大河ドラマ「麒麟がくる」では、明智光秀が正親町天皇や足利義昭に心を寄せていたが、あり得ない話である。それはドラマの中のことなので置くとして、本能寺の変が勃発した理由については、驚倒すべきトンデモ説がある。それらを検証することにしよう。
■織田信長は明智光秀の妻に抱き着いたのか
まったく取るに足りない話であるが、『落穂雑談一言集』という俗書には、明智光秀が織田信長に恨みを抱くに至った逸話を載せている。ある日のこと、信長は家臣らとともに女色談義をしていた。すると、家臣の1人が光秀の妻こそが、天下一の美人であると話題にした。すると信長は、毎月1日と15日にお礼として家臣の妻に出仕を命じたという。信長の目当ては、光秀の妻だった。出仕の当日になると、物陰で待ち構えていた信長は、長廊下に光秀の妻がさしかかると、背後から抱きしめようとした。抱きつかれた光秀の妻は、驚いて持っていた扇子で信長を激しく打ち据えた。信長は本懐を遂げることなく、その場を去ったという。しかし、ここからが大変だった。事件の話を妻から聞いた光秀は、妻を襲った犯人が信長であると確信した。以後、光秀は信長の態度に注意を払っていたが、やがて信長は家臣らの面前で光秀に恥辱を加えるようになった。恥をかかされた光秀は信長に怒りを禁じ得ず、のちに逆心を抱くようになったというのである。この話はコメントすらしづらいが、まったく無視して差し支えないレベルである。単なる興味本位のくだらない逸話にすぎないといえよう。
■光秀は不安だったのか
光秀が信長に仕えるなかで、将来に不安を抱いたという説がある(不安説)。その根拠は、光秀が信長から近江・丹波を召し上げられ、代わりに石見・出雲が与えられる予定だったというものだ。光秀は、天正元年(1573)に近江国志賀郡を信長から与えられた。天正7年(1579)には丹波を平定し、丹波一国を拝領した。近江も丹波も京都に近く重要な地域であり、順調に出世を遂げていたのである。光秀が与えられるという石見・出雲は京都からの遠隔地で、未だに毛利氏の勢力下にあった。つまり、半ば実力で支配せよということである。その難しさは容易に想像され、とても円滑に支配できる状況にはなかった。このように酷い仕打ちを信長から受けた光秀は、左遷されたと思い込み、将来に不安を感じたという。光秀が石見・出雲に左遷されるという話は、『明智軍記』という編纂物に記されている。『明智軍記』は17世紀末期から18世紀初頭、つまり光秀の没後から約100年後に書かれた光秀の伝記である。残念ながら、著者はわかっていない。同書は誤謬も多く、他書の内容と整合しない記述が多くある。よって、同書は質の低い二次史料と指摘されており、「誤謬充満の書」と評価されている。その点から、光秀が石見などへ移される話は裏付けが乏しく、否定的な見解が多数を占めており、光秀の将来に対する不安説は、成り立ち難いようである。
■光秀には野望があったのか
光秀が信長を討とうとしたのは、自らが天下人になるという、野望があったとする説がある。こちらも、おおむね二次史料の記述による。『惟任謀叛記』という二次史料には、「(光秀による信長への謀反は)急に思いついたものではなく、長年にわたる逆意であると考えられる」と記している。つまり、光秀は長年にわたって信長に何らかの逆心を持っており、とっさのことではなかったというのである。『豊鑑』という二次史料には、「(光秀は)なお飽き足らず日本を治めようとして、信長を討った」と記し、さらに続けて、光秀の欲が道を踏み外して、名を汚しあさましいことだと述べている。こちらは信長への恨みというよりも、天下取りの野望である。『老人雑話』という二次史料には、光秀が居城の亀山城(京都府亀岡市)に続く北愛宕山(京都市右京区)に城を築き、周山と号したと記す(周山城)。光秀は自身を周の武王になぞらえ、信長を殷紂に比した。これは、周武王が宿敵の殷紂を滅ぼし、天下を獲った歴史にちなんだものである。そして、あるとき羽柴(豊臣)秀吉が光秀に対して、「おぬしは周山に夜に腐心して謀反を企てていると人々が言っているが」と尋ねると、光秀は一笑して否定したというのである。『惟任謀叛記』はほぼ同時代の史料であるし、『豊鑑』『老人雑話』は後世に成ったとはいえ、成立年が早く同時代を生きた人の話なので信憑性が高いと見る向きもある。しかし、この3つの史料のうち、『惟任謀叛記』は秀吉の顕彰という意図があるので、割り引いて考える必要がある。『豊鑑』と『老人雑話』の記述内容は根拠不詳であり、まったく取るに足りない。『豊鑑』は、光秀の主君殺しは、近世初期に広まった儒教に反する行為という、教訓のようなものである。『老人雑話』は、単なるおもしろおかしい創作に過ぎない。光秀が野望を抱いていたとするには、一次史料から蓋然性を導き出すのも困難で、野望を抱いていたにしては、変後の対応があまりにお粗末で展望がない。したがって、光秀に野望があったというのは、首肯できない説である。
信長の女性の好みは当時としてはかなり変わっていたそうだ。胸や尻が大きくていかにも庶民の「おっかさん」然としたタイプを好んだそうで家臣は「どうして上様はあんな女を、・・」と首をひねっていたそうだ。正室待遇とした吉乃さんも出戻りの年上の女性だが、どちらかと言えば美人よりも年上で頭のいい女が良かったのかもしれない。あまり女性に執着したという話も聞かないし、世間の評判を非常に気にかけていたというから他人の奥さんに手を出すと言うのは考えづらい。
不安説だが、光秀から「丹波を取り上げて出雲・石見を与える」というのは江戸時代の創作だそうだ。ただ、本能寺の変当時の光秀の年齢は55歳、一説によると67歳とか言うのもあるが、いずれにしても当時としては老齢ではあった。光秀は自分の領地に深い思い入れがあり、ぜひ13歳の息子に継がせたいと望んでいた。ところが佐久間、林などの追放処分で「成果を出さないと自分も追放されるのではないか」との不安を抱き、その後、斎藤利三問題や四国の長曾我部の処遇などを巡り、信長との意見の相違が生じた。この程度では京都と言う当時の首都防衛軍団司令官の光秀にはまだ謀反と言うほどではなかっただろうが、その立場から秀吉の応援に「中国攻めに加われ」と言われて「ついに軍団司令官解任で秀吉の下に組み入れられるのか。そして年齢的にも峠を越している自分は放逐されるのか」と思い、「信長は跡継ぎの信忠と共に大した護衛も連れずに京都に宿泊している。用済みで放逐されるならその前に一族郎党のために、一か八か、・・」と考えたのではないだろうか。信長を討った後は、まず畿内を制圧して掌握下に置き、味方を募り、特に織田方と対立している毛利と結んで義昭を京に迎えて足利幕府を再興し、毛利に管領と言うナンバー1の立場を与えて自分はナンバー2に収まる。それに必要な期間は3ヶ月程度だが、織田勢は各地でそれぞれ敵方と対抗していてすぐには取って返すことはできないだろうという見込みだったのではないだろうか。もっともそうなら変を起こした後に京都辺りでうろうろしていないで直ちに中国地方に進軍して秀吉軍を毛利と挟撃した方がよかったようにも思うが、朝廷の信任を得て、‥などと言うところが形式を重んじる光秀の限界だろうか。「今信長を殺さなければ自分が殺される」と言うのが本能寺の変の原因と思うのだが、・・。
野望説は全く見当違いと思う。まず光秀くらいの武将であれば信長を殺せば天下が自分の懐に転がり込んでくるなとと夢のようなことを考えるはずもない。信長を殺して織田家中の武将をすべて切り従えて次は各地の諸侯、毛利、上杉、徳川、北条、伊達、長曾我部などをまた一から切り従えて行かないといけない。そのすべての戦いに自分が勝利する保証などない。大体当時の大名が天下を取ろうなどと言うことを考えていたのかどうか、それも疑わしい。当時の大名が最も腐心していたのは自分の領土の拡大と一族郎党の繁栄で天下など勝手にすればいいというところではないだろうか。
まあ謀反の原因を明示する文書なりがないので何とも言えないが、家族や一族郎党思いの光秀の一族郎党の生き残りと繁栄をかけた一世一代の賭けだったと思うのだが、‥(^。^)y-.。o○。
Posted at 2021/02/13 18:57:25 | |
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