2016年08月15日
株屋の姉御は未だ衝撃から覚めやらぬ室員を尻目に「じゃあ、辞表を出してくるわ。」と言うと部屋から出て行った。するとテキストエディターのお姉さんが大きくため息を漏らした。
「一体どうなってるのよ、この世の中は。」
テキストエディターのお姉さんはため息に続いてそう言った。
「いや、驚いたわね。今回の件には。こんな展開になっているなんて夢にも思わなかったわ。なんだか力が抜けたわ。」
北の政所様が椅子に体を投げ出した。
「予想外でした。」
クレヨンはどこぞの新規参入携帯電話会社のCMのようなことを言った。
「この結末は本当にちょっと予想外だったわね。驚いたわ。」
女土方が僕を見た。
「私はこれでホッとしたわ。」
僕は女土方に微笑んで見せた。二人の辞表は当日受理されて辞職が認められた。これで当部門には二名の欠員が生じてしまったわけだが会社としては補充しない方針を固めたようだった。市場の動向については情報データバンクと契約して必要な情報を購入することになった。また営業関係の業務についてはその都度必要に応じて営業部門から人を派遣することになった。
こうして人が減ってしまったので係を調査と企画に分けることが出来なくなってしまった。そこで今回の人事異動後は女土方を頂点とした調査企画係として再出発することになった。人が減ったことは良いこととは言えないがこの方が小回りも効くし結束も固いので僕にとっては好ましかったがとどのつまりは僕と女土方の負担が大きく増す結果となることは眼に見えていた。
この時期もう一つ大きな変化があった。それはクレヨンの父親が帰国したことだった。たまたま休日に僕たちが遅くまで寝ていたところお手伝いが「旦那様がお帰りになります。」と伝えに来た。幾らなんでも何時までも放って置きやがってとんでもない奴だと思ったが、これで僕たちも豪邸住まいを卒業して庶民の家に帰ることが出来る。それにしてもやはり一家の主が帰って来ると家の中も活気付くのかお手伝いも急に忙しそうに動き回り始めた。
待つことしばし玄関先に馬鹿でかいメルセデスが滑り込んで来た。そしてそこから確かにテレビの経済ニュースなどで何度も見た顔の年寄りが降りて来た。僕たちは使用人でも家族でもないので玄関でお出迎えする必要もないと思い、応接間で待機することにした。
もうすっかり慣れているので勝手にコーヒーなど入れて寛いでいるとさっきの有名じじが入って来た。この年配の男性が日本の金融界を仕切っている人間の一人とは思えない穏やかで平凡な初老の男性だった。
「このたびは娘の不始末で大変ご迷惑をおかけしたそうで。しかも娘と一緒にこんなところに長い間お泊り頂くなどご不便をおかけして。親としても不徳の致すところと大変心苦しく思っております。
しかしお二人のおかげで娘もずい分落ち着いて生活出来るようになった様子で何ともお礼の申し様がありません。」
金融翁は僕達二人に深々と頭を下げた。『全くお前の娘のサルにはずい分迷惑を掛けられた。余計な手数もずい分かかった。それはそれで水に流そう。ついては一つだけ質問に答えていただきたい。あのクレヨンはあなたの本当の娘なのか、それともうちの社長と北の政所様との間に出来た禁断の子供なのか。』
僕がそんな馬鹿なことを言い出さないように女土方は僕の方を一睨みしてとんでもない目論見を制圧してから金融翁に向き合った。
「どの程度お役に立てたのか分かりませんが、お嬢様を無事にお返し出来てよかったと思います。」
無事と言うよりはお互いに満身創痍で痛み分けという気がしないでもないがクレヨンのことで一番被害が大きかったのはもちろん僕だろう。
「本当にお二人にはご迷惑をお掛けしてまた大変お世話になりました。」
金融翁は一旦言葉を切って視線を窓の外にそらせた。しかし何か含みがありそうなその横顔に何とも嫌なものを感じたのは女土方も同じだったようでそっと僕に目配せをした。
