立場にあったが、中国攻めの応援に出されるに至って「ついに俺も降格されてサルの下に付くのか」と衝撃を受けただろう。そこに信長親子がろくな護衛も連れずに京都に滞在するという千載一遇の機会を得て「一か八かやってやるか。成功すれば地位を餌にすれば味方に付くものもいるだろう。織田軍団は地方に散っていてそう簡単には京都には戻っては来れない。その間に畿内を平定して味方を募って織田勢を迎え撃てばいい。毛利と手を組むのが最善だろう。義昭を将軍に迎えて管領を餌にすれば毛利はこっちに付くだろう。体制を作る期間は概ね3ヶ月、・・。」と概ねこんなところだろうか。ところが常識にとらわれない動きをする人間が信長以外にもう一人いた。秀吉だ。秀吉は変を知ると10日で京都に取って返した。焦った光秀は細川藤孝に「天下を取ったらあんたの息子を管領にするから味方をしてくれ」と頼むが断られてしまう。自分の部下の筒井順慶にもそっぽを向かれ、単独劣勢で秀吉を迎え撃ったが、主の仇討ちを旗印に気勢の上がる秀吉軍に鎧袖一触で敗退して打たれてしまう。現代人は天下を取るとか平和な世の中を作るためにとか言うが、戦国時代にそんなことを考えていた武将は誰もいないだろう。自分の一族郎党と領土の拡大保全、それが唯一最大の目的だろう。戦国時代は今と違って何時殺されてしまうか分からない時代である。天下国家よりも自分と一族の保身と繁栄が第一である。「武士道」もずい分持てはやされるが、言わせれば、「命の危険のない時代に頭の中で考えた空念仏」とも言う。光秀は一族をずい分大事にしていたという。光秀にしてみれば一族の繁栄をかけ、自分の息子に自分が育てた領地を譲りたかったのだろう。その意味では気の毒な気がしないでもないが、日本の歴史上不世出の天才戦略家であった信長を殺したのは重々不届きではある。もっとも信長も本当に天下を平定して統治する気があったのか、疑問な点がないでもないが、‥(^。^)y-.。o○。

Posted at 2021/02/08 16:08:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

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