2016年07月25日
女土方が議論を強制終了したのでその場はお開きとなった。そしてそれぞれ帰り支度を始めたが女土方だけが何となくフラストレーションの溜まった顔で立ち尽くしていた。
「ねえ、エステでも寄って行かない。変な話で何だか疲れちゃったわ。」
女土方は僕を振り返った。
「いいわよ。」
僕は簡単に応じたが、エステと言うのがどういう場所か概略は知ってはいるものの詳しいことは知らなかった。概ね「美容マッサージ」という理解の仕方だった。
「どこか知っているところってある。」
女土方は僕にそんなことを聞いたが僕はエステ自体未体験だったので知っているところなどあろうはずもなかった。
「私の知っているところに行かない。いいところよ。」
クレヨンが口を挟んだ。
「あんたの知っているところなんてまたばかっ高いんでしょう。私たちのお財布で行けるわけないでしょう。」
「社長さんからクレジットカード預かっているんでしょう。支払いは父の口座から落ちるし細かい金額は見ないから大丈夫よ。だから行きましょう。」
クレヨンは良いとこのお嬢さん育ち丸出しでお気楽なことを言った。
「いいわ、私が使っているところに電話してみるわ。」
女土方はそう言いだした時にはもう携帯で電話をし始めていた。
「午後八時だって。少し時間があるわね。食事でもして行こうか。」
テキストエディターのお姉さんも加わって四人になった僕たちは会社を出ると近所のちょっと高級な鮨屋に行った。それぞれ自分の好きな握りやちらしを頼んで、その他に刺身の盛り合わせを追加した。特に理由はなかったが、皆がやるようにまずビールで乾杯した。そして刺身をつまんだりしながら雑談にふけった。でも飲んだりしゃべったりするのはもっぱらテキストエディターのお姉さんとクレヨンで僕と女土方は聞き役だった。
それにしても女という生き物はどうして食い物や衣類、タレント、旅行や娯楽の他に職場の中のどうでもいいような人間関係や他人の噂などに興味を示すんだろうか。他人のことなんて自分に関係が生じない限りどうでもいいだろうと思うのは僕が男だからなんだろうか、それとも僕個人の性格なんだろうか。それにしても食い物や娯楽やファッションにこれだけの関心を示してくれるなら女相手に趣味と英語を組み合わせたプログラムを売り出すのも良いかも知れない。
「ねえ、主任、主任が彼にお付き合いしてあげれば問題は解決するんでしょう。主任、強いんだから適当にあしらって逃げてくれば大丈夫じゃない。職場の平和のためには少しくらいの犠牲はやむを得ないでしょう。そうじゃない。」
ほろ酔い気分になったテキストエディターのお姉さんがまたばかなことを言い始めた。
「あんたが相手をしてやれば。私はご免被るわ。第一そんなことが出来るくらいなら始めからこんなこんがらかった状況にはなっていないでしょう。」
「何ともはっきりして冷たいわね。そういう素っ気無さが男の情熱を煽るんですよ。『いやよ、いやよも好きのうち』って言うじゃないですか。案外お似合いかも。ちょっと大人になり切れないあどけなさを残した男と男以上に男らしいキャリアの熟女。いいじゃない。」
『いやよ、いやよも好き』のうちなんて言葉に類する言い方は世の中に五万とあるがどうもこれは男の勝手な都合で作り出された言葉なんじゃないか。基本的に人類の歴史は男性支配の歴史だったので男に都合の良い理屈が氾濫しても不思議はない。男だって嫌いな女と寝るのはいやなんだから女だっていやなものはいやだろう。特に相手と肌を合わせるような場合は尚更だろう。
太古の昔から男が狩猟や農業あるいは近代では労働報酬という形での経済など生存にかかわる部分を掌握していたから我慢をしてきただけで女が自分で自活して経済力をつけ始めると男たちは女の反撃に戸惑い翻弄され始めたのが現代の世相だろう。自分で生きていけるのに誰が大人しく自分を殺して他人のために我慢なんてするものか。
「自分には関係ないと思って勝手なことを言うんじゃないの。あんたがあいつの子供でも生んで見せたら私もあいつの手ぐらい握ってやってもいいわ。」
