• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ntkd29のブログ一覧

2020年04月15日 イイね!

レクサスLFAは復活するのか、‥(^。^)y-.。o○。

スーパーカー「LFA」が市場投入された背景とは?
レクサス「LFA」は、日本車史上において最強級のスーパーカーです。発売開始は、いま(2020年)から約11年前の2009年10月1日。そこから約3か月半となる2010年1月13日で、日本での購入希望受付は終了しています。生産は2012年12月まで続きました。一方、トヨタ系のスーパースポーツモデルといえば、耐久レース用マシンと部品を共有する最高出力1000馬力級の「GRスーパースポーツ」の量産化が決まっています。すでに生産が終了したレクサスのスーパーカーと、これから発売されるGRスーパースポーツには、どのような関係があるのでしょうか。

国産車史上最高峰のスーパーカーとなった「LFA」
LFAのボディサイズは、全長4505mm×全幅1895mm×全高1220mm、ホイールベースが2605mm。9000rpmまで一気に吹き上がる4.8リッターV型10気筒(V10)エンジンを搭載し、カーボンファイバーシャシに裏打ちされた、軽量で機敏な動きを持ちます。生産台数は世界で500台限定。新車価格は、レクサス史上過去最高の3750万円でした。現在、日本でのレクサス認定中古車には掲載車両はなく、中古車大手のサイトでは価格応談がほとんどです。LFA人気が高いアメリカでは、中古サイトで50万ドル(約5400万円)前後の値札がついています。
 そもそも、LFAはどうして生まれたのでしょうか。背景のひとつとなったのは、2000年代前半から中盤にかけて加速した、欧州での新たなるスーパーカーブームです。LFAの存在が明らかになったのは、2005年の北米国際自動車ショー(通称:デトロイトモーターショー)に出展されたコンセプトモデル「LF-A」(コンセプトではハイフンあり)でした。筆者(桃田健史)は当時その現場で、レクサスやトヨタ関係者にLF-A量産の可能性について聞きました。質問のなかで「やはり、最近の世界的なスーパーカーブームを捉えて…」という聞き方をした記憶があります。
 スーパーカーブームといえば1960年代から1970年代、ベルトーネやピニンファリーナなどイタリアン・カロッツェリア(工業デザイン関連企業)と小規模生産メーカーが連携し、ランボルギーニ「ミウラ」「カウンタック」、フェラーリ「512BB」といったモデルが登場しました。こうした第一次ブームとは違い、2000年代の第二次スーパーカーブームを主導したのは、世界の自動車産業をリードするドイツの大手メーカーでした。ベンチマークになったのは、2004年に発売開始されたメルセデス・ベンツ「SLRマクラーレン」です。F1での事業連携をベースに製造をマクラーレンがおこない、価格は5000万円台という、当時としては破格の値付けでした。ポルシェも当時のル・マン24時間レースなどの耐久レースでV10レーシングエンジンを開発していた流れから「カレラGT」を、こちらも5000万円級で販売しました。こうした大手の動きに触発されるように、、元祖スーパーカーメーカーは、より高出力、より高額なモデルを投入。ファラーリは、エンツォのレーシングバージョンとしてFXX(2億5000万円)、また量産車として初めて最高時速400km超えをカタログ値としたブガッティ「ヴェイロン」(2億円)にも世界の注目が集まりました。こうした世界的なトレンドのなかで、レクサスによるスーパーカー投入は至極、自然な流れに感じました。もちろん、開発者の「究極の逸品を造りたい」という情熱があってこその話。そのうえで、トヨタの経営陣が時代背景を十分に加味して、正式開発にGOをかけたのです。だだし、コンセプトモデル登場から量産までの期間は、我々メディアが想像していた以上に長くなった印象があります。

「LFA」復活の可能性は?
LFAの製品企画にGOがかかったもうひとつの背景は当然、トヨタF1の存在があります。F1のエンジン規定が当時、V10だったことから、トヨタとレクサスでの最上級モデルとしてスーパーカーは、専用開発のV10搭載が必要条件になりました。開発には、往年のトヨタ「2000GT」搭載エンジンでも手を組んだヤマハと連携しています。一方で、LFAの販売に大きな期待をかけていたアメリカからは、違う意見が出ていました。コンセプトモデルのLF-Aが登場した後、トヨタ北米営業本部の米国人幹部と意見交換した際、彼は次のように主張しました。
「現行V型8気筒のスーパーチャージャーモデルにするべきだ。そのうえで、価格を12万5000ドル以下に抑えることができれば、販売での勝算がある」
アメリカでは当時、12万5000ドル(現在のレートで約1370万円)が、ある程度の販売台数が見込める高級車と、限定販売のような超高級スーパーモデルとの価格境界線になるという考え方がありました。レクサスやトヨタに限ったことではなく、販売・マーケティング関係者やディーラー現場での常識でした。ですが、このアメリカ案を受け入れてしまうと、LFAはスーパーカーではなく、単なる上級グレードスポーツカーの枠を超えません。開発工数がかかり、販売台数が限定されることを承知で、トヨタ・レクサス本部はV10案で押し切ったといえます。LFAは、レクサスのハイパフォーマンスブランド「F」の頂点、という位置付けとしても重要な役割を果たしました。メルセデス・ベンツのAMGやBMWのMといった、欧州プレミアム系への対抗策です。

トヨタ「GRスーパースポーツコンセプト」
一方、現在トヨタには「GR」があります。トヨタのハイパフォーマンス系ブランドではTRD(トヨタ・レーシング・デベロップメント)がありましたが、今後はGRとして一元化されます。モータースポーツの実績をダイレクトに商品化する戦略です。その筆頭が、WRCとの関わりが深い「GRヤリス」(396万円)であり、「GRスーパースポーツ」なのです。国内スーパーGTでも2020シリーズから、参戦モデルをレクサス「LC」から「GRスープラ」に変更しました。LFAの時代と比べて、トヨタとレクサスにおける、モータースポーツと商品化との関係性が大きく変わったのです。つまり、LFAの後継車がレクサスから登場する可能性は低いと見るべきでしょうか。いやいや、もしかすると、LCあたりでスーパーモデルが登場するかもしれません。(桃田健史)


LFAはF1真っ盛りの時代にレクサスのイメージリーダーとなるべき使命を背負って誕生した。金に糸目をつけずに開発費は湯水のように使ってBMWやメルセデスに勝る車を作ろうと意気込んで作ったから開発費は莫大な額に達した。そこにリーマンショックが襲いかかりF1は撤退、スーパーカーも売れる目途が立たなくなって中止と言う選択も上がったようだが、500台という限定生産で生産された。一説には開発費は1千億とか言うので開発費を回収するどころか、コストなど考慮は無用と言った状態で作られたんだろうから、多分、作れば作るだけ赤字が累積するような状況だったんだろう。その後、レクサスはラグジュアリー系に移行してLFAのような純血スポーツカーは入り込む余地がなくなってしまったように思う。その受け皿としてGAZOO RACINGが出来て純血レースはこっちに集中された。ただGRスーパースポーツにしてもGRヤリスにしてもWECやWRCのレギュレーションをクリアするために作ったものでレクサスLFAとはちょっとその目的が違うのかもしれない。自動車会社のイメージを作るのはレースを走る本物のレーシングカーで一般の市販車にイメージリーダーの使命を背負わせるというやり方自体が過去のものになっているのかもしれない。今後はホモロゲーション取得のためのスポーツカーと言うのは出てくるだろうけどレーシングカーのイメージを背負った市販のスポーツカーと言うのは出て来ないんじゃないだろうか、‥(^。^)y-.。o○。
Posted at 2020/04/15 23:28:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記
2020年04月15日 イイね!

世界最大最強の戦艦として誕生した扶桑・山城の一生は、‥(^。^)y-.。o○。

旧海軍の右も左も分からないなかの超ド級戦艦建造
旧日本海軍の戦艦「山城」は扶桑型戦艦の、1番艦「扶桑」に続く2番艦です。「山城」とは現在の京都府、御所のある地名で、また「扶桑」とは日本国の古い異名のひとつであり、日本がこの2隻にいかに期待をかけていたかが分かります。1906(明治39)年に就役したイギリスの戦艦「ドレッドノート」は、それまでの戦艦の概念を覆した画期的な艦で、世界中の戦艦は一気に時代遅れとなりました。このドレッドノート級を超えようと「超ドレッドノート」、いわゆる「超ド級(超弩級)」戦艦の開発に、各国は躍起になります。新進の海軍国として国際社会にデビューしたばかりの日本もこの流れに対応せざるを得ません。当時、日本はドレッドノート級戦艦がどんなものなのか、明確な認識を持っていませんでしたが、何とか超ド級を国産できないものかとトライをします。それが扶桑型戦艦の始まりです。一方、当時の同盟国でありドレッドノート級を建造したイギリスにも、超ド級戦艦の建造を発注しています。これが金剛型です。日本は国産の扶桑型と、後にライセンス生産する金剛型の、2種の超ド級戦艦を揃えることにしたのです。この両者は来る太平洋戦争でも全く違う戦歴をたどりますが、これはまた別のお話です。

トライアンドエラーの連続だった「扶桑」と「山城」
1911(明治44)年、扶桑型の計画が手探り状態で始まります。「山城」の予算が付いたのは1914(大正3)年のことでした。扶桑型はコンセプト決定段階からトライアンドエラーの繰返しで、計画案はなんだかんだと35種類もあったといわれています。それでも設計成った扶桑型は金剛型を超えるスペックで、35.6 cm(45口径)連装砲塔6基を搭載し、排水量は3万トンを超えるという規模で、竣工当時では世界最大の戦艦となります。ところが竣工した「扶桑」は「艦隊に居るよりドックに居る方が長い」と揶揄されるほど、トライアンドエラーが繰り返されました。根本原因は、1隻で最大の火力を発揮しようとした欲張った砲塔配置で、国産で頑張ろうという無理な背伸びが露呈したようです。もっとも、歴史を後追いで見て金剛型を「オーソドックスにまとまった」とし、扶桑型と比較評価するのも酷です。ドッグに居る時間が長かったのも、満州事変などの当時の情勢からたびたび工事が中断され、配置に戻ったりしたため細切れの工期で長くなったともいわれます。第1次世界大戦の戦訓から、「扶桑」の第1次改装は上部装甲の強化、機関の改良を行います。第2次改装では主砲の爆炎を避けるため、艦橋が大幅に改造されています。こうした「扶桑」のトライアンドエラーの経験を、2番艦「山城」に反映するといった具合で、同じ扶桑型とはいいながら、2度にわたる改装を経て、この2艦は外観や装備が微妙に違っています。決定的な違いは艦橋形状で、「山城」は三番砲塔を後ろ向きに繋止としたため、「扶桑」のようにいびつな形状とはならず安定感があるように見えます。これはトラブルシューティング役だった2番艦ゆえの役得でしょうか。

「山城」が担った航空関係実験 実は扶桑型の航空戦艦化計画も?
「山城」は航空関係のトライも担っています。第1次改装で二番砲塔上に飛行甲板を設置し、最初の空母「鳳翔」が竣工する9か月前の1922(大正11)年3月29日、航空機を発艦させることに成功し、戦艦や巡洋艦における航空機運用の先駆けとなりました。もっとも、当時は艦載機という明確な概念もなく、狭い飛行甲板で陸上機を扱うのは難しく、ほどなく「山城」の飛行甲板は撤去されています。また1941(昭和16)年春に、九四式水上偵察機を改造した無線操縦飛行機の実験も行っています。1回目は「山城」の操艦ミスで合成風力(飛行機が自ら進んで受ける風の力と、艦が航走することで起きる風の力)が不足し発艦に失敗してしまいますが、2回目は成功します。この技術は、21世紀に入って戦争のやり方を一変させた、無人航空機の先駆けと言えるかもしれません。ちなみにこの無線操縦技術は完成の域に達したと認定されますが、コストが高すぎるという理由で実用化は見送られています。太平洋戦争が始まると、「山城」はミッドウェー海戦に主力部隊として出撃するも戦闘の機会は訪れず、その後も「決戦戦力」としては力不足と見なされて、後方任務や練習艦扱いでした。ミッドウェー海戦敗北後、空母戦力再編のため、日本海軍では既存の戦艦や巡洋艦を空母へ改造する検討が行われ、伊勢型と扶桑型が航空戦艦への改造候補に残りました。しかし扶桑型は伊勢型よりも改造工事が複雑で工数を要するため、改造中止が決定されます。「山城」は航空関係試験にも関わってきたのですが、実戦では艦載機を運用する機会に恵まれることはありませんでした。日本の敗色が濃くなり戦力が払底してくると、後方に引いていた「扶桑」と「山城」も前線に引っ張り出されます。1944(昭和19)年にレイテ沖海戦へ参加するも、アメリカ駆逐艦隊から魚雷を受けて、「扶桑」と同じ10月25日にスリガオ海峡で撃沈されます。生存者は10名と言われています。「欠陥艦」などともいわれますが、国産初の超ド級戦艦として、日本海軍の経験値を稼いだ功績は評価されてよいと思います。(月刊PANZER編集部)


戦艦山城・扶桑は完成時は世界最大最強の戦艦として誕生したが、連装砲塔6基を艦上にほぼ均等に配置したことから防御区画が大きくなりすぎ防御が不十分だったことや主砲の発砲時に爆風が全艦を覆う、機関部のスペースが不足していて速度が出ないなど太平洋戦争時は第一線での活動は不可として砲術練習艦として戦場に出ることなく内地に在留していた。この戦艦は速力が出せないことがネックとなっていたが、高速戦艦として活躍した「金剛」級が30ノット、「扶桑」級が25ノットなので時速にして9キロほどの差でしかない。仮に「長門」級、「伊勢」級、そしてこの「扶桑」級の合計6隻について「伊勢」級、「扶桑」級については3、4番砲塔を下ろして、ついでに副砲なども全部おろして機関を増強して30ノットの速力を持たせると同時に空いたスペースに高角砲を増強して空母の護衛なりに使えば結構活躍できただろう。条約型の1万トン級重巡は被害に弱かったが、戦艦はそれなりに抗堪性も高かったし、火力も圧倒的だったのだから長門以下30ノットの高速戦艦が10隻揃えば相当な戦力になっただろう。資材や作業量、そして主砲を下ろすことに対する抵抗もあっただろうし、なかなか難しかっただろうが、そうしておけばソロモンを巡る戦いの様相も少しは変わっただろう。もちろん結果として日本が勝つということはあり得ないが、・・。伊勢・日向は航空戦艦に改造されて最後に獅子奮迅の活躍をしたが、第一線で活動するのは無理と烙印を押され、戦局苛烈な中で引っ張り出されて米戦艦のレーダー集中射撃で撃沈された扶桑・山城は不幸な戦艦ではあった、‥(^。^)y-.。o○。
Posted at 2020/04/15 19:44:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 軍事 | 日記

プロフィール

ntkd29です。CB1300スーパーボルドールに乗って11年、スーパーボルドールも2代目になりました。CB1300スーパーボルドール、切っても切れない相棒にな...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2020/4 >>

    12 3 4
5 67 8 9 10 11
12 1314 15 1617 18
19 2021 22 2324 25
26 2728 29 30  

リンク・クリップ

愛車一覧

トヨタ GRヤリス トヨタ GRヤリス
基本的には前期型と大きな変化はないが、インパネは液晶デジタルになってずいぶんすっきりした ...
ホンダ CB1300 SUPER BOL D'OR (スーパーボルドール) CB1300スーパーボルドールM2018 (ホンダ CB1300 SUPER BOL D'OR (スーパーボルドール))
外観 もうこれは美しいという以外にはない端正なバイクではある。ホンダは「威風なる血統」 ...
トヨタ GRヤリス トヨタ GRヤリス
今度はGRヤリス、・・(^^♪。昨年GRヤリスの納期が1年半以上と聞いて速攻で契約してし ...
トヨタ 86 トヨタ 86
元々トヨタ党だったが、ちょっと浮気してダイハツコペンに乗っていた。しかし、ディーラー氏と ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation