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2020年12月23日 イイね!

「韓国の技術は世界一ぃぃぃぃぃ、・・・。」を夢見るヒュンダイ、‥(^。^)y-.。o○。

国内ユーザーの声に耳を傾けない
12月19日、ヒュンダイ(現代自動車)が水素電気自動車「ネッソ(NEXO)」を前面に掲げ、およそ10年ぶりに日本市場に進出すると報道された。水素インフラが整わないうちに上陸して勝ち目はあるのか。加えて、いまだ韓国内で続く、日本製品不買運動に代表される反日政策に韓国企業としてどう向き合うのか。相前後し、自身が誇る電気自動車が火を噴き、販売中止を余儀なくされてもいる。その是非について、在韓ライターが考察する。

これまでの経緯を駆け足で振り返ってみると、

・今年6月、ヒュンダイ・ジャパンは日本語公式Twitterアカウントを開設。
・9月には東京・代官山で「ネッソ」のプロモーションを実施。
日本に再上陸するという見込みを受けた韓国の株式市場で、現代自の株価が急騰していた。

しかし、好事魔多しと言うのか、身から出た錆なのか、言い方は様々なのだろうが、12月7日、現代自と傘下の起亜自動車は、米国でエンジン故障に伴う火災が発生する恐れがある」として、42万4000台のリコールを開始した。18日には現代自の電気自動車「コナ・エレクトリック」で火災が発生、ブレーキの不具合と合わせてリコールを開始した。
「コナ・エレクトリック」は以前にも火災を発生させており、LG化学が供給するバッテリーが問題視されたが、何らの対策も施してこなかった。

国内ユーザーの声に耳を傾けないといわれる現代自は、米国で発生した問題が、韓国内でも報道され、重い腰を上げた。そして現代自は「コナ・エレクトリック」の韓国販売を中止すると発表した。日本市場に投入予定の水素自動車2代目「ネッソ」は韓国のほか、北米や欧州、オーストラリアなど世界各国で売られている世界戦略車で、初代からの累計で1万1000台を売り上げている。

1台でも日本で火災が発生したら
現在、世界で販売されている乗用水素自動車は、トヨタ「MIRAI」、ホンダ「 クラリティ フューエルセル(CLARITY FUEL CELL)」、ヒュンダイ「ネッソ」の3モデル。2014年に発売されたトヨタの水素自動車「MIRAI」の販売数は1万台で、「ネッソ」はこれをわずかに上回っていることになる。今年6月、日本進出の記事を見た同社関係者からは、こういった声が上がってきた。

《火災問題を解決しないまま日本に進出して、1台でも火災が発生したら、企業評価がどこまで落ちるか恐ろしい》
《反日不買をやっている国が何をどう間違うと、日本に上陸してその国のクルマを売る決定を下せるのか》
《文政権下の日本進出を誰が喜ぶのか。韓国人と日本人の双方から反感を買うだけではないか》
《上層部は、日本市場でのかつての失敗を忘れたのか》

「ネッソ」はまだ大きなトラブルはないものの、現代自が水素自動車(FCV)と電気自動車(EV)を携えた再上陸作戦を唱える中、関係者の多くが不安を抱えているのは間違いない。「SUVの水素自動車」という強みを活かし、日本再上陸を成功に導きたい現代自だが、企業イメージに加えて、当然ながら日韓葛藤が障害になりそうだ。今年1月、韓国政府は「2018年に14基だった水素ステーションは、19年は34基になり、20基増えた」と増加数を強調していた。日本は112基、ドイツは81基、米国は70基あり、絶対数で水素先進国に及ばない韓国は、唯一、自慢できる増加数を強調したわけだ。

実現したのは目標の半分以下
そうやって、水素ステーションが最も多く増えたと自慢する韓国政府だが、20年の構築目標は86基だったにもかかわらず、実際に実現したのはその半分以下で、政府機関の資料で確認できるステーションは38基に過ぎない。そんな韓国政府は、2022年までに310基の水素ステーションを構築するという計画をぶち上げてもいるが、耳障りの良いことだけをその場しのぎで口にしているように映るのは筆者だけだろうか。いまだ韓国内で続く、日本製品不買運動に代表される反日政策に韓国企業としてどう向き合うのか。水素インフラが充実する国に進出することは間違ってはいないが、一方で、電気自動車が火を噴き、販売中止の憂き目に遭っている中での“日本へのリベンジ”はあまりに分が悪くないだろうか。(高秀樹・在韓ライター・週刊新潮WEB取材班編集
2020年12月23日 掲載)


韓国の自動車なんか日本で売れるわけがないだろう。このFCVだってトヨタの公開情報でコピーしてできた車だろう。コピーすればそれなりにはできるが基礎技術がないから「もらった技術で世界一ぃぃぃぃぃ、・・・。」なんて言ってみても技術は先へは進まない。それに最近の日本の他人批判文化は並大抵ではないので火を噴いて燃えたりした日にはどんな非難を受けるか分からない。それよりも何より日本に日本のメーカーが出した同じものがあるのに何を好き好んで韓国車を買わないといけないのか。今の日本で韓国がどのくらい嫌われているか知らないのだろうか。「日本で売りまくって韓国の技術は世界一ぃぃぃぃぃ、・・・。」なんて夢を見ているのかどうか分からないが、すぐに撤退は火を見るより明らかだろう、‥(^。^)y-.。o○。

Posted at 2020/12/23 17:46:00 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2020年03月24日 イイね!

超合理主義者の織田信長、・・(^。^)y-.。o○。

編集部からのお知らせ:
本記事は、書籍『戦国名将の本質 明智光秀謀反の真相に見るリーダーの条件』(著・小和田哲男、毎日新聞出版)の中から一部抜粋し、転載したものです。テーマは今回のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも意外な人物像で登場した織田信長。ビジネスにも通じる彼の情報戦や危機回避の能力について、同ドラマの考証や「歴史秘話ヒストリア」などの解説も務めた戦国時代史研究の第一人者である筆者が迫ります。

「一番手柄」は地味な隠密行動役……なぜ?
織田信長が今川義元を討った永禄三(1560)年5月19日の桶狭間の戦いは、よく知られているように、信長の家臣服部小平太がまず義元に槍(やり)をつけ、二番手に飛びこんでいった毛利新介が義元の首を取っている。このような場合、いわゆる一番手柄は服部小平太か毛利新介のどちらかというのが一般的であろう。翌日の論功行賞の場に居並んだ信長家臣も、「信長様は2人のどちらを一番手柄とするだろうか」と興味津々だったと思われる。ところが、論功行賞の場で、信長がまっ先に名前を呼んだのは簗田(やなだ)政綱という部将だった。簗田政綱が前日の桶狭間の戦いで、服部小平太や毛利新介と同じような目立った働きをしていれば、誰も驚かなかったと思われるが、5月19日、簗田政綱は誰の目にもとまらなかったので、皆驚いた。
 
桶狭間において、簗田政綱は隠密行動をとっていた。
簗田政綱は受領名出羽守を名乗っているので、いっぱしの「信長家臣」と思われるかもしれないが、実際は、尾張と三河国境近くの沓掛(くつかけ)の土豪、つまり地侍だった。地侍とはふだんは農業に従事し、「いざ戦い」というときだけ、武装して従軍してくる半農半士の兵農未分離の侍のことである。この簗田政綱の住む沓掛にある沓掛城に今川義元が入った。今川軍は2万5000という大軍で、5月19日早朝、出陣している。その様子を観察し、信長に情報として届けたのが簗田政綱だったのだ。各種史料を総合すると、情報のポイントは3つあったと思われる。
1.今川軍2万5000は2つに分かれ、2万は鳴海城方面に向かい、義元本隊は5000で大高城方面に向かっている。
2.出発地点の沓掛城と義元本隊の目的地のちょうど中間地点に桶狭間というところがあり、そこで昼食休憩をとるのではないか。
3.この日、義元は馬ではなく塗輿(ぬりこし)に乗って出陣している。

武功より「情報」を評価した信長
信長は、政綱からの情報を得て、桶狭間で休憩している義元に奇襲をかけるという作戦を考え、しかも、「輿のあるところに集中攻撃をかけろ」という命令を出した。その命令を受けて活躍した服部小平太や毛利新介よりも、作戦そのものを考え出すヒントになる情報を届けた簗田政綱の方が手柄は上だと、信長は考えたのだ。それまで手柄といえば、「槍働き」という言葉があるように、実際の戦いで武勲をあげることが何よりも重要であった。信長はそうした「武功」よりも、「情報」の方が上だと判断したことになる。ふつうに考えると、敵が2万5000で、味方がせいぜい4000ほどだと太刀打ちはできない。だが信長は簗田政綱の情報によって、その絶体絶命の危機を乗り切った。信長はこの後も、情報を重視した戦いを継続している。

軍議をやらず雑談ばかり……信長の秘策
桶狭間の戦いの前夜、すなわち永禄三(1560)年5月18日、織田信長の重臣たちは清須城に集まった。今川義元が三河・尾張の国境を越えて沓掛城に入ったからである。重臣たちは、今川軍をどう迎え撃つかの軍議が開かれると思い待機していた。ところが、太田牛一の著した『信長公記』には、「其夜の御はなし、軍(いくさ)の行(てだて)は努々(ゆめゆめ)これなく、色々世間の御雑談迄にて、既に深更に及ぶの間帰宅候へと御暇下さる」とあり、軍議は開かれず、雑談ばかりで、「もう夜もふけたので、家にもどれ」といわれたことが分かる。『信長公記』のその続きに、「家老の衆申す様、運の末には智慧(ちえ)の鏡も曇るとは此節なりと、各嘲哢(ちょうろう)候て罷(まかり)帰へられ候」とあり、重臣たちも暗澹(あんたん)たる気持ちになり、信長をばかにする者もあらわれたことがうかがわれる。この夜、信長が軍議を開かなかったのはどうしてなのだろうか。このとき、今川軍2万5000に対し、織田軍はせいぜい4000である。まともにぶつかって勝てるわけはないので、清須城に籠城(ろうじょう)するか、奇襲に打って出るか2つに1つしかない。おそらく信長は、軍議を開いても、重臣たちは籠城を主張すると読んでいたものと思われる。信長自身はすでに奇襲策を考えていたが、軍議の場でそれをしゃべれば、敵に伝わってしまうかもしれない。信長は家老衆という重臣たちにも心を許していなかったのである。

実は、信長が機密漏洩(ろうえい)を極度に警戒したために起きた出来事がもう1回ある。それが、天正三(1575)年5月21日に武田方と死闘を繰り広げた長篠(ながしの)・設楽原(したらがはら)の戦いの前夜、すなわち5月20日の軍議の場面である。このときは、信長と徳川家康の連合軍なので、前夜、信長の重臣たちと家康の重臣たちを交えての軍議が開かれている。その合同軍議の場で、家康の重臣筆頭酒井忠次が、「長篠城の付城として武田方が築いた鳶ヶ巣(とびがす)山砦(とりで)を攻めてはいかが」と作戦を進言した。すると信長は、「その方は、三河・遠江の小競りあいには慣れておろうが、このたびは、相手も万を超える大軍。そのような手は通用しない」と一蹴してしまっているのである。
 居並ぶ信長の重臣たちの前で恥をかかされた格好の忠次は、すごすごと自分の陣所にもどっている。ところが、陣所にもどるや否や信長からの呼び出しがかかり、「先ほどの作戦みごとである。しかし、あの場でそれを決めると、敵に筒抜けになるおそれがあり、あのようないい方をした。味方にも気付かれぬように鳶ヶ巣山砦への出陣を命ずる」とのことであった。実際、この酒井忠次隊の奇襲攻撃を受けた鳶ヶ巣山砦の武田軍が麓に追い出され、それに押される形で武田軍主力が設楽原に出て、そこで信長の鉄砲隊の餌食になった。機密保持が長篠・設楽原の戦い最大の勝因といっていいかもしれない。

難攻不落の城を落とした「謎のウラ工作」
織田信長の一番くわしい伝記である『信長公記』に負け戦のことが書かれていないので、「信長は一生勝ちっぱなしだった」と思っている人が多い。だが、もちろん間違いである。実は信長は何度も負けている。『信長公記』の著者太田牛一は信長の家臣で、自分の主人の経歴のキズになる負け戦のことは書けなかったのである。太田牛一がカットした信長の負け戦の1つが永禄九(1566)年閏(うるう)8月8日の河野島(かわのじま)の戦いである。この戦いは、美濃の斎藤龍興軍と信長軍の戦いで、龍興の重臣である氏家直元ら4人が甲斐(かい)武田氏の関係者に送った書状(「平井家文書」『山梨県史』資料編四)にくわしく記されており、「信長軍が多数溺死(できし)した」とある。斎藤方の戦勝報告なので、多少は割り引いてみなければならないにしても、信長側の敗北だったことは間違いない。信長にとっては危機的状況だったはずである。実はこのとき信長は、永禄三(1560)年5月19日の桶狭間の戦いで今川義元を倒し、美濃に駒を進めたものの、斎藤義龍の死後、家督をついだ龍興を攻めあぐねていたのである。かろうじて、木下藤吉郎秀吉の調略によって松倉城(岐阜県各務原市)の坪内利定が織田方に寝返り、今度はこの坪内利定を嚮導(きょうどう)役として木曾川筋の斎藤方部将に懐柔工作をはじめ、近くの鵜沼(うぬま)城や猿啄(さるばみ)城などが織田方となっている。ちなみに、このとき、信長から坪内利定に知行安堵(あんど)状が出されているが、その副状(そえじょう)を出しているのが秀吉である。永禄八年11月2日付のこの文書が、秀吉の名前がたしかな史料にみえる最初だ。河野島の戦いの敗北を受け、信長は力攻めで斎藤龍興を倒すのはむずかしいと考えたものと思われる。もちろん、前田利家ら槍働き隊に攻撃の手をゆるめさせたわけではないが、力攻め以外の手を併用しはじめた。それが龍興家臣への内応工作である。どういうわけか、『信長公記』にはそのとき進められたはずの内応工作のいきさつが書かれていないので、誰が担当したのか、具体的にどのように進められたかは分からない。突然、「八月朔日、美濃三人衆、稲葉伊豫守・氏家卜全・安藤伊賀守申合せ候て、信長公へ御身方に参るべきの間、人質を御請取り候へと申越し候」と記されているのみである。『信長公記』には年が書かれていないが、この文章の続きからこれが永禄一〇(1567)年のことであることが分かる。この美濃三人衆、すなわち、稲葉良通・氏家直元(卜全)・安藤守就の3人の寝返りを受け、信長は同年8月15日、難攻不落といわれた稲葉山城を落とすことに成功するのである。流れから推して、内応工作を進めたのは秀吉だったと思われる。

ピンチの際は「逃げ」こそ名将の証!?
元亀元(1570)年4月20日、織田信長は大軍を率いて越前の朝倉義景討伐の軍を起こした。信長の上洛命令を無視し続けている義景を討つためである。25日には若狭から越前に進み、敦賀の朝倉方支城である天筒山(てづつやま)城を難なく落とし、さらに翌二六日には金ヶ崎(かねがさき)城を攻め落とし、木ノ芽峠を越えはじめた。木ノ芽峠を越えれば、朝倉氏の本拠一乗谷はすぐそこである。ところが27日、信長にとって全く予期しないことが起こった。信長が自分の妹お市の方を嫁がせ、同盟を結んでいた北近江の戦国大名、浅井(あざい)長政が反旗を翻したという情報が入ったのである。ちなみに、このとき、お市が夫長政の謀反を兄信長に伝えるため、両端をひもでしばった小豆の袋を陣中見舞いとして送り、それに信長が「袋のネズミだ」と気がついたというエピソードが伝えられているが、どうも創作された話のように思われる。近江の浅井長政が朝倉義景と組んだわけで、信長は完全に退路を断たれた。絶体絶命のピンチである。このような場合、ふつうの武将ならばそのまま突っこんでいくことが多い。背後の浅井勢に備えて若干の兵を残し、本隊は目の前の敵、朝倉勢に突撃していくものと思われる。しかし、信長は違っていた。即刻、撤退を決めているのである。
 
信長としては、「こんなところで挟み撃ちにあうのはご免だ」という思いと、自分の目標である「天下布武」の実現のために、「こんなところで死ぬわけにはいかない」という強い信念があったのであろう。戦国時代、武将たちの意識の中には、勝つも負けるも時の運といった思いがあった。また、負けたら負けたで、潔く自害するのが当然と彼らは考えていた。例えば、周防の戦国大名、大内義隆は、家臣の陶(すえ)隆房(はるかた、晴賢)の謀反にあったとき、「弓矢を取り、戦場に入りて、切りまけ候へば、自害に及び候事、侍の本用に候」(『大内義隆記』)といって自害している。確かに潔い死に方であるが、信長は生きることに執着し、撤退を命じているのである。このとき信長は、木下秀吉・明智光秀・池田勝正の三人を殿(しんがり)として金ヶ崎城に残した。その上で、琵琶湖の東岸は浅井領で通れないため、西岸朽木(くつき)越えで京都に逃げもどっている。なお、このときは前記の3人が殿をつとめたが、その後、池田勝正は没落し、光秀も山崎の戦いで秀吉に負けた。そのため金ヶ崎の手柄は秀吉が独り占めする形となり、「藤吉郎金ヶ崎の退(の)き口(ぐち)」として、秀吉の武功の1つに数えられている。それにしても、出陣のとき、京都の町衆が多数見物する中、威風堂々と出かけた信長が、帰ってきてみれば、従う者はわずか10人というありさまで、ふつうに考えれば、みっともないことこの上ない。しかし、このときの勇気ある撤退が、その後の信長の躍進につながったことも事実である。時には撤退を選ぶのも危機管理策の1つとしてカウントしてよいのではなかろうか。(ITmedia ビジネスオンライン)



信長さんは超合理主義者で面子や意地よりも最小の努力で合理的に目的を達成するにはどうしたらいいかを常に考えていたように思う。そして尾張を統一するのに身内の反乱に苦しんだ経験から例え味方でもどこから情報が漏れるか分からないという気持ちが常にあったんだろう。それでなかなか自らの本心を明らかにはしなかったのかもしれない。桶狭間も今川軍2万5千と言うが、補給部隊が1万ほどいたそうだから戦闘部隊は1万5千、織田方は実働5千、そして今川の前線部隊は本隊から離れた前線に展開しているので実質的は5千、しかも勝ち戦に驕って乱取に出ているので実質的には今川義元の親衛隊300から500だけと言うのを知っていたんだろう。敵が5千なら味方が2千でも勢いがあれば勝てると踏んだんだろう。金ヶ崎の退き口の時も織田軍は3万、浅井・朝倉連合軍は2万5千ほどと言うので正面突破と言う手もあったんだろうけど退路を断たれて浮足立った織田軍の状況を考えてのことだろう。危ない橋はわたらずに再起を期すというのが合理主義者信長のやり方なんだろう。長篠・設楽が原でも武田軍の退路を断って正面突破戦法に誘い込みこれを撃破するのも理にかなっている。武田軍も3万5千と言う織田・徳川連合軍が戦場に到着する前に自国に引くという手もあったんだろうけど宿将に対する勝頼のプライドがそれを許さなかったんだろう。信長さんは軍の装備や領国経営でも良いものはどんどん取り入れている。織田軍は基本的に傭兵なのですぐに逃げるが、人的被害を最小化するための飛び道具や常識外れの長槍などがその例だろう。また調略などの敵の部内への工作などもよく使ったようだ。これだけ注意深かった信長さんだが、人に対しては甘いところがあったように思う。特に配下の武将の扱いだが、「利益を与えておけば裏切らない」と言う思いがあったように見える。少なくとも当時の武将の常識からは相当に外れた人だったんだからある程度の周知や根回しが必要だったんじゃないだろうか。そして自身の防護についてもせめて親衛隊の3千も伴っていれば本能寺の変は起こらなかっただろう。最もわずかな手勢を伴っただけで京都見物に行ったりするような人だからそうした認識はなかったんだろうか。不世出の天才戦略家も神ではなかったということだろうか。もっとも日本の神々は結構人間臭いドジを踏んでいるそうだが、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2020/03/24 16:25:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2020年02月23日 イイね!

人のやらない三つの大罪を犯した男、松永久秀、・・(^。^)y-.。o○。

松永久秀というより、松永弾正といった方が通りがよいかもしれません。室町幕府の実力者、三好長慶(ながよし)の家臣として、近江(滋賀県)の六角氏や河内(大阪府東部)の畠山氏との戦いで、三好軍の中心として戦功をあげています。1564(永禄7)年に主君・長慶が亡くなると、久秀が三好家を代表する形となり、翌年の将軍・足利義輝襲撃の際にも、三好長逸(ながやす)、三好政康、岩成友通の「三好三人衆」とともに、中心となっています。ところがその後、三好三人衆とは対立し、1567年には、東大寺に布陣した三人衆を攻めるため、大仏殿もろとも焼き払うということもやっています。

信長と敵対するも赦免
このように、畿内で敵なしと思っていたところに強敵が現れます。織田信長です。久秀のすごいところはその戦略眼で、勝てそうもないと判断するや、すぐ恭順の態度を取れるところだと思います。1568年、久秀は当時、名器として評判が高かった「九十九髪茄子(つくもなすび)」という茶入れを信長に献上、人質も出し、臣従しているのです。信長に擁立され、15代将軍になったばかりの足利義昭は、兄・義輝を殺したのが久秀に関係する者たちなのでその臣従に抵抗感はあったらしいのですが、信長に対する恩義もあり、黙認せざるを得なかったようです。
 
1570(元亀元)年4月の信長による越前攻めにも久秀は従軍しています。このとき、信長の同盟者で、信長の妹・お市の方を娶(めと)っていた北近江・小谷城主の浅井長政が反旗を翻し、退路を断たれそうになりました。久秀が信長を守って、無事、朽木(くつき)越えで京都に戻ることができたのは有名な話です。この後、しばらくの間、久秀は信長の一部将として主に畿内の戦いに奔走するのですが、甲斐の武田信玄が上洛の動きをみせると信玄に期待を寄せ、信長から離れ始めています。信玄の病気が重かったということを久秀は知らなかったようです。このあたり、機を見るには敏ですが情報収集に甘さがあったことは否めません。
 
結局、1573(天正元)年4月に信玄は亡くなりますが、「信玄上洛間近」の報で強気になり、信長と戦う覚悟を固めた足利義昭は籠城した槙島(まきのしま)城を攻められ、当てが外れた形の久秀は信長に降伏を申し出ています。信長は、一度敵対した者を赦(ゆる)すということはほとんどないのですが多分、信長としては「久秀はまだ使える」と思ったのでしょう。利用価値があるとみて赦しているのです。

謀反のタイミングを見誤る
この後、久秀は信長の本願寺攻めの一翼を担わされることになるのですが、その最中の1577(天正5)年8月、また、信長に反旗を翻しています。1回目のときは武田信玄に呼応しようとしたわけですが、2回目のこのときは越後の上杉謙信に呼応しようとしたのです。この年うるう7月、上杉軍が能登に侵攻、信長方の七尾城を攻め、その後、9月には手取川(てどりがわ)の戦いで、柴田勝家ら率いる織田軍が上杉軍に敗れています。しかし、久秀の謀反はタイミングとしては少し早過ぎました。

それでも珍しいことに、信長はすぐには久秀がこもった信貴山(しぎさん)城を攻めさせません。家臣の松井友閑(ゆうかん)を信貴山に送り、説得させているのです。信長は久秀の武将としての力量を相当高く買っていたのかもしれません。ただ、久秀の方も「信長が二度まで裏切った者を赦すはずはないだろう」と考えていたようで、最期は、名物茶器として有名な平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜とともに火薬で自爆したといわれています。情報収集の不足、タイミングの見極めを間違えると身を滅ぼすという教訓を残したといえそうです。(静岡大学名誉教授 小和田哲男)



信長さんはこの松永久秀のことを「主家を乗っ取り、将軍を殺し、大仏を焼いた、人のやらない大罪を三つもやった男」と言ってからかったそうだ。確かに戦国の世を生き抜くした強かさを持った梟雄だったのだろう。そして信長さんも松永久秀が畿内に大きな影響力を持っているということで重用したのだろう。信長さんは裏切った人間を決して許さなかったというが、そうでもないように思う。結構許しまくって秀吉君に「俺は信長のように甘くはないぞ」などと言われている。確かに人に対して甘いところがあったかもしれないし、それが本能寺の変を呼んで命取りになった嫌いがある。裏切られても説得を繰り返してそれでも恭順しないと徹底的にせん滅するというのが、信長さんのやり方のようだ。比叡山延暦寺も1年も説得を続け、何度も無視をされた挙句に徹底的にせん滅しているし、浅井、村木、そしてこの松永もそうだし、自分の弟も一度は許している。柴田勝家もそれに入るだろう。恭順して尽くすなら使い尽くすというのが信長さんのやり方だったように思う。決して許さない人ではないように思う。ただ、「配下の武将には利益を与えておけばいい」といういかにも合理主義者らしい考え方が、あまりにも先進的に過ぎた天才戦略家に不安を抱いた者の裏切りを呼んだのかもしれない。もう少し自分の方針なり考え方について周知徹底を図ったならまた結果は違ったかもしれないが、自分の方針をいちいち部下に説明している信長さんと言うのはちょっと違和感があるかもしれない。松永久秀もあまりにも先進的過ぎる信長さんのやり方に疑問と不安を持ち、反旗を翻したんだろう。そして説得に応じなかったものを徹底的にせん滅したそのやり口を見て「信長は裏切ったものを許さない」と言う認識を持ったのかもしれない。まあ、信長さんは日本史上不世出の天才戦略家で超合理主義者だから当時の戦国武将が理解できないのは無理はないのかもしれないが、敵を徹底的にせん滅するのは軍事的合理性としても意外にやさしいお人好しの面があったようにも思う。お互いの不幸は信長さんがあまりにも時代を超越した天才だったことが原因なのかもしれない、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2020/02/23 15:32:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2018年08月31日 イイね!

信長さんは何を目指していたんだろうか、・・(^。^)y-.。o○。




来年の大河ドラマで明智光秀が放映されるためか、信長さん関連の話題が多い。本能寺の変については以前も書いたが、光秀君の単独犯と思っている。共犯があるとすれば家臣だろう。理由は天下を狙ったわけではなく単に一族と配下の家臣の生き残りのため。


光秀君は信長さんに重用されてきたが、もともと考え方に隔たりがあった上に変の前には家臣の問題、四国長宗我部政策などで意見を異にしており、佐久間や林などの織田家重臣の追放などで自分の身も危ういと考えるようになった。多分、斉藤利三などからの突き上げもあったんだろう。


当時としては終活に入る年齢の光秀君、揺れ動く気持ちを前に一族と家臣の生き残りをかけて千載一遇の機会をとらえてクーデターを起こし、完璧な成功を収めた。もしも黒幕や共犯がいたのならあれだけ完璧にクーデターを成功させたんだからその時点で行動を起こすだろうが、そうした行動は誰も起こしていない。光秀君も細川藤孝などに必死の支援を求めているのは共犯がおらず単独犯だったことの証拠だろう。


信長さんは天才的戦略家でその点では恐るべきエネルギーを発散させ、また能力を発揮したが、配下の家臣の管理はずい分と甘いところがあった。武将は利益で動くと信じ、それなりの報酬を与えておけばいいと合理主義者にありがちな単純な思考で武将を管理していた。


また配下の武将に対して自身の方針の説明を怠っていたのはよろしくない。天才であればあるほど凡人には理解がしがたい部分がある。そうした部分から隙間ができて疑惑が生じると取り返しがつかなくなる。浅井も松永も荒木もそうした行き違いから疑心が生じた結果だろう。そして光秀君もそうだろう。もう少しきめ細やかには以下の武将に接していればそうした行き違いは起こらなかったかもしれない。信長さんは日本史上、不世出の天才戦略家ではあったが、すべてに天才であったわけでもない。秀吉君が天下を取ってから、「俺は信長のように甘くはないぞ」と言ったそうだが、確かに人事管理に関しては信長さんは甘いところがあったように思う。でも、サルのくせに「信長」と呼び捨てにするか。


で、仮に信長さんが本能寺の変に遭わず、あるいは変が起こらずに生き残っていたらその後どうしただろう。信長さんは統一がなって平穏になった世の中を収めることにはあまり興味がなかったんじゃなかろうか。おそらくは織田政権の体制を作って信忠君に任せたら外に興味を向けて海外にでも出て行ったんじゃなかろうか。


信長さんは朝廷からの官位を受けたがらなかったので自分が天皇にとって代わろうとしていたなんて話もあるが、朝廷がいかなるものかはきちんと承知していたようだし、世論を非常に重視する信長さんとして自分が天皇に取って代わることがどういうことかは分かっていたはずだ。どちらかと言えば信長さんに政権を担当してほしかったのは莫大な援助を得ていた朝廷の方ではなかったんじゃなかろうか。武力もあれば統治能力もある。そして莫大な経済的な援助もしてくれる。こんなに都合のいい武将はいない。


征夷大将軍でも関白、太政大臣でも好みの官職を授けるという朝廷に色よい返事をしなかったのは「官職をくれるなら体制を作り上げた後で息子の信忠にやってくれ」と言うところじゃなかったんだろうか。自分はまず大阪に城を作って根拠地としてまずはフィリピン、その後、インド、エジプトと駒を進めて行って最後はヨーロッパまで貿易の手を広げたかったんじゃなかろうか。信長さんの時代では本能寺の変が起こらずに生き残っても10年か15年が寿命だろう。その間にどこまでできたか分からないが信長さんの目は海の向こう、ヨーロッパを見ていたんじゃないだろうか、・・(^。^)y-.。o○。



Posted at 2018/08/31 16:24:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2018年08月20日 イイね!

京都は怨霊封じの巨大システム都市だそうだ、‥(^。^)y-.。o○。

京都は怨霊封じの巨大システム都市だそうだ、‥(^。^)y-.。o○。


京都と言うのは怨霊封じの巨大システム都市なんだそうだ。そもそも桓武天皇が長岡京を建設中、政敵の早良親王を幽閉して殺したところ、その後大洪水や疫病が続き10年経っても長岡京が完成しなかったそうだ。


そこで和気清麻呂が今の京都に遷都することを進言して平安京が出来上がったそうだが、その怨霊封じは徹底を極め、悪霊や怨霊の進入路である北西の方向は延暦寺や鞍馬寺、貴船神社でがっちりと固め、南方は朱雀大路の両側に東寺と西寺を配し、さらに城南宮を置いて固めた。そして都の周囲に大将軍神社を配置して東には青龍殿と将軍塚を配置した。将軍と言うのは蝦夷を平定した坂上田村麻呂で当時の朝廷や貴族には怨霊退治の武将として絶大な人気があったそうだ。


その後も政敵を倒した後で天災や伝染病が流行すると怨霊の祟りと言っては神社や寺を建てまくったので京都には神社や寺が林立するようになったとか。怨霊退治伝説の安倍晴明などの話が登場するのも怨霊を恐れる貴族が救いを求めたからだと言う。


太宰府天満宮も九州に流されて不遇の死を遂げた菅原道真の霊を慰めるためと言う。また讃岐に流された崇徳上皇も祟り神として有名で白峯神宮に祭られているそうだ。まあ現在も科学で立証できないものは多いが、平安時代などは天候も病気も地震や火山の噴火もすべて倒して政敵の怨霊の仕業になってしまって恐れおののいていたのだろう。そして彼らの救いは怨霊封じの寺社仏閣や催事だったんだろう。御霊会や祇園祭、葵祭も元はすべて怨霊封じの催事だったんだそうだ。まあ、この世に争いの種は尽きないからなあ。怨霊も尽きないのかもしれない、‥(^。^)y-.。o○。
Posted at 2018/08/20 22:37:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

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