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2016年09月18日 イイね!

あり得ないことが、(106)




商品開発の方向性は概ね決定したが、言葉屋がおかしなことにクレームをつけて妥協しようとしなかった。それは常勤で出社することだった。言葉屋に言わせればデジタルネットワークが発達した今の世の中でこのような仕事をするのにわざわざ出勤するのは意味がないと言うのだった。

 
これは一匹狼の言葉屋独特の考え方で組織人にはうまく理解できないかもしれないが、僕には言葉屋の言うことがよく理解出来た。要は時間に縛られるのがいやなのだ。そんなことに労力を使うのならその分を仕事にかけた方が良いという合理的で我が侭な考え方だった。

 
勿論僕は言葉屋を支援してやった。そりゃそうだろう、僕だってこうなる前は今の言葉屋と全く同じことをしていたのだし、立場が一緒なら僕自身もきっと在宅勤務を強硬に主張したと思うからだ。結局この問題は言葉屋の希望を入れて週に二回打ち合わせなどのために出勤し、それ以外は原則として在宅勤務となった。


その後は各業務についての細かい打ち合わせを行ったが、その際、生涯語学講習について言葉屋から、「言わんとすることは分かるがあまりにも漠然とし過ぎていて焦点が絞り難いので今ある「英語を戦うコース」「英語をファッションするコース」を基本としてシルバー世代と子供用のプログラムをつけ加えるようにしたらどうか。」という提案があった。

 
この提案も極めてもっともなことで僕自身も同じことを考えていたのでそれを説明して理解してもらった。またお手軽留学についても出来るだけ早くテーマを決めて先方の受け入れ先を探さないとやれと言われてもすぐには実施出来ないという旅行屋からの要望があり、これも早急に検討することになった。

 
この日はこちらの企画を新来者に説明し、意見を聞くなどの刷り合わせで終了となった。融資担当は今後週一程度で顔を出すとのことだったが、旅行屋は毎日、言葉屋は週二程度顔を出し、残りは在宅勤務となった。勤務の形態について人事に確認したが、言葉屋も旅行屋も当社が契約をしている社員ではないのでどのような勤務形態でも契約先が了解すれば、それで会社としては問題ないとのことだった。

 
そんな雑務を処理して新体制第一日目は終了した。僕達は身の回りを片付けて帰宅の途についたが、僕がクレヨンを連れて帰ろうとすると女土方が後を追って来て「今日は一緒にクレヨン宅に帰る」と言い出した。突然のことでちょっと面食らったが僕として女土方が来ることに何の問題もなかったし、クレヨンに至っては夜の仲間が増えると大はしゃぎだった。


「どうしたの、自分から来るなんて珍しいじゃない。」


「お邪魔かな。でもあなたのそばにいたい気分なの。」


「お邪魔なんてそんなことあるわけないでしょう。どうしたの、変なこと言って。」

 
女土方は何も答えなかった。僕とクレヨンという組み合わせは外から見れば女同士で問題が起こり様もないのだが、実際には僕が男なのだからやはり危ない関係だろうし、さらに女土方にとっては女同士と言うのが問題大有りの組み合わせなのかもしれない。それをことさらに訪ねて来るというのは女土方が僕達の関係を疑っているのだろうか。


「自宅によって着替えを持ってから車で行くわ。」


「そうなの、早く来てね。食事は待ってるから。」

 
クレヨンはもう女土方の食事について自宅に連絡を入れたようで女土方にじゃれ付いていた。女土方もクレヨンには「うん、後でね。待っててね。」などと笑顔で優しく答えていた。

 
女土方と一旦別れてから僕は今日会った言葉屋のことを考え始めた。あの言葉屋にどうしてあんなに懐かしさを感じたのだろう。もっとも単純な筋書きを考えればあの男が佐山芳恵と入れ替わる前の僕だと言うことになる。もしもそうであるのならその元祖僕に入っているはずの元祖佐山芳恵が何かを言い出すだろうが、そんな気配もない。

 
もっとも僕が元祖僕を覚えていないように佐山芳恵も元祖佐山芳恵を覚えていないのかも知れない。それにあんなところで「私は女だったのに突然男の体になってしまい、言うに言えない悲惨な目に遭っています」なんて言い出すことは出来ないだろうからそういう可能性がないとは言えない。