「ええ、やだあ、そんなの。私あの男には興味ないもん。」
「だったら勝手なことを言うんじゃないの。」
「私ねえ、」
今度はクレヨンが口を開いた。
「あなたに徹底的に押さえつけられていた時、あなたのこと本当に憎らしい女だと思ったわ。出来れば地下室か何かに鎖でつないで、私の言うことを何でも聞くようになるまで犬みたいに鞭で叩いてやりたいと思ったわ。泣いて私の足を舐めて謝るまでそうして繋いでおきたいって。でもねえ、それは諦めることにしたの。だってそこまでしてもあなたは言うことを聞かないかもしれないって思ったから。」
僕は向かいに座っているクレヨンの耳をつかんで引っ張った。
「あんた、もう一度言ってごらんなさい。まさか今でもそんなばかなことを考えているのじゃないでしょうね。一体誰のおかげで今ここでお鮨なんか食べていられると思っているの。もう一度そんなことを言ったらあんたを鎖でつなぐわよ。あんたの家は部屋なんてたくさんあるんだから。いいわね。」
クレヨンは「そんなこともう言いません、何でも言うことを聞きます。痛い、痛い。」と悲鳴を上げた。手を離してやると「本当に野蛮人なんだから。暴力女。」と毒づいた。
「暴力で人の性格を変えようとしたり服従させようなんて許せないわ。」
女土方が真顔で言った。あまり調教にむきになるなんてそういうことをされた経験があるんだろうかなんて余計なことを考えてしまった。
「ほら見なさい。伊藤さんだって暴力で服従させようとしてはいけないと言っているじゃない。少しは考えなさいよ、あなたも。」
クレヨンはここぞとばかりに勝ち誇ったように言い放った。
「あんたの場合は放っておくと自己崩壊するから性格改善をしているのよ。それも並みの方法では改善が望めないから非常手段に訴えているだけよ。法律でも違法性阻却事由ってあるのを知っているわけないわよね。とにかくいいのよ、あんたの場合は。多少の実力行使は。余計なことを言っているとまた食わすわよ。」
僕が手を振り上げるとクレヨンは「ひっ」と言ってテキストエディターのお姉さんの後に身を隠した。
「二人は仲良しだから二人で話し合って決めなさい。さあそろそろ時間ね。ぼつぼつ行きましょう。」
女土方が立ち上がった。僕は躊躇う女土方を制して社長から預かっているクレジットカードで支払を済ませた。
「今日はエステもみんな奢ってあげるわよ。大船に乗った気で安心していてね。」
これまでほとんど使わなかったんだからかまうものか。これだけ迷惑をかけられているんだしクレヨンを監視している分クレヨンの無駄遣いが減ったんだから差し引きすればずい分プラスになっているはずだ。
Posted at 2016/07/25 23:19:14 | |
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小説 | 日記
2016年07月22日
一旦沈黙が支配した後、話がまた新企画に戻った。考えてみればこの企画は受入れ先さえ探せば何でも応用可能な魔法の企画のようだったが、需要の問題もあるので当面は趣味の面から検討して行くことになった。
打ち合わせが終わってクレヨンを拾うと僕は職場を出た。女土方は自宅に戻り今日は僕とクレヨンがあの邸宅に戻ることになった。僕にしてみれば泣き寝入りのような状態で面白からず思っていたのであまり口を聞かなかったが、クレヨンはそんな僕を一歩も二歩も下がって見ていた。きっと不機嫌な僕と一緒にいることで居心地が悪かったんだろう。こいつには特に落ち度はないので今回についてはかわいそうなことをしたと反省した。
翌日も営業君はあちこち伝をたどってそこそこ細かい情報を持ち帰ってくれたが、その報告の後に食事に行きませんかだの、出張でもいいから一緒に旅行に行きたいだの余計なことばかり付け加えた。
「良いわよ。食事をご馳走してくれるの。」
僕がそう答えると営業君は身を乗り出して来た。
「本当ですか、じゃあ予約を入れます。どんな料理が良いですか。」
「料理は何でも良いわ。でも握り寿司が良いかな。ただし一つだけ条件があるわ。それを飲むならいいわよ。」
