2022年02月14日
「佐山さん、余計なお荷物を背負い込んだなんて考えているんじゃないでしょうね。」
知的美人にいきなり図星を衝かれてどぎまぎして狼狽してしまった。
「本当にご迷惑をおかけします」
総務課長にも頭を下げられて僕はさらに狼狽して「いえ、そんなとんでもないです。でも何しろこれだのあれだのもうかなり重荷を背負わされていますので十分にお世話ができるかどうか、ごめんなさい」などとしどろもどろの言い訳をしてしまった。それでみんなが笑ったので緊張していた場が少し和んだ。
そしてそこからは和気あいあいの雰囲気で飲み会が進んだ。コロナ過で本来は飲み会など御法度なんだけど事情が事情だし、家族のようなメンバーなのでまあ勘弁してもらおう。総務課長もこわばっていた顔つきがだいぶん和んだようで一安心だった。小一時間の時間を過ごしてお開きとしてそれぞれ部屋に戻って行った。総務課長をあんな留置場みたいな部屋に入れておく必要はもうないのかもしれないけど人間どこでどうなるか分からないので仕方がないだろう。
「あの二人、穏やかに生きられるといいわね、二人で寄り添って。」
知的美人がそんなことを言った。寄り添って生きるのは難しいのかもしれないが、総務課長が奥さんの方を向いて生きて行けば総務課長にとって少しは穏やかに生きられるのかもしれないと自分に言い聞かせた。
「そうね、そうできるといいわね。」
僕がそう答えると知的美人も頷いた。彼女も二人が言うように穏やかに生きることが難しいことは分かっているんだろう。でもなんとかそうして欲しいと心から願っているに違いない。
「ねえ、抱いて」
知的美人は僕にすり寄って来た。普段なら押し戻すのだが、今日は何だか知的美人の気持ちがわかるような気がして黙って受け入れてやった。不機嫌なのは大ドラ猫だけだった。
翌日、午前中に社長がやって来た。そして総務課長を呼ぶとこれまでの状況を話した。要するに総務課長の奥さんは年が若すぎて受け入れる施設がなかなか見つからないらしい。金銭的には特定疾病に該当するので認定を受ければ介護保険が使えるのだが、それでもかなりの初期費用とその後の経費も必要らしい。それを聞いた総務課長は「マンションを売却して経費をねん出します」と言い切った。「大事な思い出のマンションだが、妻のためなら」と言う。
「そうか、それじゃあ何より要介護の認定を受けないといけない。早速手続きをさせよう。マンションの売却は頭取に頼めば良しなにやってくれるだろう。ただ入居する介護施設などの選定もあるのでそう慌てることもないだろう。急に金が必要なら頭取に頼んでマンションを担保に貸してもらえばいい。いずれにしても金のことは心配ないので介護の認定と施設選びだな。あ、それからしばらくはここに住んでもいいと頭取の承諾をもらっている。部屋もたくさんあるから。それにここには人手もあるしな、なあ、佐山さん」
社長はそう言うと僕を見た。
『人手とは僕のことかい』
僕は社長をにらみながら心の中でそう言い返した。社長は僕に向かって片目を瞑って見せた。『そんなことで納得してたまるか』とは思ったが、結局しばらくの間は誰かが総務課長夫婦の面倒を見てやらないといけない。やるしかないだろうということで社長には同じように片目を瞑って返した。
社長は両手の人差し指を合わせてもう一度片目を瞑って見せた。そして上着の内ポケットから封筒を取り出してそっと僕と知的美人に渡した。その封筒を開けると辞令が入っていた。そこには「兼ねて福利厚生生活相談主任を命ずる」と記載されていた。知的美人の辞令には「兼ねて福利厚生生活相談副主任を命ずる」とあった。
「やりやがったな、社長、・・。」
そう思って顔を上げるともうそこには社長はいなかった。
Posted at 2022/02/14 14:13:21 | |
トラックバック(0) |
小説3 | 日記