 
でももしも元祖僕があの言葉屋だとしたらどうなんだろう。あの手の男は容貌も印象も人柄も嫌いではない。でも、でもだよ、極めて品のない言い方で申し訳ないが、ここはとても大事なところだから敢えて言うけど、今の僕があの男と出来るかと言われれば、それは今の僕としてはやはりご辞退申し上げますとしか言い様がなかった。

 
昔、悪い仲間が集まって、もしも女になったとしたらどんな男となら出来るかなどという今になってみれば本当に浅はかな他愛もない話題で盛り上がっていた時、僕が答える番が回って来たので、「もしも僕が女になって男とその手のことをするとしたら男の自分しかあり得ない。」と言ったところ何と言うナルシストかと非難轟々だった。

 
どうして自分が好きだと言うことが非難の対象にならなければいけないのかよく分からないが、今でも僕はそう思っているし、もしも今、元の自分に出会えばたとえ記憶がなくともきっと必ず分かるはずだという確信がある。だからあの言葉屋は元の僕ではないと信じているが、これも自分の感性といった類のもので客観的な確証ではない。

 
ただ最近それとなく思うのだが、今の僕はこの佐山芳恵という女性の姿をした人間であってそれ以外の僕はあり得ないのではないか。どうしてって元の自分が誰だろうが、それはもう他人であって自分ではあり得ないのだから。だから元の自分が誰だろうなどと考えること自体意味がないのじゃないだろうか。そんなことを考えていたらいきなりクレヨンにわき腹をど突かれた。


「何を呆けた顔をして考えているのよ。昼間のあの男のことでも考えてるんでしょう。先に希望のない熟女は藁をもつかむのかしら。でも中年カップルでお似合いかもねえ。」

 
僕は振り向き様クレヨンの首根っこを抑えて「何だって、もう一度言ってごらん。もっとももう一度言えればの話だけど。」と凄んでやった。クレヨンは「グエッ」というカエルのような声をあげた後、「ごめんなさい、もう言いません。」と小声で謝ったが、ちょうど電車が駅に滑り込んだのでそのまま首を抑えて電車から降ろしてやった。周りの乗客が驚いたようにこっちを見ていたがかまうものか。でも真に受けた人に一一〇番でもされたら少し困るかも知れないが。

 
ホームに下りて手を離すとクレヨンは二歩ばかり横っ飛びに飛びのいて僕の手が届かないところで「暴力魔、あんなたんか中年だろうが老人だろうが絶対に貰い手なんかないわよ。」と毒づいた。それを追いかけたりまた逃げたりするのがもう僕達の間では約束動作のようになっていてお互いに結構楽しんでいた。


Posted at 2016/09/18 13:58:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 小説 | 日記
2016年09月11日 イイね!

あり得ないことが、(105)



「先輩、ねえ、先輩ったら。どうしたの、そんなところでいきなり呆けてしまって。昼に食べたものが悪かったのかしら。それとも怒ってばかりいるから頭がショートしたかな。」


クレヨンが戻って来て余計なことを言うので頭を叩いてやった。


「痛ぁい、暴力女、早く壊れればいいのに。」

 
クレヨンは悲鳴をあげて文句を言ったが、正直なところクレヨンが声をかけてくれなければ僕はそのまま何時までも立ち尽くしていたかも知れない。


「語学学習プログラム担当の佐山です。よろしくお願いします。」


僕は部屋の中に入って行って言葉屋の男性に挨拶をした。


「富岡です。MJBの方からの紹介で外国語学習の件でこちらに来ることになりました。よろしく。」

 
言葉屋の男は僕にそう返した後で僕の顔を見ながら「以前にどこかでお会いしたことがありませんでしたか」と尋ねた。どうもこの男も僕に対して何かを感じているらしい。でも今の僕を見て何所かで会ったことがあるなんてことを思うと言うことは要するに元祖佐山芳恵の知人である可能性が高いと言うことだ。

 
佐山芳恵の野郎、馬の骨氏だけだけでは飽き足らずこんな中年にまで手を出していたのか。不謹慎な女だ。それを背負い込む者の立場になって行動を考えろ。さっき僕の頭の中で何かが煌めいたのは佐山芳恵の男を求める原始本能が感応したのか。でも熱愛関係だった馬の骨氏と出会った時でもそんなことはなかったから佐山芳恵の原始本能とは関係がないのか。


