2016年05月12日
こんな具合に週末も終わりまた月曜が来た。クレヨンは新たに買い込んだスーツの上にこれまた真新しいコートを来込んで出勤した。クレヨンの出で立ちが全く変わってしまって外見だけを見れば僕の方が不良社員のようになってしまった。テキストエディターのお姉さんはクレヨンを見るなり一瞬固まったがその後小声で「ずい分様変わりしたようですけどどうしたんですか。外見と同様に中身も変わっているんですか。」と僕に囁いた。
「変化の兆しはあるかもね。本当に変わるかどうかはまだ先の話だけれど。」
僕はテキストエディターに向かって片目を瞑って見せた。やっと少しばかり落ち着いて仕事に取り組めるようになった僕は本格的に資料の検索を始めようとしたところにあちこちから電話がかかり始めた。電話の内容は馬の骨氏が退職するらしいと言うものだった。
転職など今時珍しくもない。他に良い仕事があればさっさと変わった方が良いなどと思っているとあの伊豆のホテルでバッティングした時に馬の骨氏と同行していた総務の小娘からも電話がかかって来た。そして驚いたことに僕に折り入って話があると言う。本当は僕ではなくて佐山芳恵に話があるんだろうが、そんなことを言っていると余計にややこしくなるし、当然向こうは理解も出来ないだろうから黙っていた。
「あなたにどうしてもお話したいことがあるんです。今日の昼休みに『LTP』で待っています。必ず来てください。」
小娘はそう言うと電話を切ってしまった。小ざかしい小娘だ。散々騒動を起こしておいて用件も言わずにここに来いなどと電話をしてくるのは不届き千万などと思ってもみたが、馬の骨氏が退職するということと合わせて考えると何か本当に話したいことがあるんだろうと解釈して出かけてやることにした。
僕は昼近くになってテキストエディターに断ってクレヨンを連れて出かけた。テキストエディターのお姉さんは意味ありげな視線を向けて「がんばってね。」と言ったが、その言葉を聞いて何だか嫌な予感が胸を過ぎった。一瞬クレヨンを残していこうかなと思ったが「お昼を食べに行こう」と誘ってしまったので今更残っていろとも言えずに連れて行くことにした。
『LTP』というのはオープンテラス風の洒落た店舗と豊富な昼食メニューを武器にこの界隈では女性に圧倒的な人気を誇っているレストランだ。そんなところだからうちの社員も結構昼飯に行っているんだろう。そこで噂の三人にクレヨンを加えて話し合いなどしているところを目撃されたら火に油を注ぐようなものだと思うが、相手様の指定なので仕方がない。
店に入るとまだ昼休み前なので席はかなり空いていた。僕たちは適当に目立たない端の方に席を取ると飲み物と料理を注文した。僕はアイスコーヒーにオープンサンド、クレヨンはフレッシュフルーツジュースにパスタだった。でも注文した物が出て来ないうちに、来た、奴等が。総務の小娘はしっかりと馬の骨氏に寄り添っていた。奴も僕の凶暴さは沖縄の北の政所様との一件で十分に承知だろうからこの展開はある程度予想していた。
「しばらく」
馬の骨氏は軽い調子で挨拶をすると席に着いた。その後総務の小娘は椅子を引くと馬の骨氏にぴったりと寄り添って腰を下ろした。
「そちらの人は君のことろにいるトレイニーの方かな。いいのかな、込み入った話に同席していただいて。」
馬の骨氏はクレヨンと僕の顔を交互に見た。
「込み入った話なんて今更もうないでしょう。あなたが退職すると聞いたけど本当なの。」
込み入った話と言われても確かにそれなりのことはあったんだろうが、それでは具体的に何があってどのあたりが込み入っているのかと聞かれても僕には全く分からなかった。僕に分かっていることは僕が佐山芳恵に入れ替わった日に馬の骨氏があのままアパートに居座って佐山芳恵に求めたことと同様のことを強引に僕求めた場合は、誠に不本意ではあるが自存自衛のため武力行使も止む無しと決意を固めていたという事実だけだった。
「うん、いろいろあったけれど今回ちょっとお声がかりでファンドの仕事を引き受けることになった。危ない世界だけれどその分面白みもあるところだから。」
経済の動向には興味があるが、金利の計算など真っ平ごめんと言う僕には縁遠い世界だが馬の骨氏もゴタが続いたのでこの辺で今の稼業から身を引いて勝負をかけたくなったのかもしれない。
「よかったわね、ご自分の力を試せる仕事が見つかって。ご成功を祈っているわ。じゃあこれで食事を終えたら帰るわね。」
僕には馬の骨氏が誰と一緒になろうが関係のないことだし、これで本当に縁切りになったつもりでいたのだが、それにしては総務の小娘がついて来ているのが気になった。そしてその予感は見事に的中することになった。
「待ってください。私の方はまだ済んでいないわ。」
間髪を入れずに総務の小娘がしゃべりだした。それを聞いたとたんに理由は分からないが全身に悪寒が走った。
「佐山さん、私はここではっきりとあなたに聞いておきたいことがあるの。」
「何よ。」
僕はちょっと怯んで答えた。それが具体的にどんなことかは分からないが、僕は本能的に総務の小娘の言葉に何か嫌なことが控えていることを感じ取った。
「あなたのことは彼から全部聞いたわ。あなたはご自分のだんなさまを捨ててまでこの人のところに走ったのにある日突然この人から離れようとしたそうね。でも私にはそれがあなたの本心だとはとても思えないの。」
