2016年07月10日
昨日、「世界不思議発見」で本能寺の変の光秀さんの動機をその子孫の方が、「信長が光秀に家康を討て」と命じたことが原因と言う本能寺ストーリーを解説していた。しかし、この話、お話としては突飛なことから一般受けするのかもしれないが、現実には全くあり得ないと思う。
まず、もし信長さんが家康タヌキを殺そうと思うなら、何も光秀さんの1万3千の軍勢を動員することもない。供回りしか連れていない家康タヌキなんだから信長さんの親衛隊である馬周衆でも使えば済むことだ。その方が秘密が漏れることもなく確実だろう。馬周りの精鋭100か200で済むことだ。
また、光秀さんと家康タヌキの間には事前の合意があったと言うが、それならば家康タヌキは本能寺の変で信長さんが討たれても慌てることなく堺に留まっていればいい。京都でもいいだろう。光秀さんは家康タヌキを殺す気などなかったと言うのだから、・・。重臣まで野盗盗賊の類に殺されながら伊賀の山の中を200キロも逃げる必要もない。その後も家康タヌキと組んで天下取りを進めればいいのにそうした気配もない。
大体信長さんと言う人はバカみたいに他人を信じる人で従うものはそれなりに厚遇したし、家康タヌキのことはけっこう買っていたようなので、あの時点で家康タヌキを暗殺する必要など全くない。また、信長さんは自分から同盟者を裏切ったことは一度もない。浅井、荒木、松永、そして光秀さんの謀反にもそのたびに非常に驚いている。人間関係に無垢すぎるのではないかと思うほどだ。
大体、家康タヌキを討ちとってもその残党に蜂起でもされたらそれを鎮圧する軍勢がない。あと一手、二手で天下を握れるときに自分の軍団内を割る様なことをしても何の利益にもならない。要らない武将なら天下を取った後の統治権を確立する際に追放すればいい。
光秀さんの武将の中には、「京都で家康を討つ」と思っていた者もいるようだが、そうだとしたらそれは自分でそう思い込んでいたか、あるいは信長さんを討つと言うと驚いて逃亡や通報するものが出ることを避けるためにそう言っていたのかもしれない。
未だにこれと言った確証が出てこない本能寺の変なので様々な仮説が出てくるが、ここにも書いたように光秀さんと信長さんは国家統治について全く正反対の考えを持っていた。それでも貧困に苦労した光秀さんが信長さんに従属して国持大名にまでのし上がった。
信長さんと光秀さんの間には様々な意見の対立があったようだが、何よりも自分の領地を長男に引き継いで明智家を繁栄存続させたいと言う光秀さんの願いが根底から揺らぎ始めたと光秀さんにおいて信じるべき理由があって、また、家臣も信長さん討伐に賛成の意を示し、最後に信長さんと信忠さんがわずかな手勢しか連れずに京都に滞在していると言う千載一遇の好機に巡り合って、そこで明智家の未来のために乾坤一擲の勝負を決心したのだろう。
光秀さんは当時としては常識派の武将で領地政策も住民本位の善政を敷いていたという。そういう人だからこそ老境に入り、先がなくなった自分の境遇を思い、一族郎党のために一世一代の大勝負に打って出たのだろう。もしも秀吉君がいなければそれは成功したかもしれないが、・・。
ところで信長さんが光秀さんと密談した際に怒って光秀さんを蹴飛ばしたと言うが、信長さんは短気で意にそぐわないとどこでも誰でも「すぐキック」で蹴飛ばしていたようだ。信忠君もずい分とやられたとか、・・。小姓などもずい分と蹴飛ばされていたらしい。だから周囲の者はそんなことは日常茶飯事と受け止めていたのではないか。たまたまそうとは知らない宣教師がそれを見て驚いて書き留めたのではないか。
本能寺の変の理由は永遠に不明かもしれないが、天下を狙ったなどと言う自分の欲望ではなく、老境に至って家族や家臣思いの強い光秀さんが、人生最後に家族と付き従ってくれる家臣の未来をかけて打って出た最後の大勝負だった。それが光秀さんにとって一番ふさわしいように思う。
Posted at 2016/07/10 11:14:18 | |
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歴史 | 日記
2016年04月20日
光秀さんがどうして領地と子孫を巡って謀反を企んだと考えたのか、それは以下のとおりである。まず、同調者がいたとしたら信長さんを討った後、何らかの行動を起しただろうが、そのような状況が全くないこと。
黒幕がいたというが、朝廷は、現在力を持っているものを称揚して官位を与える。失敗したら何をするか分からない信長さんに対してそうそう簡単に殺害を企てるなどと言うことはあり得ない。公家衆も同様、旧来の権威の代表である彼らにとって信長さんは目障りな存在ではあっただろうが、死んでくれたら好都合と思うものは多かったかもしれないが、そうかと言って光秀さんの後押しをして殺害を企てるとも思えない。
また、当時の他の武将といっても信長さんの軍団に真っ向勝負して勝つにはそれなりの兵力が要る。戦国大名一人や二人では全く足りないのでそれだけの反信長さん勢力を結集するのは不可能だろうし、うかつに乗る武将がいたとも考え難い。秀吉君、家康狸、濃姫の黒幕説などは時代作家の思いつき以外の何物でもない。怨恨説も江戸時代の創作の線が強い。
当時の戦国大名にとって最も重大な関心事は自分の領地と一族の繁栄であって、一頃言われたように誰もが天下を巡って争っていたなどということはない。天下国家よりも自分の領地が最優先で統一政権がないあの時代、領地は切り取り次第だったのだからお互いに陣取り合戦に熱が入った。
今川義元さんも2万5千を率いて上洛などと言われていたが、実際は織田家の後継者である信長さんの悪評と内紛に付け込んで信長さんの父親の信秀さんの頃から続いている領土紛争に一気に決着をつけ、あわよくば尾張全域を手に入れようという目論見だったようだ。
ろくな力もない将軍家の命令で上洛などしている間に領地を奪われたら元も子もないと言うのが本音だったのだろう。そこに先鞭をつけたのが義昭君を担いだ信長さんで、これで一気に天下国家が盛り上がった。要するに、「尾張の田舎の若造が何を言うか」と言うことだ。そこで守旧勢力が結集しての対立となった。
こんな状況だから当時の大名にとって、「天下国家よりも領地と一族」が大事だった。守旧権力の元で育った光秀さんも同様だっただろう。「信長さんは天下布武などと言って天下統一を目指しているようだが、比叡山を鵜焼き討ちしたり、ひどいことをする。一体何を考えているのか分からんが、仕えていれば自分の領地は保証されるし、一族も繁栄する。とにかく言うとおりに仕えていこう」というのが光秀さんの本音だったのだろう。
ところが、基本的な考え方の相違に加えて、佐久間さん、林さんの追放、家臣の問題、四国政策の行き違い、四国担当解任、近畿軍団司令官解任と立て続けに将来への疑念が生じる出来事が起こり、その領地と一族の保証に疑念が生じた時、「ちょっと待てよ。それっておかしいだろう。オレの領地と息子の処遇はどうなるんだよ。保証してくれないのかよ」と光秀さんに不安が沸き起こったのだろう。
そして、領地や一族に対する保証がないのなら、家臣もみなそう言うし、千載一遇の機会にも恵まれた。ここは一か八か、明智一族の未来をかけて・・・ということになったのだろう。
本能寺の変後、光秀さんに同調するものは誰も出なかった。足利幕府再興による天下静謐というなら最も近しいはずの細川藤孝さんにも袖にされている。この辺りを見ても事前の同調者はなかったのだろうと思う。
光秀さんは偶発的に信長さんを襲撃したわけではないと思う。心の奥底には反信長さん意識はあったと思うが、領地と一族が保障されるなら目をつぶろうと考えていたのだろう。あれこれ資料を読んでみて最後の最も納得のいくストーリーがこれだった。
ところで、信長さんというと、「是非に及ばす」が有名だ。これを、「天が定めた運命だからやむを得ない」というように解釈しているが、信長さんにしてみれば、「起こったことを良いの悪いの言ってみても意味がないだろう。起こったことに対してどう対応するか、それを考えろ」と言いたかったんじゃないだろうか。
Posted at 2016/04/20 18:20:49 | |
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歴史 | 日記
2016年04月13日
信長さんの後を継いだのは秀吉君、この男は天才的な人心掌握術に加えて臨機応変、合理的な思考を身につけていた。これは信長さんの影響が大きいだろうが、権力の元で育った者ではないことも権威に囚われない思考が出来る理由だったのだろう。秀吉君は権威に囚われない自由な思考と行動力を縦横に駆使して天下を取ることに成功した。
秀吉君の最大の政敵は勝家さんだった。この人は剛勇を持って名を知られてはいたが、天下を取るための謀略戦を勝ち抜くにはあまりにも直情径行で人が好過ぎた。しかし、秀吉君は天下を取ると浪費とわがままが目立つようになる。秀吉君の前に立ちはだかっていたのは超えるに超えられない信長さんだったのかもしれない。
そのせいか、信長さんを貶めるようなことをあれこれしている。2度にわたる大陸侵攻も、信長さんの遺志を継ぐと言うが、実際に信長さんが大陸への侵攻を計画していたかどうかは疑わしい。どちらかと言えば侵攻ではなく貿易を考えていたかもしれない。
秀吉君は朝鮮半島から明を征服して信長さんを超えようとしたのかもしれないが、その時期は政権の足元を固める時期でもしも半島への侵攻などをせずに政権固めをしていたら豊臣政権が続いたかもしれない。
秀吉君は家康狸をずい分と厚遇している。しかし、隙があれば攻め滅ぼしてやろうとは思っていたようだ。一度は侵攻の準備をしたが、地震で延期になってそのままになったという。とにかく何でも良いから難癖をつけて滅ぼしておけば良かったのだが、権力に指向し過ぎて墓穴を掘った。
秀吉君は天下統一までは信長さんと言う手本があったが、それ以後は手本もなく成り上がったために譜代の家臣と言う者も少なく、最高の実力者だった家康狸に頼らざるを得なかったのかもしれない。
秀吉君は天下を取るまでは誠に柔軟な思考と鋭敏な感覚を持った知恵者だったが、天下を取ると異常に権力志向が強くなり、また、幼い息子かわいさに目が眩んだ親バカに成り下がってしまった。これほど顕著に権力を取ってバカになった人間も珍しいだろう。
家康狸は戦国切っての秀才武将だが、天才でもなければ、天才的な部分もない。権威の中で育てられ、権威に囚われた大名だった。信長さんはおろか秀吉君にも及ばない。本人もそれを承知していたから自分が唯一優位を持っている時間にかけて機会を待ったのだろう。そしてそれは見事に当たった。
しかし、秀才家康狸が目指したのはあくまでも秀才のレベルでの徳川幕府でおまけに徳川だけが一人勝ちできるような統治体制だった。秀吉君が死ぬと家康狸は自分の足元を固めるとともに敵を排除して行き、豊臣を滅ぼして秀吉君を祭った豊国神社を破棄して秀吉君の遺骨も破砕して捨ててしまったと言うからよほど豊臣家が怖かったのか、それともそこまで徹底して将来の禍根をたったのか、おそらくは両方だろう。
家康狸の才能に特に見るべきものはない。強いて言えば極めて忍耐強かったことと堅実で質素(けち)だったことくらいだろうか。死後は東照大権現と神格化されて祭られたが、それは徳川幕府という支配体制を作ったと言うだけのことで神はおろか天才でもない。戦国時代の三英傑と呼ばれるが、家康狸の能力としては信長さんはおろか、秀吉君にも及ばない。
しかし、大きな変化を嫌う日本人には堅実こそが最も安心できる能力だったのかもしれない。信長さんは卓越した能力を持っていたが、周知に欠けるところがあった。信長さんに仕えるものはその能力を畏れ敬いそばに仕えたが、常に先が見えない不安を抱き、それが限界に達すると謀反を起した。その不安を意に介さなかった信長さんは光秀さんの謀反で命を落とした。
秀吉君は才気溢れる人物だったが、堅実さに欠けるところがあった。権力を手にすると足元を足元を固めずにさらに上を目指した。そこには信長さんと言う超えるに超えられない存在があったのかもしれない。
家康狸は仕えるものにはとにかく分かり易かった。徳川一人勝ちの統治体制でもそれに従っていれば家と領地は保障された。大名にとってはそれが一番の関心事であり、ありがたく、居心地が良かったのかも知れない。
Posted at 2016/04/13 17:25:56 | |
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歴史 | 日記
2016年04月10日
信長さんと言う人は、状況認識、判断、決断、行動、いずれも人並み外れた能力を持っていた。また、創造力、着想力、先進性、そして経済観念も優れていた。また、文化にも興味を持ち、特に西欧の文化、技術には深い関心を持っていた。苛烈と言うが、人には優しかったのではないだろうか。思考も現実的、合理的、客観的で旧来の因習、前例と言うものを全く意に介さなかった。まさに天才的な戦略家と言うべきで日本史上例がない。不世出の天才だろう。
だが、この人は他人の心を読み、それを掴んで離さないと言った秀吉君的な才能に欠けていたように思う。たとえば、信長さんは、「武将は利益で動く」と言う極めて単純な理解をしていたように思う。浅井長政が謀反を起した際に、「あいつには十分な利益を与えてある。謀反を企てることなどあり得ない」となかなか信じようとしなかったと言う。松永久秀、荒木村重の場合も、「不満なことがあれば言え」と何度も説得しようとしている。光秀さんには丹波と坂本を与えているから謀反など起すはずもないと全く気にもかけなかったのだろう。
信長さんは家臣の意見を聞くことはなかったと言う。全て自分で見て自分で判断して自分で決断したことをそのまま実行したようだ。これほどの天才から見ればいかに優秀な武将でも物足らなく思えたのかもしれない。また軍事作戦などは情報漏洩を恐れて全く部下には何も伝えなかったと言う。戦術に関してはそれぞれの役割分担を伝えればそれでいいかもしれない。
しかし、統治ということになるとなかなかそうもいかないだろう。配下の武将は旧来の権威、伝統、しきたりにどっぷりと漬かっておそらく信長さんの時代を超えた革新的な思想など理解に及ばなかっただろう。「信長さんの言うとおりに仕えていれば国持ち大名になれるかもしれない。立身栄達がかなうだろう。しかし、(領地を子孫に伝え、家を残すのを至上命題としていた当時の武将にとっては、)子の世代は、孫の世代は、家と領地は保障されるのだろうか。何か失敗があれば、能力の不足があればその場できられるのではないだろうか」と言う不安は何時も付きまとっていただろう。
当時としては高齢で家を継ぐべき長男は幼く、家臣の問題や四国問題で信長さんと意見を異にしていた光秀さんにしてみればそれはより一層大きな不安だっただろう。「織田家生え抜きの重臣である佐久間さんや林さんも要らなくなれば追放される。俺ももう高齢だ。しかも、信長さんと意見を異にするところが大きい。息子は幼少で今の役には立たない。家は、領地は、そして家族や家臣の未来は保障されるのだろうか。この人は一体何を考えているのだろうか。日本の権威や伝統を全て覆そうとしているのだろうか」と、家族や家臣思いの光秀さんは思い悩んだことだろう。
「謀反、いや、そんなことが出来るはずがない。みんな失敗しているじゃないか。仕えていれば今は保障される。でも、未来は、・・・」そして、「中国に行け」と言われる。「近畿方面軍司令官の自分が秀吉が仕切る中国へ、・・。おれもこの作戦が終われば用済みなのだろうか」信長さんに言わせれば、「手元にあるまとまった軍団は光秀さんしかいないのでちょっと向こうで働いてもらおう。四国に行かせるわけにもいかんしなあ。あいつは長宗我部と通じているんで、・・。」とそんな程度だったのかもしれない。
そして光秀さんに千載一遇の機会が巡ってくる。「信長さんと信忠さんがわずかな手勢を連れただけで京都にいる。付近には信長軍団はいない。また、主力は地方でそれぞれ戦闘中で急には引き返せない。ここで信長さんを討っても、「室町幕府や朝廷をないがしろにして天下の覇者になろうとする逆賊信長を討ったと言って、朝廷に認められれば自分がやったことの正当性は確保できる。その後は足利幕府を再興して自分がその要職につけば家も領地も保障される。」と、こんなふうに自分の行為を正当化しようとしたのかもしれない。そして1万3千の軍勢を率いて京都へ、・・・。
しかし、もう一人、旧来の伝統や権威に囚われない人物がいた。そう、秀吉君。この男も信長さんから学んだことを自分なりに理解して行動する男だった。特に迅速な対応とそして人身把握術を、・・。それは光秀さんの理解を超えていた。もしも、信長さんが、もう少し、凡人の思いに心を砕いて必要な事項について周知と言うことをしていたら、本能寺の変は起こらなかったかもしれない。日本史上、例のない不世出の天才は49年の人生を怒涛のように駆け抜けて、そして消えて行った。
Posted at 2016/04/10 11:53:12 | |
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歴史 | 日記
2016年04月06日
本能寺の変で光秀さんが動かした兵力は1万3千人、しかし、全てが本能寺攻撃に向かったわけではない。本能寺攻撃に向かったのは斉藤利三が率いる5千人程度、しかも京都からの出口は固めてはいなかったという。この点から見ても準備万端練りに練った計画を立ててやったわけではないと思う。
信長さんの手勢は100人程度、その中で戦闘員というのはせいぜい4、50人程度で戦闘の準備もしたいなければ歯が立つわけもない。仮に信長さんが3千人程度の親衛隊を伴っていたら信長さんに逃走されるという失敗を危惧して光秀さんは謀反は起さなかっただろう。
しかし、信長さんという人物はそういうところは無頓着というか、平気で危険に身を晒している。若い頃にも将軍へのあいさつと京見物に30人ほどを引きつ入れて上洛し、斉藤勢に命を狙われると自分から相手の隠れ家に踏み込んで脅したりしている。
信忠君は、妙覚寺に滞在していたが、京都から逃げることをせずに手勢をまとめて二条城で明智軍を迎え撃って最後は自害した。信長さんなら間違いなく逃げていただろう。この辺りはまだまだ正直過ぎる後継者だったが、仮に信忠君が生き残っても、秀吉君や家康さん辺りを相手に織田政権を維持し得たかは??ではある。
信長さんの遺体は見つからなかったという。外に運び出されて埋葬されたとも言うが、相当に大きな木造建築が焼け落ちてその中に遺体があったとすれば、現代のように消火をするわけではなく自然鎮火を待つだけなのでほとんど完全に燃え尽きたのではないかと思う。
明智軍は本能寺を包囲していただろうし、そこから信長さんの遺体を運び出すのは不可能だろう。また、一部が燃え残ったとしてもそれが誰のものかを特定することは出来なかっただろう。
こうして日本史上、不世出の天才は命を絶たれたが、一方の光秀さんは5日間ほどで畿内を制圧、安土城の信長さんの財産を強奪して部下に与えたり、朝廷に貢いだりして京都の治安を任せるという勅諭を受けている。
秀吉君は中国で毛利と対峙し、柴田さんは越前で上杉と、滝川さんは関東で北条とそれぞれ対峙し、戻ってくるには相当の期間を要すると踏んだのだろう。その間に京都を押えて朝廷を引き込めば勝てるという思いだったのだろう。
本来なら堺にいた織田信孝君や大和の信雄君が兵をまとめてあだ討ちの名目で明智と戦うべきだろうが、信孝君は信長さんが討たれたことを知った部下たちが動揺して逃げ出し、信雄君は安土城に火をつけただけの体たらくで天才の息子の割にははなはだ情けない。
そこに行くと、「これは天下を取るチャンス」と認識した秀吉君は毛利と和睦して急遽軍を引き返している。また、途中、例の天才的人心掌握術で味方を増やし、手勢1万に加えて2万とも3万とも言う増援を得て大山崎の天王山の麓に軍を配置した。
一方、光秀さんは主殺しが嫌われて最も近しい細川親子にもそっぽを向かれ、自軍の中からも逃亡が相次いだという。天王山で秀吉君と対した時は1万6千というが、実際はもっと少なかった可能性もある。それでも一方が山、一方が川に挟まれた狭隘地で出て来る秀吉君の軍を各個撃破すれば勝てると踏んだが、普通は進軍しない川の泥濘地を進軍して来た秀吉軍に押し切られて敗れた。
大山崎は見に行って来たが、川は護岸で整備されてはいるものの確かに山と川に挟まれた狭隘地ではある。この辺も定石重視の光秀さんと勝つためなら手段を選ばない柔軟な思考の秀吉君の差だろうが、人間もって生まれた器を超えることはできないと言うことだろう。一族の未来をかけて一世一代の大博打を打った光秀さんの野望はここに潰えた。
それにしてもこんなことで信長さんという不世出の天才を葬ったのは返す返すも残念である。もしも大阪の陣で信長さんが豊臣方にいれば徳川幕府はなかっただろう。また、徳川15代将軍があのバカ殿ではなく信長さんだったら明治維新は徳川幕府の手によって行なわれていただろう。信長さんがどんな政権を作ったのかそれを見てみたかったように思う。
Posted at 2016/04/06 17:28:07 | |
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