「ねえ、芳恵、どうしたの。」


女土方が僕の方を覗き込んだ。


「何だか急に呆けたようになっちゃって。具合でも悪いの。」


女土方は何となく訝るように僕を見ていた。


「いえ、大丈夫よ、大丈夫。何でもないわ。」

 
僕は慌てて繕った。でも何だか足元がふわふわしていて力が入らないような変な気分だった。僕は言葉屋の方に向き直った。


「私が記憶している限りではお会いしたことはないと思いますけど。」

 
本当は『ここ暫らくの間に限ってはお会いしたことはないと思いますが、本来の佐山芳恵本人ではありませんから、ほんのここ暫らくの間だけしか確かなことは申し上げられませんし、それ以前のことについてはどのようなことがあったとしても私には責任は取りかねます。』とでも言うべきなんだろうけどこんなことを言った日には深夜まで説明しても理解してはもらえないだろうから黙っていた。


「いや、そうですか。それは失礼しました。私も確信は何もなかったんですけど、こんなことを言ったら変に思われるかもしれないけど、あなたを見たら何だかとても懐かしい感じがして。それで何所かで会ったことがあるのかなと思ってしまって。でもやはり初対面でしたね。失礼しました。」

 
言葉屋は何だか女を軟派しようとしていると思われても仕方がないようなことを言ったが、特にそういうつもりではないようで本当にそこはかとない懐かしさを感じているようだった。それでも僕と言葉屋の二人だけの世界に入り込もうとしているような雰囲気に周りの者は呆気に取られているようだった。そこに他の銀行屋さん達が戻って来らしく社長や北の政所様の声が聞こえた。


「あら、お仲間の方達が戻ったようですよ。」


僕は言葉屋にそう言って融資担当達が戻ったことを告げた。


「え、いや、私はMJBから派遣されていますが、銀行とは何の関係もありません。個人的なつながりで仕事を受けただけです。向こうの人たちとも会ったこともありません。今日が初対面ですが、銀行の人たちには興味はありませんね。」


言葉屋がさらっと冷たく言い放ったところに融資担当とその一派が北の政所様と戻って来た。


「今度MJBから来ていただいた語学プログラムを手伝っていただく富岡さんです。」


女土方が言葉屋を北の政所様に紹介した。


「それじゃあこちらのMJBの皆さんとご一緒の、」


「いえ、全く別で何でもMJBのさる方からの紹介ということです。」


北の政所様は『へえ、そうなの』という表情をしたが特に何も言わずに自席に戻った。


「それじゃあこれでメンバーが揃った様なので今後の業務の進行について打ち合わせをしたいんだけど。」

 
北の政所様の発言で全員が席に着いた。融資担当とその助手は応接席へ、旅行屋は営業君の席へ、言葉屋は取り敢えず株屋のお姉さんが使っていた場所に座ってもらった。業務の打ち合わせについては、プロジェクトの基本路線はこちらの企画に従って進行していくこと、当面六カ月以内に現在の「英語を戦うコース」「英語をファッションするコース」に合わせてお手軽留学コースを試験施行して見ること、当面六ヶ月以内に生涯語学学習については基本プログラムとそれに付随するオプションを具体化していくこと、試作商品はMJBとその関連会社などで試験運用してその商品性を評価してみることなどが決定された。



Posted at 2016/09/11 14:58:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 小説 | 日記
2016年09月03日 イイね!

あり得ないことが、(104)




翌日、金融翁のさし回し達がぞろぞろと社長室にやって来た。企画担当はいかにも銀行のやり手融資担当といった風情で颯爽と社長室に入って行った。他の二人も概ね似たり寄ったりの雰囲気を漂わせながら融資担当の後に続いた。

 
ところが来ると言われていた外国語教育担当者らしい人間の姿が見えなかった。僕にとってはそれが一番大事な人物なのだが、しばらく様子を見ながら待っていたが一向に現れなかった。

 
社長室から出てきた融資担当とその取り巻きは僕達のところに来るとまた颯爽とコストマネージメントとかマーケッティングとか専門用語を駆使して自己紹介を始めた。まあ要するにこの人たちは僕達がやっている企画が商売として引き合うかということを調査に来たらしい。

 
僕は経済経営、市場調査などはやや知識不足なきらいがあるので専門用語を交えて立て板に水のごとくにまくし立てられると分からなくなってしまうが、まあ、要するに仕事を手伝ってくれるというよりも自分達が損をしないようにするために来たようだった。損するかしないか検討するよりも損をしないように知恵と汗を出して欲しいものだ。