「実は、お二人にはこれまでも散々ご迷惑をお掛けしていてこんなお願いを申し上げられるような立場ではないのですが、娘がお二人にずい分なついておるようで、今お二人にいなくなられるのは辛いと申します。何とかもうしばらく娘を見てやってはいただけないでしょうか。」
銀行など日本の金融界は十年以上の長きにわたってほとんど無利子同然で預金者の金を運用しまくり、それに公金まで加えてバブルに踊ったつけを帳消しにするなど商売の倫理に反する非道な行為を逞しくしていて、事自分の娘かどうかは知らないが、身内のことになるとこの甘さは一体どうだ。このような非道の行為にはこの僕が正義の鉄槌を振り下ろして完膚なきまでに破砕してくれよう。
「もちろんそんなことかまいません。私たちに出来ることは何でもして差し上げますからどうぞご心配なく。」
僕の正義貫徹の志をあざ笑うかのごとく女土方は金融翁の身勝手な申し出をあっさり受け入れてしまった。僕は唖然とした面持ちで女土方の顔を見つめたが、女土方は到って平然と僕を見返した。女土方よ、お前は権力と金力の前に志を捨ててひれ伏すのか。
「まことにお優しいお心遣い恐れ入ります。老いた愚かな父親と思し召して何とぞ良しなにお取り計らいをお願いします。」
金融翁が言い終わるが早いかクレヨンが部屋に飛び込んで来た。
「良かった、まだこれからも三人で暮らせるのね。じゃあパパに頼んで二人の部屋を作ってもらおうかな。」
一体どういう風に育てるとこういう極楽とんぼが出来るのだろう。ここにいるじいさんに聞いてみたいもんだ。金融翁は本当にお世話になりっぱなしでもうしわけありませんなどと平身低頭の態で部屋を出て行った。
「ねえ、一体どういうことよ。これからもずっとここでサルの飼育係を続けるって言うの。」
僕は女土方に噛み付いた。第一クレヨンの面倒なんてほとんど僕が見ていたようなものじゃないか。
「まさかあなたのことだからそんなことはないでしょうけど何かしらの見返りを期待しているんじゃないでしょうね。」
「そうよ、当たり前でしょう。金融界の大御所なのよ、なんてね。今のままで生活していけるんだから見返りも何もいらないけど別に悪い子じゃないじゃないじゃない、彼女って。それはあなただってよく分かっているんでしょう。口じゃあずいぶん悪様に言うけど本当は言うほどでもなく思っているんでしょう。それにせっかく良い方に向き始めたのにここで見放したらまたとんでもない方に飛んで行ってしまうわよ。それじゃあかわいそうでしょう。」
やはり誰にも優しい女土方だったがぼくはちょっと悪戯心を起こしてからかってやった。
「ずい分お優しいことだけど本当はあなたの方が彼女に気があるんじゃないの。」
僕がえへらえへら笑いながらからかうと女土方は顔を赤くした。感情を表に表すことが少ない女土方には珍しいことだった。
「あ、赤くなった。図星だ、図星。」
「またそんなこと言って人をからかって。あのね、あなたも聞いたでしょう。日本の金融界を牛耳っているあの大物があの子のためには私達のような小娘に深々と頭を下げて。何だか意地らしいじゃない。義を見てせざるは勇なきなりって言うじゃない。こうなったら見てあげればいいわ。」
なるほど女土方、どこまでもお優しいことで。僕にしてもここでクレヨンを放り出すわけにも行かないだろうとは思っていた。さすがの僕も今になれば口で言うほどにはクレヨンが嫌いなわけでもなかったし面倒を見てやるのはいいのだがそうは言っても中心になってあのサルの面倒を見るのは一体誰なんだ。
「確かに一番負担になるのはあなたなんでしょうけど。私も協力するからもう少し面倒見てあげようよ。彼女がもう少し落ち着いて一人で歩いて行けるようになるまで。」
Posted at 2016/08/15 15:08:48 | |
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小説 | 日記
2016年08月08日
「精神的に何も打撃がないというわけじゃありませんけどあのくらいなら想定の範囲内で生活に支障を生じるような障害はありません。大丈夫です。」
