2016年12月13日
帰りの車の中で居眠りをしているクレヨンを横目で見ながらもう一度これからのことを考えてみたがやはりこれといったうまい知恵も結論も思い浮かばなかった。
翌日出勤しても状況に特段の変化はなかった。女土方は相変わらず素っ気なく僕とは仕事以外にほとんど口を聞かないので部屋の雰囲気が何となく暗く重かった。テキストエディターのお姉さんなどは「鬱陶しいから早く何とかしなさいよ。」と口を尖らせていたが、早く何とかしろと言われても僕にもそのきっかけさえつかめなかった。
女土方とはこんな状況でほとほと困り果てていたが、言葉屋はお気楽に「あっちに行こう、こっちに行こう」とメールで誘いをかけて来た。特段男と酒を飲みたいわけでも飯を食いたいわけでもなかったが、話をするのは面白かったのでクレヨンを盾に三度に一度くらいは付き合ってやっていた。
言葉屋は金が余っているのか結構良い店に連れて行ってくれた。しかし、二度、三度と飯を食わせてもらうのも気が引けるので次は僕が払うと言うと、それならばと「せっかくご馳走してくれると言うのなら、ついでにどうしても一度二人で会いたい。」と言って来た。
『何が悲しくてそんなことを言うんだ。男同士二人で飯食っても仕方あるめえ。』
僕は言葉屋にそう言ってやりたかったが、向こうから見ればちょっと型落ちにはなっていてもそれなりの女に見えるんだろう。大体年齢なんて相対的なもので自分が二十歳ほどの時には三十を過ぎた女など魑魅魍魎のように思えたが、年を重ねて自分が四十代も後半にかかる頃になると三十過ぎの女など子供っぽく思えてしまい四十を超えたくらいの女に魅力を感じるようになるのだから不思議なものだ。
もっとも僕自身は仲間内では比較的年配好みだったので「ババ専」などと言われていた。これは年寄専門と言うほどの意味のようだ。また中には年を取ればとるほど若い女に魅力を感じる者もいた。そんな奴は「ジャリ専」と言っていたが、それでも誰もが許容範囲というほどの中に納まっていて正常範囲を逸脱する者はなかったのは幸だった。
まあそんなことはどうでもいいのだけど言葉屋が二人だけで会いたいと言うのはやはりそれなりに思うところがあるからだろう。例えば何か特別な思いを僕に告げたいとか特に僕と肉欲を満たしたいとか。しかし特別な思いを告げられてもそれに答えようもないし、女と肉欲を満たそうという気持ちは大いに理解出来るが、そうだからと言って勝手に相手を僕に決めてもらっても僕の方も困ってしまう。
そんなことでのらりくらりとコンニャクのように身をかわしていると「次の金曜に出社するのでその帰りにどうか」と日時まで指定されてしまった。うーん、僕の命運はここに窮まった。受けるべきか受けざるべきか、その決定に呻吟していたかと言うとそれほどでもなかった。あの営業君の時のように怖気を震うようなこともなかったのでちょっと面倒なことを除けば結構気楽なものだった。
結構お気楽に構えていると次のメールで時間と場所まであのジャズバーと決められてしまったのでいよいよ外堀も内堀も埋められてしまって遂に本丸決戦という状況になってしまった。のらりくらりもここまで来てしまうともう逃げようもないのでさすがに僕も覚悟を決めて人生初の男とのデートに臨むことに腹を決めた。でもそう言えば法事に呼び出されて見合いをしたこともあったっけ。
指定の日、僕はクレヨンに寄り道をしないで必ず真っ直ぐに自宅に帰るように言い聞かせて職場を出た。
「あの人と会うのね。」
クレヨンがそう聞くので「そうだ」と答えた後、「どうしても止むを得ない事情があるのだから余計なことだけは言うな」と付け加えた。
「あの人、あなたのことが好きなのよ。あなたは私のことを子供と思っているかもしれないけど私も女だからよく分かるわ。あなたもそれが分かってこんなことをしているんでしょうね。もしもそうでないと面倒なことになるかもね。」
いきなりクレヨンに核心を突かれて僕はドキッとしてしまった。こいつも他のことはとにかくこういうところだけは鋭いんだから。
「どうなのかな、そういうこともあるかも知れないわね。本当はね、あなたにも一緒に行って欲しいんだけど今回ばかりはね、約束だから。帰ったら話してあげるから待っていて。」
「分かったわ。待ってるから。あなたに初めて一人前の女として扱ってもらえたわ。嬉しい。」