 
もっともこの三人のうちの一人は旅行代理店からの派遣でこれは僕達と一緒に汗を流してくれるようだ。それにしても来ると言っている言葉屋さんは一向に姿を見せなかった。そのうちに北の政所様がやって来て、「融資担当とその一派にはなんでも協力してやってくれ」と言い残すとその場に留まることもなくまた忙しそうにどこかに出て行った。

 
僕はこの三人になんでも自由に見てもらって聞きたいことは聞いてくれと伝えた。一番若そうな旅行代理店から派遣されて来たという男性はお手軽留学の企画を見ながら、「これ、ぽつぽつ出て来ていますけど結構流行りそうな気がするんですよね。」と呟いた。他の二人はあれこれ矢継ぎ早に資料をひっくり返しては何やらメモをしていたが、特に質問はして来なかった。

 
昼時になると北の政所様が戻って来て、「社長がお待ちですから」と言ってこの三人を連れて行った。どこかで食事でもするんだろう。三人が出て行くとテキストエディターのお姉さんが口を尖らせた。


「あの人たち、一体何しに来たの。偉そうなこと言って書類ばかりめくっていて。何も手伝ってくれないじゃない。」


「あんた、そんなこと言うけどね、いきなり海のものとも山のものとも分けの分からない企画に人やお金をつぎ込むお人好しがいるわけないじゃないの。手伝いに来たのは一番若い人だけで後はこの企画がお金を産むか見に来ているのよ。でもあと一人、言葉屋さんが来ると言っていたんだけど姿が見えないわねえ。」


僕がそう言うとそれまで黙って書類を整理していた女土方が口を挟んだ。


「一人でも二人でも来てくれるだけ良いじゃない。人手なんかいくらあっても良いんだから。さてと、そろそろ良い時間だから私達もご飯を食べに行きましょう。」

 
女土方がパソコンを閉じるのを切っ掛けに僕達は席を立って食事に出かけた。食事を終えて戻ってくると秘書から「お客さんが来ている」と告げられた。部屋をのぞくと北の政所様の前に置かれた来客用の椅子に中年の男性が腰をおろして本を読んでいた。先に来ている三人の銀行員や旅行代理店の組織人然とした男性とは全く正反対のジャケットにスラックス姿で組織人の必須アイテムであるネクタイさえしていなかった。


「ちょうど昼休みだったものですから。」


女土方が部屋の入り口で声をかけた。


「食事に出ておりましたので失礼いたしました。副室長の伊藤と申します。」

 
男性は本から目を上げると入り口に立っている僕達の方を見た。その目線がちょうど僕のそれと合った時僕の頭の中を何かがパチッと弾けるように通り過ぎた。そして理由は分からないが、ずいぶん昔に慣れ親しんだものに出会ったようなとても懐かしい気がしてその場に立ち尽くしてしまった。



Posted at 2016/09/03 22:23:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | 小説 | 日記
2016年08月29日 イイね!

あり得ないことが、(103)




僕たちは明日から配置になる四名との企画の検討会のための資料作りに取りかかった。僕の究極のテーマは生涯語学教育、つまりもの心ついた時から語学に親しんでそれを一生続けてもらおうというものだった。そしてその環境を整えるものがデジタルネットワークを活用した何時でもどこでも居ながら語学教育と何時でも何所へでもどんなことでもお気軽留学だった。

 
つまり言葉を習いたければインターネットなどの高速デジタル通信網を介して何時でも自分の好きな時にどこからでもアクセス出来て必要な資料が手に入り、勉強が出来る環境の整備が一つの柱だった。これはもうあちこちで実際に運用されているようだから特に目新しいものではない。特に駅前なんとかいう会話スクールは二十四時間独自のテレビ回線を使って語学レッスンが受けられるようだ。

 
でも僕は語学を机に向かっていかめしく構える勉強として捉えようとは思わなかった。言葉と言うのは自分の生活範囲を広げ豊かにするための魔法の道具のようなものだと思うのだ。交通機関や通信手段が発達して世界は極端に狭くなった。行こうと思えば地球のはてまでだって行くことも難しいことではなくなった。

 
そして行った先で自分の興味を充足させるためにはやはりコミュニケーションの手段として言葉が必要だ。それはボディランゲージでも大雑把なことは通じないこともないだろう。でも本当に興味の対象についてしっかり理解しようと思ったらやはりそれなりに言葉が話せないといけない。