「佐山さんと食事が出来るならどんな条件でも受け入れますよ。どんな条件ですか。早く言って下さい。」
部屋にいた全員が手を止めて僕たちに注目した。女土方は腰を浮かせて立ち上がりかけていた。
「この部屋の全員を一緒に食事に招待すること。それなら私も行くわ。何なら社長も誘ってもらおうかな。」
「じゃあ食事はいいです。そのかわり佐山さんと夜を共にしたい。ホテルなら何処でもお好みのところを予約しますから。」
こいつは頭がおかしいのか。そんなことで女が付いてくるなら誰も苦労はしないだろう。
「あなた、いい加減になさい。それはハラスメントよ。これ以上黙って見ているわけには行かないわ。」
女土方がとうとう立ち上がった。
「大丈夫よ、そのくらいなんでもないわ。」
僕は女土方を制した。こんな低俗なことには女土方を巻き込みたくはなかった。
「いいわよ、私を抱きたいのならそうさせてあげるわ。でも一つだけ条件があるの。それがクリア出来たらいいわよ。一晩一緒に過ごしてあげるわ。」
「どんな条件ですか。ここの人たちを全員ホテルにご招待ですか。それじゃあ意味がないじゃないですか。」
「違うわよ、あなたと二人きりで過ごしてあげるわ。」
「その条件を言ってください。お願いします。」
それ来た。ばかはやっぱり止め処がない。
「あなたが女になってくれれば一晩一緒に過ごしてあげるわ。女装なんてだめよ、正真正銘の女になってね。」
「そんなの無理に決まっているじゃないですか。正真正銘の女になんかなれっこありませんよ。」
そんなことはない。断じて行えば鬼神もこれを避くと言うではないか。本当に好きなら一念を通してみろ。第一僕を見てみろ。正真正銘立派な女になったじゃないか。もっともそれは自分の意思にかかわらずそうなってしまったには違いないが。
「ひどいなあ、その気にさせておいて。出来ないことばかり。でも僕は諦めませんからね。きっと思いを遂げて見せますから。待っていてくださいね。」
「こういう女は首輪でもつけて調教しなきゃあだめかもよ。」
またクレヨンが余計なことを言った。ファイルで頭を叩いてやろうと思ったらその前に「パシッ」と音がした。女土方だった。女土方は怖い顔をしてクレヨンを見据えていた。
「言って良い冗談と悪い冗談があるわ。幾らなんでもそのくらいは弁えなさい。」
女土方に叱られたクレヨンはさすがに萎れ返っていた。
「一人前の大人の人間を調教なんて正気の沙汰ではないわ。そんなことを考えるだけでも犯罪だわ。」
女土方は調教と言う言葉がかなりお気に召さないようで怒りが治まらないといった風情だった。その怒りのバロメーターが上がるに従ってクレヨンが萎れて行ったが営業君はそんなことはお構いなしのように言い放った。
「調教ねえ、そういう手もあるかな。でも佐山主任、手強そうですねえ。ちょっとやそっとじゃあなびきそうもないな。でも僕もきっと良い方法を考え付いて見せますから。楽しみだなあ、主任と一緒に時を過ごすのが。」
このバカはどうしても僕と添い遂げたいようだ。たとえ徒手空拳で戦って斃れようとお前なんかと添い遂げてやるものか。でも僕はちょっと戦法を変えた。何でも感情的になって食って掛かるのではなくて適当にはぐらかすことにしたんだ。
「あなたもいい加減にしなさい。職場は出会いの場でも仲良しクラブでもないわ。仕事をするところよ。いいわね。」
女土方がとうとう怒りを営業君に向けた。
「僕は仕事はきちんとしています。別にそのことで副室に言われる覚えはありません。」
ところが営業君は言うことを聞くどころか女土方に反撃を始めた。もっともこのくらいで言うことを聞くようならこいつも普通の範疇に入るんだが。いっそ僕よりも女土方を好きになってくれれば面白いのになんて不謹慎なことを考えていたら女土方が背筋が寒くなるような厳しい視線を営業君に投げかけながら最後通告をした。
「仕事というのは書類を作ったりものを売ったりすることだけじゃないわ。職場で人の和を保つのも大事な仕事よ。特に皆が良くも悪くも注目している新設の部門ではなお更のことよ。もしもそれが出来ないのなら私にも考えがあるわ。これは脅しでもなんでもないからそのつもりでいてね。いいわね。」
