2016年06月11日
カラオケに行くと言うのでその辺のスナックかカラオケルームかと思ったら小さいがかなり立派な銀座のクラブだった。社長だから金があるんだろうけどどうも贅沢なことばかりする社長だ。
「今日は貸し切りですから思い切りどうぞ。」
出迎えたママと思われる中年の女性が愛想の良い笑顔で言った。
「ママ、久しぶり、元気。」
北の政所様が笑顔で挨拶をした。何だ、こいつ等知り合いなのか。後で聞いたら北の政所様は一時期ここで頼まれホステスをしていたらしい。あの女もいろいろなことをやるもんだ。
二次会が始まると最初の頃は飲んだくれのクレヨンとテキストエディターのお姉さんが元気だったが、二人とも途中で潰れてしまってそれからは北の政所様と社長、それにマルチリンガルが歌いまくっていた。北の政所様と社長はデュエットでなかなかの喉を披露していたが、マルチリンガルは聞きほれてしまうような見事な声でしかもドイツ語でリリーマルレーンを歌ってみせた。
こいつはマルチリンガルで美人だし頭も悪くないし歌もうまい。なかなかの才女のようだが、どうも一癖ありそうな感じだった。営業君は普段の仕事が骨身に染み付いているのかひたすら聞き役、誉め役に徹して自ら歌おうとはしなかった。僕や女土方にも「歌えコール」が起きたが、僕はばかばかしいので拒否していた。
「ねえ、佐山さん、あんなにカラオケ大好きだったのにどうしたの。」
マルチリンガルは不思議そうに尋ねたが中身が変わったから今まで好きだったものでも今は嫌いなものは嫌いなんだ。そうして頑強に歌えコールを跳ね除けていると何と女土方がマイクを手に取った。そしてこれもびっくりするような美声で「トップオブザワールド」を歌ってみせた。いや、女土方がこんな美声の持ち主だったなんて今の今まで知らなかった。どうも最近この世の中は知らなかったことが多すぎる。
結局僕たちが店を出たのはほとんど日付が変わりそうなくらいの時間だった。そして厄介なことにクレヨンとテキストエディターのお姉さんは完全に酔いつぶれていたのでテキストエディターのお姉さんをこのままタクシーに乗せて帰すわけにもいかなかった。女土方と相談した結果、二人を連れてクレヨンの家に帰ることにした。
「私は澤本さんを面倒見るからあなた、町田さんをお願いね。彼女私にはちょっと大きすぎて荷が重いわ。」
女土方はクレヨンを支えて外に出た。僕はテキストエディターのお姉さんを引き起こそうとしたが、どうもまともに歩けそうもないので背負って行くことにした。両脇に腕を差し込んで引き起こしそのまま自分の体を入れ替えて背負ったが、完全に力の抜け切った人間はずい分と重く感じた。体がずり落ちないように一度テキストエディターの体を上に背負い上げてから両手で彼女のお尻をしっかりとつかんだが、なかなか満更でもない感触につい笑みがこぼれてしまった。そんな僕を見た女土方が怪訝そうに「どうしてニヤニヤしているの。」と聞いたが、まさか本当のことを言うわけにもいかないので「楽しかったから。」などと言って適当にごまかしておいた。
店で呼んでもらった車に完全にのびている二人を押し込んでから女土方が後ろに乗り込み僕が助手席に座った。車は交通量の減った夜の東京を快適に走り抜けて昼間の半分くらいの時間でクレヨンの自宅に着いてしまった。事前にお手伝いに連絡をして門を開けてもらい玄関前まで車を入れてもらうと完全にのびている二人を引っ張り出して部屋に運び上げた。クレヨンの家はタクシーの運転手も驚くような豪邸だが残念ながらエレベータがない。そこでまた僕はテキストエディターのお尻をがっちりとつかんで二階へと運び上げた。
そうしてやっとの思いでテキストエディターをベッドに転がして一息ついでいると女土方が「服を脱がせて寝かせてしまおう。」と言ってどこから探してきたのか僕にTシャツを手渡した。おお、合法的に女の服を脱がせることが出来る。
「全部脱がせてしまうの。」
僕が聞き返すと女土方が呆れたように僕を見た。
「あなた、その子に何かするつもりなの。上着だけで十分でしょう。」
女土方のもっともなご意見に従って僕は勇んでテキストエディターの服を脱がせる作業に取り掛かったが、女の服という奴は変なところにフックがあったりボタンが隠れていたりするので剥ぎ取るのに一苦労だった。
「ブラも窮屈そうね。外しちゃおうか。」
結局怪訝そうな女土方を尻目にテキストエディターをパンツ一枚にひん剥いてTシャツを着せるとクレヨンとひとまとめにして毛布をかけてやった。
「ああ、本当に手間のかかる人たちね。飲んでもいいから人には迷惑をかけないで欲しいわ。」
確かにこいつ等を運んで寝かしつけるのは重労働だったが、こっちもそれなりに楽しんだのだから良しとしておこう。
「はい。」
作業を終えてほっとしていると後ろでいきなり女土方の声がして驚いて振り返った。すると彼女がアイスコーヒーの入ったグラスを持って立っていた。
「ありがとう。」
僕はグラスを受け取ると思い切り冷たいコーヒーを飲み込んだ。酒で火照って渇いた喉に冷たいコーヒーが心地良かった。
「ねえ、皆ずい分はしゃいでいたけど先行き楽観を許されないものがあるんじゃないの、今度の組織改編て。業務もそれなりに苦労が多そうだけれどそれよりも特に人事に問題がありそう。天気晴朗なれども波高しって感じじゃない。ちょっとと言うかかなり例えが古いけど。兵ばかりじゃない、今度のうちの部屋って。」
「そうね。」
女土方はため息をついた。
「確かに誰もその分野では人並み以上の能力はあるけどその分一筋縄じゃいかないって感じの人ばかりよね。高いのは波ばかりじゃないかもしれないわ。」
「そんなところで実質ナンバー2じゃあ楽は出来ないわね、あなたも。」
「そう言うあなただってナンバー3じゃないの。これまでとは違うわよ。今回の人事には納得していない人が大勢いるわ。そしてそれは外だけとは限らない。身内にも敵はいるってことよ。気をつけないとどこで足を引っ張られるか分からないわ。あなたはそういうことに無頓着だから気をつけなさいよ。武闘派だけじゃあ通用しないのよ。」
「でもね、やるべきことをきちんとやっていればいいじゃない。違うかな。もしも今回のポストが欲しい人がいるなら代わってあげてもいいわ。私は好きでもらったわけじゃないから。他の部門に行っても私が困るわけじゃないし、そこで自分の仕事をすれば良いんでしょう。」
女土方は苦笑いを浮かべた。
「本当に天真爛漫なのね。あなたって。人の関係ってそんなものじゃないわ。私やあなたが一足飛びに良いポストをもらったことが気に入らないって言う人がたくさんいるのよ。そういう人達は私達が失敗することを密かに期待して見ているの。世の中ってそういうものなのよ。」
確かに利害が絡んだ人の関係というものはそんなものなのかも知れない。それが面倒で組織の枠組みから外れて生きて来たのだから。でも会社というのは出資者のために利益を上げるのが使命の利益共同体じゃないのか。そんな個人の感情で足の引っ張り合いをするのは筋を外れている。大事なことは個人の感情よりも目的の達成と公人としての責任の完遂だろう。どうもこの世の中には公私の区別がつかない奴が多すぎる。
「大丈夫、私は私のやり方でやるわ。心配しないで。私にはなくして困るものなんか何もない。今の仕事やポストが欲しい人には何時でも喜んで差し上げるわ。今私がなくしたら困るのはあなただけよ。」
僕は女土方を見て微笑んだ。女土方も僕の方に体を寄せて来た。誰が何を仕掛けて来ようと怖いものなんか何もない。僕は女土方と一緒に僕の生き方を生きるだけだ。
Posted at 2016/06/11 17:47:53 | |
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小説 | 日記
2016年06月06日
「ねえ、あの営業の彼、ちょっとおかしくない。何だか凝り固まっているみたいで。」
僕が女土方に囁くと女土方は「へえ」という風情で僕を見た。
「そうなの。真面目な性格で几帳面な人よ。よく仕事もするわ。特におかしくはないと思うわよ。でも芳恵フリークだという話は聞いたことがあるわね。いいんじゃない、男性に好かれるってことは。女として幸せなことなんでしょう。あなたはヘテロなんだから。」
「そうなの、じゃあ私が彼のところに行ってもいいのね。」
僕は女土方の他人行儀な言い方にちょっと反感を感じてしまった。
「そうなったら淋しいだろうけどあなたがそうしたいなら仕方ないじゃない。私にはどうしようもないわ。」
女土方は淡々とした口調でそう言った。そんなことになったらもっと困るのはこの僕だ。最近の女土方はこの手の話には変に敏感でかなりあからさまに嫉妬することがあるのでちょっとした捩れも放置すると取り返しのつかないことになるおそれがある。ここは一つしっかりと自分の意思を女土方に伝えておかないといけない。
「私ね、あなたと知り合ってから男よりも女の方が良くなったわ。女の方がと言うよりもあなたが好きなの。だからずっと一緒にいようね。」
こんな席で外見が女の僕がこれもビアンとは言え正真正銘女の女土方にこんなことを言うのは不穏当かもしれないがきちんと意思は伝えておかないと綻びが生じる恐れがある。
「分かったわ。ありがとう。」
女土方も満足そうに僕に向かって頷いた。
「ねえ、主任、一体どうなっているんですか。この有様は。どうしてこんなことになっちゃったんですか。」
テキストエディターのお姉さんが僕たちのところに寄って来た。彼女にしてみれば今のこの事態は寝耳に水、青天の霹靂だろう。
「どうもこうもないわよ。見てのとおりのことよ。その流れの真ん中にあなたもいるってことじゃないの。」
これまで事態の推移を他人事のように捉えていたテキストエディターのお姉さんにとっては気の毒だがこれも人生、気を取り直してがんばってもらう他はない。
「ねえ、私がどうしてここにいるの。私はここで働くなんて言った覚えはないんだけど。」
今度はクレヨンが不平を申し立てた。でもお前には選択の権利なんてないんだ。
「あなたは言われたとおりにすればいいのよ。あなたの場合、保障占領中の敗戦国のようなものなんだから。言われたことは黙って従いなさい。」
クレヨンにはきつく言渡してやった。大体お前の面倒を見てやるのは誰なんだ。こっちは給料の他にクレヨン迷惑料でも欲しいくらいだ。でも保障占領中の敗戦国なんてことを言っても意味が分からないらしくクレヨンはぽかんとしていた。
僕と女土方の周りにはテキストエディターのお姉さんとクレヨンが、北の政所様の周りには社長と常務それにマルチリンガルさんがいた。株屋さんと営業さんはそれぞれ残りの役員と話し込んでいた。そうしているうちに段々酒が回ってきて座が乱れてきた。株屋さんも僕達のところに入って来た。女土方と同じ職場だったんだからもっと早くに来てもいいようなものだけれどどうもあまり社交的ではないのともう一つ女土方とはやや疎遠らしい。まあ女土方も根はとても優しいけれど少なくとも外見は決して社交的とはいえないかもしれない。
そこに今度はマルチリンガルさんが北の政所様と一緒に加わった。この女はさすがに卒がない。誰にも愛想良く挨拶して回っていた。こういう時はやっぱり美人は得なのかもしれない。何しろ男は馬鹿だからきれいな女には警戒心を抱かない。でもどうもこのマルチリンガルは何となく言葉の端端に一筋縄では行きそうもない強かさを感じさせた。やっぱり兵の集まりなんだろうな、この集団は。
宴会は役員連中と僕たちとの間で「まあ一つ、」「ありがとうございます。どうぞ、一献」の応酬に終始し、誰も彼もかなりぐでんぐでんの態を呈して来た。株屋さんと営業君はお互いにもたれかかって何やら訳の分からないことを言い合っていたし、テキストエディターのお姉さんとクレヨンは役員に囲まれて甲高い笑い声を上げていた。北の政所様は社長と注しつ注されつ良い雰囲気で杯を重ねていた。比較的平常を保っているのは僕と女土方そしてマルチリンガルの三人だったが、そこに常務と経理担当がよれよれになってビール瓶を提げてやって来た。
「いやあ、皆さんにはがんばってもらわないと、なあ、経理担当。」
「いや、本当ですね。当社の経理も決して楽観は許されない状況ですが、今後新たな分野に進出して利益を上げて頂かないと。」
こいつら何だか二人で訳の分からないことを言いながら僕たちに無闇とビールを注ごうとしていた。ビールを注ぐだけならそれはそれで良いのだが、「いや、佐山君、どうかがんばって。」とか「やあ、吉岡君、ご苦労だけど。」などと言いながら体に触れてくるには閉口した。女土方は例の冷徹な視線でこの二人をけん制して飲んだくれおやじのタッチ攻撃を跳ねつけていたが、マルチリンガル、彼女の本名は吉岡というのだが、と僕がその攻撃の標的になった。
さすがに現役秘書のマルチリンガルは卒なく笑顔でうまく攻撃をかわしていたが、僕は組し易しと思われているのか肩と言わず背中と言わずあげくの果ては腰までも触りまくられた。僕は男だからそういう男の行為も止むを得ないことと理解出来ないことはないが、やはり男にあちこち体を触られるのは気色の良いものではない。
とうとう肩を抱くような体制で常務が迫ってきたところをいきなり立ち上がったら常務は行き場を失って前のめりに四つん這いに畳に倒れこんで手に持ったビール瓶を床に投げ出した。経理担当とマルチリンガルが慌てて助け起こしたが、僕は「助平爺、かまうものか」という思いでそのままトイレに立ってしまった。
僕は廊下に出るとトイレと思しき方向に向かって歩いて行った。この時僕はほとんど平常心と思いながら歩いていたが、実はかなり酔っていたのだろう、ここで思いもつかない大失敗をやってしまった。もう女もかなり長いことやってきたので女生活も慣れ切っていると高をくくっていたのが大きな間違いだった。
僕は当たり前のようにトイレに入ったが、そこは男性用トイレだった。そして男性専用の便器の前に立ってカーゴパンツのファスナーを下ろしてもうあるはずもないあれを引っ張り出そうと手を差し込んで探っていた。そのうちにはっと気がついて手を止めた。何だか奇妙な雰囲気に気がついて差し込んだ手を引き出すとそっと出入り口の方を見た。
そこには目を瞠って凍りついたように立ちすくむ一人の男性がいた。四十数年の時間とは何と重いことだろう。僕は当たり前のように男子トイレに入ってしまったのだ。そしてもっと当たり前のように男子専用の便器の前に立って用を足そうとしていたのだ。女生活に慣れ切っていると思っていたが、男性として生きてきた時間の何と重いことだろう。ちょっと気を抜くとこのざまだった。
僕は酔っ払った振りをしてこの場を誤魔化して逃走しようとわざと千鳥足になって「あら、ちょっと間違えちゃった。ごめんなさいね。」と言いながらトイレから逃げ出した。入り口に立っていた男性は壁に張り付いて僕を避けるように見送っていたが、きっとニューハーフか何かと思ったんだろう。
僕はすぐに隣の女子トイレに入ると今度は女性の作法で用を足した。これも最初の時のようには違和感も感じなくなっていたがあまりにも自然に男の作法で用を足そうとした自分を思うと変わり果てたわが身に複雑な心境だった。僕は用を済ますとさっさと宴会の席に戻ったが、もしも男があんな具合に女子トイレに入っていたらそれが例え悪意ではなくとも「ごめんなさい。」では済まなかったかも知れない。
席に戻ると座は更に盛り上がっていた。盛り上がっていたというよりも乱れていたと言うべきだろうか。女土方は北の政所様の脇に避難して例の常務と会計担当の相手をマルチリンガル一人がしていた。
「おお、佐山君、何処に行っていたんだ。待ちかねたぞ。」
僕の姿を見ると常務は町の器量良し娘を手にかける悪代官のようなことを言った。マルチリンガルが『ここに来て座って。』と言うように目で僕に合図をした。こんな酔っ払い爺のところなんか近づきたくはなかったが仕方がないので出来るだけ酔っ払いから離れて座った。
「佐山君、君の企画に我が社の興廃がかかっているんだからどうかよろしく頼む。」
この爺は僕ににじり寄って来ると僕の両手を握って特攻隊を送る司令官のようなことを言い出した。この爺は女の手を握りたいがためにこんなことを言っているんじゃないだろうか。そういうところは男というのは何とも滑稽と言うか悲しいほどの生き物だと思う。
だから大企業の社長になっても大政治家になっても色にしくじって権力の座を滑り落ちるのが後を絶たないんだろう。でもそうした男の悲しいほどの滑稽さが痛いほど良く分かってしまうと無下に拒否もしたくはなかったが、でもやっぱり男に触られるのがおぞましいので「がんばります。」と言って爺の手を力一杯握ってやった。女の力だから大したことはないだろうけど最近ウエイトで鍛えているのと不意を突かれたせいか爺はびっくりしたように握った手を振り解いた。僕はどうしても強制力行使で問題を解決しようとしてしまうな。
「それじゃあそろそろどうだろう。」
社長の一声で宴会はお開きになった。結びの言葉はあの常務だった。それでもあまり余計なことは言わずに「皆で力を合わせて我が社を盛り立てて行こう。」と言う程度の簡単な結びで終わった。
僕はそれを聞きながらさっきのトイレの出来事を思い出して一人で顔を赤らめてしまった。男子用のトイレで一人前の女が男子用便器の前で股間をまさぐっているのを見たあの男は一体何と思ったことだろう。潜在意識なのか何なのか分からないが染み付いた習慣と言うのは恐ろしいものだ。
割烹を出ると北の政所様が「皆でカラオケに行こう。」と言い出した。室員全員と社長でということらしいが、株屋さんは「疲れた。」とか何とか言って引き取ってしまった。僕もカラオケなんか大嫌いだし酒を飲んでも楽しくないのでもう帰りたかったんだけど何となく有無を言わせない雰囲気があったのとクレヨンとテキストエディターのお姉さんが酔った勢いで行け行け状態で「おい、芳恵、咲子、行くぞ。」などと大声を上げていたので何かしでかしてもまずいと思い仕方なくついて行くことにした。
Posted at 2016/06/06 22:28:45 | |
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小説 | 日記
2016年06月02日
今の部屋は元の打合せ室に戻すということで大きな机やロッカーなどの荷物の引越しは業者がやると言うが、資料や本とかその他細々した物は自分で移動しないといけないので社内とは言っても見もつを動かすのはそれ相当の準備が必要で世間の戯言にいちいちつき合っているような暇がなかった。
こうして怒涛のような一日が終わって僕たちは夜の壮行会へと繰り出した。場所はこれも社長が常日頃使っているのだろう築地の割烹だった。うちの会社は規模を取っても決してさほど贅沢が出来るような会社ではないのだけれどこんな贅沢をしていて経営は大丈夫なんだろうか。
まあ年商は百億を超えているからそれなりに儲かってはいるんだろうけど一車種で月に何百億も売り上げるトヨタなどに比べれば吹けば飛ぶような会社だが、考えてみれば僕がそんな心配をするような立場ではないのかも知れない。
会場はやや広めの個室で上座に社長と北の政所様が座り、一方に役員が、もう一方に僕たち室員が座ることになっていた。そして上座から女土方、僕、滝谷、女土方と同じ所属から配転になった臼井と言う年配の女性、英語、フランス語、ドイツ語を話すというマルチリンガルの秘書の美人女性、テキストエディターのお姉さんに最後がクレヨンだった。
女土方と同じ所属から配転になる年配の女性は株式操作の専門家で株の裏世界まで通じていると評判の女性だったが、これも独身だった。以前に結婚歴はあるようだったが、離婚してそのまま独身を通している女性ということなのでビアンではないようだが、何となく暗くて華がないという感じがする女性だった。
秘書のマルチリンガルだがこれは僕たちと同じ年代の女だがなかなかの美人でしかも一時流行ったいわゆるDINKSだった。言葉も数ヶ国語を話すし、仕事も諸事万端手際が良くさすがに秘書と言う女性だったが、男付き合いもなかなか手際が良いという噂だった。
こうして見ると北の政所様、女土方、株屋の姐御、マルチリンガルとなかなか個性の強い野武士のような女が集まったものだ。頼もしいと言えば確かにそうだが組織に馴染まない一匹狼の集まりと言えばそうとも言えないことはない。それをそっと女土方に言うと「そう言うあなたが一番凶暴な狼よ。」と言われてしまった。
酒宴は社長の挨拶で始まった。社長は「デジタル電子技術、デジタル高速通信技術の長足の進歩を受けてこれからの教育、出版と言ったこれまで比較的保守的に推移してきた業界は急速な変化を求められていくことになると思う。今後、これまでの商品の方向性や業績に拘ることなく時代のニーズに敏感に反応して新しい商品、新しい分野を切り開いていかないと会社の生き残りもないし、皆さんの生活の安定もない。
このような状況にどのように対応していくかが今後の当社の浮沈にとって重要な鍵となる。今回十分とは言えないまでも市場の動向を分析して新たな商品を企画検討する調査開発室を新設することが出来たのは当社にとっても私個人にとっても大変喜ばしいことだ。業務を担当する森田室長以下各室員の皆さんには大変重い責任を負担していただくわけでご苦労も多いと思うが、それに十分に耐えられる能力を持った方たちを選んだつもりだし、会社としても出来得る限りの支援を惜しまないので是非力を尽くしてよい結果をもたらして頂きたい。」と挨拶をした。
それに続いて北の政所様の「与えられた任務は身に余る重責ではあるけれど全員が力を合わせて責任を全うしたい。」といった内容のお定まりの決意表明があった後に常務の音頭で乾杯となり、これで儀式が終わって後は宴会が始まった。北の政所様が「仕事もあなたも全身全霊をかけて尽くします。」なんて言ったら面白いだろうななんて無責任なことを考えていたが当たり前のことなんだろうがそんな言葉は欠片も出なかった。
僕はまず隣にいた営業君にお酌をしてやろうと思ったら彼氏もう卒なく向かいの重役様達に愛想を振りまいていた。こんなところはさすがに営業畑のお方でいらっしゃる。こんな気配りは僕には真似が出来ないことだ。
それが一通り済んでしまうと営業君は僕の方を向き直ってビールを差し出して「よろしくお願いします。」と挨拶をした。僕は慌ててビールのビンを持ち上げて「私の方こそよろしくお願いします。」と挨拶を返してお互いにビール瓶を相手に突きつけ合った。
「お先にどうぞ。」
僕は営業君にそう言ってビールを勧めたが営業君はどうしてもビール瓶を下ろさなかった。
「僕は今度佐山さんと一緒に仕事が出来るのがとてもうれしいんですよ。ずっと憧れていましたから。それにこれから僕の上司になるんですからどうぞお先に。」
営業君はどうしても譲るつもりはないらしかったので僕は仕方なくビール瓶を下ろしてコップを手にして先にお酌を受けてから改めて営業君に注いでやった。でもずっと前から僕、じゃなくて佐山芳恵に憧れていたってどういうことだろう。以前の佐山芳恵と今の佐山芳恵ではほとんど女性としての方向が反転するくらいに変わっているんだけど。もしも元の佐山芳恵に憧れていたのなら今の僕に寄り添っても失望するだけだと思うのだが。
僕自身佐山芳恵の顔はきらいな類の顔ではないが美人かと言われたら一も二もなく首を傾げてしまうだろう。それよりも女土方やマルチリンガルのお姉さんの方が客観的に見てもきれいな部類に入るだろう。しかしそれもいずれが菖蒲杜若、五十歩百歩の主観の世界かもしれないが。
顔の話になったのでついでに言うと佐山芳恵の顔が自分の好みの顔で良かったと思う。以前にだんなや子供に姑などがいる家の奥様や新婚家庭の人妻にならなくて良かったなんてことを言ったことがあるが、入れ替わった女の顔が自分の好みじゃない女だったとしたら、これもかなり辛いものがあると思う。何と言っても毎日見なくてはいけないものなのだから。別に美人に乗り移らされて男に追い掛け回されても僕にとっては迷惑なだけなので願い下げだが、それよりも佐山芳恵の姿かたちがどちらかと言えば僕の好みの女だったことには感謝している。
それから僕は一応礼儀と思い、社長以下役員のお歴々に挨拶を兼ねてお酌をして回って自分の席に戻ると営業君がそばに寄って来た。本当は寄って欲しくないのだけれどあからさまに口や態度に出すわけにも行かないので仕方がないからビールを注いでやった。
「いや、僕はですね、佐山さん、あなたが総務の係長と交際をしていると聞いた時には足元の大地が崩れ落ちそうなくらいショックでした。目の前が真っ暗になって思わずしゃがみこんでしまったくらいです。でもこんなことを言ってはいけないんでしょうけど最近佐山さんが総務の係長と別れたと聞いた時には垂れ込めていた暗雲が一気に晴れて輝く太陽を見たような心地がしました。僕もまたあなたとお付き合いが出来る資格が戻ったんだと思うと本当にうれしくて。今回、同じ職場で勤務することが出来て本当に喜んでいます。もちろんあなたは立場的には私の上司になる方ですからその点は尊重しますけど。」
「ええ、尊重してね。私は職場が仲良しクラブだとも同好会だとも思っていないわ。職場は仕事をするところでそれ以外の何ものでもないわ。あなたが私のことをそんなに思ってくれるのは光栄だけど私は男性とお付き合いしていこうなんて気持ちは更々ないから覚えておいてね。」
僕はつきまとわれるのが嫌だったのでかなりきつい口調できついことを言っておいた。ぼくとしてはこれで営業君に釘をさしたつもりだった。
「いいなあ、そのきつさ。そういうあなたが好きなんです。」
営業君は満面笑みを浮かべて僕を見た。
『お前な、お前が好きだったという佐山芳恵はもっとかわいらしい女でこんなことは言わなかっただろう。一体お前は人間のどこを見ているんだ。そんなことでよく営業が勤まるな。第一僕は男で今はそこにいる女土方と同棲しているんだからお前が入り込む余地はないんだよ。仮に僕が一人だったとしても男なんかとお付き合いするのは殺されてもごめんだ。分かったか。』
満面笑みの営業君にこのくらい言ってやれればいいんだろうけどもしかしたらこいつには何を言っても無駄かもしれない。僕はその場を離れて女土方のところに席を移した。
Posted at 2016/06/02 18:40:20 | |
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小説 | 日記
2016年05月30日
しかし女という生き物も一度馴染んで気を許してしまうと平気で裸を晒して構うところのない生き物だから節操のなさは大して変わらないかもしれない。僕なんかいくら長い間付き合っていても女の前で必要もないのに素っ裸でいるのはどうも心地が悪い。
そういう点では女の方が男よりも節操がないのかもしれない。それと女の方が裸でいるには体形が適しているような気がする。男の場合あれが変に飛び出してぶらぶらしていると何とも言えず滑稽な感じがしてしまう。『合戦準備、総員戦闘配置』の状態ならそれなりに格好はつくのかもしれないが、あの状態で通常の生活をするには何とも邪魔になって仕方がないだろう。もっともそんなくだらないことはどうでもいいんだが。
僕は自分のカップをテーブルに置いて女土方のところに行った。そして女土方が持っていたカップを取り上げて自分が体に巻いていたタオルを投げ捨るともう一度女土方に体を重ねた。女土方も当然予想していたのか僕を抱きしめて唇を寄せて来た。
特に具体的な理由があるわけではないが僕はこの女のことは理屈抜きで全面的に信頼することが出来た。良い悪いじゃなくてたとえ寝首を掻かれてもそれは僕のためにしたんだろうと思えるくらいに信じていることが我ながら不思議だったが、そんなに全面的に信頼することが出来る女を抱いていられることは本当に心地が良いことだった。そうしてしばらく抱き合ってから僕は体を離して起き上がった。
「そろそろ行かないと。業務時間終了になってしまうわ。」
僕は女土方を促した。女土方も黙って頷くとゆっくりと起き上がった。そして帰り支度を整えるとホテルを出た。ホテルを出る時ちょうど入り口のところで中に入って来るカップルと鉢合わせしてしまった。そのカップルは僕等よりも少し若そうな男女だったが、僕等を見ると目を丸くしてさっと脇に避けて道を空けた。僕はこんなことは何度も出くわしていることなので知らん顔をしてさっさと歩いて来たが女土方は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「ああ、恥ずかしかった。まさかあんなところで人に出会うなんて思わなかった。まともに顔を上げられなかったわ。あなたは平気なの。」
女土方がホテルから少し歩いたところでそんなことを言った。誰だってあんなところで人と面と向かえば多かれ少なかればつが悪いことはあるけどあんなに顔を赤くするほどのことでもないだろう。むしろ相手の方がよほど驚いたんじゃないだろうか。
だって当然男女のカップルが出てくるはずのところから大人の女が二人で寄り添って出てくるんだから唖然としてしまうのも当然かもしれない。僕たちは大通りに出たところでタクシーを拾って会社に戻ったが、会社に着いた時はもう四時も近い時間だった。部屋に戻ろうとすると廊下でテキストエディターのお姉さんに呼び止められた。
「主任、どこに行っていたんですか。秘書の森田さんが探していますよ。何か用事があるようですよ。」
「ああ、そうなの。さっきまで一緒だったのに用事って何かな。」
僕は半分とぼけて答えた。さっきまで一緒と言うのは間違いではないが、その後何をしていたかがちょっとばかり問題だった。
「今度新しいセクションが出来るってうわさですけどそのことじゃないですか。主任もそこに行くんじゃないの。」
テキストエディターのお姉さんはまるで他人事のように気楽に言うが、自分もそこでクレヨンの面倒を見ることになるなんて夢にも思っていないだろう。これこそ人を呪わば穴二つということだろう。
「分かったわ。取り敢えず電話してみるわ。」
僕は部屋に戻って一体何の用事か北の政所様に電話を入れてみた。
「どこにいたのか知らないけれど本当にゆっくりしていたのね。」
開口一番北の政所様にいやみを言われてしまったが、「社長がそう言ったでしょう。だからちょっと時間をいただいたわ。」と切り返してとぼけた。
「まあいいわ。ところでちょっと話があるの。伊藤さんと一緒に私のところに来て。あなたが戻ったんだから彼女も戻っているでしょう。すぐに来てね。」
僕はすぐに女土方に電話すると向こうも僕を探していたらしく何も言わないうちから「森田さんが私達に急用があるようよ。」と言い出した。じゃあ一緒に来いということだからこれから行こうということになって僕は部屋を出て秘書室の北の政所様のところに行った。秘書のとなりにある総務課の住人である女土方は僕が着いた時にはもう椅子に座って待っていた。
「さっそくだけど新体制発足の予定が早まって来週週明けになったの。事務用品とか必要な物はさっき大急ぎで見繕って注文してきたけれどこれから細かい物を確認して欲しいの。部屋はそっちの打合せ室を使うから。ちょっと手狭かもしれないけどうまく配置して使って。」
北の政所様はそう言ってあれやこれやと細かいことを言い始めた。
「それからね、伊藤さんのところに営業から一人来ることになったから。滝本さんて言う男性らしいけど私は良く知らないわ。社長はなかなか人当たりが良くて緻密な男だと言っていたけど。」
女土方は滝本と聴くと「ああ、あの穏やかそうな人ね。」と言っていたが、僕にはその滝谷がどんな男なのか全く分からなかった。しかしこの時はその滝本と言う男が僕を散々悩ます元凶になろうとは思いもよらなかった。
それから僕たちは部屋の配置や必要な備品の確認、事務用品や消耗品の調達等雑務に忙殺されることになった。部屋に戻るとテキストエディターのお姉さんが「大変ですね、新部門の立ち上げで。」と他人事のように言うので「あなたもその新部門の一員なんだから澤本さんとこれやってね。」と言って必要な備品リストの確認を押し付けてやったら、目を丸くして言葉を失ってしまった。それ見ろ、思い知ったか。
人事は翌朝発令された。これで嫌もおうもなく新体制に巻き込まれることになった。社長室で伝達式が行われた後、社長から「今晩新体制発足の壮行会をしたいので是非出席して欲しい。役員は全員出席するように。」とお言葉があった。飲み食いさせてくれるのは良いがひも付きじゃあ鬱陶しい。出来れば女土方と二人でお台場のホテルのラウンジで宿泊付で食事をさせて欲しいものだ。
発令と同時に僕たちの役職名も変わってしまった。北の政所様は取締役企画室長兼秘書室長、女土方は企画室長補佐兼室長事務取扱、僕が首席企画室員ということになった。北の政所様はともかく僕や女土方の昇進は軍隊で言えば二階級特進のような破格の昇進だったので社内に小さからぬ波紋を投げかけたが、その内容は当然のことではあるが決して好意的なものではなかった。
曰く「沖縄の一件で社長に取り入って」とか「社長の身内をうまく使って」などと喧しいこと限りがなかった。確かに沖縄の一件で社長に急接近したことは事実だが自存自衛のために止むを得ず社長の恋人の尻を叩いただけで別に取り入った訳ではないし、身内とはクレヨンのことなんだろうがうまく使われたのはこっちの方でどう考えても使ったと言われるのは心外である。
もしもそう言うのならクレヨンの面倒でも見てやると良い。そんなわけで世間の噂には大いに異論があるし、抗弁したいところだが、それにしても特進したことは事実なんだし何と言っても人の口に戸は立てられないので放っておくことにした。
Posted at 2016/05/30 18:42:46 | |
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小説 | 日記
2016年05月25日
「なぜ変わったかなんて自分でも良く分からないわ。生き方を変えたかったのが本音かも知れないわね。こんなに変わってしまって自分でも驚いているわ。でも今の私にはこれしか生き方はないの。そう思っているわ。あなたが社長と残りの人生を穏やかに生きるというように私は彼女とこれからの人生を一緒に生きるわ。そのことで誰に何と言われようと私はかまわないし平気よ。もしも私たちに何か不具合を仕掛ける人がいれば本意ではないけれど強硬手段も取らざるを得ないかもね。でもそんなことがないように祈るわ。私、本当は気が弱いのよ。」
そう言うと皆がどっと笑った。誰もが相当に重い問題を背負っている割には誰もお気楽な感じだった。でもそれは表向きのことだけで心の中はうかがい知れなかった。
結局そんなこんなで新体制は押し切られる、クレヨンは押し付けられるで踏んだり蹴ったりの態で交渉は終わってしまった。あまりあっけらかんと告白されてしまったので何だかはぐらかされたように落着してしまったが、それにしても世の中はいろいろ複雑な人間関係があるようで驚かされてしまう。誰も平然と生きているようでいろいろ背負っているものがあるのだな。
社長と北の政所様については当然クレヨンの生き方も背負うべきだと思うが、そう思う僕が間違っているだろうか。いくらサルが馴染んでいるからと言っても僕らに背負わせるべきものではないだろう。でも女土方が面倒を見てやれというのだから仕方ないか。それにしても皆様々なものを背負ってなんて考えてみると一番複雑で厄介なものを背負っているのは僕なのかも知れない。だから無闇に他人のことを同情しないで本当は僕のことを同情して欲しいものだ。
昼食を終えると社長と北の政所様は寄るところがあるとか言って車でどこかに消えてしまった。まさかいかがわしいところに行くんじゃあるまいな。僕と女土方はタクシーチケットをもらってホテルを出たがどうも僕はこのところすっきりしないものがあった。もうこのところクレヨンの世話ばかりでずっと女土方との時間を過ごしていないことだった。
「どうする、車を拾って帰ろうか。」
女土方は真面目にそう言ったが、僕は「ゆっくりして帰ればいい。」という社長の言葉をありがたく真に受けて真面目な女土方を尻目に何となく街をぶらつきながら歩いていた。
「どこに行くのよ。」
問いかける女土方に答えずに特にあてもなく歩いていると路地の奥にラブホテルの看板が見えた。そう言えばこの辺は所々にその手のホテルが点在していることを思い出したが、それらしくない何となく風変わりなホテルの外観に興味を引かれて路地を奥へと入って行った。
最近クレヨンのおかげで女土方と二人で過ごす時間がほとんど持てなかったのでホテルを見たとたん僕は急に女土方と二人きりになりたいという欲求の虜になってしまった。そのホテルは狭い敷地に建てられた五階建のビルで何だか普通の事務所ビルか会社を改装したようなラブホテルには似つかわしくない外観だった。
「ねえ、どこに行くのよ。」
訝りながらついて来る女土方の腕をつかんでいきなりそのホテルに引きずり込んだ。突然のことに抗う暇もなかったのか女土方はあっさりと中に引き込まれた。ドアを入ると正面に小さなエレベーターがありその脇に受付があった。そして奇妙なことに西洋アンティークのイミテーションのような飾り物があちこちに置いてあるのが目を引いた。
受付には年配の女性が座っていたが僕達を見ても特に驚いた様子もなく「ご休憩三時間になっております。」と言った。こういうところでは必ず「ご休憩」と言うが、でもこういうところですることはご休憩なんだろうか。僕は五つしかない部屋のうち空室になっている部屋のボタンを押して鍵を受け取るとほとんど呆けている女土方の腕をつかんでエレベーターに乗った。
ちょっと重々しい雰囲気のドアを開けると思ったとおり中はちょっと古風な洋風の造りになっていたが一般のラブホテルのようなちゃらちゃらしたケバさはないのが面白かった。
「ああ、久しぶりに二人きりになれたわね。」
僕はベッドに腰掛けて女土方を見上げた。
「あんたってなんてことするのよ。いきなり人をこんなところに引っ張り込んで。びっくりして声も出なかったわ。本当にあんたって男みたいに野蛮なことをするのね。」
珍しく女土方が目を剥いて怒っていた。怒るというよりも驚いていたのかも知れない。でもこいつだって会社の更衣室でいきなり人の唇を奪ったんだからこのくらいのことで文句は言えないだろう。
「そんなに興奮してあなたこういうところ初めてなの。」
「もうずっと昔に行ったことはあるわ。でも女同士で入ったことなんかないわよ。」
「いいじゃない、女同士だって。あ、そうか。女同士ならこういうところに来る必要はないのよね。普通のホテルでも問題はないんだろうし。」
「そういう問題じゃないでしょう。勤務時間中に不謹慎だわ。」
女土方は文句を言いながら部屋の中をきょろきょろ見回して落ち着かない様子だった。
「ねえ、もう入ったんだからそんなに動揺しないでここに座りなさいよ。もうずい分あなたと二人きりで過ごしたことがないじゃない。少しくらい私のそばにいて。」
僕は女土方の腕を引っ張って自分の横に座らせた。ベッドにすとんと腰を落とした女土方は少しの間黙って大人しくしていたがしばらくすると僕の方を向いて微笑んで僕を抱き寄せてくれた。僕達はそのまま抱き合ってベッドに倒れ込んだが久しぶりの女土方の温もりが心に染みるように心地良かった。
「あーあ、気持ち良かった。あなたの温かさ良いわあ。」
僕はバスタオルを体に巻きつけてベッドから起き上がった。ずい分長い間女土方と抱き合っていたような気がして時計を見るとまだ三時前だった。
「何だかあなたといるとだんだん悪い子になっていくような感じ。でも今更離れては生きて行けそうもないかも。」
女土方がベッドに横になったまま変なことを言った。どうして僕と一緒にいると悪い子になっていくんだ。こんなに良い子で品行方正に生きているじゃないか。
「コーヒーでも飲もうか。」
僕はこれも古風なコーヒーカップを取り出してドリップ式のコーヒーバッグを開くとカップに載せてポットの湯を注いだ。そして「はい」とカップを女土方に差し出すと女土方はタオルもまとわずに裸のまま起き上がってカップを受け取った。他の者は冷淡だとかお高くとまっているなどとあまり良く言わないし、それはそれで彼女にも責任があるんだろうけど本当は女土方は人一倍心の優しい女だし、僕にとっては美人でかわいい女だった。
そんな女土方は根っからのビアンで、もしも僕が男のままだったらたとえ出会ってもすれ違うだけだったろう。僕が女になったからお互い急接近してそのかわいい美人を抱けるようになったんだけど果たしてそれを喜んでいいのかそれとも悲しむべきことなのかあまりに問題が複雑に過ぎて僕自身よく分からなかった。
「ねえ、あなたはこういうところに来たことあるんでしょう。」
コーヒーを飲みながら女土方が僕に聞いた。
「あるわよ、何回か。」
本当はけっこう利用していたんだけれどそれはそれで男だった頃の過去のことだから積極的に話す必要もないだろう。
「私は良い思い出がないから。この手の場所にはね。」
女土方は首をすくめた。確かずっと以前に無理をして付き合っていた男がいたと言っていたのでその頃の話だろう。そうだとしたら確かに良い思いではないかもしれない。
「でも今日は楽しかったわ。ここってちょっと素敵じゃない。内装にお金をかけているのかもね。」
女土方は西洋アンティークに溢れた部屋を見回した。どうせイミテーションだからそんなに感心するほどじゃないが悪い雰囲気ではなかった。女土方は相変わらず裸で足を組んでベッドに腰を下ろしていたが、その姿が何とも色っぽくてまた抱きしめたくなってしまった。どうも我ながら節操がない生き物だと思う。
Posted at 2016/05/25 20:59:27 | |
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