 
だから普段は高速デジタル通信網を活用して何時でもどこでもお気軽お手軽に言葉に触れておいて、でもそれだけじゃあ何か物足りない、味気ない、やはり異国を自分の目で見て自分の肌で感じたいと思ったらお手軽に外国に出かけて行けるような仕組みを作っておけば行く前も行った後もそれなりに励みになるだろう。

 
しかし本当に母国語以外の言葉を一生学んで行こうと思う人たちが実際にどのくらいいるんだろうというのは正直言って不安な要素だったが、これもこちらのキャンペーンや売り込み次第かも知れない。そんなことを考えながらもう何度も作った資料を手直しして必要部数を作成した。

 
その日は女土方のところに帰ろうとしたらクレヨンの「一緒に帰って!」コールに気圧されて結局あの邸宅に帰ることになった。自分の、いや、元祖佐山芳恵が借りていたアパートはとうの昔に処分してしまい、転がり込んだ女土方のところにもとんとご無沙汰状態で一体僕の家はどこなんだろう。ほとんど住居不定状態に陥ってしまったようだ。

 
僕にだって日本国憲法で保障された健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があるのだし、健康な男の心と女の体を持った成人なのだから欲望が頭をもたげることもあるんだ。そんな時に隣にいるのがサルでは話にならないではないか。しかし僕には元来社会秩序適応性が欠如しているのかこんな根無し草的な生活も決して心地の悪いものでもなかったが、それにしても元の僕は一体どうなってしまったんだろう。そして佐山芳恵も。

 
最初のころは単に佐山芳恵と僕が入れ替わっただけなんだろうなんてお気楽に考えていた。僕も辛い思いをしているが、いきなり中年男の体に入ってしまった佐山芳恵はもっと大変だろうと。最初の頃は特に根拠があったわけでもないが、こんな状態はほんの一時的なもので何かの拍子にすぐまた元に戻るんじゃないかと思っていたが、どうもその気配が全く感じられなかった。

 
そんな訳でこの状態についてあれこれ考えもしたが、元々科学的にどうこうと言う話ではなさそうなので最近は考えるのを止めてしまってこの佐山芳恵の体と立場を使って適当に生活している。自分自身女になっても特に生き方を変えるでもなく自分の思うように生きていてそんなところはかなりいい加減だとは思うが、それだからこそこんな生活を続けていられるのかも知れない。

 
この頃は何だか最初からニュー佐山芳恵としてこの世に生まれ出たような気分になってしまった。僕はきっとこの先もこのまま女土方と寄り添いながら生きていくんだろう。今の僕はそれならそれでも良いかなと思っている。最初の頃はとにかく今はすっかりこの生活に馴染んでしまっていて今更どうこじれているか分からない元の生活に戻れと言われても却って困惑してしまうのは火を見るよりも明らかだった。

 
そんなことを考えているうちに夜が更けてしまった。クレヨンは僕の横で軽い寝息を立てながら熟睡している様子だった。こいつも最初のころは一寸刻みにしてピラニアにでも食わせてやろうかと思ったが、今では時々蹴りを入れたりすることもないではないけれど、それなりに憎らしくはない妹のような存在になっていた。

 
さあ寝ようと僕はクレヨンの方を向き直るとクレヨンの背中と腰に手を回して抱え込んだ。こういう時はこいつも心得たもので僕の腕の中に潜り込んで自然に体を密着させて来る。そんなことをしながらしばらくクレヨンの感触を楽しんでいたが、そのうちに僕も眠りに落ちて行った。

 
そして翌朝眼が覚めればまた会社に出社してあの部屋で新たな企画に取り組んだ。それが元から僕の天職だったように仕事に自然に取り組んで終われば自宅に帰った。いや、僕にはもう自宅はなかった。女土方の家が一応自宅になるんだろうけど、世間的には夫婦でもないのだからその生活はどちらかと言えば居候に近かった。クレヨンのところはもちろん他人の家だった。そうか、元々男だった時から根無し草の生活だったがそればかりは体が女に変わっても少しも変わらないんだ。


Posted at 2016/08/29 19:29:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 小説 | 日記
2016年08月18日 イイね!

あり得ないことが、(102)




僕は黙って女土方に向かって頷いた。僕にしてみれば『もう仕方がないなあ。』と言うのが正直なところだったがどうも女土方にあんな言われ方をしてしまうとそれに逆らうことが出来なかった。それでも僕は僕なりに条件をつけた。

 
まず一つはクレヨンを大学に復学させることだった。何だかんだ言ってあのサルも三年まで修了しているのだから残りはあと一年、お嬢様女子大の最終年など無きにも等しい程度の授業しか残っていないだろう。これについては金融翁も異存はなかった。そして空いた時間で今の仕事の手伝いをさせる。

 
社長はクレヨンを非常勤室員として辞令を出したが、僕はクレヨンには正社員に近いことまでさせなくとも今はアルバイト程度でいいんじゃないかと思っている。それを金融翁に話すと金融翁も同意してくれた。

 
これには社長の立場や了解も要るんだろうけどいずれにしても非常勤社員なのだからその辺はうまく都合がつくだろう。そして営業君、株屋の姉御に加えてクレヨンまでも抜かれれば室で戦力は僕と女土方にテキストエディターのお姉さんだけになってしまう。

 
いくらなんでも人的には半減、戦力的にも三割方は落ちているだろう。これではちょっと心許ない。それを金融翁に伝えるとどんな企画を検討しているのかと聞かれた。そこで今の企画のあらましを伝えると「最近そんな企画を聞いたことがあるけどなかなか面白そうな企画かもしれない。」と言ってくれた。


「私も少しばかりあちこちの業界に顔が利くので人の手当は何とかできるかも知れない。篠田君にも私の方から話しておきましょう。その辺は私の方で何とかうまくやりますから良しなに任せておいてください。」

 
あちこちの業界に少しは顔が利くって金を握っているこのおっさんがあちこちの業界に顔が利かなかったら一体この世の中で誰が業界に睨みを効かせているんだ。ところでこのおっさんが「篠田君」と呼ぶ人物は誰あろう僕等の社長のことだ。さすがに僕等の社長もこのおっさんに言われれば受け入れざるを得ないんだろう。

 
日本の経済界の超大物にべこべこ頭を下げられて僕と女土方はおかしな気分で二階の部屋に戻った。そこにはクレヨンが僕たちを待っていた。僕たちがここに居残ることになったのでずい分とうれしそうだった。しかし金融翁がこれほどメロメロにクレヨンを心配するとなるとクレヨンは北の政所様とこの金融翁の子供と言うことになって社長父親説は崩れてしまう。

 
勿論クレヨンが誰の子でも良いんだけれど社長と北の政所様の間に出来た世を忍ぶ秘密の愛の結晶という方が責任のない外野としては面白い。もっともクレヨンが愛の結晶というにはちょっと濁りすぎているかも知れないが。

 
金融翁効果は翌日早速現実となって現れた。北の政所様から室員四人が補充されることが伝えられた。旅行業務を含めて営業関係が三名、語学関係が一名とのことだった。そしてクレヨンは日々雇用職員として大学に復学することになった。日々雇用なんて聞き慣れない難しい言葉だが要するに日給のアルバイトと言うことだ。その後社長が顔を出した。そして僕と女土方の顔を見ると何とも複雑な表情をして見せた。


「君達には本当に何と言えばいいのかな。勿論僕にとってはとてもありがたいことには間違いないんだけど、どうも事が想像を超えた方向に進んで行ってしまう。今回この企画はMJBホールディングズとのコラボレーションで進めていくという線で話が進んでいる。今回の増員はそれに従ってMJBから派遣される人員だ。一部は企画の有効性を見極めるため事業企画室からの派遣だと言うことなので相当の切れ者だろう。資金面では比較にもならないのだから向こうに主導権を握られかねない。その辺を考えると今回の件も痛し痒しだな。」


「大丈夫ですよ、社長。こっちは金よりもエリートよりもはるかに強力な人質があるんですから。あれさえ出せば金融王もめろめろよねえ。」

 
僕はクレヨンのことを冗談交じりに言ってみたが、考えてみればあの小娘はうちの社長の娘かも知れないのだ。


「あのね、あなたねえ。ああいう人たちにとって仕事と私生活は厳然と別なのよ。そうでなければあの人もあんな立場には上り詰めたりは出来なかったと思うわ。」


女土方が僕を見ながらつくづくと言った。


「分かってるわよ、そのくらい。ちょっと言ってみただけよ。」


「いずれにしても」


社長が僕たちに口を挟んだ。


「しっかりと企画を吟味していいものを出してくれ。良い物を出せばそれだけこっちの発言権も強まるのだから。よろしく頼むよ。」

 
社長は入って来た時と同じ複雑な表情のまま部屋を出て行った。そしてその後を北の政所様が追いかけて行った。



Posted at 2016/08/18 17:34:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 小説 | 日記

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