僕がそう答えると北の政所様は社長の方を向いて「ほらね」とでも言いたげに首を一、二回小さく縦に振った。
「そうか、それはよかった。せっかくの大事な企画もあるようだし。」
社長は安心したように微笑んだが、本当は僕よりも僕が担当している新しい企画の方が心配だったのかも知れない。僕自身よりも企画を心配されたのにはちょっと気分を害するが、少なくとも経営者たるものそのくらいの打算的な部分がないと情だけではこの厳しい経済環境を乗り切れないのでそれでいいのかも知れない。
「それでは調査の結果が出るまでちょっと待って欲しい。あとは冴子、じゃなかった、森田室長に何でも言ってくれ。」
社長との面談はこれで終わった。社長は「結果が出るまで少し待って欲しい。」と言っていたが、その日の午後には営業君は人事課付きとなり、併せて後任人事も発表された。営業君が人事課付きとなったということは実際に彼の行為が非として認定されたことになる。会社として公的にどのようにそれを疎明したのかは分からないが、要は僕の言い分を認めてくれたということだろう。これで問題はすべて片付いて大団円かと思ったらとんでもないことが待ち受けていた。
翌日、営業君が出社して来た。当然好奇の目は営業君とそしてその相手方である僕に集まった。廊下は黒山の人だかりというわけでもないがかなりの人数がそれとなくこの部屋を覗っていることは感じ取れた。今回のことで人間という生き物はつくづく人の不幸が好きなんだなと実感させられた。でも時と場合と話の内容にもよるが印の噂話は興味深いと思うこともあるのでそれも止むを得ないところはあるかも知れないが。営業君は部屋に入ると真っ先に今回の件に関する所信を表明した。
「僕は今回の会社の処分は全く承服しかねるものがあります。何より今回僕は両眼瞼眼球結膜化学火傷という傷害を負わされたにもかかわらず一方的に処分されるということは受け入れ難いものです。今回の処分については法的に対抗措置が取れるかを検討して対処していきたいと思います。」
この野郎、本当に黙っていれば勝手なことばかりほざく奴だ。もう少し何かを言ったら言い返してやろうと思っていたところ何とクレヨンが反撃の砲火を開いた。
「その何とか火傷って言ってもそれはあなたが佐山主任を襲ったからでしょう。本当ならこんなことじゃあ済まないんじゃないの。その辺をよく考えてみた方がいいんじゃない。」
これは極めて妥当な意見でそうした意見をクレヨンが口にしたことはほとんど奇跡と言ってもいい。そしてクレヨンにこんなことを言われる営業君はもうそれこそ「人間やめますか」の世界だろう。
「確かにそういう事実はありました。しかしそれは彼女から誘われた結果です。いわば僕ははめられたと言っても言い過ぎではないと思います。佐山さんは何時ものように、今回も初めからとても落ち着いていました。それは彼女自身そこで何が起こるか知っていたからです。僕たち二人しかいない会社の中で僕を自分の良いように誘ったんです。でも僕が自分の思い通りにならないのであんなことを。僕はきっと闘いますから。」
「あなたも男ならもう聞き苦しい言い訳にもならない言い訳はおやめなさい。」
とうとう女土方が口を開いた。
「その時起こったのかなんてその場にいた当事者しか分からないわ。だから何が起こったかを知るにはその当事者に聞くほかにはないのだけど、今あなたが何を言ってもあなたの言うことなんか信じる人は誰もいないわ。今回の処分もそうよ、事実確認ばかりじゃないわ、今回のことについては社として公式に佐山さんの主張を受け入れてあなたのを退けたということよ。
言っておくけど佐山さんはあなたのことは本当に嫌っていたわ。彼女があなたをわざわざ夜の会社の中で誘う理由なんて何一つないわ。おばかさんなことばかり言っていないで自分のしたことを本当に考えなさい。
それからね、佐山さんが落ち着いているのはこの人の状況判断能力と対応策を考え出す能力がとても優れているからよ。あなたが言うような理由で落ち着いていたわけではないわ。」