初めて聞く馬の骨氏との衝撃的な馴れ初めはあまりと言えばあまりのことで僕は眼が点になってしまった。当然僕にはこの件に関しては全く責任はなく、しかも馬の骨氏との馴れ初めを知らなかったことも当然過ぎるくらいに当然のこととは言え、隠された事実はそういうことだったのか。
僕が、いや佐山芳恵が夫を捨てて馬の骨氏に走ったとは。そこまで自分を愛していると信じていた女がある日突然掌を返したように反旗を翻したのでは馬の骨氏もさぞかし面食らったことだろう。そしてその僕よりももっと呆気に取られていたのはクレヨンだった。しかし総務の小娘は無慈悲にもさらに二の手を繰り出して来た。
「あなたは伊豆のホテルで私達を待ち伏せしていたわね。私はあなたがこの人を諦めたなんてそんなこと絶対にウソだと思っているわ。」
『いいえ、決してうそではありません。諦めたも何も僕個人としてはあなたが愛している馬の骨氏に特別な感情を抱いたことはこれまで一度もありません。伊豆の件も本当に偶然なんです。ちょっといたずら心を起こしたことは事実ですからその点についてご迷惑をおかけしたのであればこの場をお借りして深くお詫びいたします。なお、これ以上僕の方からはお話することはありませんし、話したくてもこの件について事情が分からない僕には話しようもありません。』
佐山芳恵が夫を振り捨てて馬の骨氏に走ったと言う事実に驚愕狼狽してしまった僕は出来ることならこんな具合に下手に出ても、もうこの件については不問に付していただきたかった。
「とにかく自分の中ではもう終わったことよ。終わったことで今更何も話すことはないわ。どうぞお二人でお幸せに。」
僕は動揺を悟られないよう出来るだけ言葉を少なくそして感情を交えないように注意して答えた。しかし敵は納得しなかった。
「あなたはその前にも彼にもう交際は止めると言っておきながらあの時どうして伊豆のホテルで私達を待っていたの。あなたの言うことなんか私は信用出来ないわ。私はね、もう誰にも私たちのことを邪魔されたくないの。」
総務の小娘はなおも追撃の手を緩めなかったが、言葉を信用出来ないと言われても心の中を一体どうしてお前に見せてやれるんだ。見せられるものなら馬の骨氏なんか水引に熨斗でもつけてお前にくれてやりたいと思っているこの心の奥までお前に見せてやりたい。
「ねえ、佐山さん、そんなに好きだった人を本当にそんなに簡単に諦めてもいいの。」
突然クレヨンの声が響いた。そしてそれと同時にその場にいた全員がクレヨンに注目した。この馬鹿はどうしてこんな時に宣戦布告のようなことを口に出すんだ。馬鹿にもほどがある。そういうことを火に油を注ぐというんだ。これでまた総務の小娘が勢いづいた。
「私だってそう思うわ。夫を捨ててまで選んだ人をそんなに簡単に諦められるはずがないと思うの。だからあなたの言うことが信じられないのよ。」
夫を捨てたのは僕ではなくて佐山芳恵だろう。本当に諦めたかどうか知りたかったら佐山芳恵を探して本人に聞いて来い。
「何度でも言うけどもう私には終わったことよ。それ以上は何も言うことはないわ。もうあまり時間がないからこれでお昼を食べさせてね。」
僕は努めて冷静を装いながらそして本当に言いたいことはぐっと飲み込んでそう答えた。
「だってそんなこと、」
クレヨンが何か言おうとしたのでテーブルの下で思い切り足を蹴ってやった。ばかめ、お前なんぞは爆薬でも背負って桜島の噴火口に飛び込んでしまえ。
「それじゃあ私が聞いたことの答えにはなっていないわ。」
総務の小娘がさらに食い下がってきた。クレヨン、お前がこいつに自爆テロでも仕掛けろ。
「私が言うことをどう解釈するかは私の問題じゃないわ。あなたが信じられないというのならそれはあなたの問題で私にはこれ以上どうしようもないわ。」
僕は馬の骨氏に向き直った。
「もうこれ以上何もないわ。だからもう彼女を連れてこれで帰って。」
馬の骨氏は黙って頷いた。そしてまだまだ追及したそうな顔をしている総務の小娘を促して席を立った。
「全く本気で蹴るんだから。でも本当にそんなに好きだった人を簡単に手放してしまっていいの。」
またクレヨンが余計なことを言った。
「うるさいわね、あんたは黙ってなさいよ。」
僕はクレヨンを叱り飛ばしで黙らせた。クレヨンは馬の骨氏と総務の小娘との三角関係で僕が苛立っていると思ったんだろうが、本当は総務の小娘にぐちゃぐちゃ言われたことなんかどうでも良かった。女なんてものはあんな時に何を言っても納得しないで食いついてくることは経験から痛いほど承知していた。彼らとはこれでお終いで後腐れのない関係なのだから何を言われてもかまうものか。
それよりも衝撃的だったのは佐山芳恵が夫を振り捨てて馬の骨氏に走ったという事実を突きつけられたことだった。芳恵、お前な、次のことを考えて物事を決めろよ。お前の言動すべてを引き継がなければいけない僕の人格と尊厳は一体どうなるんだ。
Posted at 2016/05/12 18:20:34 | |
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小説 | 日記
2016年05月09日
