2016年09月18日
そんなやり場のない重苦しさに耐えて訓練に励んでいたある日、士官室で休息していると従兵が「面会人が来ている。」と告げに来た。この土地に知り合いはないし部隊の移動もないので面会人のあるはずはなかったが、いかぶりながら面会室に入って腰を抜かしそうなくらい驚いた。そこには髪を束ねてモンペをはいた小桜が座っていた。
「一体どうしたんだ。こんなところに。どうやって来たんだ。」
小桜は私に答える代わりに紙片を私に差し出した。
「ここに家を借りています。家といっても小屋みたいなものですけど。」
「横須賀の家は。向うの生活は。」
「あなたが戦っているのなら、あなたのそばでせめて私の出来ることを。余計なお節介かも知れませんが。それに向うの生活なんてもう何の意味もありません。」
私は何とも返す言葉が見つからず黙り込んでいた。小桜もそれ以上何も言わずに黙って座っていたが、やがて立ち上がると「お忙しいところを済みませんでした。それではこれで。」とお辞儀をして部屋を出て行った。私は小桜が置いていった紙片を見つめていたが、その紙をつかんで飛行服のポケットに押し込むと小桜の後を追った。
正門に向かって歩いていく小桜を後から追いかけて「門のところまで送って行こう。」と声をかけた。小桜は驚いた様子で立ち止まった。
「門のところまで送って行こう。」
小桜は私に向かって小さく微笑んだ。
「次の休みにでも寄らせてもらう。」
私は営門の手前で特に心を決めないまま小桜に一言そう言って送り出した。そして遠ざかっていく小桜の後ろ姿を見送りながら、小桜を訪ねることを約束してしまった自分の心の内側を探り続けた。その晩、寝台に転がって紫電の取扱解説書を読んでいると高瀬が私の寝台の端に腰を下ろした。
「小桜が来たそうだな。さすがに俺も驚いたよ。まさか本当にここまで来るとはな。余程の思いがあったんだな。」
私は高瀬に言われたことが自分で否定しようとしていた本心に触れられたようで、それを隠そうと本から目を離さずに出来るだけ感情を押し殺して低い声で答えた。
「弟のことが断ち切れないんだろう。だから弟の思い出を俺に被せているんだろう。気の毒なことだ。」
「本当にそう思うか。それだけのことで、これまで慣れ親しんだ生活をすっかり片付けてこんな田舎に一人で出張ってくると思うか。貴様が言うとおり弟さんが戦死したこともあるのかもしれない。でもそれだけじゃない。それはお前も分かっているだろう。」
高瀬の言うとおりだった。小桜の思いは女性経験の乏しい私にもそれとなく伝わっていた。また同時に戦争という大きな時代の流れに翻弄されて、生死を、まるでくじを引くようにあてがわれる、そんな運命の前にただ無防備で身を曝すしか術がない儚さを一時でも忘れるために小桜を求め始めている自分にも気がついていた。
「俺達は戦争をしているんだ。色恋は必要ない。」
私は本を投げ出すとあらぬ方を向いたまま吐き捨てるように言った。自分の弱気を押し隠すために敢えて強気な言葉を口にしたかった。
「戦争をしているから色恋が必要になることもあるんじゃないのか。一瞬戸惑ったり迷ったりすることが空の戦いでは命取りになることが多い。焦りや不安を取り除いて落ち着いて戦闘に臨めるのなら、色恋沙汰、大いに結構じゃないか。それに百分の一秒を戦う空戦では生きようと思わなければ命は長続きしない。」
「色恋のために生きて、それがどうして戦うことになるんだ。『予備士官が女に現を抜かして卑怯未練に生き永らえようとしている。』そう罵られるだけじゃないか。死ねと言うのなら何時でも死んでみせる。未練がましいことなどしたくない。」
私は先の見通しも何もなくくじを引くように『死ぬこと』を強制する上層部に反発を感じてはいたが、また我々一般大学出身の士官をスペアだの娑婆っ気の抜けない俄か軍人だのと軽蔑する一部の兵学校出身者にも少なからず反感を持っていた。
「武田、お前はまだ米軍と戦ったことがないから分からんかもしれんが、前にも話したように、奴等はどんな困難な状況に追い込まれても、生きて生きて生き抜いて、また前線に復帰してくる。軍隊の組織も兵士の命を救うためにありとあらゆる手段を尽くすように作られている。
間違っても日本の軍隊のように簡単に『死ね』などと放り出したりはしない。それは人道主義などではなく強かな計算なんだ。有り余る物資を持っている国にとって最も再生産の難しいのが高度な戦闘技術を身に着けた兵士であることを彼らは知っているからだ。それが彼らの合理主義だ。
貴様は色恋に生き永らえて何になると言うが、ならば皆死んでしまって一体どう戦うのか。物資もない、人もいない、そんな国が一体どうしてこの先生き永らえていけるのか。生きている限りプロペラを手で廻しても帰ってきてまた戦う。この国を未来に向かって生き長らえさせるために。それがこの時代に生きている俺達の義務じゃないのか。それが高等教育を受けた者の社会に対する責任じゃないのか。色恋にすがろうが、そんなことは関係ない。生きて戦うことが俺達に課せられた責務なんだ。生き残った者が勝ちなんだ。そう思わんか。
日本のように一つの国の中で同じ人間達が同じ物差しを使って生きてきた国ではなく、様々な民族がぶつかり合い、手練手管を尽くして生き残ってきた欧米の人間に我々の物差しを当てても奴等のことを推し測ることは出来ない。欧米を相手にけんかを売るのなら、我々も奇麗事ではなく海千山千のごとく強かに戦わなければ生き残れない。
この戦争を始めたことが間違いならば、せめて終わらせ方だけは間違えないように腹を据えてかからなければ、この戦争は笑い話にもならん。我々が花と散るのを許されるのは、この国が国際社会で認められ、確固たる地位を占めることが出来るようになった時だ。」
「貴様の言うことは至極最もな意見だ。しかしこの状況で貴様の言うことは通用しない。特攻は確かにこれまでの戦法よりも戦果を上げている。今、我々に残された有効な戦法は特攻しかないと言ってもいい。それを否定することは卑怯未練の問題ではなく、戦闘の継続自体を否定することになる。」
「だから、もうやめるしかないんだよ。そう思うだろう。」
高瀬は急に声を落としていたずらっぽく言って見せた。そして自分の寝台の下から一升瓶を取り出すと『命の洗濯、命の洗濯。』と言いながら茶碗に酒を注いで私の前に差し出した。
硫黄島の戦局は苛烈の度を増していったが、どんなに奮戦しても孤立無援の守備隊に戦局の逆転などあるはずもなく守備隊は島の北部に追いつめられ全滅は時間の問題だった。島に建設された飛行場は敵に占領され、すでに整備が終わって敵機の離発着も始まっているということだった。敵が硫黄島を占領して本土爆撃の足場を固めれば、次の目標は沖縄であることは明らかだった。
攻撃開始は3月の後半から4月の前半と予想する者が多かったが、上陸前に西日本に展開する日本の航空戦力減殺のために敵が航空撃滅戦を仕掛けてくることは間違いなかった。当部隊でも空襲の危険が増したため、各飛行隊とも錬度の高い搭乗員を選抜して、これらを基幹に待機部隊を編成して敵襲に備えた。また偵察隊は毎日索敵のために飛び立っていった。時々空襲警報が鳴り響くと走り回る人や車、緊急発進する待機戦闘機隊、空中退避のために飛び立つ戦闘機で飛行場はごった返した。そんな緊迫した慌ただしさが誰にももう実戦も近いことを予感させた。
Posted at 2016/09/18 13:53:21 | |
トラックバック(0) |
小説2 | 日記