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2017年10月26日 イイね!

「上様所縁のものの略奪を許さず」と本能寺の変直後に秀吉君が言ったそうだ、・・(^。^)y-.。o○。




織田信長が明智光秀に討たれた1582年(天正10年)の本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉が家臣に宛てた書状が愛媛県内の個人宅で発見された。

 
変後に横行した京都市中での略奪に対し、信長ゆかりの品物に限っては持ち主に返すよう命じた内容だ。亡き主君・信長を変後も秀吉が尊重していたことを示す史料として注目される。

 
東京大史料編纂(へんさん)所の村井祐樹准教授が25日に現地で調査し、筆跡や内容から新発見の書状と判断した。天正10年8月14日付で、秀吉が堀尾毛介(もすけ)(吉晴)ら3人の家臣に宛て、文末に「筑前守 秀吉」の名と花押がある。

 
戦国時代、略奪を避けるため武士や公家が寺社に財産を預ける「預物(あずけもの)」の慣行があったが、変後は明智勢による預物の略奪が頻発。明智勢を破って入京した秀吉は、それらの略奪物の持ち主を確認するよう家臣に命じたが、秀吉の家臣までもが預物の略奪を始めた。

 
書状では、家臣の略奪を受け、「預ヶ物(預物)」や「乱妨物(強奪した物)」については「(今後)一切調査は行わない」と伝える一方、信長の所有物や、信長から賜った「上様御物(うえさまごもつ)」は返還を命じている。




秀吉君もまだこの頃は信長さんに対する畏敬の念を持っていたんだねえ。その後時間と自己の権力の増大とともに信長さんを超えることを至上命題として自滅してしまったが、・・。後には「俺は信長ほど甘くはないぞ」と信長さんを呼び捨てにしていた秀吉君だが、器の違いはどうしようもなかったんだろうし、自分でもそれは分かっていたんだろうけどねえ。「凡人は天才も秀才も区別がつかないが、秀才は自分と天才がどう違うかもどんなに努力しようが自分は絶対に天才にはなれないこともどちらも分かっている」と言う悲しい人間と言った人がいたが、そう言う思いはあったんだろう。タヌキは天才の道はさっさと捨てて「おれは秀才の道を生きる」とわが道を進んだので260年にわたる徳川幕府の礎を作ることが出来たんだろう。やはり人間は分というものをわきまえないといけないのかもしれない。いずれにしてもこの時期、秀吉君がこうした文書を出しているということは秀吉君は本能寺の変には無関係と言うことだろう。まあ、それも小説の中の話で実際にはあり得ないが、・・(^。^)y-.。o○。


Posted at 2017/10/26 11:00:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2017年09月14日 イイね!

戦艦長門の軍艦旗、長岡に返還へ、・・(^。^)y-.。o○。




戦前から戦中にかけ、旧日本海軍の連合艦隊旗艦だったことでも知られる戦艦「長門」の軍艦旗が、米ハワイ州ホノルル市にある「戦艦ミズーリ記念館」から、山本五十六連合艦隊司令長官の出身地、長岡市に寄贈されることが13日、分かった。軍艦旗は10月上旬に同市に贈られる予定。

 
関係者によると、昨年12月に磯田達伸市長が真珠湾攻撃の日米合同追悼式に出席した際に、同記念館側から寄贈の申し出があったという。市は軍艦旗の保管場所について、同市の山本五十六記念館(同市呉服町)も候補に入れて検討している。今月下旬をめどに保管場所を決め、来月の寄贈を迎えたい考えだ。

 
長門は戦前・戦中に「世界七大戦艦」の一つとして、日本の国民に親しまれた。先の大戦中は昭和16年の真珠湾攻撃や19年のレイテ沖海戦などでも活躍。終戦後は米軍に接収され、その際に軍艦旗は米兵に持ち去られたとみられている。21年に長門は核実験の標的艦として使われ、ビキニ環礁に沈められた。




海軍の軍艦旗は陸軍の軍旗とは違い消耗品で潮で色が褪せたり風で裂けたりすると新しいものに交換していたそうだ。だから長門にも主計科辺りに予備の軍艦旗が何枚かあったのを持って行ったのだろう。そう考えるとあまりありがたみがないが、まあそれなりに貴重な歴史の資料ではある。

Posted at 2017/09/14 10:05:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2017年09月12日 イイね!

「敵は本能寺にあり」と言った理由は、・・(^。^)y-.。o○




明智光秀が本能寺の変に踏み切った理由についてはかつて、信長に辱められた「怨恨(えんこん)説」や天下取りの「野望説」など、個人的な視点で理解されていた。しかし近年は研究が進み、織田政権内部の対立や戦国大名らとの関係の中で発生したとの解釈が重視されるようになってきている。

 
3年前、岡山市の林原美術館での石谷家(いしがいけ)文書の発見は、信長が四国の長宗我部(ちょうそかべ)氏への対応を変更したことを機に、長宗我部氏との交渉担当だった光秀が面目を失い、進退窮まって変を起こしたとする「四国説」を浮上させることとなった。

 
さらに今回の書状から、光秀は最終的に足利義昭との連携を構想していたと読むことができる。

 
本能寺の変のあと、光秀は畿内や安土城のある近江の平定を目指したが、頼みとする細川藤孝(ふじたか)(幽斎)や筒井順慶は協力を断ってきていた。

 
孤立状態の光秀としては、かつての主君でもあった義昭を戴(いただ)いて、毛利氏や長宗我部氏らの協力も得た政権を目指すしかなかったのだろう。義昭については従来、「信長の傀儡(かいらい)」としか見られていなかったが、その力を再評価する動きも出ている。

 
とはいえ、今回の書状は「山崎の合戦」前日という逼迫(ひっぱく)した中で書かれており、本能寺の変の前に、義昭との間で綿密な打ち合わせがあったとまでは証明されたわけでない。「義昭黒幕説」で決着とはいかず、変の「なぜ」を問う議論は今後も続くだろう。(客員論説委員 渡部裕明)




これもねえ、やった後の話だから自己の行為の正当化と味方を獲得するためと言う風にも読める。と言うよりもその線が強いだろう。足利義昭も裏でいろいろとうごめいてはいたが、あの時期の全国にほぼ敵がいなくなった信長さんを討つと言うのは非常に難しいことで失敗したら自分の命がない。その可能性が極めて大きいことをろくな権限もない15代足利将軍のために敢えてそれを命じられたからと言ってもやらないだろう。明智光秀が信長さんを討ったのは自己の一族とその領土の保全のためで背景などはない単独犯と思う。まあ、なんだかんだで最近は信長さんの研究も進んでイメージも変わりつつある。でも人の心の中までは何とも読めないし、光秀君が、「俺はかくかくしかじかの理由で信長さんを討つ」なんてことを書き残していない限り、そんなものが残っているはずもないが、・・真の理由は永遠に歴史の闇の中だろう。

Posted at 2017/09/12 16:25:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2017年04月22日 イイね!

城郭に変化をもたらしたのは安土城ではなくて信長さんの時代を超えた発想、・・(^_-)-☆。




現在発売中の「歴史人」5月号では「戦国の城」を特集している。戦国の城の魅力とは、いったいどこにあるのだろうか。

 
太平の世だった江戸時代の城と違い、戦国の城はまさに「戦うための城」であった。
 
応仁の乱は、全国に戦乱を生み、儀礼的な性格を持っていた「館」は、土塁と空堀によって囲まれる軍事的な「城」へと変化していった。

 
まずは、山を切り盛りしてつられた「山城」が出現。土の城であり、土木施設としての防御施設だった。その構造を縄張(なわばり)と言い、兵の駐屯地である曲輪(くるわ)、防御壁としての土塁(どるい)、遮断線としての堀切(ほりきり)で構成されている。

 
戦国時代も後期になると、戦国大名は山頂の曲輪に屋敷を構え、家臣たちも共に居住するようになる。越後の春日山城や出雲の月山富田城など曲輪の数が数百を超えるケースもある。

 
さらに天正4年(1576)に織田信長が築いた安土城は、日本の城郭に革命的変化をもたらした。その特徴は、高石垣、金箔瓦、そして天守である。以後、日本の城はこの要素を踏襲することになる。

 
戦国の城の魅力の一つには、このような「戦う城」から「見せる城」への変化があると言える。




戦うための城の極致は後北条氏の小田原城だろう。街を惣構えで取り込んで長期の籠城に耐えられるように作られていた。戦国時代の城は概ねこの類だったが、信長さんの城は権威の象徴としての城でその発想自体例を見ないものだった。戦国時代の末期から江戸時代の初期には大砲の出現で城そのものの防御力が意味をなさなくなってきていた。江戸時代の城は武士の心の拠りどころ程度だろうか。信長さんは城に拠って戦ったことはない。城どころか自分の領地内でさえ戦ったことがない。安土城も自分の権威の象徴として建てたのであってあの城に拠って戦うことなど全く考えなかっただろう。見学料を取って一般人を城に招き入れたりお盆に城をライトアップしたりしたのも後にも先にも信長さんだけだろう。そんな発想も時代をはるかに超越している。火力兵器の進歩で城自体が防御拠点になり得ないことを見越していたのかもしれない。

Posted at 2017/04/22 10:10:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2017年02月09日 イイね!