やっぱり女土方のものの言い方には有無を言わせない迫力がある。営業君も何も返せずに黙り込んだ。ところがここで予想もしないことが起こった。株屋の姉御が立ち上がったのだ。
「もう処分も出たんだから皆で何時までも吠えかからないでこれで終わりということでいいじゃない。お互いに結論が出ないことを何時までも言い合っても仕方がないわ。今日彼がここに来たのは辞職の手続きを始めるためよ。」
「辞職ってどうしてあなたがそんなことを知っているの。」
北の政所様が唖然とした表情で聞き返した。
「そんなことどうでもいいじゃないって言いたいけどまあいいわ、教えてあげるわ。私、彼と株で商売をしていくことに決めたの。私も彼と一緒に辞めるわ、この会社。何時か近いうちにこういうこともあるかなって考えていたけどね。こんな早い時期にこんな形で身を引くことになるとは思わなかったわ。
でもこの年になってもう自分一人で生きていく他ないかなって思っていたところにまさかこんな形でパートナーに巡り会うなんてね、ちょっと予想外だったわ。そうは言っても年も一回りも違うから何時まで相手をしてもらえるか分からないけど彼が私で良いって言うなら私はしばらくそうして彼と一緒に生きていくわ。」
この株屋の姉御の一言、これは効いた。その場にいた全員がこの株屋の姉後の発言で唖然騒然呆然の態で誰も何も口にすることが出来ずに呆けた顔を株屋の姉御に向けていた。一昨日の晩、ことが起こった時に僕と入れ替わりに株屋の姉御が部屋に入って来た。あの時点では間違いなく営業君と株屋は無関係だった。株屋は何か全く別の用事があって会社に来たのだと思う。そこであの事件に出くわして眼が痛いと泣き叫ぶ営業君に同情してしまったということだろう。
株屋の姉御は僕に対しては何も非難めいたことは言わなかったのでことを仕掛けたのは営業君だということは納得しているんだろう。それにしても何という電光石火の早業だろう。究極の甘えん坊の営業君と押し黙って感情を押し殺して滅多にものも申さないけど、きっと母性本能を持て余していたのだろう株屋の姉御が超甘えん坊の営業君に弾けるようにくっついてしまったのだろう。でも世の中には一回り以上も女の方が年上でも仲良く夫婦をしているカップルもいるんだし平均寿命を考えても女の方が五、六歳年上くらいがちょうど良いのかも知れない。
Posted at 2016/08/08 19:55:31 | |
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小説 | 日記
2016年08月02日
翌日出社するとさっそく人事課に呼ばれた。予想はしていたがやはり営業君の仕業だった。
『夜、仕事を終えて部屋に戻ると何もしないのに僕に部屋から出て行けと言われ、仕事の始末があるのでと部屋に入ろうとするといきなり僕に催涙スプレーを吹きかけられて顔や目に怪我をした。』
それが営業君の言い分のようだった。これまでの経過からそんなこともあるかとは思っていたが、よくもすぐにばれるようなことを言うものだ。人事の担当者から真偽を尋ねられたので「催涙スプレーをかけたのは事実だけど。」と答えた。「え?」という顔をした人事の担当者に僕はさらに続けた。
「ただし彼は夜の九時過ぎに部屋に戻って来て帰ろうとする私をさえぎって部屋から出さなかっただけでなく私の腕をつかんで乱暴をしようとしたのよ。
私は何度もばかなことはやめるようにも頼んだけれど彼の方が力が強いし、乱暴をやめようとしないので仕方なく催涙スプレーを彼の顔にかけたわ。
その後水を汲んでやって顔を洗わせているところに株屋の姉御、じゃなくて橋田さんが突然部屋に入って来たわ。元々護身用で相手に大きなダメージを与えるようなものじゃないし洗い流せば炎症も治まると思ったので私はそれで部屋を出て自宅に戻ったわ。帰りに医者によって診察だけはしてもらったけどこれが腕に出来た皮下出血の写真でこれが診断書よ。」
