◇愛知・豊橋の寺で発見 悪感情読み取れる
愛知県豊橋市の金西寺(曹洞宗)に伝わる古文書に、織田信長を批判的に評した詩文が引用されていたと島田大助・豊橋創造大教授(日本近世文学)や高崎俊幸住職が発表した。島田教授は、仏教界の信長に対する悪感情が読み取れるとしている。
文書は、寺を開いた月岑牛雪大和尚が江戸時代初期の1619年以降に書いたとされる開山記「当寺御開山御真筆」。
その冒頭に、近江国(現在の滋賀県)出身で京都・東福寺の住持を務めた集雲守藤の別号とされる江湖散人の詩文が引用されていた。詩文は、信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の翌月の1582年7月に作られたとみられる。
詩文には「信長は京を鎮護して二十余国を領したが、公家をないがしろにして万民を悩まし、苛政や暴虐は数え切れない」「(本能寺の変で)死亡して人々は拍手し、天下が定まった」といった意味の記述があった。さらに信長について「黒ねずみで平清盛の再来」とする一方、光秀を「勇士」と表現したとみられる記載も見えた。
信長が1579年に築いた安土城に触れ「天守は(高さ)百尺(約30メートル)」「苦役で民が汗を流し、ぜいたくな城を築いた」と解釈できる部分もあった。信長の比叡山焼き打ちにも言及していた。
島田教授は2014年に高崎住職から依頼を受け調査を進めていた。島田教授は「信長が仏教界から尋常ではないほど恨まれていたことが伝わってくる」と話した。
やかましい、坊主ども、日本史上、不世出の天才に何を言うか。でもまあ、キリスト教を庇護して、一向宗は徹底的に弾圧したし、比叡山は焼き討ちしたし、恨まれるかもしれない。でもなあ、信長さんは対抗勢力としての宗教団体をせん滅しただけで宗教活動それ自体は何ら規制はしていない。まして住民を弾圧など一切していない。織田家の財政は年貢としての米よりも商業などを通じて上がって来る利益に負うところが大きかったようだ。楽市楽座で誰でも自由に商売ができるように努め、関所を排して道路や橋を整備して物流を円滑にするなど非常に近代的な商業政策を取っていたようだ。信長さんの政策と言うのは中世から近世を飛び越えて近代に至るような革新的な政策だった。信長さんは不世出の天才戦略家だったが、神ではないので人として欠点もあっただろう。それでも旧来の体制を一新して新しい世の中を作ろうとしたことは大いに評価できる。ただ旧来の体制に乗って保身を図ってきた旧勢力にはそれは評判は悪いだろう。光秀さんも旧勢力の信奉者だったので信長さんの政策が理解できず自身や一族、家臣などの身分の保証も得られないことから不安に駆られて謀反を起こしたのだろう。あの謀反には黒幕や同調者などはいない。光秀さんと家臣が組んで身の保身のために起こしたことだと思う。信長さんが何をしようとしていたか天才の考えることは想像がつかない。ただ、仮にあと10年か15年生きていたら日本は近世を飛び越えて近代へと進んでいたかもしれない。信長さんと言う人は自身にも家臣にも極めて厳しく過酷だったそうだが、身近に仕える者ほどその魅力に心酔したと言う。本能寺でも小姓から小物に至るまで誰一人逃げようともせずに信長さんを守ろうとして圧倒的な明智軍と戦って死んだと言うからやはりそれだけの人間的魅力があったんだろう。分かったか、坊主ども、不届き千万である。
Posted at 2017/02/05 12:48:26 | |
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