2015年03月15日
この週末は京都を歩いてきた。昔、修学旅行で行った時の京都は寺や神社のオンパレードで何とも退屈だった。まあ、15,6の年では何とも退屈な街には違いない。
最近は京都に足を運ぶことが少なくない。別に寺社仏閣に興味を持ったわけではない。未だに寺社仏閣にはさほど興味がない。それよりも京都と言う街が興味を引くのは1300年にわたる権力闘争の歴史の方だ。
京都は乗り物を使わずに路地から路地へと歩いてみるのがいい。そこここに権力闘争の痕跡がある。ここで誰それが殺されたと碑が立っている。人の栄華と没落の歴史が当たり前のように転がっているのを見ていると京都の歴史と言うのは日本の権力闘争の歴史なんだなと改めて実感する。
中でも哀れを誘うのは豊臣秀次で三条河原の瑞泉寺という小さな寺に祭られている。豊臣秀吉と言う男は天下を取る前と取った後では全くの別人のように変わってしまい、人間権力の座に就くとこれほどバカになれるのかと思うほどだ。もう少し冷静になって子孫の行く末を見てしっかりと足元を固めていれば豊臣政権ももう少し長らえたかもしれない。
幕末の徳川と薩長の暗闘の歴史も京都のあちこちに残っている。明治維新などと言うが、特別のことをしたわけではない。ただのクーデターで薩長は政権を取ってからそれを正当化するために英雄伝説を作り上げただけであの時代誰が政権を担当しても開国して欧米の技術を取り入れるしかなかった。
幕府も薩長も武力で欧米に対抗するのは不可能で開国するしかないという点では一致していたが、徳川と薩長の連合政権ができると落ちたりとは言え、軍事力、政治力ともに群を抜いていた徳川に牛耳られるので徳川を武力で倒そうと薩長が挑発したようだ。
260年の太平に慣れ切っていた幕府も間が抜けていたが、薩長のやり口は結構あくどい。幕府側も軍事的に勝利を収められる機会はあったが、やはり太平をむさぼって来た報いか、機を見て敏な判断ができる指導者がいなかった。その薩長の富国強兵も70年後に米国に粉砕されて終焉を迎える。
そう言えば京都は日本の歴史を残すために米国は京都爆撃を控えたというが、とんでもない話だ。米国は京都を原爆投下の第一候補にしていたと言う。京都はその面積や都市としての規模とともに盆地で被害状況の確認が容易だったからと言う。
しかし、京都に原爆を投下すると日本人は長く米国に反感を持つようになるのではないかと言う意見が採用され、原爆投下は見送られたという。京都も何度か空襲を受けているが、大規模な空襲がなかったのは軍事目標がほとんどなかったからと言う。
1300年も日本の政治の中枢であった都市だからさまざまな権力闘争の歴史があるだろう。寺社仏閣もいいのかもしれないが、京都は歴史と文化の古都だけではなく権力闘争の舞台と言うもう一つの顔も持っている。それを見つけながら路地を歩くのもなかなか面白い。
Posted at 2015/03/15 22:37:14 | |
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