織田信長(12)




「本能寺ホテル」と言う映画をやっている。現代人が本能寺の変前の時代にタイムスリップして信長さんの人柄に魅かれて信長さんに本能寺の変を教えると言う話らしい。こうしたタイムパラドックスを題材にした映画は結構ある。


ターミネーターもその代表だが、あまり無闇に時間を移動して歴史をいじくると何でもありで終いには何が何だか分からなくなってしまう。「タイムマシン」のリメイク版は「過去はどう介入しても変えることができない」という原則があって過去に起こったことにどう介入しようと結果は同じことになってしまう。タイムトラベル物はこれが一番分かり易い。リメイク版タイムマシンの悪役でモーロックを操っているウーバー・モーロックが、「人間は誰でもタイムマシンを持っている。思い出は過去へ、そして夢は未来へと人を導く」とか言っていたのがちょっと印象的だった。閑話休題、・・。


さらに信長さんのような日本史上不世出の天才の過去を変えてしまうと結果の予測は非常に難しくなってこれもまた収拾がつかなくなってしまう。そんなわけで本能寺の変はそのまま置いておくとして信長さんが生きていたらどうしようとしたのだろうか。


朝廷を排して日本の絶対君主になったと言う話もある。でもこれはあり得ないと思う。信長さんは朝廷が日本の最高の権威であり絶対の正義であることを理解していた。これは過去から現代に至るまで一貫した日本国の根底をなす大原則である。今の日本国の政府も朝廷、つまり天皇陛下の親任によって成り立っている。


信長さんは自分の行動についてそれが正義であることを公に証明できるか否かに心を砕いていたと言うから朝廷を排して自分が日本の絶対君主になることなどは考えてはいなかっただろうし、日本においてそれが不可能なことも知っていただろう。


何より信長さん自体がそうした国のトップに立つことをさほど望んでいなかったようにも思う。信長さんは「戦乱のない世の中を作って誰もが85歳まで笑顔で生きられるようにしたい。そういう世の中を作りたい」と言っていたそうだが、何かしらの理想を持ってそれに向かってまっしぐらに進んでいたのだろう。


本能寺の変が起こらなければ中国の毛利を征服して、その後は九州の島津を切り従えれば関東の北条は信長さんに臣従の姿勢を示していたし越後の上杉も反抗できるほどの勢力はなく、東北の伊達や最上も同様だろう。毛利を制圧すればその時点で何らかの支配体制を構築していたと思うが、その際にその頂点に立つのは信長さんではなくて信忠君だったんじゃないだろうか。


神になろうとしていたと言う説もある。しかし、「仏像は木と金でできていることをきんか頭に教えてやらないといけない」とか言っていた人がその木と金になろうとはしないだろう。俺を拝んだ方がご利益があると言ったのは実力の絶頂期にあった信長さんのスパイスを効かせたジョークだったのかもしれない。


じゃあ信長さんはどうしたかと言うと安土城を信忠君に譲って自分は大坂に城を築いて海外進出を目指したんじゃなかろうか。もちろん秀吉くんの朝鮮征伐のような武力侵攻ではなく貿易を主とした海外交易に軸足を置いた方法での海外進出ではあるが、・・。まあ、あの性格だから一朝事あれば軍事力を使用したであろうことは想像に難くはないが、・・。


当時もフィリピンやタイ辺りまでは日本人も進出していたと言うので取り敢えずはルソン辺りに足場を置いてやるのだろうか。多分様々な技術や文化を取り入れて、また、様々なものを輸出して莫大な利益を得ただろうし、日本のあり方もずい分と変わったことだろう。


信長さんには将軍や関白などよりもその方が似合っていそうな気がする。信長さんは健康にも気を使っていたと言うので65歳くらいまで生きたとすると3歳下の秀吉君と同じころなくなっただろう。残るはタヌキだが信長さんの死後も18年ほど生存していることになる。信忠君がタヌキの簒奪に耐えられたかどうかは難しいところだが、織田政権も15年近くを経て安定しているだろうし、信長さんはタヌキに250万石などと言う領地は与えなかっただろう。


本能寺の変が起こらなかったら、日本は史実とは全く違う歴史の歩みをしたかもしれない。あるいはやっぱりタヌキ幕府になっていたかもしれない。ただ、どう考えてもやっぱり信長さんに征夷大将軍はどうも似合いそうもない。
Posted at 2017/02/09 16:41:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

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