僕は人事の担当者の前に突きつけてやった。担当者は慌てて写真や診断書をつかむとどこかに走って行った。どうも昨晩の僕と営業君のことが大分問題になっているようだったが僕が悪いわけじゃないから関係ない。どんな大騒ぎになろうと知ったことか。そのうちに人事課長がやって来た。誰が来ようと僕だって課長代理級だ、負けるものか。
「佐山さん、実は高山君があなたを傷害で警察に告訴すると言って来ている。それで人事としても事実を確認したい。彼はあなたがいきなり催涙スプレーを吹きかけたと言っているが、実際のところはそうでもないようだ。うちの方としては高山君を説得して思い止まらせるつもりだが佐山さんとしてはその辺の気持ちはどうなんだろう。」
僕としてどうもこうもない。告訴したければ告訴すればいい。僕も告訴するだけだ。どっちが痛い目を見るかよく考えた方が良いとしか言いようがない。
「彼が告訴するというのなら私にも当然それなりの考えがあります。不正な侵害を受けていてさらになお黙って不正を甘受するほどお人好しじゃありません。ところで彼は出勤しているんですか。いるのなら会わせてください。一言言ってやりたいことがあるんです。」
一言の前に『あの馬鹿に』と付け加えそうになってあわてて言葉を飲み込んだが、僕はこの会社では超超タカ派でその名が轟き渡っているのであの馬鹿くらい言っても誰も何とも思わなかったかもしれない。
「今日は通院ということで休んでいます。うちには電話とメールで連絡がありました。」
「じゃあ、私が電話するわ。」
僕は携帯を手にとって営業君に電話した。「はい」という営業君の声が聞こえたので僕は一気に捲くし立てようとして「あんたね、」と言うとそこで電話が切れてしまった。この野郎、相手が分かったとたんに電話を切るなんて人をなめやがって。ところがその後すぐに人事に電話がかかってきて僕とは直接話したくないなどと盗人猛々しいことを言ったらしい。話したくないなら最初から僕の周りをうろちょろするんじゃない。
次に人事課長が出て来たが誰が出て来ても話すことは同じだった。僕は人事の担当者に話したことと同じことを話して最後に自分の意見を付け加えた。
「おっしゃることは分かりました。この件については当課としてもさらに調査をしますのでその際はご協力をお願いします。」
人事課長は特にらの感情を示すこともなく淡々と話を締め括った。それで僕も放免されて自室に戻ることが出来た。何時ものことで話はもう社内に広まっているらしく僕を見て声を潜めて話をする姿があちこちで見られた。どうせ僕が強姦されたとかあるいは僕が営業くんを襲ったなんて話しているのかも知れない。こうなったら何でも勝手に言うがいい。
部屋に戻るとこれまた一人を除いて全員が僕のほうを見た。僕を見ないで淡々と仕事をしていたのは株屋の姉御だけだった。この女は感情というものをほとんど表情に出さないという特技を持っているようでその顔つきから内心を読もうとしても何とも掴み所どころか手がかりさえほとんどなかった。
女土方には昨夜大方の話はしておいたが北の政所様には何も話していなかったので話さなくてはいけないだろうと真っ先に彼女のところに行った。北の政所様は僕を見ると「社長が呼んでるわ。」と言って立ち上がった。それで僕はそのまま北の政所様と一緒に社長室に入った。
「佐山さん、仕事以外にもいろいろ負担をかけて申し訳ない。今回のことは社として新部門に傷をつけたくないなどという時代錯誤的な防衛意識が働いて対応が後手に回ってしまいあなたにとんでもない迷惑をかけてしまった。今更あなたに直接の深刻な被害がなければ良いという訳じゃないが、とにかくあなたが無事でよかった。
事実については確認されたわけではないがあなたがこんなことでうそをつくような人でないことは僕がよく承知している。二度とあなたにこんなことで負担をかけることのないよう人事措置をするつもりだから今回のことは勘弁して欲しい。
いや、ここで勘弁と言っているのはすべてを水に流すという意味じゃなくて社として措置が後手に回ったことを許して欲しいということだ。会社としての落ち度については出来るだけのことはさせてもらうつもりだ。
ところでこれはまじめに聞きたいのだけど今回のことでPTSDなどの精神的な障害は大丈夫だろうか。あなただから間違ってもそんなことはないだろうという者もいるが精神的なことは場合によっては肉体的な傷よりも深刻な打撃を人間に与える場合が多いので確認しておきたい。」
『あなただから間違ってもそんなことはないだろう云々』というところで北の政所様は口を押さえて横を向いた。失礼な女だ、人の不幸を笑うなんて。でもこんなことを言ってはそういう症状に苦しんでいる人に申し訳がないがPTSDなんてなってみたくても僕にはなれそうもない。
これが本当の女性が受けた被害ならいざ知らず、大体ついこの間まで間違いなく襲われる方ではなくて襲う方の側にいた人間としてこれくらいのことで精神的障害など負っては男としての趣旨が立たない。そういう精神的な打撃を受けるということの大前提には予想外という条件があるのだろう。ところが営業君の場合は明らかに予想の範囲内だったのだから精神的な打撃を受けようもない。
それよりももしも彼がさらに強行に目的とする行為に及んできた時の方が重大な事態を招いていたかも知れない。僕は最後の最後まで抵抗を止めなかっただろうし、その抵抗も半端な手段ではなかっただろうからそれこそお互いに流血の惨事になっていたかもしれない。考えようによってはそれを避けるための護身用スプレーだったのかも知れない。そうだとすればあのスプレーは極めて効果的だったと言うことが出来る。口には出せないが僕は社長の質問にこんなことを頭に浮かべていた。
Posted at 2016/08/02 18:02:35 | |
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小説 | 日記
2016年08月01日
果たして僕がパソコンの終了ボタンをクリックしたちょうどその時部屋のドアが開いて営業君が入って来た。
『やはり出たか、この物の怪が。』
怪奇映画ならそう言って刀の柄に手をかけるか、銃を構えるか、あるいは金切り声を上げるところだろうがこの場合刃物や飛び道具はよろしくないのでパソコンを閉じると黙って帰り支度を始めた。どうせ声をかければ訳のわからないことをああだこうだと言いまくるに決まっているので部屋を出る時に一言声をかけてづらかろうというのが僕の算段だった。
営業君は自分の机の引き出しを開けて何かをいじっていたが僕はなるべく営業君を見ないようにして支度を済ますと「お疲れ。」と言って出口へとダッシュした。しかし僕のところから出口までは係の島を半周しなくてはいけないのだが営業君のところからは一直線で出入り口へ届くのだった。
「そんなに急いで出て行かないでちょっと待ってください。」
営業君に出入り口を塞がれて僕らは面と向き合った。
「どういうつもりなの。そこをどいてよ。」
僕は営業君をにらみつけた。
「そんなに恐い顔をしないでください。僕はあなたと話がしたいだけなんですから。」
「もう何度も言っているはずよ。あなたと個人的におつき合いをするつもりはないって。だからそこをどきなさい。」
「恐いなあ、あなたはどうしてそんなに恐いんだろう。でもあなたのそういうところが僕にはたまらない魅力なんですけど。」
営業君は僕の方に半歩踏み出した。それに合わせて僕は半歩後ろに下がった。僕はいきなり飛びつかれて自由を奪われないようもう一歩下がって間合いを取った。
「おやめなさい。大きな声を出すわよ。」
「もう誰もいませんよ。僕だってそのくらいのことは確認していますから。」
「計画的なのね。これ以上何かすると犯罪よ。分かっているの。」
「警察は会社内の痴話喧嘩なんかには介入しませんよ。刺した刺されたになれば別でしょうけど僕はあなたを傷つけるつもりなんてこれっぽちもないんだから。」
「人の心を傷つけることは体を傷つけるよりもずっと深い痛手を負わせることもあるのよ。あなたにはそういうことが分かっているの。」
「僕はあなたを傷つけるつもりなんてこれっぽっちもない。ただあなたを少しでも近くに感じていたいだけなんだ。」
営業君は僕の方へ大きく一歩踏み出した。『来るぞ。』と思った瞬間右腕をつかまれた。口惜しいが今は力で対抗しても男にはかなわない。僕は体を開いて半身に構えると左手でこんな時のためにバッグの中に入れてあったあるものをしっかりとつかんだ。営業君は僕を自分の方へと引っ張り込もうとした。
「おやめなさい。ひどい目に遭う前に。これが最後の警告よ。」
営業君はもう何を言っても聞き入れる余裕がない様子だった。まあ、こうなれば普通の男はそうだろう。ぼくも男だから今の営業君の気持ちも分からないでもないが、いやだと言う女相手に無理強いしてはいけない。それは男の本旨に悖ることになるばかりでなく思わぬしっぺ返しを食うものだ。世間でも窮鼠猫を噛むと言うじゃないか。
まさに営業君が僕を抱きしめようとしたその瞬間僕は左手につかんだものを営業君の鼻先に突き出してちょいと噴射した。
「うわ、ぎゃあああ・・・。目が、目が辛い。何も見えない。」
営業君は僕の手を離して顔を覆うと絶叫した。
「だから言ったでしょう。やめないとひどい目に遭うって。」
僕は床にしゃがみこんで顔をかきむしっている営業君にそう言ってやった。それから洗面所に行くとバケツに一杯水を汲んで持って来てやった。手間のかかるやつだが、バケツも掃除用のだからあいこかもしれない。
「いい加減にあんたも懲りなさいよ。さあこれで顔でも洗いなさい。私はこれで帰るわ。」
相変わらず派手にうめき声を上げている営業君の前にバケツを置くと僕は荷物を持って部屋を出た。そこに株屋の姉御がやって来た。株屋の姉御はとっくに帰ったはずなのにどうして今頃戻ってきたのか分からなかった。
「どうしたんですか、一体。この騒ぎは。」
「自業自得、水で洗ってしばらくすれば楽になるでしょう。せっかく侵略者を撃退したのだから私はこれで帰るわ。」
狂ったようにバケツで顔を洗っている営業君と呆気に取られている株屋の姉御を残して僕はさっさと外に出るとタクシーを拾って途中以前手術をしてもらった医者によってからクレヨン邸へ戻った。営業君も株屋の姉御には世間の倫理に背くような行為はしないだろう。
Posted at 2016/08/01 18:40:20 | |
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小説 | 日記
2016年07月26日
鮨屋を出るとタクシーを拾って銀座のはずれまで行き、あまり目立たないビルの中にあるエステサロンに足を踏み入れた。僕はこれまでエステなど行ったことがない。そこでどんなことが行われているかもあまり詳しくは知らない。いろいろな方法で顔や体のマッサージやケアをする所くらいの知識しかない。
大体男がこの手の場所に恒常的に出入りするのかどうかも分からない。女の体になってからも自分の体を他人の手に委ねたのは女土方を除けば病院で腹を切った時くらいで他には経験がない。
女土方はこのエステの常連らしくカウンターにいた女性とずい分親しげに話をしていた。他の二人もメニューを覗き込みながらああだこうだとずい分熱心に自分が受けるエステサービスについて話し合っていた。
]僕は受付の先にある時間待ち用のソファに腰を下ろして店内を見回していた。華美に走らずにお客が落ち着けるように配慮したインテリアはなかなかいい趣味でいかにも女土方お気に入りらしかった。
「ねえ、あなたはどうするの。私と一緒のコースで良いのかな。それとも何かお好みのがあるの。」
女土方が僕を振り返ったがそんなことを聞かれてもお好みなどあるはずもないので「一緒でいいわ。」と簡単に答えた。ソファでアレルギーだの病気だの、それからこれまでのエステの経験などについて簡単なアンケートを書かされてから順番に個室へ呼ばれた。僕は一番最後だった。
「それではこれに着替えていただいて終ったら声をかけてください。」
若い女性のエステ師が袋に入った紙のトランクスを手渡してそう言った。
「え、裸になるの。」
包みを受け取りながら僕が聞き返すと「ええ、その紙の下着に履き替えてください。」と言うと施術師は外に出て行った。どうも全部脱いでこれ一枚になれということらしい。
「手術じゃないから大丈夫よ。安心して任せて。」
隣の部屋から女土方の声が聞こえた。別に何をされても良いんだけどいきなり脱げと言うのにちょっと戸惑った。袋を破ると中から不織布のトランクスが出て来たのには懐かしくて涙が出そうになった。これぞ下着の中の下着、僕はトランクスに勇気付けられてさっさと裸になると男の下着の感触を懐かしみながら施術台にうつ伏せになると「お願いします。」と声をかけた。
エステシャンは入って来ると「フェイシャルケアとボディケアでよろしいですか。」と聞くので「ボディケアだけでいいわ。顔はパスよ。」と答えてマッサージだけしてもらうことにした。大体フェイシャルケアで若返りとか老化防止とか言うけど厳然としてこの世の中に老化が存在するのだから結局はやってもらう方の自己満足、ひどい言い方をすれば自己欺瞞ということになると僕は思っている。受ける本人の気持ちの問題と言えば確かにそうなんだろうけど。
それでもマッサージは確かに気持ちが良い。ハーブ入りの香油とかを体にぬめぬめ塗り付けるのは何だか鉄板焼きの具にされたようでちょっと閉口だが、マッサージ自体はなかなか気持ちが良い。ただ撫でさするようなマッサージではなくもう少し筋肉に食い込むような刺激的なものの方がその場はやったという充実感があって良いかも知れない。
マッサージは足から首、肩、背中、腰、腕と進んで乳も揉んでくれるのかと思ったらそれで終わりになってしまった。
「何か運動でもしていらっしゃるんですか。ずい分しっかりした筋肉をしていらっしゃいますね。」
エステシャンがそんなことを聞いた。
『ええ、クレヨン投げを少し。』
そんなことを言っても頭がおかしいと思われるだけだろうから「フィットネスを少し。」と答えておいた。女が余り筋肉隆々では具合が悪いかもしれないが、この先何が起こるか分からないから備えは怠りないようにしておかないと泣きを見ることになる。
先に施術を終わって待合でお茶を飲みながら女土方やクレヨンを待っていた。毎日継続して続ければどうだか知らないが、たまにこんなことをしたからと言って肌や組織が若返るわけでもなかろう。汚れが落ちて刺激で血色が良くなるから若返ったり元気になったように見えるのかもしれないが、どの道、自己満足の世界だろうと思うが女と言う生き物は男がせつな的な快楽を得ようと奔走するのと同じく、そうして刹那的な安心を手に入れることを生甲斐にしているのかも知れない。
しばらくハーブ茶を飲みながらソファに体を沈めて休んでいると女土方やクレヨンも施術を終わって戻って来た。
「このところストレスがひどくて体調が心配だったけど今日は本当にすっきりしたわ。若返って安心したわ。」
自分自身が周囲にとってストレスそのものだという認識の全くないクレヨンが伸びをしながらあほなことを言った。「毒を以って毒を制す」と言うが、このクレヨンで営業君を退治出来ないものだろうかと僕は考えている。
クレヨンに言わせれば間違いなく毒の一方は僕ということになるんだろう。人と立場が変われば考え方も丸っきり変わってしまうのは世の中の常なのだから仕方のないことには違いないが。
全員がマッサージを終わって出て来るといざとなれば何だかんだと躊躇う皆様を叱咤して僕が持っているクレジットカードで支払を済ませた。そしてその場で別れて僕はクレヨンを連れてお屋敷へと引き上げた。
Posted at 2016/07/26 23:39:15 | |
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