2022年02月06日
「じゃあ場所は、‥ええと、リビングにしましょうか。奥様はどうしますか」
「あれは酒が飲めませんから寝かせておけば大丈夫です」
「じゃあ何か羽織ってきてください。」
僕はそう言うと例の部屋の鍵を開けた。開いたとたんにクレヨンが飛び出してきた。
「ひどいじゃない。私をこんなところに閉じ込めてあんな人と、・・」
僕はクレヨンの足を蹴飛ばしてやった。
「総務課長の前で余計なことを言うんじゃないの、バカね」
僕はクレヨンの首を抱え込むと小声でそう言ってやった。総務課長には分かってしまったようで「申し訳ありません」と小声で言った。
「奥様はここに残しておいて大丈夫ですか。お連れしますか」
僕がそう聞くと総務課長は「このまま寝かせておいて大丈夫です」と答えた。僕はクレヨンに「今にビールとつまみを持っておいで」と言いつけて二階に上がって女土方と知的美人に声をかけた。
「人助けだと思ってお願い」
僕が頼むと二人とも快く引き受けてくれたのでまた階下に降りて総務課長を居間に連れて行った。クレヨンは大量の缶ビールと乾きものを持ち込んでいた。僕たちがだだっ広い居間に入るとすぐに女土方と知的美人も部屋に入ってきた。全員が揃うと総務課長が「先ほどは取り乱してしまってすみませんでした、・・」と謝り始めたのでそれを押し止めて「そんなこと大丈夫ですよ。それより乾杯しましょう」と缶ビールを手に取った。
「何に乾杯するの」
クレヨンが聞くので「穏やかな明日に乾杯するのよ」と答えたが、正直僕自身も何に乾杯するのかよく分からなかった。まあ皆が穏やかに暮らせるようにと言うことでいいだろう。しばらくは誰も口を利かずに黙ってビールを飲んでいた。そこに大ドラ公が入って来たので膝にのせてやった。何となく重苦しい沈黙が続いたが、総務課長がぼそりと口を開いた。
「あいつはね、自分で様々な海外研修プログラムを立ち上げて運用してみたいっていう夢があったんです。あいつは私のようなただの事務屋と違っていろいろ才能があったんです。会社の退職金と貯えを足して彼女の希望でウォーターフロントのタワーマンションを買ってそこを拠点としてあれこれ自分の目標に向かって活動していたんです。そのころのあいつは私からすれば間違いなく輝いて見えました。ところがしばらくするうちに辻褄の合わないことを言い出したり、物忘れがひどくなったりし始めました。
最初は疲れているのかなと思いましたが、そのうちに仕事や家庭生活にも支障をきたすほどになって私もこれはおかしいと思って嫌がるあいつを無理やり医者に連れて行ったら認知症と診断されました。もう若くはないと言っても50になったばかりですよ、あいつは。まだまだ盛りじゃないですか。それでね、私も医者に頼んだんですよ。何とか治してやってくれって。でも発症してしまったら現代の医学では手の施しようがないと言われてしまって。あいつは『自分は絶対にそんな病気じゃない』って言い張っていましたけどそのうちに自分が病気だという認識もなくなってしまって。
つれ合いがどんどん自分をなくして崩れていくのをただ見ているしかないっていうのも辛いですよね。あいつを殺して自分も死のうと何度も思いましたよ。でもね、そうして壊れて行くのに時々パソコンに向かって何か一生懸命になってやっていて時々私の方を振り返ってにっこり笑うんです。そんなあいつを見るとそんなこととてもできませんよね。そうしてここまで来てしまったんです。皆さんには本当に迷惑をおかけして申し訳なく思っています。でもね、私、どうしていいのか分からないんですよ。あいつに何をしてやればいいのか。」
総務課長はビールの缶をテーブルに置くと大粒の涙を流して僕たちを見まわした。どうしたらいいのか教えてくれと言っているようだった。そんな総務課長に誰も言葉をかけようがないようで誰もが下を向いて黙っていた。
「課長、人は誰でも老いて死んでいきます。奥様だけではなくて私たちもそれは一緒です。でも最後の最後まで一生懸命生きようとしています。奥様はお若くして不幸な病気を得てしまいました。でも奥様も残された時間を一生懸命生きているんです。だからそんな奥様を見ていてあげればいいじゃないですか。奥様を残して死のうとするなんて以ての外ですよ。私たちから見れば奥様のやっていることは支離滅裂に見えますが、それでも奥様は一生懸命病気と闘っているんでしょう。だったら最後までそれをしっかり見ていてあげるのが課長さんの役目でしょう。私たちもできることはしますから、・・ね、しっかり見ていてあげましょう」
総務課長は肩を震わせて泣き始めた。きっと男泣きするほど辛いんだろう。その時知的美人が席を立って部屋を出て行った。どこに行くのかと思ったら例の部屋に行って奥さんを起こして連れて来た。
「さあここに座ってください。」
知的美人は奥さんを総務課長の横に座らせた。
「みなさん、パーティなの。私こんな格好で恥ずかしいわ。」
奥さんはそう言って総務課長を見た。
「あら、あなたも参加しているの。職場のパーティなの」
奥さんはそう言って総務課長に微笑みかけた。
「お前、僕が分かるのか。僕が誰だか分かるのか」
総務課長は奥さんの肩をつかむと何度もそう聞いた。
「何言っているの。自分の旦那様くらいわかるわよ。でもほかの人はみんなきれいな若い女性ばかりね。あなた、浮気でもしてるの。」
笑いながらそんなことを言う奥さんに縋りついて総務課長は肩を震わせて泣いていた。
「どうしたの。男のくせにめそめそして。それよりここはどこなの。私の家はどこだったかしら。あなた、知ってる」
奥さんはそう言うと総務課長を見た。
「しばらくはここに泊めてもらうことにしたんだ。お前、自分の家がどこなのか分かるのか」
「ここじゃないと思うけどよく分からないわ。私のうちってどこなの。」
知的美人が奥さんにビールの缶を差し出した。
「一緒にお飲みになりませんか。お酒はダメですか。」
奥さんはビールの缶をまじまじと眺めて「のどが渇いていたので丁度よかったわ。でもこれってビールよね。まあいいわ、いただくわ」と言ってプルトップを開けようとしたが、うまく行かず知的美人が開けてやった。奥さんは缶に口をつけると一気にごくごくと喉を鳴らして飲んで「ふぅっ」と息を継いだ。
「おいしいわね、これって」
奥さんはそう言うとまた缶を口に当てた。そうしたら総務課長が慌ててビールの缶を取り上げた。
「こいつ酒飲めないんです。悪酔いするんです。」
総務課長は缶ビールをテーブルに置くと奥さんをそっと座らせた。その様子がとても優しげだった。奥さんはすぐに顔が真っ赤になってふらふらし始めた。確かに酒には弱いようだ。
「すみません。お酒が飲めないなんて知らなったもので、・・」
知的美人が恐縮していたが、総務課長は軽く首を振ってから「寝かせて来ます」と言って奥さんをお姫様抱っこして部屋を出て行った。そのあとから知的美人が追いかけて行った。しばらくすると二人が戻って来た。
「あれは休みました。皆さんにはいろいろ良くしてもらって本当にありがとうございます。さっきも言われたようにあいつの生きた証を見届けてやれるのは私だけなんです。だから最後まであいつの生きた証を見届けてやらないといけないんですよね。それをあいつを残して死んでしまおうなんてそんな弱い自分が恥ずかしくなりました。あいつも一生懸命生きているんですね、だから私も一生懸命生きないといけないんですよね。あいつの生きた証を見届けてやるために、そうですよね、佐山さん」
知的美人は柄にもなく大粒の涙をぼろぼろこぼしていた。クレヨンも泣いていたし、女土方も目に涙を浮かべていた。
「課長さん、あなたって優しい人で心から奥様を愛しているんですね。奥様もきっと幸せだと思います。素敵な旦那様にこんなに愛されているんですから。だからさっきは旦那様のことを思い出したんですね。せっかく旦那様のことを思い出したんですから忘れないようにしっかり奥様を見ていてあげてくださいね。課長さんしかそれが出来ないんですから。私たちもお手伝いできることはしますからお願いしますね。」
僕はそう言ってから『また余計なことを言ってしまった』と後悔した。これでこの件もまた僕の担当と言うことになってしまうだろう。こんな感動的な場面に不謹慎とは思いながらまた余計な負担を背負い込んでしまったとひそかに考えた。
Posted at 2022/02/06 01:10:14 | |
トラックバック(0) |
小説3 | 日記
2022年01月31日
「二人ともどうしちゃったの。そんなに落ち込んで、・・」
「あんたも明日1日彼女の世話をしていれば分かるわ、あの病気の悲惨さが、・・」
いつもはわんわんキャンキャンやっているクレヨンと知的美人だが、今日は顔も上げずに下を向いたままクレヨンにそう言った。
「私も以前見たことがあるわ。近所に住んでいるおばあちゃんだったけどやっぱり認知症で家を出て何日も歩き回ったりして。踵なんか擦り切れて骨が出ているほどなのにそれでも歩いているんだって。そのおばあちゃん、道で出会うとにこにこ笑って、挨拶したりして。でも何も分かっていなかったのね。そのころはそんなに切迫感はなかったけど怖い病気なのね、認知症って。65歳以上の5人に1人が認知症になるっていうのはテレビのCMで見たけど自分がなったらどうするんだろう。沢田、あんたのところはお金があるんだからちゃんと私を施設に入れてね。いいわね、約束よ」
女土方にそう言われたクレヨンは小さい声で「はい」と応じていた。知的美人は真顔で僕の方を見て「私がそうなったら必ず殺して」と言った。認知症を発症したら心神喪失で嘱託は成立しないから殺人になってしまう。冗談じゃない。そんなことで自分の人生を犠牲にしていられるか。
「お断りだわ。あなただっていいところのお嬢様なんだから自分で何とかしなさいな。そんなときのためにお金を貯めておかないとね。いくら何でも彼女に任せるわけにもいかないでしょう。昔は大家族で何世代も同居していたから世話ができたけど今はねえ、みんな一人だから大変よね。せめて迷惑をかけないように貯金しておかないとね。」
僕がそう言うと全員が黙って頷いていた。その時インタホンが鳴った。受話器を取ると総務課長さんが「風呂を使いたいから開けてくれ」と言う。それは構わないのだが、ここには女しか、おっと僕はハードは女だけどソフトは男だが、いないのでちょっと答えに詰まったが、「その部屋のシャワーでいけませんか」と言うと「手足を伸ばしたくて。おかしなことはしませんからお願いします」と言うのでドアを開けてやった。ただ総務課長が戻るまで奥さんを見ていないといけない。そこで「あんた、ちょっとおいで」とクレヨンを引っ張って行った。総務課長は着替えを持ってドアの前に立っていた。奥さんはソファに横になっていた。
「あんた、ここにいて奥さんを見ていてね」
僕はそう言うとさっさとドアを閉めてしまった。クレヨンは何とも言えない唖然とした表情をして僕を見ていた。
「浴室はここです」
僕は総務課長を一番大きい浴室に案内した。
「申し訳ありませんが、ここにいますので承知してください。社長からの言いつけなので悪しからず」
総務課長はちょっと戸惑った様子だったので「どうぞ遠慮なく。男の裸は見慣れていますから」と言っておいた。でも「見慣れている」はちょっと問題があるかもしれない。僕は男だったんで男の裸は見慣れているという意味で言ったんだけど全く違う意味に取られる恐れがありそうだ。
「失礼します」
総務課長はそう言うと服を脱ぎ始めた。50半ばの老年期に首を突っ込んだおっさんの裸を見ても仕方がないので僕は入口の方に顔を向けていた。シャワーを使う音がしばらく続いていたが、そのうちにバスタブを使う水音が聞こえた。そしてタブから上がる音がして「あの、上がる時はどうすればいいんですか。」と聞かれた。
「スポンジでバスタブをざっと掃除してもらってあとは排水溝の髪の毛を処分しておいてください」
「分かりました」
そう言うとしばらく中で掃除をしている雰囲気だったが、そのうちに、「すみません。上がるのにタオルを取ってもらえませんか」と言う。僕は棚から空に浮かんでいる雲のように柔らかい真っ白なタオルを1枚とると浴室のドアを開けて顔を反対に向けて手を伸ばして渡してやった。「ありがとうございます」と総務課長はタオルを受け取ったが、いきなり腕をつかまれて引っ張られた。驚いて振り返ると素っ裸で目に溢れそうな涙をためた老境に近付いた中年のおっさんが膝をついて僕を見上げていた。
「俺たちは真面目にただ一生懸命に生きてきた。そしてやっとあれが望んだウオーターフロントのタワーマンションを買ってこれから楽しく暮らそうと思っていたのにどうしてこんなことになるんだ。一体俺たちが何をしたんだ。俺たちが何をそんなに悪いことをしたと言うんだ。なにもしていないじゃないか、それなのにどうしてこんなことになるんだ。」
総務課長はそう叫ぶと堰を切ったように号泣し始めた。その声はこの広大なお屋敷に響き渡った。それを聞いて女土方と知的美人が駆けつけてきて風呂場で素っ裸で僕に縋りついて号泣する初老に足を突っ込んだ中年オヤジを見て立ちすくんだ。僕はそっとしゃがんで床に落としたタオルを拾うと総務課長の肩にかけてやった。そうして気持ちが落ち着くまでそっと肩を抱いてやっていた。考えてみれば僕も佐山芳恵にならなければこの男と同じくらいのおっさんになっていたのかもしれない。しばらくすると総務課長も徐々に落ち着いてきたのか僕から手を放して立ち上がった。
「感情的になってしまってすみませんでした。何だかあれに起こっていることが耐えきれなくて。理屈では不運な病気だということは分かっているんですけどそれにしてもあまりにも不憫でどうしようもなくて、・・」
肩にタオルをかけただけで前も隠さずに涙を流し続ける総務課長に僕は言葉もなかった。この人は本当に奥さんを愛していてその奥さんがあんなことになってしまったことが心を引き裂かれるくらいに辛いんだろう。僕もこれまでに身近な人間を何人も亡くしてきたのでそんな気持ちは痛いほど分かった。僕は総務課長の頭を抱え込んで抱いてやった。しばらくすると知的美人が着替えを持って脇に立っていた。
「さあ風邪をひきますよ。着替えましょう」
僕はそう言うとそっと総務課長から手を放して軽く押し戻した。そこに知的美人が着替えを差し出すと「申し訳ありませんでした」と言って着替えを受け取った。
「辛いんでしょう。そんな時は今のように泣けばいいじゃないですか。辛さを涙で流しでしまえばいいじゃないですか。それが恥だなんて誰も思いませんよ。ね、課長さん、死のうなんてしてはいけませんよ。そしてこれからどうすればいいのか考えてあげましょう。課長とそして奥様のために」
僕はそう言うと知的美人の肩を押してそっとその場を離れた。男が苦手の女土方はさすがに近づいては来なかったが、目に涙を浮かべていた。「大丈夫だから任せて」と言って二人を外に導くと着替えを終えた総務課長を浴室から連れ出した。そして「ちょっと飲みませんか」と聞いてみた。酒は飲まないのだけれどこんな時はやむを得ない。総務課長は「えっ」という表情をしたが、意味が飲み込めたようで「はい」と答えた。
Posted at 2022/01/31 11:20:05 | |
トラックバック(0) |
小説3 | 日記
2022年01月23日
確かに認知症なんて誰がなるかも分からない。親が認知症だと発病の可能性は数倍から20倍とか読んだが、体質と言うものもあるんだろう。佐山家は大丈夫そうだが、それも分からない。人生なんて何も知らずに地雷原を歩いているようなものなのかもしれないが、それにしても嫌な病気があったものだ。
総務課長の奥さんも一流大学を卒業した才媛で社内でも切れ者と評判を取っていたそうだ。その人が認知症なんて何ともお気の毒ではある。でも本人はそんなことも分からなくなってしまっているんだろう。一生懸命生きてきてそんなことになってしまう人もいれば他人を巻き添えに死のうとして自分は生き残るようなバカもいるし、一体人間て何だろうと考えてしまうことがあるが、不心得者がいなくなって不幸を背負い込むものもなくなれば人間ではなくて神になってしまうのかもしれない。そんなこんなで僕と知的美人が四苦八苦しながら総務課長夫婦の面倒を見ているうちに日が暮れて女土方とクレヨンが帰ってきた。
「社長がとても心配していたわ。あの二人には本当に迷惑をかけるって。今、奥様を見てくれる施設を探しているそうだけど年が若いのでなかなか見てくれるところがないそうで苦労しているみたい。見てくれるところもあるけどかなりお金がかかるそうなの。いろいろ手を尽くすからもう少し面倒見てやってくれって。明日社長も様子を見に来るそうよ。」
女土方がそんなことを言ったが、見に来られてもどうしようもない。この状況を解決する方法を早く考えてほしいものだ。
「何なのよ、あの病気って。記憶だけじゃなくて服の着方もご飯の食べ方も歯の磨き方もトイレでさえも分からなくなってしまうなんてどうなっているのよ。なんでそんな病気が起きるのよ。」
知的美人が吐き捨てるように言った。たった1日で相当なショックを受けたようだった。
「あ、そうだ、食事を持って行ってやらないと、・・。」
僕は二人の食事を思い出して知的美人を連れて食堂に行って食事を運んでやった。そして奥さんお食事の介助をしてやった。箸はおぼつかないのでスプーンを使わせたが、それも危なっかしかった。仕方がないのでゆっくり口に運んでやったが、まだ噛んだり飲み込んだりはできるようだった。そんな彼女を見ていると何だか涙が出てきてしまった。この病気って知的美人が言うように記憶が混乱するような単純なものではない。人間が人間として存在しているその裏付けとなる脳機能を破壊してしまう病気だった。
「もう食べたの。大丈夫。じゃあシャワーを浴びて着替えましょう。」
僕はそう言うと総務課長に着替えと洗面用具を出すように言った。そしてそれらを受け取ると知的美人に目で「ついて来い」と合図した。知的美人は黙って立ち上がった。ドアは外からロックしていないのでそのまま開いた。そして僕らは奥さんを両側から挟むように浴室まで連れて行ってシャワーを使わせると下着を着替えさせて部屋に戻った。無邪気な様子で笑っている奥さんのきれいな体や知的な顔つきがなんとも哀れだった。知的美人も目に涙を浮かべていた。
「なんであんな病気があるのよ。ひどすぎるわ」
部屋に戻ると知的美人が吐き捨てるようにそう言った。
「あの人、一流の大学を卒業してアメリカに留学までしているの。語学が堪能で資格もいろいろ持っているのにそんな人がどうして着替えもお風呂もトイレだって分からなくなってしまうのよ。食事だって一人じゃ食べられないじゃないの。一体何なのよ、あの病気って。そのくせ昔のことはよく覚えているのよ。大学時代とか留学していた頃とか。あの人を見ていると生きて年を取るのが怖くなってくるわ。あんな病気になるならガンで死んだほうがましよ」
女土方とクレヨンは自体がよく呑み込めていないので何だか唖然とした風で知的美人を見つめていた。
「あの病気ってアミロイドβとか言うたんぱく質の一種が脳に蓄積して行って脳の情報伝達網を破壊してしまうらしいわ。発症する何十年も前から徐々に蓄積して行くらしいわ。65歳以上の5人に1人は認知症になるというから私たちのうちの1人くらいはそうなるのかもね。恐ろしい話だわ」
僕がそう言うと知的美人は「やめてよ」と吐き捨てた。
「どうしたの、二人とも」
女土方が僕たちの様子がおかしいと言わんばかりにそんなことを言った。
「彼女ね、今日1日総務課長の奥さんのお世話していてブルーになっているの。認知症ってね、人間が人間として存在できるその基本になっている記憶、認識、思考、判断能力を根底から破壊してしまう本当に恐ろしい病気なのよ。何だかあの奥さんを見ているとこっちが悲しくなってくるわ。あの病気ってアミロイドβとか言うたんぱく質の蓄積を防止する薬ができたとか言うけどその効果は不確定だし発症してしまったら現代医学では手の施しようがなくてどうにもならないんだそうよ。」
僕がそんな話をしていると大ドラ公が寄って来て膝の上に飛び乗った。
「サン、あんた、私が認知症になったら私の首を噛み切って殺してね。頼むわね、戦友、・・」
僕はそう言うと大ドラ公を抱きしめた。大ドラ公は「グエ」とか鳴いた。
Posted at 2022/01/23 01:53:06 | |
トラックバック(0) |
小説3 | 日記
2022年01月20日
「総務課長、大丈夫ですか。こんな留置場みたいなところに入れて申し訳ありません。すぐに社長が手配してくれると思いますのでしばらくの間辛抱してください。」
総務課長は小さい体をさらに小さく縮込めて申し訳なさそうに口を開いた。
「本当にご迷惑をかけて申し訳ありません。妻がこんな状態で自分でもどうしていいのか分からなくなってしまってバカなことをしてしまいました。妻は若年性の認知症で進行が早くてあっという間に自分も周りのことも分からなくなって一人でおいておくと何をしでかすか分からず外に出かけては警察に保護されたことも何度もありました。自分で選んであんなに喜んで買った自分の家も分からなくなって、・・それどころか食事や風呂、洗面やトイレ、着替えなども記憶が曖昧で、・・。もうどうしていいのか私も分からなくなってしまって、・・」
そう言うと総務課長はがっくりとうなだれた。確かにそうだろう。男と言うものは普段でかいことを言っても衣食を絶たれるとまことに情けない状態になってしまう。まして奥さんがそんな状態ではもう無条件降伏だろう。
「何かあったらそこのインターホンで呼んでください。私とこれが面倒を見させてもらいます。社長も了解済みなのでご安心ください。」
そう言うとこれと言う風に知的美人を目で示した。
「これって何よ。ちゃんと名前で呼んでよ」
知的美人はそう文句を言ったら総務課長もちょっと下を向いたまま笑ってくれた。
翌朝、女土方とクレヨンは「何かあったら連絡してね」と言い残して出勤して行った。総務課長は朝食後に必要なものを取りに行くとか言って出かけて行った。出る前に「大変申し訳ないのですが、妻はこのところ入浴をしていないのでできれば入浴させてやってくれませんか」と言われてしまった。自分のかあちゃんなんだから自分で入れてやればと言う意味のことを丁寧な言葉で言うと「私が夫と分からないので嫌がるんです。申し訳ないんですが、女性なら大丈夫と思いますので、・・」と言われてしまった。そうか、夫が認識できないのかと改めてこの病気の重大さを認識させられた。そう言えば奥方、近くによると確かに匂うようだ。この家には風呂はたくさんあるので入浴は差し支えないが、女性ならと言うが、僕は基本女性ではない。そこで知的美人に言うと「私はそんなことできないわ。あなたがやってあげればいいじゃない」とか拒絶されてしまった。
「あんたね、自分で介護を買って出たんでしょう。手伝ってよ」
僕は知的美人に強くそう言うと部屋に引っ張って行って軽装に着替えてきた。そしてバッグから着替えを引っ張り出すとこの家で一番大きい風呂に奥さんを連れて行って服を脱がせた。「下着を脱いで」と言っても何だかぽかんとしているので面倒くさいのではぎ取ってやった。年齢にしてはきれいな体で何だかこっちが気恥ずかしかった。湯船に湯を張るのが面倒だったのでシャワーだけにして全身を洗ってから髪も洗ってやった。
全身と言うと洗うにもいろいろな部分があるのだが、その辺は割愛する。奥さんは別に嫌がるでもなく、そうかと言って自分で洗う訳でもなくじっと立っていた。「椅子に座って」と言えばおとなしく椅子に腰かけてくれるし手はかからないが、入浴と言う行為のことを忘れかけているんだろうか。一通り終わって風呂場を片付けるので知的美人に服を着せてやるように頼んだが、何だかんだ文句を言いながらも結構手際よく衣類を着せてやっていた。
部屋に帰ってからドライヤーで髪の毛を乾かしてやって一通り入浴作業が終わった。入浴だけで何だかぐったりしてしまった。介護と言うのは半端じゃないとんでもない作業だと思った。その後簡単な朝食を食べさせたりしていると奥様いきなり立ち上がって「帰る」と言い出した。どこに帰るのか聞いても「家に帰る」と言うが、その家がどこなのか聞いても答えない。これでは一人で外に出したら彷徨してしまうだろう。何とか押し止めていたが、「帰る」と言って言うことを聞かないので
「あんた、ここで見ていてね」と知的美人を残してドアをロックしてしまった。知的美人はインターホンで「開けろ」と要求しまくっていたが、ここは旦那が帰るまでは我慢してもらおう。「変なことしないようにしっかり見ていてね」と言うと部屋に戻ってしまった。しかしこんなことを毎日一人でやっていたら死にたくなったりあるいは被介護者の首を絞めたくなったりするかもしれない。部屋に戻るともう何年もやめていたタバコが吸いたくなったが、せっかく止めているのでここはぐっと我慢した。そうこうしているうちに総務課長が帰って来たので知的美人を開放してやった。
ドアを開けると飛び出してきた知的美人は「あんたねえ、今度やったら許さないからね」と文句を言った。どうもお下の世話もしてやったらしい。まあいいじゃないか、自分だって男依存症で僕の世話になっているんだから。総務課長に奥方は一応落ち着いていることを伝えて部屋に入ってもらった。そして僕たちは一旦自分の部屋に戻って一息入れた。
「でも恐ろしいわね。認知症って。記憶が曖昧になるだけじゃなくて日常一般のことまで分からなくなってしまうのね。着替えたり歯を磨いたり、トイレまで、・・。なんでこんな病気が流行り始めたのよ。」
知的美人はちょっと青ざめた顔色でそんなことを言った。
「認知症って以前はボケとか痴呆症と言って昔からある病気よ。最近痴呆と言う言葉がいけないと言うので認知症と呼ばれるようになったけどもうずっと前から『うちのじいさんボケてしまって飯を食わせないなんて言って怒ってばかりいる』なんて話はよく聞いたわ。以前は大家族だったから一族で面倒を見たけど今は核家族だからそういう病気の人が出るとほとんど一人で見ないといけないので大変よね。介護に疲れて自殺したり殺してしまったりなんてことが結構起きるみたいね。あの総務課長もそうだけど。介護って半端なことじゃないわ。する方もされる方も命がけよ。大体、65歳以上の5人に1人は認知症になると言うから私たち4人から1人くらい出てもおかしくないわ。そうしたらどうするんだろう。認知症なんかになるならガンにでもなって死んだ方がいいわね。まあそのころには私たちもどうなっているか分からないけど。アルツハイマー性認知症の原因になるアミロイドβというたんぱく質は発症する何年も前から脳に蓄積するらしいからもう蓄積が始まっているかもね、私たちの誰かは。」
「変なこと言わないで。やめてよ、そんなこと言うのは、・・」
知的美人は珍しく感情を露にして両方の耳を押さえて首を振った。
Posted at 2022/01/20 11:14:00 | |
トラックバック(0) |
小説3 | 日記