「信濃」が発した10秒の赤色信号が運命の分かれ目だった?
「護衛艦は持ち場に戻れ」
1944年(昭和19)年11月28日22時45分、空母「信濃」から赤色発光信号が発せられます。その信号は運命の分かれ目だったのかもしれません。第17駆逐隊の駆逐艦「浜風」はそのとき、付きまとうアメリカ潜水艦「アーチャーフィッシュ」に肉薄しようとしていましたが、攻撃は許されませんでした。
その夜、日本海軍のトップシークレットだった大和型3番艦「信濃」は空母に改修され、工事を完成させるべく横須賀を出港し、呉工廠への航路を急いでいました。この航海は22時間足らずで終わってしまうのですが、事実上未完成艦であることを自覚しリスクを最小限にしたい「信濃」、とにかく忙しかった駆逐艦「浜風」「雪風」「磯風」の第17駆逐隊、地味な任務でレーダーも不調だったアメリカ潜水艦「アーチャーフィッシュ」の、三者三様の因果が絡み合っています。思惑と疑惑と錯誤が渦巻く状況は、かのクラウゼビッツが表現した「戦場の霧」というものを実感させます。
歴戦の護衛隊と意見が対立した航海
空母「信濃」は1944(昭和19)年11月19日付で竣工し、海軍に引き渡されました。しかし「竣工」というには程遠い現況で、横須賀海軍工廠から引渡証書を受け取る艦長 阿部俊雄大佐の手は、怒りのあまり震えていたといわれます。
「信濃」護衛に着いたのは歴戦の第17駆逐隊です。この時の司令艦は日本で最初にレーダーを装備した駆逐艦「浜風」、ほか、幸運艦として名を残すことになる「雪風」、ハワイ作戦やミッドウェー海戦にも参加している「磯風」の3隻で第17駆逐隊は編成されていました。とにかく忙しすぎる隊で、レイテ沖海戦から11月25日に戦艦「長門」を横須賀へ送ったばかりでしたが、28日には呉に向かう「信濃」を護衛することになったのです。補給や修理、休養も不十分の過労状態でした。
航海前の作戦会議で第17駆逐隊の3人の艦長は、潜水艦を回避すべく昼間の沿岸航行を強く主張します。しかし「信濃」艦長 阿部大佐は空爆回避の夜間外洋航行を選択します。昼間は敵航空戦力の攻撃が予想される一方、こちらは空母なのに艦載機無し、軍令部からは沿岸基地航空隊からの支援も見込めないことが知らされており、上空直援が受けられない阿部艦長としては、夜間外洋航行の一択でした。もう嫌な予感しかありません。
第17駆逐隊への指示事項は「護衛艦は敵潜水艦を深追いして直衛に隙間をあけない」でした。「護衛艦が持ち場を離れた場合、即座に呼び返す。『信濃』の赤いマスト灯を10秒間点滅するのがその合図だ。このような信号を送る必要のないように心すること」と阿部艦長は作戦会議で述べています。昼間沿岸航行の意見具申も拒否され、潜水艦ハンターとしても自由に動けない疲労した第17駆逐隊が、多いに不満だったことは想像に難くありません。
地味任務潜水艦が引き当てたラッキーヒット
アメリカ潜水艦「アーチャーフィッシュ」は、日本を空襲するB-29のための気象情報通報と不時着機乗員救助が任務で、浜名湖(静岡県)南の沖合、約160kmの位置に居ました。11月28日20時48分、不調だったレーダーが復旧してすぐに巨大な影を捉えます。レーダー士官は「島が動いている」と報告したともいわれます。
この島の正体を探ろうと、「アーチャーフィッシュ」は浮上したまま全速力で追尾しました。
「日本海軍はこんなフネを持っていません」
かなり正確だったアメリカ海軍の日本艦型識別帳にも、絶対の秘密艦であった「信濃」の記載はありません。「アーチャーフィッシュ」の艦長エンライト中佐は、日本海軍にはまだどれだけ秘密の大型艦が残っているのかと、不安さえ感じたそうです。
「アーチャーフィッシュ」が発したレーダー電波は「信濃」隊に捕捉されます。その方向に潜水艦らしき影を見つけた「浜風」は全速で「アーチャーフィッシュ」に肉薄しようとします。しかし22時45分、「護衛艦は持ち場に戻れ」の赤色発行信号が発せられたのです。艦影暴露を恐れる阿部艦長は発砲も禁じ、「浜風」は呼び戻されてしまいます。阿部艦長は敵潜水艦が1隻ではなく、複数艦で包囲する戦術(いわゆる群狼戦術)だと信じて、「アーチャーフィッシュ」を囮と判断し、第17駆逐隊に「信濃」から離れることを許さなかったのです。しかし実際には、アメリカ潜水艦は1隻だけでした。
攻撃を免れた「アーチャーフィッシュ」は、「信濃」たちの進路の先回りに成功します。そして翌29日午前3時18分に6発の魚雷を発射し、4発が「信濃」へ命中しました。「アーチャーフィッシュ」の記録によれば、午前3時45分までの15分間に第17駆逐隊から14発の爆雷投射を確認しましたが、被害はありませんでした。ただ、このとき仕留めた獲物が当時、世界最大の空母であったことを知るのは戦後になってからのことです。
浸水を止められず機関が停止した「信濃」は、午前10時37分に総員退艦を発令、午前10時55分(57分説もあり)に転覆、艦尾から沈没します。運命の28日22時45分、「浜風」がそのまま「アーチャーフィッシュ」を攻撃していたら「信濃」は助かっていたのでしょうか。歴史にIFはありません、想像しても詮無いことです。(月刊PANZER編集部)
空母信濃は呉回港時は完成とは言っても機関は12基のところ8基しか搭載されておらず、最大戦速27ノットのところ出しうる速力は21~22ノット、注排水装置や各区画の水密試験も未了、武装も一部未搭載、乗員も急遽乗艦させられたものが多く、艦内の状況未把握で被害字右往左往するだけで適切な処置ができなかったという。呉回港にしても昼間に沿岸部を高速で通過する案と夜間に外洋を通過する案とが対立、護衛の駆逐艦艦長は昼間突破を強行に進言したが、受け入れられなかったそうだ。その護衛駆逐艦もレイテ沖海戦で傷ついており、乗員の休養も済んでおらず護衛能力はかなり限定されていた。魚雷は船体の非装甲部に命中、被害を大きくした。被雷についても全速で直進していれば足の遅い潜水艦は追いつけなかったが、「之の字航行」という潜水艦の攻撃を避けるためのジグザグ航行をしていたので追いつかれたと言う。この「之の字」航行、日本海軍は律義にやっていたようだが、あまり効果がなかったのではないだろうか。足の速い船なら高速で直進した方がよかったように思う。被雷後も乗員はどうしていいのか分からず右往左往するばかりで被害が拡大、本来なら4本くらいの魚雷では沈まないはずの空母信濃も浸水が拡大、機関が停止して沈没したそうだ。駆逐艦浜風がアーチャーフィッシュを発見して攻撃の意見具申をした際に指揮官の信濃艦長は「戦闘が任務ではなく信濃を無事に呉に回港するのが任務だ。商船を装っているのだから攻撃はするな」と言って攻撃の許可はしなかった。仮に信濃が無事に呉に到着したとしてもこのような大型の空母を使用できるような機会はなかったし、燃料の欠乏で呉に停泊させておいて20年7月の空襲で撃沈されただろう。仮に空襲を生き延びたとしても戦後米軍に接収されて原爆実験にでも供されるのが関の山だっただろうからどっちにしても似たり寄ったりだっただろう。なけなしの資材を大量に使用して突貫工事で完成させた空母だが、出来たときには帝国海軍はすでに崩壊して艦隊は存在せず、沈められるために作ったようなものだが、戦争と言うものは本来そういうものだろう。戦死した乗員の冥福を祈る、‥(^。^)y-.。o○。
Posted at 2020/08/16 17:48:38 | |
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