僕は女土方と同棲しているし、深い仲、女と女の体をした男の関係を深い仲と言っていいのかどうか分からないが、にもなっているので彼女の強いところも弱いところも良く知っているんだけどこういう時の女土方は心底怖いと思う。こう言い切った時の女土方はやるとなったら本当にズバッと切り捨てるだろう。
「僕は職場の秩序を乱そうというんじゃありません。ただ自分の恋に素直に思いを遂げたいだけです。それがそんなに悪いことですか。」
テキストエディターのお姉さんとクレヨンが『こりゃだめだ。』と頭の横で小さく手をクルクルと回した。
「もうこんなことを何時まで話していても仕方がないわ。私の言ったことは分かってもらったと思うのでこれ以上何かを言うつもりはないわ。いいわね。」
女土方はそれだけ言うともう何も話さなかった。その辺の見切りのつけ方に誰もが何とも言えない凄みを感じたのか皆黙り込んでしまった。まあしかしこういう時の女土方は本当に怖いと思う。僕と女土方が普通の男と女の関係でしかも夫婦だったら正面から正論でぶつかった時には絶対に勝てそうもないような気がする。
Posted at 2016/07/22 17:55:01 | |
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小説 | 日記
2016年07月19日
しかしこの会社もトップ以下おかしなのばかり多くてこの先将来の見通しは大丈夫なんだろうか。いっそのことアダルト関係部門でも立ち上げて趣味と実益を兼ねた営業活動でも計画した方が社員にとって将来性があるんじゃないだろうか。ホモやビアンの語学研修と実態見学なんて企画を売り出せば結構売れるかもしれない。でも僕はそんな企画をアテンドするのはいやだけど。
「なるほど英語の意味は良く分かりました。確かに主任と僕は少し生活のスタイルが違うかもしれませんが歩み寄ることは出来ると思います。」
この期に及んで未練がましい奴だ。お前とは歩み寄る余地はない。
「あのね、私はね、外側は女の格好をしているけど中身は男なの。だから伊藤さんを好きになることは普通のことで異常でも何でもないの。却ってあなたを好きになることの方が一般的には異常と言えることなの。」
僕は何時までも現実を認めようとしない脳天気に本当のことを言ってやった。
「凶暴さと強引さは男以上かも。」
クレヨンがまた僕に続けて余計なことを言った。
「お黙り。後でひどいわよ。」
僕はクレヨンを睨みつけてやった。
「確かに佐山主任は最近男以上に男らしいかもしれないわねえ。」
いきなり北の政所様が顔を出した。
「でも男勝りはあり得ても中身が男と言うことはあり得ないわね。それよりも伊藤サブと佐山さん、ちょっと来てくれる。他の人は特に用事がなければもうお帰りなさい。」
北の政所様はそう言うと手招きして女土方と僕を呼んだ。僕はクレヨンに「あんたは私が戻るまでここで待っているのよ。」と言いつけておいて北の政所様の後について行った。打合せ室に入るなり北の政所様は「例の企画はどうなの。」と僕に聞いた。
「企画としては興味あるものと思っています。ただ一部はもう市場に出て商品化されています。ガーデニング留学とかそう言った類です。今後の問題は企画の内容ももちろんですがどうして質の良い受入先を確保するかと言うことになると思いますが、趣味だけでなく工芸や料理、酪農などの農業、漁業などの産業でも可能だと思います。こちらから行くばかりでなく外国から受け入れるということも可能かと思います。ただしその場合、当然身元の保証と言う問題をクリアしなくてはいけないと思いますが。まだまだ緒についてばかりの企画で、受入先の問題やコラボの相手先など問題はありますが今後の可能性については大きい企画だと思います。」
「確かに可能性はあるのかもね。でもまだまだ詰めなくてはいけないことがありそうね。それとこれまで語学教育という事業で生き抜いてきたこの会社の社風に余暇や遊びという要素が簡単に受け入れられるかどうかも一つの問題でもあるわね。いいわ、来週の役員会までに企画の概要と現状、可能性、問題点を取りまとめておいて。」
