木更津沖で発見された異様な鉄の塊
2020年11月30日、千葉県の木更津沖約8kmの東京湾でタチウオ漁に使われていた地元の小型底引き網漁船が、網に大きな物体を引っ掛け停止しました。その場所の水深は22mほど。慎重に引き揚げてみたところ、原因は海底に堆積した泥に埋まっていた、およそ1tはありそうな大きな金属製の物体とタイヤでした。
一見すると、航空機の主脚に思われたこの“拾得物”は、当初からマスコミやマニアのあいだで様々な憶測を呼び、なかには1960年代に墜落した民間航空機の物ではないかなどの珍説も飛び出します。しかし程なくして、その特徴的なダブルホイールの形状やタイヤのパターンなどから、戦時中に墜落したB-29爆撃機の内側左右のエンジン下に装備した主脚とタイヤであると結論が出ました。なお、その時の調査と一時的な劣化防止の処置に日本陸海軍機の研究家で報国515資料館を運営する中村泰三氏も立ち会っています。
B-29は、「スーパーフォートレス」の愛称を持つアメリカ製の軍用機です。4発エンジンの長距離戦略爆撃機として太平洋戦争後期に登場し、日本本土への空襲では国民の生命や財産に甚大な被害をもたらしました。与圧装置や冷暖房装置も備え、高度1万2000mを飛行して最大で9tの爆弾を搭載できる同機はまさに「超空の要塞」であり、空襲時の炎に浮かぶ全長30m、全幅43mの巨体は「空の巨鯨」を思わせるものだったのではないでしょうか。
移送途中の再調査でカギとなる新発見
引き揚げ当初、このB-29爆撃機の遺物は木更津市役所で保管する事になりましたが、公示しても持ち主が名乗りでる事はなかったので、昨年(2021年)12月、発見した漁師に権利が移りました。その後、この方の意向に基づいてB-29の主脚とタイヤは、栃木県那須郡にある戦争博物館に所有権を含めて移譲されることとなりました。
今年(2022年)の1月末に行われた移送作業では、その途中で前述の中村氏のご自宅に立ち寄り、短い時間ながら調査と劣化防止を兼ねたクリーニング措置が行われています。筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)もその作業に、東京文化財研究所の研究員の方々と共に立ち会わせて頂きました。
主脚が持つ想定外の大きさと重量感に圧倒されましたが、ほかにも胴体内部に存在した機銃弾や薬莢、雷管、そして光学機器と思われるガラス片などが、泥や海棲生物の死骸と共に付着し残っていました。これについて中村氏は、墜落中に胴体部が炎上しながら機銃弾が誘爆、海面激突時に主脚格納状態で下部からの強い圧力が加わり、主脚は下面を斜め上にして着底。その後、胴体内部に存在した上記の小物が降り注いだと推察しています。
さらに、その作業時には以前の調査では見つからなかった長方形の黒い銘板が見つかりました。場所は主脚の主軸中央の海棲生物が積層した固まりの下で、調査のために外されています。これは大変重要な発見で、銘板を基にすればシリアル番号の解読から機体の来歴が明らかになるでしょう。一説によると東京湾には合計8機のB-29が墜落しているといわれており、今後の東京文化財研究所による処置や科学調査による詳細の判明が待ち望まれます。
意外と多かった首都圏でのB-29撃墜
それではこの巨大なB-29爆撃機を撃墜したのは何者なのでしょうか。当時の日本軍の防空体制は非力で、B-29爆撃機には手も足も出なかったといわれることもありますが、実際はそうでもなかったようです。
たとえば、1945(昭和20)年5月23日深夜、空襲で東京に飛来した558機のB-29は、日本軍機の迎撃や高射砲の射撃で17機を失い69機が損傷を被りました。また2日後の5月25日深夜に再び東京を襲った498機は、26機を失い100機が損傷しています。この首都東京の防空戦には、旧日本陸軍は飛行第47戦隊の四式戦闘機「疾風」を含む第10飛行師団が、旧日本海軍については厚木基地の第三〇二海軍航空隊や横浜海軍航空隊から夜間双発戦闘機「月光」や急降下爆撃機「彗星」改造の夜間戦闘機型、単発エンジン戦闘機である「雷電」や「零戦」が迎撃に上がっています。
また九九式八糎(センチ)高射砲は最大射高1万400mでしたが、サーチライトと組み合わせた対空射撃はある程度有効で、加えて少数ながら配備された三式十二糎(センチ)高射砲は最大射高1万4000mという性能を有していたことから、高高度を飛行するB-29にも十分通用するものでした。
なお、1945(昭和20)年5月29日に横浜空襲で飛来した517機に対して、木更津の太田山に配置された高射砲がB-29を1機撃墜しています。その機体は木更津と君津の間の山中に墜落しましたが、今回の主脚がその時に東京湾に落ちた機体の一部であった可能性も考えられるでしょう。いずれにせよ、この遺物の素性は今回の調査で見つかった銘板を基にしないことには何ともいえません。東京文化財研究所からの新たな情報待ちですが、すでにB-29爆撃機の主脚とタイヤは那須の戦争博物館に移送されており、慰霊式典や春頃の公開に向けて準備中だそうです。新たな展示物は、同館の目玉となることを期待します。
※一部修正しました(2月18日10時10分・吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター))
B29は当時の日本の航空機技術をはるかに凌駕した米国の技術で作られた戦略爆撃機で日本を敗戦に導いた立役者であったことは間違いないが、当時の日本軍は確かに苦戦はしたが、手も足も出なかったわけではない。戦争後半の日本にはレーダーによる早期警戒システムもそれなりに整備されていたし、作動不安定なレーダーを補う監視体制や防空戦闘機隊や高射火器などもそれなりに整備されていたようだ。ただ高高度を飛行するB29に対しては過給機の開発が遅れて高高度性能が劣る日本戦闘機は苦労したようだ。また高射砲も最大射高が足りずに迎撃には効果が薄かったようだ。ただ米軍が中高度からの焼夷弾攻撃に切り替えてからは高射砲も効果を上げたと言う。こうして戦闘機や高射火器などで迎撃した結果、諸説あるものの、500機弱のB29を撃墜し、3千機ほどの機体に損傷を与えたと言う。撃墜率は攻撃機総数の1.5%ほどでこれは10%を超えると爆撃の効果は激減すると言うが、そこまでには至ってはいないようだ。もっともB17を相手にしたドイツも撃墜率は1.5%強なのでそれを考えれば日本もよくやったと言えるだろう。また攻撃に飛来するB29も決して安泰楽勝と言うわけでもなかったようだ。そんなわけで確かに当時の日本陸海軍はB29迎撃に苦労はしたが、手も足も出ないと言った体たらくでもなかったようだ。硫黄島が陥落してB29に護衛のP51などがついてくるとさらに迎撃が困難になったそうで20年6月以降は本土決戦に備えて戦力温存を図ったのでB29などの迎撃は低調になって行ったと言う。こうして日本を締め上げたB29も朝鮮戦争では37ミリ機関砲を装備したソ連のジェット戦闘機ミグ15にバタバタ墜とされて第一線を退かざるを得なかった。技術の進歩と言うのは個々の兵器に対しても非常なものではある、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2022/02/18 11:03:37 | |
トラックバック(0) |
軍事 | 日記