こんな具合に週末も終わりまた月曜が来た。クレヨンは新たに買い込んだスーツの上にこれまた真新しいコートを来込んで出勤した。クレヨンの出で立ちが全く変わってしまって外見だけを見れば僕の方が不良社員のようになってしまった。テキストエディターのお姉さんはクレヨンを見るなり一瞬固まったがその後小声で「ずい分様変わりしたようですけどどうしたんですか。外見と同様に中身も変わっているんですか。」と僕に囁いた。
「変化の兆しはあるかもね。本当に変わるかどうかはまだ先の話だけれど。」
僕はテキストエディターに向かって片目を瞑って見せた。やっと少しばかり落ち着いて仕事に取り組めるようになった僕は本格的に資料の検索を始めようとしたところにあちこちから電話がかかり始めた。電話の内容は馬の骨氏が退職するらしいと言うものだった。
転職など今時珍しくもない。他に良い仕事があればさっさと変わった方が良いなどと思っているとあの伊豆のホテルでバッティングした時に馬の骨氏と同行していた総務の小娘からも電話がかかって来た。そして驚いたことに僕に折り入って話があると言う。本当は僕ではなくて佐山芳恵に話があるんだろうが、そんなことを言っていると余計にややこしくなるし、当然向こうは理解も出来ないだろうから黙っていた。
「あなたにどうしてもお話したいことがあるんです。今日の昼休みに『LTP』で待っています。必ず来てください。」
小娘はそう言うと電話を切ってしまった。小ざかしい小娘だ。散々騒動を起こしておいて用件も言わずにここに来いなどと電話をしてくるのは不届き千万などと思ってもみたが、馬の骨氏が退職するということと合わせて考えると何か本当に話したいことがあるんだろうと解釈して出かけてやることにした。
僕は昼近くになってテキストエディターに断ってクレヨンを連れて出かけた。テキストエディターのお姉さんは意味ありげな視線を向けて「がんばってね。」と言ったが、その言葉を聞いて何だか嫌な予感が胸を過ぎった。一瞬クレヨンを残していこうかなと思ったが「お昼を食べに行こう」と誘ってしまったので今更残っていろとも言えずに連れて行くことにした。
『LTP』というのはオープンテラス風の洒落た店舗と豊富な昼食メニューを武器にこの界隈では女性に圧倒的な人気を誇っているレストランだ。そんなところだからうちの社員も結構昼飯に行っているんだろう。そこで噂の三人にクレヨンを加えて話し合いなどしているところを目撃されたら火に油を注ぐようなものだと思うが、相手様の指定なので仕方がない。
店に入るとまだ昼休み前なので席はかなり空いていた。僕たちは適当に目立たない端の方に席を取ると飲み物と料理を注文した。僕はアイスコーヒーにオープンサンド、クレヨンはフレッシュフルーツジュースにパスタだった。でも注文した物が出て来ないうちに、来た、奴等が。総務の小娘はしっかりと馬の骨氏に寄り添っていた。奴も僕の凶暴さは沖縄の北の政所様との一件で十分に承知だろうからこの展開はある程度予想していた。
「しばらく」
馬の骨氏は軽い調子で挨拶をすると席に着いた。その後総務の小娘は椅子を引くと馬の骨氏にぴったりと寄り添って腰を下ろした。
「そちらの人は君のことろにいるトレイニーの方かな。いいのかな、込み入った話に同席していただいて。」
馬の骨氏はクレヨンと僕の顔を交互に見た。
「込み入った話なんて今更もうないでしょう。あなたが退職すると聞いたけど本当なの。」
込み入った話と言われても確かにそれなりのことはあったんだろうが、それでは具体的に何があってどのあたりが込み入っているのかと聞かれても僕には全く分からなかった。僕に分かっていることは僕が佐山芳恵に入れ替わった日に馬の骨氏があのままアパートに居座って佐山芳恵に求めたことと同様のことを強引に僕求めた場合は、誠に不本意ではあるが自存自衛のため武力行使も止む無しと決意を固めていたという事実だけだった。
「うん、いろいろあったけれど今回ちょっとお声がかりでファンドの仕事を引き受けることになった。危ない世界だけれどその分面白みもあるところだから。」
経済の動向には興味があるが、金利の計算など真っ平ごめんと言う僕には縁遠い世界だが馬の骨氏もゴタが続いたのでこの辺で今の稼業から身を引いて勝負をかけたくなったのかもしれない。
「よかったわね、ご自分の力を試せる仕事が見つかって。ご成功を祈っているわ。じゃあこれで食事を終えたら帰るわね。」
僕には馬の骨氏が誰と一緒になろうが関係のないことだし、これで本当に縁切りになったつもりでいたのだが、それにしては総務の小娘がついて来ているのが気になった。そしてその予感は見事に的中することになった。
「待ってください。私の方はまだ済んでいないわ。」
間髪を入れずに総務の小娘がしゃべりだした。それを聞いたとたんに理由は分からないが全身に悪寒が走った。
「佐山さん、私はここではっきりとあなたに聞いておきたいことがあるの。」
「何よ。」
僕はちょっと怯んで答えた。それが具体的にどんなことかは分からないが、僕は本能的に総務の小娘の言葉に何か嫌なことが控えていることを感じ取った。
「あなたのことは彼から全部聞いたわ。あなたはご自分のだんなさまを捨ててまでこの人のところに走ったのにある日突然この人から離れようとしたそうね。でも私にはそれがあなたの本心だとはとても思えないの。」
初めて聞く馬の骨氏との衝撃的な馴れ初めはあまりと言えばあまりのことで僕は眼が点になってしまった。当然僕にはこの件に関しては全く責任はなく、しかも馬の骨氏との馴れ初めを知らなかったことも当然過ぎるくらいに当然のこととは言え、隠された事実はそういうことだったのか。
僕が、いや佐山芳恵が夫を捨てて馬の骨氏に走ったとは。そこまで自分を愛していると信じていた女がある日突然掌を返したように反旗を翻したのでは馬の骨氏もさぞかし面食らったことだろう。そしてその僕よりももっと呆気に取られていたのはクレヨンだった。しかし総務の小娘は無慈悲にもさらに二の手を繰り出して来た。
「あなたは伊豆のホテルで私達を待ち伏せしていたわね。私はあなたがこの人を諦めたなんてそんなこと絶対にウソだと思っているわ。」
『いいえ、決してうそではありません。諦めたも何も僕個人としてはあなたが愛している馬の骨氏に特別な感情を抱いたことはこれまで一度もありません。伊豆の件も本当に偶然なんです。ちょっといたずら心を起こしたことは事実ですからその点についてご迷惑をおかけしたのであればこの場をお借りして深くお詫びいたします。なお、これ以上僕の方からはお話することはありませんし、話したくてもこの件について事情が分からない僕には話しようもありません。』
佐山芳恵が夫を振り捨てて馬の骨氏に走ったと言う事実に驚愕狼狽してしまった僕は出来ることならこんな具合に下手に出ても、もうこの件については不問に付していただきたかった。
「とにかく自分の中ではもう終わったことよ。終わったことで今更何も話すことはないわ。どうぞお二人でお幸せに。」
僕は動揺を悟られないよう出来るだけ言葉を少なくそして感情を交えないように注意して答えた。しかし敵は納得しなかった。
「あなたはその前にも彼にもう交際は止めると言っておきながらあの時どうして伊豆のホテルで私達を待っていたの。あなたの言うことなんか私は信用出来ないわ。私はね、もう誰にも私たちのことを邪魔されたくないの。」
総務の小娘はなおも追撃の手を緩めなかったが、言葉を信用出来ないと言われても心の中を一体どうしてお前に見せてやれるんだ。見せられるものなら馬の骨氏なんか水引に熨斗でもつけてお前にくれてやりたいと思っているこの心の奥までお前に見せてやりたい。
「ねえ、佐山さん、そんなに好きだった人を本当にそんなに簡単に諦めてもいいの。」
突然クレヨンの声が響いた。そしてそれと同時にその場にいた全員がクレヨンに注目した。この馬鹿はどうしてこんな時に宣戦布告のようなことを口に出すんだ。馬鹿にもほどがある。そういうことを火に油を注ぐというんだ。これでまた総務の小娘が勢いづいた。
「私だってそう思うわ。夫を捨ててまで選んだ人をそんなに簡単に諦められるはずがないと思うの。だからあなたの言うことが信じられないのよ。」
夫を捨てたのは僕ではなくて佐山芳恵だろう。本当に諦めたかどうか知りたかったら佐山芳恵を探して本人に聞いて来い。
「何度でも言うけどもう私には終わったことよ。それ以上は何も言うことはないわ。もうあまり時間がないからこれでお昼を食べさせてね。」
僕は努めて冷静を装いながらそして本当に言いたいことはぐっと飲み込んでそう答えた。
「だってそんなこと、」
クレヨンが何か言おうとしたのでテーブルの下で思い切り足を蹴ってやった。ばかめ、お前なんぞは爆薬でも背負って桜島の噴火口に飛び込んでしまえ。
「それじゃあ私が聞いたことの答えにはなっていないわ。」
総務の小娘がさらに食い下がってきた。クレヨン、お前がこいつに自爆テロでも仕掛けろ。
「私が言うことをどう解釈するかは私の問題じゃないわ。あなたが信じられないというのならそれはあなたの問題で私にはこれ以上どうしようもないわ。」
僕は馬の骨氏に向き直った。
「もうこれ以上何もないわ。だからもう彼女を連れてこれで帰って。」
馬の骨氏は黙って頷いた。そしてまだまだ追及したそうな顔をしている総務の小娘を促して席を立った。
「全く本気で蹴るんだから。でも本当にそんなに好きだった人を簡単に手放してしまっていいの。」
またクレヨンが余計なことを言った。
「うるさいわね、あんたは黙ってなさいよ。」
僕はクレヨンを叱り飛ばしで黙らせた。クレヨンは馬の骨氏と総務の小娘との三角関係で僕が苛立っていると思ったんだろうが、本当は総務の小娘にぐちゃぐちゃ言われたことなんかどうでも良かった。女なんてものはあんな時に何を言っても納得しないで食いついてくることは経験から痛いほど承知していた。彼らとはこれでお終いで後腐れのない関係なのだから何を言われてもかまうものか。
それよりも衝撃的だったのは佐山芳恵が夫を振り捨てて馬の骨氏に走ったという事実を突きつけられたことだった。芳恵、お前な、次のことを考えて物事を決めろよ。お前の言動すべてを引き継がなければいけない僕の人格と尊厳は一体どうなるんだ。
Posted at 2016/05/09 20:55:41 | |
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小説 | 日記
2016年05月06日
こうして僕たちは衣類やアクセサリーを買い込んでからランジェリー売り場へ行った。ここで二人はあれこれと下着を選んでいたが、僕にはそんな物どうでも良かった。パンツの大きさはデザインや色が多種多様なだけで男も女も基本的には一緒だがブラの方は少し事情が異なる。
大体ブラのカップの大きさからして分からない。AだのBだのCだのと言うが、記号が後に行けば行くほどカップが大きくなると言うことは一般的な知識としては知っているもののそれがどのくらいの大きさなのか自分の胸についているのがどれに該当するのかよく分からなかった。
しかもカップの大きさに加えて紐の長さがややこしさに拍車をかけていた。佐山芳恵の体を引き継いでから元々佐山芳恵が買い込んでいたもののサイズを見て適当に買っていたが、こんなものもS、M、L、LL、XLと言うように簡略化してしまえば僕のようなにわか女には大変ありがたい。
その後僕たちは買い物に飽きるどころかさらに化粧品を見に行った。しかしここで僕たちという言い方をすることは大いに語弊がある。クレヨンと女土方はと言うべきで僕は連れて行かれたと言った方が正確な表現だろう。本当はこの辺でパソコンショップか書店にでも逃走したかったのだが二人にがっちりと身柄を確保されていて逃げ出す隙がなかった。
化粧品もにわか女にはこれまた複雑怪奇だ。顔の色を均一にそして見栄えよくごまかすためのファンデーション、男にアピールするために唇の存在を思い切り強調出来るよう色をつけるリップスティック、本来平面的な日本人の眼をはっきりと際立たせるためのアイラインやアイシャドウ、眉が伸び過ぎて必要以上に存在を誇示しないよう刈り込んだ後、より良いバランスを求めて偽の眉を書き込む色鉛筆のようなやつ、睫毛が長くすらりと伸びているように偽装するためのマスカラ、爪に塗りたくって艶や色彩を与えて手を美しく飾るためのマニキュア、その他にも肌に潤いを与えて生き生きと見せるためと使用する側において信じて疑わないそれらしい色に着色された液状又はゲル状の乳液だの化粧液だの何だかんだ多種多様でそれに加えて車の工具のような道具まである。
目立たせるか見つかり難くするか目的は正反対だが、事実を偽装して隠蔽すると言うことに関しては軍隊が使用する偽装や迷彩の類と同一のように思う。それにしてもこれほど多種多様な化粧品の分類や用途を覚え込んでしかも電車の中でまで一心不乱に化粧に励むほどの労力と時間を費やすのならいっそのこと顔に貼り付けるマスクでも作ってそれを貼り付けてしまった方が簡単で効果的じゃないだろうか。
現代の科学を総動員すれば扱い易くてちょっとやそっとでは剥がれない人工皮膚のようなものを造るのは難しいことではないだろう。化粧では目鼻立ちなど基本的な構造は覆い隠しようもないが、これなら顔の輪郭以外は土台から不具合を修正出来る。またその日の気分に応じて色々な顔を選んで外出することが出来、バラエティに富んで気分も変わるだろう。でもこれって何となく福笑いに通じるものがありそうだな。
それに見てくれだけは世の中美人やかわいい女ばかりになってしまうかもしれないが、二人きりになってマスクを剥がしたら背骨が砕けるくらい驚いたなんてことになると男も困るだろうから赤外線などを使用してマスクの下にある本当の顔を探知して表示するハイテク機器などが爆発的に売れるかもしれない。大体化粧なんて化けて粧うことなんだから化けるためのマスクを造っても支障はないだろう。
今度商品企画室が発足したら一番に提案してやろうか。でもこの発想って紛争当事国双方に武器を売りつける死の商人に通じるものがあるかもしれない。
「あなたって本当に化粧には無頓着な人ね。でも少しは気を使った方がいいわよ。もうお互いに若くはないんだから、ね。」
くだらないことを考えていたら突然女土方に声をかけられて飛び上がるほど驚いてしまった。
「こんなこと言わなくても分かっているんでしょうけど季節によって化粧品も使い分けるのよ。ちゃんとしなきゃだめよ。」
今度は女土方がてきぱきと化粧品を選んで僕に押し付けた。
「これじゃあ足りないけどさっきの指輪のお礼よ。」
女土方は何種類かの化粧品の入った袋を僕に手渡したが、僕に何かくれるのならどちらかと言えば化粧品よりも現金、貴金属、有価証券の類が良いのだが。こうして買い物が一段落する頃には昼の時間を大きく過ぎていた。そして食事をどこでするかでまたクレヨンがごちゃごちゃ言い出したので面倒臭いから場所はこいつに任せることにした。飯を食ったら早く帰ろう。この上こいつ等につき合っていたら何時まで引きずり回されるか分かったものじゃない。でもせっかく外に出たのだから書店くらいは寄りたかった。
「その前にちょっと書店に寄らせて。」
僕が頼むと二人ともすぐに承諾してくれたが、クレヨンはせっかく買い物に来たのにどうして書店などに行きたがるのか分からないという顔をしていた。それでも今回はこっちが主導権を握る番だとばかりにさっさと書店に向かって歩き出した。これで今までの敵を取ってやろうと思ったが、それでもそこは男の悲しさ、書店では目的の書棚をさっさと見て歩き興味のある本を抜き出してものの三十分もしないうちに僕の買い物は終わってしまった。
もっとも一人なら優に一時間くらいは書店で時間を潰すことは出来るのだが、興味のない人間を無理に止めておくのは忍びなかった。この辺りが男の限界なんだろう。書店を出ると女土方もクレヨンも書店の袋を提げていたから何らかの本を買ったようだった。ただクレヨンが買ったのはページの大部分を写真が占めている雑誌のようだった。
僕たちは遅い昼食を取るためにそこから歩いてクレヨンの知っているという店に行った。そこがどんな店かは大方想像がついた。店に着くとやはり庶民は気後れして仰け反って後ずさりするような高級イタリア料理店だったが、ここでもクレヨンは店長の出迎えを受けても臆することもなく堂々としていた。そして僕たち三人は奥まったところにある個室に通されてそれぞれにメニューが手渡された。
そこに書いてあるメニューは特に仰け反りそうな珍奇なものはなかったが、脇に書かれている値段は十分に仰け反る価値があるものだった。そこには我々が買い物ついでに立ち寄った食物屋では未来永劫注文することはないだろうと思われるような値段が書かれていた。どうせ僕等が払うわけではないのでそんな値段を見ても仰け反りもしないで好きな物を注文してやったが、正直どんな料理が出て来ても自分の財布で購うのなら決して頼みたくはない値段だった。
頼んだ料理が出て来るまでの間、クレヨンは何だか訳の分からないことをしゃべっていたが専ら聞き役は女土方が担当していたので僕はさっき買い込んだ本を眺めていた。
「ねえ、佐山さんも聞いてよ。」
クレヨンが突然非難めいたことを口走った。
『そんな訳の分からないお前の話なんか聞いてどうするんだ。時間の無駄だろう。』
関係改善が進行しつつある今この状況でそんなことを言うわけにもいかなかったし、負担をみんな女土方に押し付けるのも心苦しかったので仕方なしに本を置いて顔をクレヨンの方に向けた。それでクレヨンは満足したように微笑むとまた今日買い込んだ品物の話を始めた。
話の内容に知性を感じないのは相変わらずだが確かにクレヨンは素直に、そして明るくなった。僕たちとクレヨンがお互いに理解し合えるかどうかはともかく少なくとも自分の方を向いてくれる人間が出来たことがこいつを明るく素直にさせたのかもしれない。何とか広告機構とやらでちょっと危ない目をしたお姉さんが『誰かがお前が大切だと言ってくれればそれだけで生きられる。』と言っているが、確かに自分は一人じゃないということを実感することは人間にとってずい分勇気づけられることなのかも知れない。僕たちは運ばれて来た高級イタリア料理を堪能してからこれもまた下駄代わりと言われている気の毒な国産高級乗用車で帰路についた。
終わってみれば今日は僕が佐山芳恵になって以来もっとも高額消費をした日になるが佐山芳恵になってから僕が働いて貯めた分で十分にまかなえる額だし、女土方と同居するようになって家計も大幅黒字に転じたのでたまにはいいだろう。
Posted at 2016/05/06 23:08:59 | |
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2016年05月03日
翌朝もクレヨンは真っ先に起き出して「買い物、お出かけ」と騒ぎまくっていた。半拘禁生活の反動なのか女の本能なのか騒がしいこと夥しい。起きて行って叩いてやろうかと思ったが女土方に抱きついている方が心地良かったので止めておいた。そのうちに女土方にも「起きなさい」と促されて僕は仕方なく起き出した。
そして僕たちは朝食もそこそこにこの家の足代わりのセルシオに乗って銀座へと繰り出した。車を駐車場に入れてまずクレヨンが行きたいと言う某高級デパートに立ち寄った。僕たちは当然目的とする売り場に、いや、正確に言えば僕には目的とする売り場はなかったのだが、行こうとしたのだがクレヨンは入り口の案内に立ち寄って何やら告げていた。
何をしているのかと女土方と顔を見合わせているとしばらくして品の良い出で立ちの男性が小走りに駆け寄って来てこともあろうにクレヨンに丁寧に挨拶を始めた。そしてその後あっけに取られている僕たちの方に歩み寄って来て「いつもご贔屓にしていただきましてありがとうございます。どうぞごゆっくりお買い物をお楽しみいただけますよう何なりとお申し付けください。」と馬鹿丁寧に挨拶をした。そして立派な応接室に通されて立派なコーヒーカップでコーヒーを振舞われた後、これまた立派なカタログが差し出された。
さすがに僕たちもこの辺りに至って事情が飲み込めた。僕がサルだの馬鹿だの言っているこのクレヨンはデパートにとって見れば金融界の大御所のご令嬢で別格扱いの特別なお客様なのだ。だから買い物に来れば専従の担当者がお帰りまでお世話申し上げてご満足いただいてお帰りいただくのだろう。
しかしクレヨンはこんな待遇には慣れているのだろう堂々としていたが、僕たちのような庶民派はそんな待遇などこれまでただの一回も受けたことがないので面食らってしまった。それに「どうぞ何なりとお申し付けいただいて」と言われても僕たちが通常購入する商品とはかなり値段がかけ離れていることから何なりとお申し付けいただいてと言われてもそうそう言われるようには手が出なかった。
クレヨンはここでコートやらスーツやらずい分と買い込んだがどれもこれも値段はともかく形は常識的なものばかりだった。どうもこいつは心を入れ替えて仕事に励むつもりなんだろうか。しかしそれにしても僕たち庶民には買おうと言う気があってもちょっと手が出し難い値段には違いなかった。
その後お定まりのように貴金属を見た。日頃は冷静な女土方もこの時ばかりはかなり熱が入って目が輝いていた。僕も貴金属はきらいではないがどちらかと言えば装飾品よりも金貨や金の延板を買い込んでシャイロックのように撫で擦っていた方が楽しいように思う。ここでもクレヨンはまた馬鹿高い指輪、ペンダント、ブレスレットのセットを買いそうな勢いだったが、僕たちの非難の視線を感じたのかさすがに思い止まったようだった。買い込んでも僕が支払うわけでもないからかまわないのだが庶民にはちょっと納得しかねる値段には違いなかった。
結局クレヨンはまあ年相応のかわいらしいペンダントと指輪を買った。ただしかわいらしいと言うのはクレヨンではなくペンダントのことなので念のために申し添えておきたい。それでもその合計額は六桁に至っていた。僕は暇つぶしに商品を眺めていたがたまたまちょっと変わったデザインの金の指輪が目に止まった。
「ねえ、ちょっとその指輪を見せて。」
僕が店員に頼むとその店員は誠に丁寧な態度でトレイの上に載せて指輪を差し出した。自分の指にはめると丁度良いサイズだったが、何と言うかあの指輪をした時の締め付け感がいやですぐに外してしまった。でも体つきが似たような僕たちだからこの指輪のサイズは女土方にも合うだろう。
「これ、サイズはいくつ。」
「十一ですがサイズの調整はさせていただきます。」
店員が丁寧に答えた。
「咲子、ちょっと来て。」
僕は女土方を呼んで手を取ると女土方の指に指輪をはめてみた。
「丁度良いわね。それに良く似合うわ。これちょうだい。」
呆気に取られている女土方は放って置いて僕はクレジットカードを店員に渡すと指輪を包ませた。
「はい、私からプレゼントよ。あなたにはいつも迷惑をかけているし、それにこの指輪、あなたにとてもよく似合うわ。」
僕は戸惑いながらもうれしそうな顔をしている女土方に指輪を押し付けた。その顔を見ていると何だか僕もうれしくなってしまった。男というのは良くも悪くもこういう生き物なんだな。ついでに僕はアクセサリー売り場でシルバーのペンダントとブレスレットを買った。
ペンダントはヨーロッパの紋章のようなデザインで女用というよりも男に似合うのかも知れないものだった。でもあまり見かけないデザインで中央に剣に擬した花がデザインされているのが気に入ったので買うことにした。そのうちに金でも貯まったら純金のブレスでも買うか。でも金は今ひとつ上品さに欠けるようなものが多くてなかなかこれと思うものがない。プラチナも同様で値段も高いから庶民にはシルバーが似合いだろう。
そう言えば以前つき合っていた女にゴールドコインのペンダントを買ってやったことがあった。そのペンダントの枠がなかなか凝っていて僕としては自分でしたいくらいに気に入っていたんだけれど最近はコインのペンダントは流行らないらしくて同じようなものを探しても売っていない。
注文すれば造ってはくれるらしいがそこまでする気もなかった。もちろん女に返してくれとも言えずにそのままになってしまったが今あれが手元にあったら丁度良かったかも知れない。でもそれも女土方にやってしまうかな。
佐山芳恵も年相応にアクセサリーは所有しているがどうも僕とは趣味が違うようで所有の品の中にこれが良いというお気に入りが見当たらない。それに指輪はあの拘束感にどうしても馴染めなくて着けたことがない。そんな訳で最近アクセサリー類は何も身につけていない。シルバーでは安っぽく見られるかもしれないがそんなことかまうものか。アクセサリーなんて趣味の問題なんだ。取り敢えず明日からはこのペンダントとブレスを身に着けて行こう。
Posted at 2016/05/03 22:36:55 | |
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小説 | 日記
2016年04月27日
週末になって大荷物を抱えてやって来た女土方も僕たちの変わり様に目を丸くして驚いていた。
「二人が仲良しってことは良いことだけど、それにしても一体どうしたの、あなた達。」
僕に張り付いて離れようとしないクレヨンとやや迷惑そうな顔をしながらクレヨンの相手をしている僕に向かって女土方が言った。そしてクレヨンが外した時に「あなた、まさかじゃないでしょうね。」と念を押した。疑われるのも癪に障るので僕は「実は、」と言っていつかの晩の出来事を手短に女土方に話してやった。
「あれもきっと物心ついてから誰かと戯れて心の底から笑ったりしたことがない子なんじゃないのかな。でもあれはあれなりのプライドがあったんでしょうから強気に出ていたんでしょう。けれどその強気に見せるための鎧の重さを支えかねていたのかも知れないわね。私は決してあれのようなジャンルの人間を優しく受け入れられるようなタイプじゃないけどそんなことを考えていたら邪険にするのが何となくかわいそうになってね。鬱陶しい時もあるけどもうちょっと満たされるまでは仕方がないかなと思って。」
女土方にあの晩のことを話したついでに僕は最後にそう付け加えた。女土方は黙って大きく頷いた。
「あなたは以前の芳恵とはちょっと違って一見とても取っ付き難い人のようだけどあなたの領域の中に入ってしまった人には本当に優しい人ね。」
どうも女土方は僕が以前の佐山芳恵とは違う人格であることをはっきりと認識し始めたようだった。
僕と女土方が揃ったその晩、クレヨンはもう絶好調だった。人間一度鎧をつなぎ合わせている紐が切れてしまうと次から次へと鋼の板が落ちてしまうらしい。あの突っ張ったクレヨンは何処へやらもう子供のように僕たち二人の間で歓声を上げてはしゃぎ回っていた。僕たちはそのクレヨンを適当にあしらいながらお互いにその変わり様に顔を見合わせた。
「ねえ、明日お買い物に行かない。三人で一緒に。」
突然クレヨンが余計なことを言い出した。僕はお買い物がきらいだ。特に女と一緒の買い物は退屈で仕方がない。女という生き物はどうして買いもしないものを延々とひっくり返したり透かしたりして眺めているのだろう。そしてやっとお買い上げに至ってもこれが似合うかあれが似合うかと聞きまくって結局聞きまくった他人の意見など聞かずにお買い上げになる。
その頃には付き合っている僕などは精も根も尽き果てて崩れ落ちそうになっているのに女の方はそんなことはお構いなしに無慈悲にも「あと一軒付き合ってね」などとのたまう。その根性には男の忍耐など到底及ぶものではない。そんな訳だから僕は万止むを得ず女の買い物に付き合わざるを得ない時は近所に書店とかパソコンショップとか車の展示場とかそうした時間潰しの場所があることろを選ぶことにしている。
そうでもしないとどのように決意を固めて全身から忍耐を振り絞っても女の買い物にかける情熱の前にはその決意も忍耐もほとんど何ら功を奏さないままに消耗し尽くしてしまうからだ。それに女の方もいやいやくっついている男などいない方が買い物に集中出来ることだろう。
だからクレヨンが買い物に行こうなどと言い出した時には僕はひそかに眉をひそめたのだった。しかし女土方は結構乗り気で「いいわね、行こうよ。ねえ。」などと僕に同意を求めてくる始末だった。僕は嫌だとも言えずに「そうね、買い物ね。」等と口を濁していると「決まったわ、行こう行こう。何処に行こうか。」などとクレヨンはすでに行き先の検討に入っていた。
「銀座。」
僕はすかさず候補地を主張した。銀座なら本屋やパソコン屋など適当に時間を潰す場所には困らない。お台場も良いがあそこは書店がない。でも大規模な車の展示場やアウトドアショップなどもあるのでまあ悪くはない。原宿はいけない。第一土地鑑がない。どんな店があるかも分からないがブティックばかりでどうも僕のようなのが時間を潰す場所が少ないようだ。自由が丘も有名でここからは近いがあそこもいけない。そんなわけで僕は強硬に銀座を主張して最終的にはこれが採用されたのでほっとした。
大体買い物と言うと僕にとっては目的物を購入するための行為であるので予め必要な物をリストアップしておいてそれを売っている店にまっしぐらに駆け込んでサイズを合わせて金を支払って手に入れることになる。多少は色や形を勘案するために時間を取ることもあるがそれも数種類から選択するだけなので大した時間もかからない。あくまでも必要とする物品を入手出来ればそれで十分なので購入する必要のないものなど見る気もしない。
ところが女の買い物はちょっと事情が異なる。何よりもとにかく見て歩く。次から次へと店を渡り歩く。買うとか買わないなどと言うことは二の次で見て見て見てそしてまた見て歩く。次にするのは批評だ。これも買う買わないはお構いなしだ。色がどうだの形がどうだの値段がどうだのこれもまた際限がない。買わないのなら余計なことは言わなきゃ良いだろうと思うがどうもそういう訳にはいかないらしい。
そしてもっとも困ることはそれぞれの品物について意見や同意を求められることだ。確かに色や形が違う。でもそれが何だと言うんだ。僕の目には大同異小と言うかどれも同じようにしか見えない。そしてもっと本音を言えば品物の良し悪しよりもそれを身にまとう側の方が問題なんだと思う。しかしそんなことを口にした日にはどのような恐ろしい結果が待っているか想像するだけでも恐ろしい。
しかしこのような買い物は単に忍耐さえあれば何とか耐えて切り抜けることが出来る。本当に恐ろしいのは女に貴金属の類を買ってやる時だ。僕自身貴金属や装飾品を見るのはきらいではない。金の冷ややかな重量感や宝石の怪しい輝きなどは女ならずとも魅惑され心を惑わされるに十分な魅力がある。
だからたまに宝飾店に立ち寄ってつき合っていた女にそこそこの物を買い与えることがあった。それでも女は十分に喜ぶのだが事前に「買ってやろうか」などと口走ってしまった日にはもう大変なことになる。出かければまっしぐらに目的の店に向かいらんらんと輝く目で商品を見定めていろいろ取り出させて装着具合を確かめ、そして小声で「いくら位」と囁く。
大体男なんてものは見栄っ張りだから思わず思っていた値段の五割増くらいを口走ってしまう。女は満面の笑みを浮かべて最後の品定めに取り掛かる。そして「どっちが良い。」なんて最終選考に残った二点をかざして見せる。大抵は予定した値段の五割増しからさらに上を行く値段のものを選ばされる。そして摩訶不思議な商取引が始まる。
それは「じゃあ、これをください。」と言ったとたんに商品に対する購入者である僕の所有権は消滅してしまって商品購入に対する債務のみが僕に課されることだ。そしてそれ以後まずめったに購入した商品を目にする機会はない。それでも貴金属を手にした時の女の輝く顔が好きでつい買ってしまうのだから男という生き物も好きな女には甘いんだろう。
その晩僕たちはまた豪華な食堂で高価な食器に盛られた普通の飯を食って三人で寝た。人が増えたせいなのかやっぱりクレヨンはかなりハイになっていてはしゃぎまわっていたが、さすがに生活の激変とクレヨンの相手で疲れ果てていたので今晩こそは僕が女土方を囲い込んで早々に眠ってしまった。
Posted at 2016/04/27 18:23:11 | |
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