北の政所様は僕が渡しておいた簡単な報告書を見ながらそんなことを言った。そしてすぐその後に「うちの部門は出来たばかりですぐには利益を出すことが出来ないわ。研究企画部門とは言っても営利企業なんだからどこかで利益に結びつかないとそういうところを突かれる可能性があるの。しばらくは仕方がないと思うけどその辺を頭において仕事を進めてね。それと室内で個人的な問題を起さないようにお願いね。私的なことも業務上のことも。」と付け加えた。
「それって私とあの営業から来た彼のこと。」
僕は百も承知していることだったが敢えて北の政所様に聞き返した。
「その件については向こうに言って欲しいわ。私は何もしていない。全くの被害者よ。今までの分だけでも刑事告訴できるくらいのことはされているわ。これが双方向的なトラブルという認識はして欲しくないし、そうだとしたらそれは間違いよ。出来れば人を換えて欲しいくらいだわ。」
『問題を起さないように』と僕自身に言われたことにちょっと怒りが込み上げて来て突き放すような言い方で苦情を言ってしまった。
「出来たばかりなのに人を換えることは出来ないわ。だからお願いしているの。」
北の政所様は少しトーンダウンした言い方に変えて来た。
「私は端から問題なんか起す気はないわ。ただ普通に仕事をしようと思っているだけよ。勝手に横恋慕みたいなことを仕掛けて来てありもしないことを言いふらされるこっちの身にもなってみて。少しくらい負の噂が立ったからといって傷つくような年齢でも境遇でもないけど自分に責任のないことで中傷されるのは真っ平だわ。」
僕が怒り出したので北の政所様と女土方は困ったように顔を見合わせた。
『何でもかんでも始末に困るようなのを私に押し付けるのは止めてちょうだい。』
僕はもう少しでそう言ってしまうところだったのを女土方の『めっ!』という視線で気がついて言葉を飲み込んだ。そうだ、始末に困る第一号クレヨンは北の政所様の娘だったんだ。
「私もよく注意していますから大丈夫です。佐山さんと彼を二人きりにするなんてことがないように気をつけますし、私からもそれとなく彼には言っておきますから。」
女土方は模範的なことを言うが、彼女が気をつけるのは主として僕の方で営業君については誰が何と言ってもあの他人と相容れない脳天気振りではだめだろう。その辺はさすがに僕も理解した。
Posted at 2016/07/19 19:35:13 | |
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小説 | 日記
2016年07月15日
どうもあのばかのせいで何時までも怒りが治まらない。治まりかけると新たな怒りが込み上げてくる。自分でもこればかりはどうにもならずどうにも困ったものだ。何度か深呼吸をしながら平静を取り戻そうと努力して何とか気持ちを落ちつけてから「分かったわ。これ以上問題を大きく広げないように出来るだけ努力はしてみるわ。でも私だけじゃあどうにもならないかも知れない。あっちの方が己の愚かさに気がついて変わってくれないと。」とかろうじてそれだけを女土方に伝えた。女土方もため息をついて頷いた。
午後もちぐはぐな雰囲気で結局何も出来ずに終わってしまった。北の政所様も困り顔で僕を見詰めていたが結局何も言わずに引っ込んでしまった。
『そんなに僕ばかり見詰めるな。僕が何をしたんだ。悪いのはあの脳天気だろう。文句は脳天気に言え。』
僕は北の政所様にそう言ってやりたかったが、これ以上問題を拡大しない不拡大方針を貫くと女土方に約束したので黙っていた。しかしそうして黙っていることがまた余計に僕を苛立たせた。あっちこっちから怒りばかりが噴き出して来てどうにも収拾がつかなくなりそうな状態に陥りそうになって僕ははたと考えた。どうして何もしていない僕がこんなに苦しまなくてはいけないのかと。
そもそも原因を作ったのはあの脳天気なのだし状況を勝手に拡大して来たのも脳天気だ。僕自身はただあいつのペースに巻き込まれて流されているだけで何ら自主的な行動は取っていないではないか。そんなことで僕が苛立って嫌な思いをするのはばかげている。ここであいつと仕事で接する以外にあいつが何をしようと僕の知ったことではないじゃないか。
僕に対して何かをしてきた時にだけ僕なりの対応を取れば良い。それこそ政治家じゃないが『是は是、否は否、つまり是々非々』で対応していけば良いことだ。そしてもしもやつが敢えて僕の存在を脅かすようなことを再度しようとするのであればその時はこっちにも考えがある。
いかなる場合も紛争の解決を武力に訴えることは行うべきではないとは思うが真に存在を脅かされる場合は武力の行使も止むを得ないだろう。そう腹を決めると何だか憑物が落ちたように気分が軽くなった。僕は一部の人間達が思うほど飄々淡々と生きているわけでもないのだが、気持ちの切り換えはかなり早い方だと思う。そうだからこそいきなり女の体をあてがわれても無事とは言えないまでも何とかしぶとく生き抜いているのかも知れない。
そして夕方、定時少し前に脳天気は部屋に帰って来た。誰もが固唾を飲んで見守る中、脳天気は僕の側にやって来た。
「大まかな調査の結果が出ました。主任が考えているような企画については幾つかの旅行社でぽつりぽつりと商品として売り出し始めているようです。ただし問題点として留学などを企画に加える場合ものによってはそれ相応の受入れ先を探すのがかなり厄介なようです。
しかしいずれにしても団塊の世代のように退職後の時間も金もあるという世代をターゲットにした場合、向こうに行くというのは大きな目玉になるセールスポイントですから質量ともにそれなりの受入れ先を探さないと。ですから先方に受入れ先を確保できるかどうかがこの企画のネックになりそうです。」
「方面によって幾つかの企画を合わせて数をまとめて送り込んでから行った先でそれぞれの受入れ先に振り分けるという手も使えるわね。」
「確かにそうですがこちらの思惑通りにまとまってくれるかどうかという問題はありますね。」
「今後の検討事項と言うことね。じゃあ暇を見てどんな企画があるのか調べてみてくれる。できるだけ業者の事情を中心にね。私の方もネットで探すわ。」
「分かりました。ある程度企画の的を絞って現地で調査すると言う手もありますが、もう少し先の話ですね。主任と出張出来れば言うことないんですけどね。」
かなりまともな仕事をしてきたと思っていたが最後にやはり落ちがついた。まあこいつはこういう奴なんだろう。
「出張も何も今は可能性を探る時期でしょう。それに出張と言ってもあなたは言うことないかもしれないけど私は言うこと大有りよ。余計なことは考えないでね。」
僕は無駄とは思ったが一応はこの脳天気に釘をさしておいて様子を見ることにした。確かに持ち帰った結果を見る限りではこいつは仕事のセンスは悪くないと思う。でもどうしてそれが自身の行動に反映されないのかそれが返す返すも残念だ。
僕と営業君の対決はこうしてあっさりと終わってしまい事の成り行きを固唾を飲んで見守っていた観衆はそれぞれの思いを込めて深く息を吐いていた。
「大人の対応、お疲れ様。ありがとう。」
女土方は僕の側に来て口を耳に寄せて小声で囁いた。僕はその女土方の肩に腕を回すと抱き寄せて髪に口をつけた。
「好きよ、あなたが。」
僕はもう一度女土方を軽く抱きしめた。僕と女土方の仲はもう誰知らぬ者がないくらいに有名なことだったが、それでも衆人環視の状況でこんな行為に出たのには誰もが驚いた様子だったし、当の女土方自身、顔を赤らめて対応に戸惑っている様子だった。彼女には気の毒だったかもしれないが、何としても脳天気な営業君には知らしめておかないといけない。
「あ、佐山主任、それはいけません。自然の摂理に反しています。」
営業君が素っ頓狂な声を上げた。
「いいのよ、この二人は。これが二人にとって自然の摂理なのよ。誰も割り込めないわよ、この二人の間には。」
テキストエディターのお姉さんが声を上げた。クレヨンも「うんうん、そうそう」というように隣で頷いていた。
「“I have my style and you have your own but we don’t share the same one.”ってことでしょう。もうこれ以上このことについてはあまり言いたくないわ。でもそれだけは分かってね。」
僕は女土方の肩を抱きながらもう一度駄目押しのつもりで営業君に向かって言っておいた。それにしても何が自然の摂理だ。外見や体の構造がどうであろうと僕は男なんだ。お前みたいなのに好きになられて受け入れたりしたらそれこそ自然の摂理に反するんだ。
「ええ、でも僕英語は良く分からないんです。今主任が言ったことってどういう意味ですか。」
「二人の生き方が違うし、同じ生き方を共有できないってことよ。」
テキストエディターのお姉さんがすかさず答えた。
「そうかあ、同じ生き方を共有できないかあ。困ったなあ、どうしようかなあ。」
「何も困ることはないじゃない。あなたはまだ若いんだし相手はたくさんいるじゃない。何も選りによってあんな・・・。」
クレヨンが途中まで言いかけて口を噤んだ。
「あんな何だって。もう一度言ってごらんなさい。」
僕はちょっとクレヨンに凄んで見せてやった。クレヨンは何も答えずにテキストディターの後ろに隠れた。僕はそんなクレヨンを見ていてはたと思いついた。こいつ等がくっつけば万事めでたしめでたしだろう。どっちもあちこち素抜けているからちょうど良いかも知れないなんて勝手に考えたが、クレヨンはあんな極楽トンボでも表は日本金融界の大物の娘、真実は北の政所様の、そして多分社長の娘なのだからそう簡単にはいかないだろうが。
Posted at 2016/07/15 22:56:47 | |
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小説 | 日記
2016年07月13日
結局午前中はこの話で持ち切りで仕事にもならずに終わってしまった。テキストエディターのお姉さんとクレヨンがあまり監禁、監禁というので「あんた達はそんなに私が監禁されれば良いと思っているの。そんなことばかり言っていると私が監禁される前にあんた達を首輪でつないで監禁するわよ。」と叱っておいた。でも考えてみればクレヨンは首輪でつながないだけで後はほとんど軟禁状態と変わらないには違いないが。昼食を終えて、さあ午後くらいは真面目に仕事を、と思っているところに営業部長が入って来た。
「やあ、佐山さん、昨夜は災難だったな。君がエレベーターから脱出するときに大分泣いたというからそんなこともあるもんかなと半信半疑だったが、やっぱりうちの若い衆が大分発破をかけられたらしいね。でも彼は営業の精鋭で社長から是非と言う要望があったので出したんだ。ああ見えても繊細な大人しい男なのでどうか一つよろしくお願いしたい。」
相手の気持ちも考えずに好きだ、好きだと連呼して夜更けの会社で女性を襲う男のどこが繊細で大人しいんだ。昔は朝に夕に押して押して押しの一手も女を口説く方法として社会的に認知されていたが、今はそんなことをすると警察沙汰にもなりかねなくなってしまった。男にとっては辛い時代になったものだが、押しの一手と言っても相手の気持ちも考えずにただ自分の感情に任せて迫りまくるのとは趣が違ったような気がする。それにしてもこの営業部長の言葉で収まりかけた怒りがまた燃え上がってしまった。あの野郎、どこまでも自分に都合の良いことばかり言う野郎だ。
「繊細なのか大人しいのかは知りませんけど部長はあの男が本当にどんな男かご存知ないんですか。営業では優秀なのかどうかは知りませんが、私は誰が何と言ってもあんな男は認めません。」
僕自身も男だった頃は決して立派とは言いがたい人間だった。だから他人のことはとやかく言える立場でもないし言いたいとも思わない。世の中から外れてはいたが、女にはそこそこ縁があったし女に対して訳の分からない妄想を抱くこともないとは言えなかった。実際女の扱いも結構えげつないことをしたこともある。でもそれはあくまでも相手との合意があってのことで合意のないことは決してしたことはなかった。
僕はこう思うのだ。人間誰にも人格もあれば誇りもある。だから最低限それは尊重しないといけない。監禁だの調教だの女に対して訳の分からない妄想を抱く輩がいるようだが自分の頭の中でだけ妄想を抱く分には実害はないのだろう。しかしそれを力に任せて実行に移すことは個人の人格を土足で踏み躙ることだ。個人に限らず国際社会でも力に任せて横車を押す不埒な輩が多いようだがそんなことばかりしているから人間は神が創った偉大なる失敗作と言われてしまうんだ。ただ女性の方もその場の雰囲気に任せて理屈も何もなく男に自分の感情をぶつけまくるのはお止めいただきたいとは思うが。
しかしエレベーターの中で泣き喚くくらいは情けない男もいたものよと笑って許しもするが、好きだ、好きだと連呼の挙句に力ずくで己の横恋慕を遂げようとしたことは許し難い。更には己の罪や恥を覆い隠さんとして事実を殊更に歪曲して伝えるなど言語道断。天に代わって成敗してくれる。勧善懲悪の時代劇ならそう啖呵を切ってぶった切れば終わるんだろうがこれはまだまだ悩まされそうだ。どうも前置きが長くなったが、僕のあまりの剣幕に営業部長はややたじたじの態だったが「他に何かあったのか。」と聞き返した。
「すみません。ちょっと昨夜からのトラブル続きで気が立っていて。また後ほど報告にうかがいますから。」
女土方が慌てて割って入ってこの場を収めようとした。
「あることないこと言われてちょっと気が立っていますから。」
女土方は僕の前に立ってこれ以上僕が部長と話をしないように遮ろうとした。そうして言葉を遮られることが余計に腹立たしくて女土方を押しのけようとしたが、女土方に「だめ、だめ」と手を振られてしまったのでさすがにはっと気がついて口を噤んだ。
「何か若干の問題があるようだが、まあよろしく頼むよ。」
営業部長はそう言い残すと逃げるように立ち去った。営業部長がいなくなると女土方が僕を睨みつけた。そして「ちょっとこっちに来なさい。」と言うといきなり手を引っ張って僕を外に連れ出して近くの喫茶店に連れ込んだ。
「ねえ、あなたの気持ちは良く分かるけどあまり興奮しないで聞いて。今うちの部屋でトラブルを起こすのはまずいわ。社長が無理押しをして立ち上げたばかりなのに。社内には今回の組織改編を快く思っていない人も多いのよ。ここで騒ぎを起こすと『それ、見たことか。』とばかりに叩かれるわ。
私は自分の立場に未練はないし却って無役に戻してもらった方が肩の荷が下りて楽になるけどせっかく社長や室長が一生懸命やったことなんだから。それに今の部門を拡充していけばこの先うちの会社のためにもなると思うの。だから今ここで問題を起こしてこの部門を潰したくないの。これからは絶対にあなたと彼を二人きりにはしないわ。私も残っているから。でね、一度私が彼に話してみるわ、少し考えるように。」
女土方は組織人のお手本のようなことを言った。冷静に考えれば確かに女土方の言うとおりで間違いはないが、当事者にしてみれば腹の立つこと夥しい。どう考えてもあの野郎だけは許せん。
「あなたの言うことは分かるわ。正論だと思う。でもね、悪意がないのか知性がないのか恥を知らないのかあんな男のことは分からないけど私は感情的には許せないわ。」
そうして話しているうちにあの男に抱きしめられそうになった時のおぞましさが甦って来てまた新たな怒りが込み上げて来た。考えてみれば男と言う生き物は酒席を主な活動場所として女性に絡みついてばかりいるが、立場が逆になると当たり前のことなのだろうが感じ方や受け取り方がまるで違う。だから自分の考え方、感じ方だけでものごとを判断するととんでもない結果に陥ってしまう場合がある。戦争などもそうした片手落ちの判断で始まってしまったことがずい分あるのだろう。だから相手の立場に立てないまでもちょっと視点を変えてものごとを見てみることは必要なんだろう。
Posted at 2016/07/13 18:38:26 | |
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