背中にクレヨンの声を聞きながら歩き出そうとしたらいきなりそんなことを言われてまたコケそうになってしまった。
Posted at 2016/12/13 22:32:34 | |
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小説 | 日記
2016年12月09日
ママはカウンターの中に引っ込んで料理を準備し始めた。僕はビールを一口飲んでグラスを置いたら何だかため息が出てしまった。
「どうしたの、ため息なんて珍しいわね。そんなに悩んでいるの。」
クレヨンが突然人間に戻ったように気の利いたことを言った。
「あんなに胸を触らせて大丈夫なの。気持ち悪くないの。やっぱりその気があるのかな。」
僕の顔色を窺うようにまた変なことを言い出したクレヨンの腕を取って引っ張り込むと「あんたのも作り物じゃないかどうか調べてあげるわ。」と言ってからかってやった。クレヨンは必死に僕の腕から逃れると胸を押さえて「止めてよ、変態。」と言ったが、他のお客が皆クレヨンに注目しているのでここがどういうところか思い出したらしく下を向いて黙り込んでしまった。
結局ここのママも対女土方戦には特に名案はないようだった。もっとも普通の男女でも事情は人それぞれ様々でこれと言った名案があるわけでもないのでその辺はビアンでも同じなんだろう。
それにしてもやはり僕が極めて男風だと言うことは皆それなりに分かるようだ。すらり氏から始まって北の政所軍団にも社長にもクレヨンにもテキストエディターのお姉さんにもそして女土方にもそれは言われたことだった。
姿かたちは女でも立ち居振舞いや考え方はほとんどそのまま男でやらせてもらっているので極めて男風と言われるのも仕方がないかもしれない。何より一番男が外に出てしまうのは愛を交わす時でその作法それ自体もそうなのだがいきなり女土方をラブホテルに引張り込んだりして、女土方が呆気に取られることが何度もあったらしい。
そういうことを捕らえてビアンらしくないからだめだと言われるならそれは確かにそうかも知れない。体が女と言うだけで精神構造や行動様式は全くの男そのものなのだから。
でも女土方はこれまで一言もそんなことは言わなかった。彼女は僕のそばで幸せそうだったし僕も彼女と一緒で穏やかな生活を送ることが出来た。男女にしてもビアンにしてもペアリングは一緒にいて心地良いというのが基本中の基本なので僕達は理想に適っていたわけだ。
だからそれでいいのじゃないか。離れてお互いどうなるかなんて何も先の見えないことをあれこれ考える必要なんか全くないんだ。それを女土方にどう納得させるかが問題だが。その辺は僕も良くは分からなかったが、どの道当たって砕けろと言うことになりそうだった。
一通り僕達は晩飯に匹敵するくらいの量を食べ終わると引き上げることにした。ママは席を立とうとした僕達のところに来て「今日は来てくれて本当にありがとう。それからあなたには失礼なことをして本当にごめんなさい。私が出来ることがあれば何でも手助けするから咲ちゃんのこときっとお願いしますね。」と言うと僕を抱き締めた。ここのママは男だった時の僕よりも年上だろうと思うが、なかなか品のあるきれいな人だった。
「ありがとう、何かあったらきっと相談しますから助けてくださいね。でも私は咲子のことは絶対に諦めないしまた元に戻して見せるわ。」
手を離したママを今度は僕の方から軽く抱いてそう答えた。ママは僕の腕の中で「お願いね、お願いね。」と小さな声で何度も繰り返した。
Posted at 2016/12/09 17:58:41 | |
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小説 | 日記
2016年11月28日
「突然ごめんね、でも作り物じゃないみたいね。」
ママは僕の胸から手を放すと場合によってはかなり問題になりそうなことをいきなり言った。
「ね、もう一度触ってもいい、直接。」
何だか何かを確認したい様子なので僕は「いいわよ、どうぞ。」と答えた。以前にも話をしたかもしれないが、元男の僕は胸には特に拘りがない。こんなものが見たいならシャツをめくって見せてやっても良いと思っている。男が自分の胸に対して持っている感覚なんて所詮そんなものなんだ。ただ、そんなことをすると「男日照り、佐山芳恵を狂わす」とか「ついに異常性愛に走った佐山芳恵」とか言われそうなので控えているだけなんだ。
「シャツを上げましょうか。」
「いいわよ、そのままで。ちょっとごめんね。」
ママは僕が着ているシャツの襟の隙間から手を入れて暫らく僕の胸を触りまくっていたが、やがて手を抜くと「やっぱり間違いなく本物のようね。」と言った。
「どうして、別に整形なんかしていないわよ。」
「ええ、分かったわ。ごめんなさいね、変なことして。でもね、ちょっとあなたがこの世界の女とは思えなかったのでまさかとは思ったけど確かめさせてもらったの。」
「私が性転換か何かをした男じゃないかって、そういうこと。」
「そう、あなたの考え方はぜんぜん違うのよ、この世界にいる人達とは。誰もあなたのように割り切った考え方をしている人はいないわ。日本ではこの世界の人間はまだまだ日陰者よ。だからみんな負い目を背負って悟られないようにひっそりと息をひそめて生きている。咲ちゃんだって同じよ。淡々と強く生きているように見えるかもしれないけど彼女も内心はびくびくしながらそっと周りの様子を窺って生きているのよ。誰もあなたのように胸を張って堂々と生きている人はいないわ。」
僕はたとえ姿かたちは女でも男として自然の摂理に従って女土方を愛しているだけでやましいことも社会に反することも何もしていない。堂々と胸を張って生きて何が悪いんだ。まあそれにしても堂々と張るほどの胸でもないが、それは僕のせいではない。
「あんなことしてからこんなこと言ったら本当に失礼なことになってしまうかもしれないけど許してね。でもね、あなたはねえ、どことなく男の匂いがするのよ。最初はね、咲ちゃんも良い人が見つかってよかったなって、そう思ってたんだけど、あなたってこの世界の女性とは違うのよね。いえ、今確かにあなたが女性だと言うことは良く分かったわ。でも、」
「確かに私は少し男性的な考え方をするかもしれないけど、こんな場合にそのことが何か問題になるの。男性的なところがあったらいけないの。」
「そうじゃないのよ。咲ちゃんはね、繊細で敏感な子だからきっとあなたが自分とは違うということを感じ取っているんだと思うわ。きっと彼女にとってあなたを手放すのは自分の体を刻まれるよりも辛いことだと思うけど、それでも自分とは違う人間だからこそあなたを元の世界に帰さないといけないと思っているのかも知れないわね。」
「ねえ、ママ、敏感であろうと私みたいに鈍感であろうとこんな時はまず自分に素直になるべきじゃない。相手がどうこうとかそんなことは大きなお世話だし、第一、自分が身を引いて相手を幸せにしてやろうなんてそんなの思い上がりよ。自分のことだけ考えればいいのよ。私はね、人間は自分のことよりも他人や社会のことを考えなきゃいけない時もあると思うわ。でもね、今度は違う。自分のことを考えるべきよ。そうでないときっと後悔するわ。」
「その辺の感覚がねえ、あなたとはちょっとギャップがあるのかも知れないわね。咲ちゃんもきっと苦しんでいると思うから時間をかけてよく話し合ってみたら。私に出来ることがあったら何でも協力するわ。」
「そうね、どっちにしてもきちんと話をする必要はあると思うわ。時間をかけるかどうかは別にしても。」
僕は女土方が僕に遠慮して下がっているのならその時は力づくでも女土方を自分の元に戻すつもりでいた。でもそれだけではなく何となく僕の立ち居振舞いに対する嫉妬もあるような気がするのでその辺は話を聞いてみるつもりだった。
Posted at 2016/11/29 00:00:57 | |
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小説 | 日記
2016年11月21日
女土方が帰ってしまって部屋には僕とクレヨンだけが残ったが、ここで脳味噌全体が土石流と化しているサルの相手をしていても仕方がないので例の店に出かけることにしたら、この土石流サルがどうしても連れて行ってくれと騒ぎ出した。
絶対に迷惑をかけないと言うが、本人に迷惑をかけている意識が微塵もなく大迷惑をかけられるのだから迷惑をかけないというサルの言は全く客観的な裏付けに乏しいと言わざるを得ない。しかしここで放り出すのもかわいそうなので静かに黙って許可を得た場合意外は絶対に発言をしないと言う条件で連れて行くことにした。
店は女土方と一回行っただけだったが、場所はすぐに知れた。店に入るとまだ少し時間が早かったせいか客はまばらだったが、何組かそれとおぼしきカップルがテーブルに陣取って何やら話し込んでいた。クレヨンは物珍しそうな顔をして無闇とあたりを見回すのできょろきょろしないで大人しくしていろと叱ってやった。
ママは僕を見ると懐かしそうに微笑んだが一緒にいるクレヨンを見て怪訝そうな表情になった。女土方が何かを訴えたのかも知れない。
「今日はちょっと折り入ってお聞きしたいことがあってここに来ました。カウンターでいいですか。」
ママはクレヨンの方に目をやりながら「咲ちゃんのこと」と聞くので「そうです」と答えると「どうぞ」とカウンターのあの席を示した。そこは女土方の指定席だった。
「まず先に聞いておきたいんだけど、」
注文も聞かないうちにママが口を開いた。
「そこにいる子はあなたの新しいパートナーじゃないわよね。」
ママはクレヨンをじっと見つめていた。見つめられたクレヨンはママの鋭い視線にやや引き気味だった。
「これはゼンマイ仕掛けでシンバルを叩くサルの玩具くらいに思っていてください。一人で放せない事情があって連れて来ただけなんです。」
ママは納得したようににやっと笑うと「注文は」と聞いてくれた。もしもクレヨンが僕のパートナーだと言ったら店から叩き出されていたかも知れない。
「何にするの。」
僕はクレヨンに注文を聞いて何でも良いという確認を取ってからビールとソーセージ盛り合わせ、チーズ、フレンチフライ、スティックサラダを注文した。
「相変わらずたくさん食べるのね。」
ママは僕の注文を聞いて笑った。
「食べないと飲めないの。」
「それでその体形を維持しているんだからえらいわ。」
「そうかな、もうあちこちぼろぼろだけど。」
「そうよ、もう年でぼろぼろも良いとこ。私みたいな若いぴちぴち娘とは比較にならないわ。」
クレヨンがまた余計な合いの手を入れるから口の端を思い切りひねってやったら、「うぃー」とかいう変な悲鳴をあげて黙り込んだ。
「それでね、ママ、咲子のことだけど最近変なのよ、あいつ。妙によそよそしくなって私から遠ざかろうとするの。でもね、私は咲子と別れるつもりはないし、別れたくもないの。彼女だってそうなのよ、それを変に意地を張って私に『あっちの世界の住人なんだからあっちの世界に帰れ』なんて言うの。私もいろいろやってみたけど二回も顔を叩かれたわ。
ねえ、ママ、私はね、彼女に好きな人が出来たからとか私のことはもう嫌になったからと言うのならそれはそれで良いと思うの。それなら仕方がないわ。でもね、自分はまだ私を好きだと言いながら、私を元の世界に帰したいとか言っているけどそんなこと大きなお世話でしょう。
私が良いと言っているんだから放っといてよって感じじゃない。そうじゃないですか。それは私もいい加減だから周囲への対応は結構へらへらしていたところがあったかも知れないけど別に彼女を裏切ったこともないし、あっちだかこっちだか知らないけど今とは違う世界に行きたいとも思わないわ。私にも深い訳があるのよ。こうしているのは。人には言えないそれは深い訳が。」
ママはうんうんという感じで聞いていたが、僕が話し終ると納得したと言うように肯いた。
「咲ちゃんの様子がおかしいと思っていたのよ。何となく物思いに耽ったような様子で何時も考え込んでいるから。それにここに来る回数もあなたと付き合い始めた頃よりもずっと増えたし。
それとなく探りを入れても『仕事が忙しくて疲れている』みないなことで誤魔化されてしまうしね。何かあったんだろうとは思っていたんだけど。でも今話を聞いて分かったわ。そんなことがあったのね。」
「私は、私達が良く暮らすことが出来るように出来るだけのことはしようと思うの。私達が元に戻れるように、そのために出来ることは何でも。でもどうしてもだめならそれはそれで仕方がないわ。どんなことをしても人の心までは自由に出来ないものね。
ただ、あの時こうしていればとかあんなことをしておけばとかそういう類の後悔はしたくないの。出来ることは尽くしておきたいの。それでここに来たの。何か私とは違った考え方があるのかと思って。そうなら教えてもらいたくて。」
ママは「ふうん」という感じで頷きながらカウンターの外に出て来た。そして僕の横に立つと「ちょっとごめんね。」と言って僕の胸を掴んだ。僕自身は女に胸を触られたからと言って慌てる理由もなく「この女、いきなりどうしたんだろう」程度で特に驚かなかったが、クレヨンは僕の横で「ひっ」とか言って体を縮めていた。
Posted at 2016/11/21 19:41:39 | |
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小説 | 日記
2016年11月08日
電車に乗り込んだがまだ全身の悪寒が消えなかった。実は僕が慌てて言葉屋から遠ざかったのは抱き止められた時に全身に生じた悪寒を悟られないためだった。相手の男性に人として好感を持っていようがいなかろうがそんなことはやはり関係なかった。
男の腕に抱き止められて男の息を間近に感じるなんてことにはいくら体が女になっても男の精神構造と感性を持つ僕には耐えられないことだった。これではっきりした。僕は女土方としか暮らせないし、お互いのためにそうすべきなんだ。心が決まれば後は前に進むだけだ。
翌日、女土方は何となく態度を軟化させて来たように見えた。今までのように徹底的に跳ね返してやろうと言う力みが少し薄まってそれとなく僕の様子をうかがうような素振りが見えて来た。きっと夕べのことが効いているんだろう。これはやはり良い傾向と言うべきだろう。
女土方にしろ僕にしろ、お互いに好きなんだし、それなりに相手が必要なんだから素直になりゃいいんだよ、素直に。変に相手のことを考えたりするからおかしくなるんだ。自分にとって何が大事か、それを考えて最優先すれば良いんだよ。それが出来る立場なんだから、お互いに。
ところで今晩、僕は仕事が引けた後あるところに行こうと決めていた。それは何処かと言うとあの例のビアンバーなんだ。僕は今回の女土方とのことをあのバーのママにちょっと聞いてみようと思っていた。勿論、自分の生き方とかそんなことじゃなくて女土方のことだけど。
夕方までは何だかんだとごたごたしてしまって少し仕事を残してしまったが、どうせあの手のバーに夕方早くから行くわけでもないのでややゆっくり目に残業をしていた。
「ねえ、帰らないの。」
クレヨンが僕と女土方を窺いながらそっと聞いた。
「ちょっと寄りたいところがあるのよ。先に帰りなさい。もしかしたら遅くなるかもしれないから食事はパスでいいわ。」
「ええ、何処に行くの。まさかあの男のところ。そういえば昨日帰りに駅の近くで抱き合っていたじゃない。」
このサルがまた余計なことを言う。口を滑らすにもほどがある。
「あんたね、また人聞きの悪いことを言わないでよ。つまずいてよろけただけよ。そんなことを言うとまた明日には会社中をその話が駆け巡っているでしょう。『佐山芳恵、翻訳家と夜の銀座で熱い抱擁を交わす』とか。」
この一言で女土方の表情がぴくりと動いて険しくなった。せっかく雪解けムードになってきたのにこれはまずいとは思ったが、口から出てしまったことはもう仕方がないので僕はわざと大きな声で事実を説明しておいてからクレヨンの頭を叩いてやった。クレヨンも自分の一言がまずかったことに気がついたらしくまた慌てた顔をして口を押さえたが、もう後の祭りだった。
「私的なことには口を出すつもりはないけど前回のように変なことになって仕事に影響を及ぼさないようにね。さ、私は帰るわ。」
女土方はまた冷たい視線を向けて足早に部屋から出て行った。前回のようにってあの営業君とのことを言っているんだろうか。あれは僕の方が一方的な被害者じゃないか。
「まったく余計なことばかり言って。せっかく雪解けムードだったのにまた振り出しに戻っちゃったじゃないの。振り出し以下かもしれないわね。」
僕が一言文句を言うとクレヨンはまた涙声になって「ごめんなさい」と謝るのだった。しかし、そうして問題を起こしてから反省するんじゃなくて起こす前に考えろよ。こいつみたいに同じ失敗を繰り返すということは口だけが滑っているんじゃなくて脳味噌全体が滑りまくっているんだろう。
Posted at 2016/11/08 22:26:52 | |
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