• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ntkd29のブログ一覧

2018年03月19日 イイね!

昭和のヒーロー、「YS11」、‥(^。^)y-.。o○。




第二次世界大戦の敗戦国となった日本は、戦後、一切の航空機の製造が禁じられた。大戦まではアメリカ・イギリス・ドイツという世界の航空大国と肩を並べようとしていた航空技術者たちの夢は、絶たれてしまった。


このとき行き場を失った優秀な航空技術者たちを受け入れたのが鉄道産業であった。技術的問題を数値化して解決するという航空テクノロジーが鉄道界に持ち込まれ、やがてあの新幹線へと結実していった。


昭和26年、日本はサンフランシスコ平和条約で主権を回復。日本航空もこの年に設立された。そして昭和31年に当時の通産省が旗振り役になって国産民間機計画がたちあがった。昭和34年には官民共同の日本航空機製造(NAMC)が設立され、本格的な航空機開発が始まった。


機体の基本的なコンセプトは、当時の国内に多かった1200m級滑走路で離着陸できること、航続距離は約1600km、60席以上の双発ターボプロップエンジンというものだった。開発には大戦中の大物技術者も参加し、いわばオールジャパン体制で開発が進んだ。


そしてYS-11の初飛行は昭和37(1962)年8月30日、初就航は昭和40(1965)4月1日の日本国内航空の羽田~徳島便だった。この頃の子どもたちにとって、新幹線とYS-11は乗り物界の二大スターだった。ビーンというターボプロップサウンドが聞こえると、庭に飛び出して見上げたものだった。


しかし実際のところは、旅客機としては出来の良いものではなく、頑丈さだけが取り柄のような飛行機だった。


当時の日本には、帝国陸海軍の軍用機を作った経験しかなかった。たとえば戦前の軍用機は雨の日は飛ばなかった。ところが戦後の民間旅客機は雨でも飛ばなければならない。初期のYS-11は雨漏りが問題だったという。


また、短距離離着陸性能を狙って大口径のプロペラを採用したが、その分エンジンが胴体から離れたため、安定性を確保するための垂直尾翼を大きくせざるをえなくなった。このため横風の影響を受けやすくなり、エンジンも非力だったため、操縦がきわめて難しい飛行機となった。


とはいえ昭和48(1973)年まで182機を生産、また欧米諸国へ初めて輸出した日本の旅客機となった。そして多数の機体が国内線で使われ、昭和末期にはどの空港もYSだらけという光景だった。この間、欠点を一つずつ解決していき、驚異的な就航率を記録したエアラインもあった。


YS-11は荷物室が後部ギャレーの裏にあり、機内アナウンスに預かった犬の鳴き声が入ったり、操作ツマミも「マニュキュアが剥がれやすい」とCAが嘆いたりと逸話の多い飛行機だった。


それでも巡航高度が3000mほどと低く地上の風景がよく見え、晴天時のフライトはすばらしい遊覧飛行になった。かつて筆者が丘珠~中標津便で見た雌阿寒岳の景観は、今でも忘れられない美しさだった。


派手さも美しさにも乏しく、実直そのものだったYS-11は、平成18(2006)年7月30日、日本エアコミューター沖永良部~鹿児島便が定期航空路の最終フライトとなり、国内の路線から引退した。


YS-11はその後も自衛隊では輸送機として平成29年まで使われ、今では航空自衛隊入間基地に特殊用途で数機が在籍するのみとなった。海外に売却された機体は、その頑丈さをいかして、少数機が今でも現役という。




YSには大島に行くときに1度乗ったことがある。羽田空港の片隅に肩をすくめるように小さくなって駐機していたが、軽飛行機ばかりの大島空港では巨大な双発機に見えた。飛行中も巡航高度が低いので航行している船が良く見えた。YSは旅客機としては完全な失敗作だが、当時のエンジニアは時各一生に一度飛行機の設計ができて実機が飛べば本望と言う気持ちで作ったらしい。だから初飛行したらみんな力尽きたんじゃないだろうか。旅客機は作るよりも売ってからのメンテなどが本当に大変らしいが、当時はそんな経験はなかったからなあ。これは今のMRJも同じではある。でもまあ外観はなかなかきれいな飛行機ではあった、‥(^。^)y-.。o○。


Posted at 2018/03/19 23:25:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | その他 | 日記
2018年03月19日 イイね!

