• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ntkd29のブログ一覧

2018年03月19日 イイね!

本能寺ホテルに刺激されて京都に来た、(^。^)y-~。

本能寺ホテルに刺激されて京都に来た、(^。^)y-~。


本能寺ホテルに刺激されて安土から坂本を回って京都に来た。本能寺ホテルに泊まろうかと思ったが、あれは映画のセットで実際には一階と二階部分しか作られずあとはCGだったそうだ。セットは東映京都撮影所の中に作ったそうだ。だから京都市内を探しても本能寺ホテルはない。そういうことなのでホテルは京都市内に取った。


信長さんと言うと天魔、魔神のように描かれる。確かにあの戦乱の世の中を平定すると言うのは並大抵のことではないだろうから相当に強引なこともしただろう。でも本能寺の変で自分の命が風前の灯火なのに女房衆に「女子は苦しからず。急ぎまかり出でよ。」と逃げるように言うなど最後まで冷静さと優しさを失わなかったのはさすがと言うほかない。


信長さんは気性が激しく激昂するところもあったそうだが、超がつく合理主義者で常に冷徹な観察力を持って世の中を見ていたように思う。また猜疑心が強く人を決して信じないと言うが、もしもそうなら本能寺の変は起こらなかっただろう。信長さんは自分のやることを世論がどう判断するかそのことを非常に気にしていたそうだ。


本能寺の変の時に軍勢を伴わなかったのは三職推任に対する回答を朝廷にするのに軍勢を伴って朝廷を恫喝したと思われるのを避けるためだったそうだ。信長さんは炎の中に消えて日本史上不世出の天才戦略家はこの世から去った。


信長さんの墓はあちこちにあるが、堀川四条の本能寺跡には間違いなく信長さんの遺骨が眠っているだろうから明日は堀川四条の本能寺跡にでも行ってみるかと思っている、(^。^)y-~。
Posted at 2018/03/19 23:22:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2018年02月23日 イイね!

戦国時代に信長さんが登場しなかったらどうなっただろう、・・(^。^)y-.。o○。




戦国時代に信長さんが登場しなかったらどうなっていただろうか。まず秀吉君は歴史には登場してこないだろう。家康タヌキも今川の一武将で歴史の片隅に名を残す程度だっただろう。明智光秀も足利義昭に仕える一武将で終わっただろう。武家でも何でもない下層階級の秀吉君はおそらく商家の番頭になるか、地方豪族の部下として才能は振るったかもしれないが、出自を重視するあの時代では世に出ることはなかっただろう。家康タヌキも最終的に徳川幕府を開いたから神様に化けて「野戦の天才」などと称賛されるが、実際に戦闘は決して強くはないと思う。


大体、あの時代に天下を平定しようなどと言う考え方を持った武将と言うのが存在していないのでその後がどうなったかなど考えも及ばないが、当面、京都周辺は三好や六角が押さえて足利幕府を担いで牛耳っていたが、その勢力は京都周辺だけでその軍事力もそう大きいとは言えない。朝倉も筋が通っていないし、浅井も力不足、武田信玄も将軍から「信長を討て」と言う命令を受けて腰を上げたが、自分で天下を平定するという発想はない。上杉はそんな野望は全くない。毛利も腰が引けている。北条も地方武将で満足している。


大体、この時代、天下などより大事なものは自国の領土拡張とその保全で天下平定など「自分のことで手一杯でそんな余計なことしてられるか」だったんだろう。光秀の謀反も秀吉、家康黒幕説などは論外だが、明智家の家名と領土の保全でこれなら明智に仕えた各武将も自分たちの存亡がかかっているから納得するだろう。信長さんに蹴飛ばされた遺恨など武将に打ち明ければ「そんな個人的なことで我々の立場を危うくしないでください」と断られるだろう。天下を取るなどと言えば「足元を固めるのを先にしてください」と言われるだろう。


信長さんを倒して室町幕府を復興して恩を売ってその下で生きる方が明智家は安泰と言うのが謀反の動機なんだろうと思う。光秀は当時の秀才だったが、秀才と言うのは権威が作るものだから権威に擦り寄りたがるのは当然だろう。当時の権威とはやはり朝廷であり足利幕府だった。


話を戻すと結局京都周辺は三好、六角などが幕府を担いで支配し、それ以外は群雄割拠と言う状態が長く続いたんだろうか。それでもいつかは時代を平定する人物が出てきただろうけどそれは今の歴史とは全く違う人物になるかもしれない。


あの時代に「誰もが笑って暮らせる世の中を作る」と言って、尾張の一地方武将から立ち上がって20年で中部から近畿一円を支配下に置いて統一支配権の確立と言う政治目的を確立した信長さんと言う人はやはり日本史上不世出の天才戦略家だったんだろう。本能寺の変がなくてもうしばらく、10年か15年程度だろうか、信長さんが生きていたら国内体制を固めて信忠と自身の近習に任せて自分は海外に出て行こうとしたんじゃないだろうか。それも武力侵攻と言うんじゃなくて自身の興味を満たす貿易と言う形で、・・。ただその辺で信長さんの生涯が終わりそうに思う。


その後、織田政権が続くか、秀吉、あるいは家康に乗っ取られるか、乗っ取られる可能性の方が高そうだが、それは信忠がどの程度体制固めができるかにかかっているだろう。それにしてもあの時代にあれほどの天才が彗星のように出現して統一国家形成と言う政治路線に筋道をつけて部下の謀反で消えて行ったというのは歴史の偶然の必然性を感じさせる出来事ではある、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2018/02/23 15:12:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2018年02月18日 イイね!

「本能寺ホテル」にはまった理由、・・(^。^)y-.。o○。




先日地上波で「本能寺ホテル」を見てすっかりこの映画にはまってしまった。録画したのだが、CMが鬱陶しいのでDVDまで購入してしまった。映画のストーリーは他愛もないもので特に主役の姉ちゃん側の現代劇は話が飛び過ぎてなんだか支離滅裂のようにも思える。登場人物もあれこれ勝手なことを言うが何とも脈絡もなく「だから何なんだよ」と言いたくなるようなものだ。まあ、やりたいことがあったらうやむやにしないでやっておけよと言うところだろうか。


信長さん側の話も主役の姉ちゃんが本能寺の変の1日前にタイムスリップするというものだが、タイムスリップやタイムトラベルはSFなどではよく使われるネタだが、終わってしまった世界に行くことやまだ実際に始まっていない未来に行くのは不可能だと思う。


異次元に別の世界があるというならその世界は無限に存在することにもなる。まあ光の速さを超える乗り物に乗って過去の光を追いかければ光が減衰していなければ当時の様子を見ることはできるかもしれないが、その乗り物を作るのが大変だろう。


相対性理論では光の速度を超えるのは不可能と言うが、実際には光の速度を超えるものがあるらしい。まあでもそんな乗り物は当分できないだろう。映画自体はまあファンタジーものとして普通の出来だと思う。


では何が良いのかと言うと信長さんのキャラクター設定がなかなかいい。大体、信長さんと言うと実行力はあるが、傲慢不遜、冷酷非情の破壊者で最後は天皇に取って代わって神になろうとしたなどと言われるが、これは秀吉が信長さんを超えようとして貶めたのに加えて江戸時代の刺激的娯楽を求める風潮が作り出した、いわば、劇用のキャラクターで実際の信長さんとは少し、あるいは相当に違うように思う。


戦国時代の設定自体が以前は有力戦国大名が上洛を争って天下を目指して戦いに明け暮れたようなことを言っていたが、実際には誰も天下など目指してはいなかった。室町幕府の権威が失墜して世の中に下克上の風潮が満ち溢れるとそれぞれ有力大名は自国の領土拡大のために戦を繰り返していた。「天下、そんなものは幕府と朝廷でよろしくやってよ。利益があることなら手を貸してもいいけど、・・。」とそんなものだったと思う。


そんな中で尾張の一地方企業の若社長のような立場だった信長さんは「人が笑顔で生活できる世の中を作ろう。」と社内の内紛に苦しみながらも立ち上がる。自分でスカウトしてきた親衛隊とともに実弟を頭にいただく反対派を潰し、領土拡張を企てて侵攻してきた今川氏を劇的な桶狭間の勝利で破り、京都への足掛かりとした美濃を7年かけて手中にして浅井と結んで京都への筋道をつけたが、その後は浅井、朝倉の反攻や一向一揆、比叡山延暦寺など仏教勢力にも苦しめられながらそれぞれ各個撃破して天下平定まであと一歩のところで光秀の謀反に倒れた。


魔王とか何とかいうよりも地方企業の若社長が自分の理想を掲げて常に先頭に立って全力投球で自分の理想に向かって突き進んでいたように思える。信長さんは頭に超がつく合理主義者だったので自分の目標実現のためには手段を択ばないところもあったし、当時の常識では計り知れない部分もあったし、仕事には極めて厳しく、癇癪持ちで他人の意見を聞かないところもあっただろうから、そうした部分を取り集めて傲慢不遜、冷酷非道と言うのかもしれないが、実際には人にはかなり優しかったようだ。


また当時の常識とはかけ離れたことをしていたようにも見えるが、やっていることは一貫性があり合理的で魔道などと言うには当たらない。また非常に明晰で合理的な思考をする人なのであの姉ちゃんのことを考えれば「お前は未来から来たんだろう」と理解したとしても不思議ではない。何しろ地球が丸いということもその地球の上には自分たちとは違う人間が違う文化を持って生活していることも一瞬で理解するほどの能力の持ち主だからあの姉ちゃんを見ていればどうしてこの世界にいるのかその理屈はともかく違う時代の人間だという結論を下すには容易いことだろう。


信長さんと光秀の間には確執があってそれが謀反の原因になったと言われるが、それは江戸時代の作り話で実際に信長さんが光秀をいじめたということはない。ただ土台が全く違う人間同士なので意見の相違があって腹を立てた信長さんが光秀をけ飛ばしたくらいはあったかもしれない。信長さんは近習や自分の息子まで蹴飛ばしまくっていたそうだから、・・。だから癇癪持ちで傲慢不遜なところはあるが、非常に合理的な考え方をしてまた人にやさしいというあのキャラクターの設定はかなり信長さんの実像に近いんじゃないかと思う。


ただ一つ決定的に違うところは謀反を知っても「逃げも隠れもしない」と言ってそのまま討たれたところで実際の信長さんだったら自分が光秀の謀反を納得したら何をおいてもまずは一目散に安全圏に逃げ出していただろう。ただ逃がしてしまったらその先どうするか、どう話を展開するのか、想像もつかなかったことから権力を手にした自分が傲慢不遜になって部下さえも幸せにしてやれなかったことを悔い、誰もが笑顔で暮らせる世の中を作るにふさわしい後継者を秀吉として自身は光秀の謀反を莞爾として受けて死んでいったことにしたんだろう。


その辺は見ていて、「あんたは金ヶ崎でも不利を承知したら真っ先に逃げただろう。今回も早く逃げろよ」と切なくなるところはあるが、確かに助かってしまったらその先どうなるのかは想像もつかないので娯楽映画としてはあれで良いのだろう。これまでの信長さんと言うと甫庵信長記辺りのイメージが強いのだが、この話を見ていると実際の信長さんてもしかしたらこんな人だったのかもしれないと思ってしまうところはある。堤真一と言う俳優もなんとなく信長さんの肖像に似ていないか、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2018/02/18 14:18:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2018年02月11日 イイね!

「本能寺ホテル」雑感など、・・(^。^)y-.。o○。




昨日、「本能寺ホテル」を見た。タイムスリップもので主人公の女性が京都の本能寺ホテルから「本能寺の変」1日前の本能寺にタイムスリップして信長さんに会ってその人柄に魅かれて本能寺の変の発生を知らせるというもので話の筋はまあ他愛もないものでこれと言うところはないのだが、信長さんがずいぶんと優しく描かれていた。


明智光秀の謀反を伝えても特に何もせずにそのまま討たれるのだが、現実の信長さんならその情報に納得すれば真っ先に逃げて体制を整えて明智光秀を討ち滅ぼしただろう。映画の中の信長さんは平成の京都旅行のパンフレットを見て民が笑顔で穏やかに暮らしているのに満足して自分の役目は終わったと思ったのか、何もせずにそのまま明智光秀に討たれている。でもそんな淡白な人間ではないことは間違いない。


地球が丸く、その地球には日本と唐以外にも様々な国があって様々な人間が住んでいて黒人を見せられても顔料を塗っているのではないかと疑い、「洗ってみろ」と命じて皮膚の色が黒いことを納得すると自分の小姓として取り立てるなど聡明な知性と冷徹な合理性を併せ持った日本史上不世出の天才戦略家は人に対する優しさも持っていたのだろう。猜疑心が強く執念深いというが、この人がもしも本当にそう言う性格の人だったら明智光秀に本能寺で討たれたりはしなかっただろう。


本能寺で明智軍が間近に迫る中、森乱丸が、「御屋形様は冷酷非情で鬼のような人だが、どこまでもついていきたいこの世の中でたった一人の人だ」と言っていた。本能寺にいた馬廻集、小姓から下人に至るまでだれ一人逃げ出すものはなく明智軍と戦って討死したというからやはり信長さんと言う人は人を惹きつける魅力を備えた人だったんだろう。


僕もこの人だったら命も何もいらないからついて行ってみたいと思う人間は信長さんしかいない。もしも同じ時代に生きていたらきっとそうしただろうけど向こうに断られるかもしれないな。もしも本当にタイムスリップできるならAAV7の4台も連ねて信長さん救出作戦でもしてみたいが、過去は変えることができないということになるとダメかなあ、・・(^。^)y-.。o○。

Posted at 2018/02/11 14:08:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2017年11月18日 イイね!

長篠・設楽が原の戦いの真相は、・・(^。^)y-.。o○。




長篠の戦いは、織田信長が宿敵の武田軍を鉄砲隊の活躍で破った合戦としてよく知られる。しかし、ドラマなどでおなじみの鉄砲の3段撃ちや武田騎馬隊の突撃といった有名なシーンも、これまでの検証から虚構である可能性が高くなった。では、実際の戦いはどのようなものだったのか。佐藤優氏の「座右の書」を全面改定した『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「本当の長篠の戦い」を解説する。

■フィルムの中で輝き続ける「武田騎馬隊」の勇姿

日本映画の巨匠、黒澤明による1980年の公開作品『影武者』。そのクライマックスで描かれたシーンが、天正3(1575)年に行われた「長篠の戦い」です。果てしない荒野を土煙とともに敵陣へ疾走する武田騎馬隊の荘厳な姿は、これぞ黒澤映画の真骨頂といえるでしょう。現代ではしばしば用いられるCG技術に頼らず、膨大な数のエキストラを動員して構成された迫力の実写映像は、まさに圧巻といえます。こうした映像作品も含め、私たちが「長篠の戦い」と聞いてまず思い浮かぶのは、「織田信長が3000挺の鉄砲を使った『3段撃ちの新戦法』を発明し、『戦国最強の武田騎馬隊』を打ち破った」というエピソードでしょう。

かつては学校の授業でも「長篠の戦い」は、武田信玄の時代に全盛を誇った「騎馬隊」という旧式の戦法が、鉄砲を中心とした「新たな戦法」に敗れた歴史的事件で、中世から近世への転換点であると位置づけていました。ただ、こうした認識は現在では変わっており、「長篠の戦い」へのさまざまな検証から、これまで史実とされてきた「織田信長の3段撃ち戦法」や「武田騎馬隊」も含め、「実際の戦いの様相」はかなり異なるものだった可能性が指摘されています。それどころか「最新の日本史」では、従来、広く一般に信じられてきたことのほとんどが、実は史実とは言い難いことがわかってきています。今回は、こうした最新の研究動向から「長篠の戦い」の実像について解説します。今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

■「小説」が「史実」として広まった

Q1. 「長篠の戦い」とは何ですか? 
 
天正3(1575)年5月21日に三河国長篠(愛知県新城市)で行われた、「織田信長・徳川家康の連合軍」と「武田勝頼」による合戦です。両軍の総数は、織田徳川軍3万、武田軍1万5000とされていますが、諸説あり、実際の数ははっきりしていません。戦場は長篠城と設楽原(したらがはら)地域の2カ所で、鉄砲のエピソードで有名なのは設楽原での戦いです。
       
Q2. 戦いのきっかけは? 
 
「徳川家康と武田勝頼の、北三河地域をめぐる攻防」です。武田信玄の死去後、徳川家康は「北三河地域を武田氏から取り戻そう」と、奥三河の要衝である長篠城を奪還します。これに対して武田勝頼は、長篠城を三河侵攻の橋頭堡とすべく攻略に向かいます。徳川家康は長篠城からの救援要請に応えて軍勢を派遣するとともに、同盟関係にあった信長にも出兵を依頼し、「織田徳川連合軍」という形で武田軍に対峙しました。

Q3. これまでの認識では、どのような戦いだったのですか? 
 
織田徳川連合軍は、武田軍の得意とする騎馬隊による突撃を「馬防柵(ばぼうさく)」で食い止め、横1列に1000挺ずつ3段に分けた鉄砲3000挺で一斉交代射撃を行って、武田軍を撃退したというストーリーが有名です。

Q4. この話がなぜ疑わしいのですか? 
 
これは、江戸時代初期に書かれた小瀬甫庵(おぜほあん・1564~1640)による『信長記(しんちょうき)』に書かれているストーリーです。ただ、『信長記』は戦いから数十年を経たあとに書かれた「小説」で、当事者または同時代に残された記録(一次史料)ではないことから、「信憑性に問題がある」とされているのです。

Q5. 内容的に正しい史料はないのですか? 
 
信用できるものは多くありません。「最も史料的価値が高い」と考えられる信長の書状などには、残念ながら戦いの顚末は詳しく書かれていません。そうした中で、信長の家臣だった太田牛一(ぎゅういち・1527~? )が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』は、記述に具体性もあって全体的に正確であるとされ、誤りも幾分あるものの、「現時点では最も信頼できる史料」と考えられています。

■「1000挺一斉射撃」は荒唐無稽だ

「長篠の戦い」について、近年では『信長公記』や現地での発掘調査の結果なども基に検証が行われ、これまでとは「異なる解釈」が行われるようになっています。

【新事実1】鉄砲の数は「3000挺」ではなかった
 
戦場となった設楽原の発掘調査では、なぜか鉄砲の弾がほとんど出土しておらず、本当に3000挺もの鉄砲が使われたのか疑問が持たれています。そもそも3000という数は、小説である『信長記』に記されている話です。『信長公記』には、信長は各部将から少しずつ銃兵を集めて1000人ほどの鉄砲隊を臨時に編成したと記されており、実際には「3000よりも少なかった」と思われます。

【新事実2】3段撃ちによる一斉交代射撃はなかった
 
いわゆる「3段撃ち」のエピソードも、やはり小説である『信長記』に書かれた話です。突撃してくる武田軍に対し、信長が「敵が近づくまでは鉄砲を撃つな。1町(約100m)まで引き寄せたらまず1000挺が発砲し、1段ずつ交代に撃て」と命じる場面があり、この内容が基となって定着しました。ただ、信頼できる史料では「3段撃ち」については一言も触れられておらず、『信長公記』でも、鉄砲を「さんざんに」撃ちまくったとあるのみです。一方、武田軍についても「新たな見解」が提示されています。

■騎馬隊という幻想

【新事実3】「武田騎馬隊」の活躍はなかった
 
この時代、戦国大名の家臣たちは、それぞれの知行に応じた数の騎馬や槍(やり)、弓などの兵を集め、戦場でもこれらの兵種が混在した形で集団行動をしていました。これは武田氏でも同じです。つまり、「騎馬隊」と呼べるような兵団は存在しませんでした。さらに、当時の軍役から兵種を分類してみると、「武田軍の騎兵の割合は全体の1割程度」だったこともわかっています。ちなみに当時、日本にいた在来種の馬は、体が小さい種類でした。現代のサラブレッドは体高がおよそ150~170cm超ありますが、当時日本にいた馬は120cmほど。今でいう「ポニー」に近い体型でした。

【新事実4】「戦いの舞台」は、広大な平原ではなかった
 
「長篠の戦い」の主戦場となった設楽原は、「原」という地名からは開けた場所がイメージされます。しかし戦場となった場所は、南北におよそ2km、東西に平均して200~300mほどの縦長な平地が広がり、その中央を河川(連吾川)が分断する、およそ馬が駆け巡る大平原とは程遠いロケーションでした。

【解釈5】両軍は「平地」で戦っていなかった
 
決戦時、織田・徳川連合軍と武田軍は、上記の南北に続く平地に沿って背後に細長く連なる「舌状台地上に布陣」していました。特に連合軍側は、武田軍本隊が長篠城から向かってくる数日前からこの台地を巧みに陣地化し、空堀(からぼり)や土塁、切岸(きりぎし)を築くと、全体に柵(さく)をめぐらせ、高低差を利用して武田軍を迎えました。そのため、この戦いは武田軍からみれば「平原での野戦」というよりむしろ「城攻め」に近く、馬での戦闘には不向きでした。

Q6. ところで、最初の目的だった長篠城はどうなったのですか? 
 
信長が派遣した別働隊により、設楽原での決戦の日に救援されました。決戦の前日、信長はひそかに自らの親衛隊と家康軍の一部隊を合わせた4000の兵を迂回路から長篠城に送り、翌日の設楽原での開戦とほぼ同時に敵の包囲から長篠城を救いました。これで、織田・徳川連合軍の当初の目的だった「長篠城の救援」は達成されたうえに、設楽原でも「武田軍本隊に壊滅的な打撃を与える」という思わぬボーナスが追加されたため、勝利の印象がより鮮烈なものとなりました。

■「新たな史料の発見」で日本史は大きく変化している

戦国時代後期には、鉄砲が戦場での主要兵器となり、「合戦の様相」はそれまでとは大きく変わりました。信長はこの鉄砲にいち早く着目し、鉄砲の力で天下統一を目指したことは間違いありません。ただし、彼の前に立ちはだかるライバルたちも、鉄砲を手にしていました。なかでも大坂の石山本願寺は、鉄砲の製造と使用に秀でた雑賀衆(さいかしゅう)とともに激しく抵抗を続け、信長はその攻略に11年もの歳月がかかったことで、道半ばで生涯を閉じる結果となったのです。

日本史では「新たな史料」の発見や研究の成果により、しばしば「史実」が置き換わっています。教科書でそれまで「常識」とされていた内容でも、変更や削除、まったくの新事項の追加が行われています。特に「最近の記載の変化」は目まぐるしいものがあります。今回の「長篠の戦い」のように、「かつて学校で習った日本史」と「最新の日本史」では、実態が大きく異なるケースが多々あります。ぜひ「最新の日本史」を学ぶことで、その違いを実感しつつ、「大人に必要な教養」までいっきに身につけてください。




長篠・設楽が原の古戦場は何回も行って見てきたが、東西を低い山地に挟まれて中央に川が流れる幅が200mくらいの低湿地、現在は水田、で馬が駆けまわったりするような場所ではない。織田・徳川連合軍は西側の低山地に野戦陣地を作って柵を設けて侵攻してくる武田軍を迎え撃ったようだ。織田方の鉄砲の数は3千丁から千五百丁まで様々だが、甫庵信長記にあるように三段撃ちが行われたかどうかは明らかではない。甫庵信長記は徳川幕藩体制が確立されてからの物語で面白おかしく書いてあるし、徳川への配慮もあるので歴史資料としては信用性が低いらしい。信長さんと光秀君の確執もここから出た創作だし、信長さんが狸の奥さんと長男を殺させたというのも神様になったタヌキが奥方や息子を殺したのではよろしくないということで事実を枉げたそうだ。実際はタヌキが自分の言うことを聞かない奥さんと長男を理屈をつけて殺したらしい。話は戻るが、信長公記にも一日中銃声が鳴り響いていたとあるし、武田方の主だった武将は馬防柵の手前で多く討死しているので川を渡って低湿地を侵攻してくる武田軍を織田方が銃撃で殲滅したのは事実のようだ。当時の鉄砲隊は大体100人くらいを足軽大将が率いていたそうなので射撃順序を決めておくということもできたかもしれない。織田軍は柵から出るなと言う指示が徹底されていたそうだが、徳川軍は柵から出て武田軍と白兵戦を行ったそうだ。それにしても場所が狭くてあんな猫の額のようなところに5万もの部隊がいたのか、それもちょっと不思議ではある。それを言うと関ヶ原もそうだが、・・。信長さんが鉄砲などの長距離火力を重視したのは尾張勢が白兵戦に弱かったからと言う説もあるし、兵を失うのを嫌ったからと言う説もある。武田軍も鉄砲はあっただろうけどあまり重要視されず、帝国陸軍のように白兵突撃が重視されたのは兵自体が強兵でそれに自信があったからだろう。信長さんは装甲船や重火器を使って毛利水軍を撃破したりしているが、本願寺との戦いでは雑賀の鉄砲隊にずいぶん痛い目を見たようだ。本願寺包囲戦に攻城砲なり大型の重火器を使ったら結果も変わったんじゃないかと思うが、佐久間君はそう言う知恵が出なかったんだろうな。長篠・設楽が原の戦いでは鉄砲はあまり使われなかったんじゃないかとか、さほどの大きな戦いはなかったんじゃないかとか、いろいろ言われているが、武田軍が崩壊寸前まで撃破されているのでやはり鉄砲を使った大掛かりな戦があったんだろう。でもここが戦場と言う場所を見ると「え、こんなに狭いところなのか」とは確かに思う場所ではある。最近は歴史も随分と見直されていて昔の知識など通用しないところもあるが、新事実が出てきて過去が明らかになるというのもなかなか興味深いものではある。
Posted at 2017/11/18 10:36:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

プロフィール

ntkd29です。CB1300スーパーボルドールに乗って11年、スーパーボルドールも2代目になりました。CB1300スーパーボルドール、切っても切れない相棒にな...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/8 >>

     1 2
345 678 9
101112 131415 16
171819 20212223
242526 27282930
31      

リンク・クリップ

愛車一覧

トヨタ GRヤリス トヨタ GRヤリス
基本的には前期型と大きな変化はないが、インパネは液晶デジタルになってずいぶんすっきりした ...
ホンダ CB1300 SUPER BOL D'OR (スーパーボルドール) CB1300スーパーボルドールM2018 (ホンダ CB1300 SUPER BOL D'OR (スーパーボルドール))
外観 もうこれは美しいという以外にはない端正なバイクではある。ホンダは「威風なる血統」 ...
トヨタ GRヤリス トヨタ GRヤリス
今度はGRヤリス、・・(^^♪。昨年GRヤリスの納期が1年半以上と聞いて速攻で契約してし ...
トヨタ 86 トヨタ 86
元々トヨタ党だったが、ちょっと浮気してダイハツコペンに乗っていた。しかし、ディーラー氏と ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation