2012年02月18日
日清戦争で主力小銃として使用された十三年式・十八年式村田単発銃に代わる近代的な国産連発式小銃である三十年式歩兵銃は、1904年に始まった日露戦争の帝国陸軍の主力小銃として使用された。三十年式歩兵銃自体は当時世界水準の小銃であったが、満州の厳しい気候に耐えられず不具合が頻発した。これを改善するために三八式小銃の開発が始まったが、三十年式歩兵銃の改良に止まり、銃自体の主な変更点は機関部の部品点数削減による合理化のみであり、また防塵用の遊底被(遊底覆、ダストカバー)の付加や弾頭の尖頭化(三十年式実包から三八式実包へ使用弾薬の変更)を行ったのみだったので、本銃は1905年、仮制式採用、1906年、に制式採用された。その後、2年で三十年式歩兵銃からの更新を完了したという。
三八式小銃の初の実戦投入は第一次世界大戦(青島の戦いなど日独戦争)で、その後、日本陸海軍で主力小銃として使用され、シベリア出兵、満洲事変、上海事変、日中戦争(支那事変)、第二次上海事変、張鼓峰事件、ノモンハン事変で活躍したようだ。その途中、1938年から大口径実包である7,7mm×58弾(九九式普通実包)を使用する次期主力小銃が開発され、1939年に九九式小銃として制式採用され、三八式歩兵銃の後続銃として順次部隊に配備された。そのため三八式歩兵銃は1942年3月で生産を終了したが、国力の限界から完全には九九式へと更新することができなかったため、太平洋戦争では、九九式小銃と三八式小銃が主力小銃として使用された。総生産数は約340万挺であり、これは日本の国産銃としては最多で、長期間主力小銃として使用されていたため、騎兵銃・狙撃銃型など多くの派生型も開発・使用され、外国にも多数が輸出されている。
三八式小銃は当時の日本の技術水準に合わせ、構造はごく単純化されていたが、規格化が進んでいなかった当時の日本では最終組み立てでは熟練工による調整が必要だったという。小銃の部品互換性は後継の九九式小銃で実現したという。完全軍装の歩兵は弾薬5発を1セットにした挿弾子を30発分収めた弾薬盒を前身頃に2つ、また60発入の後盒をそれぞれ革帯に通し計120発を1基数として携行した。
三八式歩兵銃を装備する中隊には、同じ三八式実包を使用する三八式機関銃、十一年式軽機関銃、九六式軽機関銃が配備され、重擲弾筒とともに火力の中心となっていた。また、1個歩兵大隊にはこれに重機関銃中隊、歩兵砲2門を擁する大隊砲小隊が付随する。さらに歩兵連隊には山砲4門を擁す連隊砲中隊、対戦車砲4門を擁す速射砲中隊が加わり歩兵大隊に直接・間接協力するので、日本軍は三八式歩兵銃のみで戦ったという通説は当たらず、それなりの支援火力は有していたようだ。
日本軍は明治時代に開発・採用された旧式の三八式歩兵銃で太平洋戦争を戦った旧式な軍隊という批判があるが、第二次大戦期における主要各国軍の小銃は総じて19世紀末から20世紀初頭に開発・採用されたもので、これらは三八式歩兵銃および原型の三十年式歩兵銃とは同世代で、ボルトアクション式小銃は20世紀初頭には既に完成の域に達した銃火器で、各国はその時代の小銃をベースに細かな改良を施しながら第二次大戦終戦しばらくまで主力装備として扱っているので大方似たような状況だったようだ。半自動小銃を主力とする米軍とボルトアクションの銃で戦ったのが時代遅れと非難されるようだが、米軍も1942年初期(第二次大戦初中期)まではボルトアクション小銃が主力で、また、日本を含む第一次大戦以降の各国陸軍の歩兵火力の要は小銃ではなく、重機関銃・中機関銃・軽機関銃・汎用機関銃だった。
要するに問題なのは白兵突撃に凝り固まった用兵思想と貧弱な生産力による補給途絶であり、この小銃が旧式だったから苦戦したというのは当たらないだろう。現に陸上自衛隊が誇る世界最新の10式戦車の砲塔上に鎮座している重機関銃は1917年に実用化されたM2重機関銃だ。太平洋戦争で九九式小銃が配備されずに三八式小銃で戦ったとしても補給が十分であればそれなりに効果的な戦闘が出来ただろう。太平洋戦争では敵を制圧できるに足る火力、つまり弾薬の量がものを言う戦争であって、その火力を準備できなかった日本の貧弱な生産力であの戦争を戦わせた指導部こそ非難されるべきなのだろう。
この小銃が優秀な銃であった証拠に三八式歩兵銃は数多くの改良型・派生型が開発された。四四式騎銃、九七式狙撃銃など多くのバリエーションが開発され、三八式歩兵銃の半自動小銃化も考えられ、萱場製作所が半自動化改修に関する特許申請を行なっている。これは、既存の三八式歩兵銃の機関部を取り替えるだけで半自動発射機構を可能にするという改修方法だったようで外見上では20発弾倉、半自動化の機関部が特徴だったようだが、計画のみで想像図しか残されていないのは残念なことだった。半自動化すると弾薬を無駄に消費するという意見もあったようだが、こうした思想こそ非難されるべきだろう。
三八式小銃は第一次大戦中から戦後にかけてオリジナルの6.5mm弾のまま、または輸出国の使用している弾薬(7.92mm×57マウザー弾など)に合わせて改造され、相当数が輸出されたようだ。輸出先はイギリス、ロシア、メキシコなど数ヵ国にわたるという。こんなことからもこの銃がそれなりに優れた銃だったことの証左だろう。
Posted at 2012/02/18 23:47:57 | |
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