「本能寺ホテル」の撮影場所を訪ねて、‥(^。^)y-.。o○。

「本能寺ホテル」の撮影場所を訪ねて、‥(^。^)y-.。o○。


今日は今宮神社のあぶり餅を食ってから神護寺に行って来た。今宮神社のあぶり餅は神社に向かって左側のお店の方が現代的な味付けで右側のお店はオリジナルの味を保っているとか。今時の人には左側のお店の味が合うけどオリジナルの味は右側なんだそうだ。そんなわけで右側の店の餅を食ってみた。砂糖味噌味で確かにちょっと古風かもしれないが、まあそれなりにうまい。本能寺ホテルでは婚約者とその高校時代の友人とか言うのは左側の店から出てきていたな。


足がなくて面倒なのでそこからタクシーで神護寺まで行って来た。小浜に抜ける道を山の中に入ってしばらく走ったところで石段をけっこう登らないと寺には着かない。紅葉の時期は人でごった返すそうだが、平日だし、桜も咲いていないので人はほとんどいない。


「本能寺ホテル」で信長さんと胴長姉ちゃんが、「やりたいこと」について話をする場面が本堂に通じる石段だが、がらんとしていてほとんどイメージがわかない。戦国時代の街のセットを作ってエキストラを何十人も使って何日もかけて撮影したそうだ。


まさかあんな山の中の寺で撮影しているとは思わなかったが、考えてみれば街場では余計なものが画面に入ってしまうので時代劇を撮るのは難しいんだろう。他にもあちこちで撮っているようだけど彦根や岡山、神戸など回れないのでこれにて打ち止めとしておいた。またそのうちに機会があったら行ってみようか、‥(^。^)y-.。o○。
Posted at 2018/03/19 23:23:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2018年03月19日 イイね!

本能寺ホテルに刺激されて京都に来た、(^。^)y-~。

本能寺ホテルに刺激されて京都に来た、(^。^)y-~。


本能寺ホテルに刺激されて安土から坂本を回って京都に来た。本能寺ホテルに泊まろうかと思ったが、あれは映画のセットで実際には一階と二階部分しか作られずあとはCGだったそうだ。セットは東映京都撮影所の中に作ったそうだ。だから京都市内を探しても本能寺ホテルはない。そういうことなのでホテルは京都市内に取った。


信長さんと言うと天魔、魔神のように描かれる。確かにあの戦乱の世の中を平定すると言うのは並大抵のことではないだろうから相当に強引なこともしただろう。でも本能寺の変で自分の命が風前の灯火なのに女房衆に「女子は苦しからず。急ぎまかり出でよ。」と逃げるように言うなど最後まで冷静さと優しさを失わなかったのはさすがと言うほかない。


信長さんは気性が激しく激昂するところもあったそうだが、超がつく合理主義者で常に冷徹な観察力を持って世の中を見ていたように思う。また猜疑心が強く人を決して信じないと言うが、もしもそうなら本能寺の変は起こらなかっただろう。信長さんは自分のやることを世論がどう判断するかそのことを非常に気にしていたそうだ。


本能寺の変の時に軍勢を伴わなかったのは三職推任に対する回答を朝廷にするのに軍勢を伴って朝廷を恫喝したと思われるのを避けるためだったそうだ。信長さんは炎の中に消えて日本史上不世出の天才戦略家はこの世から去った。


信長さんの墓はあちこちにあるが、堀川四条の本能寺跡には間違いなく信長さんの遺骨が眠っているだろうから明日は堀川四条の本能寺跡にでも行ってみるかと思っている、(^。^)y-~。
Posted at 2018/03/19 23:22:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

プロフィール

ntkd29です。CB1300スーパーボルドールに乗って11年、スーパーボルドールも2代目になりました。CB1300スーパーボルドール、切っても切れない相棒にな...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

リンク・クリップ

愛車一覧

トヨタ GRヤリス トヨタ GRヤリス
基本的には前期型と大きな変化はないが、インパネは液晶デジタルになってずいぶんすっきりした ...
ホンダ CB1300 SUPER BOL D'OR (スーパーボルドール) CB1300スーパーボルドールM2018 (ホンダ CB1300 SUPER BOL D'OR (スーパーボルドール))
外観 もうこれは美しいという以外にはない端正なバイクではある。ホンダは「威風なる血統」 ...
トヨタ GRヤリス トヨタ GRヤリス
今度はGRヤリス、・・(^^♪。昨年GRヤリスの納期が1年半以上と聞いて速攻で契約してし ...
トヨタ 86 トヨタ 86
元々トヨタ党だったが、ちょっと浮気してダイハツコペンに乗っていた。しかし、ディーラー氏と ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation