いまから80年前の昭和17(1942)年6月5日、それまで無敵を誇っていた日本海軍は、ミッドウェー海戦で、南雲忠一中将率いる「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力空母4隻を撃沈され、開戦以来はじめての大敗を喫した。圧倒的に優勢な戦力を擁しながら、劣勢のアメリカ艦隊に敗れたこの戦いが、「あの戦争」の一つのターニングポイントになったことに、議論の余地は少ないと思う。80周年を機にミッドウェー海戦を振り返るシリーズ、第1回は、この戦いについての総論である。
徹底されなかった山本の意図
敗戦にはいくつもの原因がある。一つは、6月4日、山本聯合艦隊司令長官座乗の旗艦「大和」が敵空母らしい呼出符号の無線を傍受したにもかかわらず、先任参謀・黒島亀人大佐が「機動部隊の『赤城』でもこれを傍受しているだろう」と握りつぶし、機動部隊に伝えなかったこと。じっさいには、機動部隊ではこの敵電波をとっていなかった。また、「主力部隊」と言いながら、「大和」以下戦艦7隻を擁する大艦隊は、機動部隊のはるか後方にいたために、機動部隊を護衛することも敵艦隊を追撃することもできなかった。いわば、見かけ倒しで役に立たない「張り子の虎」である。もう一つは、作戦目的が機動部隊に徹底されていなかったこと。本来、山本長官が主目的と考えていたのは、〈敵空母部隊の誘出、捕捉撃滅〉だったが、作戦を実行する機動部隊の南雲忠一長官以下の司令部は、作戦の主目的は〈ミッドウェー島の攻略〉にあるとの強い先入観を持っていて、山本の意図は徹底されていなかった。
この日、ミッドウェー島攻撃に出撃した攻撃隊指揮官・友永丈市大尉は、戦果が不十分と見て「第二次攻撃の要あり」と打電、機動部隊もそれに応じて、敵艦隊攻撃のために準備していた第二次攻撃隊の兵装(魚雷、および通常爆弾)を、地上攻撃用の陸用爆弾(威力は小さいが、断片の飛散範囲が広いため、飛行機の破壊や人員殺傷に適する)に転換する騒ぎになった。これは、作戦目的が明確にされていれば避けられたはずの事態だった。
先入観にとらわれ、重大な判断ミスを冒した
次に、索敵と情報の分析。
当初の予定では、あらかじめ大型飛行艇を使って真珠湾を偵察する「K作戦」が計画されたが、中継地点のフレンチフリゲイト礁に敵艦や飛行艇がいたために燃料補給ができず、断念された。また、ハワイとミッドウェー島の中間海域に11隻の潜水艦を配備したが、米艦隊はすでにそこを通過したあとで、何の情報も得られなかった。
さらに、当初の計画では空母に搭載する九七式艦上攻撃機のうち10機を索敵に使い、索敵線を二段に設定して敵機動部隊の発見に万全を期すことになっていたが、じっさいに空母「加賀」と戦艦「榛名」、重巡洋艦「利根」「筑摩」から出した索敵機は7機、うち九七艦攻は2機のみで索敵線は一段だけである。機動部隊の航空参謀だった源田實中佐は戦後、著書『海軍航空隊始末記』(1962年・文藝春秋新社)のなかで、
〈艦上機は極力攻撃に振向けたいという考えもあった〉
と回想しているが、索敵機がこれではあまりにも少なかったし、付近に敵空母は存在しないという先入観に支配されていたととられても仕方のない生ぬるさであった。
その上、各索敵線で発進が遅れがちになり、特に「利根」四号機(機長・甘利洋司一飛曹)の発進は予定より30分も遅れてしまう。そして、遅れて発進した四番索敵線の「利根」四号機が、予定索敵線から北に150浬もはずれた方角で、10隻の敵艦隊を発見するのである。さらに約1時間後、粘り強く触接を続けた同機はついに「敵空母らしきもの」1隻の発見を報じてきた。甘利機の「らしきもの」という報告について、曖昧ではないかと批判されることがあるが、これはマニュアルに従った正規の報告電文である。
ほんとうは、甘利機の敵艦隊発見の一報を受けた時点で、機動部隊は攻撃目標を敵空母に定めなければならなかった。だが、南雲長官がふたたび第二次攻撃隊の兵装を敵艦隊攻撃に向け、転換することを命じたのは数10分後のことである。一刻を争う戦いの最中に機動部隊司令部のとった行動は、ことごとくとろくさいものであった。南雲中将はもともとは水雷が専門だから、航空戦についてはいわば素人である。その判断のカギを実質的に握っているのは、航空参謀源田實中佐であった。艦隊の隊員たちが、自らの機動部隊を公然と「源田艦隊」と呼ぶほど、その影響力は強大だった。その源田中佐が、大切なときに判断を誤った。陸用爆弾でも命中しさえすれば敵空母機の発着艦を封じることはできる、あの時、兵装転換などさせずに即座に攻撃隊を出しておけば……というのは、戦後延々と言われ続けている繰言である。
「運命の五分間」という欺瞞
いっぽう、日本側の動きを事前に察知していた米軍は、南雲機動部隊の位置を発見すると即座に、ミッドウェー島に配備された爆撃機と、空母に搭載された雷撃(魚雷攻撃)機、急降下爆撃機で日本艦隊に波状攻撃をかけてきた。護衛戦闘機もつけずに低空から来襲した雷撃機は日本艦隊に決死の攻撃をかけるが、空母「ホーネット」雷撃隊は15機全機、「ヨークタウン」隊も12機中11機、「エンタープライズ」隊は14機中9機と、ほとんどが空母上空を守っていた零戦に撃墜される。だが、零戦隊や空母の見張員が低空に気を取られている間に、雲の間隙を縫って上空から急降下してきた急降下爆撃機が投下した爆弾が、空母「加賀」「蒼龍」「赤城」に次々と命中したのだ。「加賀」に初弾が命中したのが午前7時23分(日本時間)。各空母では、爆弾を搭載した九九式艦上爆撃機や魚雷を搭載した九七式艦上攻撃機が燃料を満載して、まさに格納庫から飛行甲板に並べられようとしていた。さらに格納庫内には、目標変更の際に取り外された爆弾が信管をつけたまま放置されている。被弾とともにそれらが誘爆を起こして大火災となった。
当時「赤城」飛行隊長だった淵田美津雄中佐、第二機動部隊で参謀を務めていた奥宮正武中佐が戦後、著した『ミッドウェー』(日本出版協同・1951年)のなかで、「運命の五分間」、つまりあと5分あれば日本側の攻撃隊が発艦できた、という主旨の記述がある。この本がその後の戦記や映画におよぼした影響は大きく、いまだにミッドウェー海戦と言えば「運命の五分間」ということが定説であるかのように語られるが、じっさいには「運命の五分間」などなかった。防衛庁防衛研修所戦史部の公刊戦史『戦史叢書43ミッドウェー海戦』(朝雲新聞社・1971年)も、第一航空艦隊の戦闘詳報をもとに、
〈この時点で攻撃隊の発艦準備は終了していない。〉
と述べているし、このことは当事者たちの回想からも明らかである。淵田、奥宮両氏には、惜敗ぶりをアピールすることで司令部の責任をいくぶんでも軽くしようという意図があったのだろうと思われる。
開戦以来の大敗
3隻の空母が炎上するなか、魚雷を回避するため転舵していて無事であった「飛龍」は、ただ1隻で反撃を試みた。「飛龍」は第二航空戦隊の旗艦で、司令官は山口多聞少将である。「飛龍」は小林道雄大尉の率いる艦爆(急降下爆撃)隊と友永丈市大尉率いる雷撃隊を発艦させ、「ヨークタウン」に致命的な損傷を与えたが、続いて来襲した米急降下爆撃機の攻撃に被弾。ここに開戦以来、無敵を誇った南雲機動部隊は壊滅した。ミッドウェー海戦で、日本側は主力空母4隻と重巡洋艦「三隈」が沈没、母艦搭載の全機、285機(防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書』の推定)と水上偵察機2機を失った。戦死者の総数は3000名を超えるが、そのほとんどは艦の乗組員で、飛行機搭乗員の戦死は121名である。
対して米側の損害は、大破して漂流中の空母「ヨークタウン」が、日本の伊号第百六十八潜水艦の雷撃にとどめを刺されて駆逐艦1隻とともに沈没、飛行機喪失150機。しかし、飛行機搭乗員に関しては、日本側の2倍近い210名を失っている。米軍搭乗員のほとんどは飛行経験2年未満の若い未熟なパイロットだったという。だがこの若者たちが、日本艦隊に目にものを見せようと死に物狂いで挑んできたのだ。
日本側が喪失した4隻の空母のうち「蒼龍」は誘爆で沈み、「加賀」「赤城」「飛龍」は味方駆逐艦の魚雷によって処分された。南雲中将以下、機動部隊司令部は燃える「赤城」を脱出、軽巡洋艦「長良」に将旗を移したが、二航戦司令官山口少将は、艦長加来止男大佐とともに「飛龍」と運命をともにした。「飛龍」は味方魚雷で処分後もすぐには沈まず、後方の主力部隊から状況偵察に飛来した空母「鳳翔」の九六式艦上攻撃機がそれを発見、しかも飛行甲板上には生存者の姿もあって聯合艦隊司令部が慌てることになるのだが、このとき、機関室からやっとの思いで脱出し、「飛龍」沈没後はカッターで漂流、米軍に救助され捕虜となった萬代久雄機関少尉は、筆者のインタビューに対し、
「飛行甲板に上がったとき、艦橋にはすでに人影はなく、司令官も艦長もすでに自決していたのだと思います」
と語っている。
開戦後初めての大敗に、それまで比較的正確な戦果発表をしてきた大本営は方針を一変、6月10日、日本側の損害を「空母1隻沈没、1隻大破」、米軍に与えた損害を「空母2隻撃沈」と発表した。戦果については攻撃隊による誤認の範囲とも言えるが、日本側の損害に関してはわかっていながらあえて過少に、虚偽の発表をしたのである。ミッドウェー作戦を主導した山本五十六長官をはじめ、聯合艦隊司令部でこの敗戦の責任をとった者はいない。機動部隊を率いた南雲忠一中将も、新編された機動部隊(第三艦隊)の司令長官に返り咲いた。だが、生還した搭乗員に対しては厳重な緘口令が敷かれ、彼らはいくつかの基地に分かれて軟禁状態におかれたあと、その多くはふたたび過酷な最前線に投入された。そんな搭乗員たちにとってのミッドウェー海戦については、次回より数度にわたって紹介する。(神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家))
ミッドウエイ海戦は太平洋戦争の転機として様々な書物で紹介されている。結果を見てからものを言うのは何とでも言えるが、「運命の5分間」と言うのも負け惜しみのようなもので実際には初戦の連戦連勝で相手を舐めて油断していた結果だろう。ミッドウエイ島を占領して米軍の機動部隊が出てきたらこれもついでに撃滅してやろうなどと言う欲張った作戦からして相手を舐めているとしか言えない。米軍の海上戦力の早期撃滅を考えるならアリューシャンに行かせた機動部隊を上陸部隊の護衛につけて南雲部隊は米機動部隊に備えるべきだった。作戦目的は単純な方が齟齬が生じないし、生じたときにも修正が簡単だ。精密精緻極まる作戦を立案するのは相当な労力だろうが、齟齬が生じたりすると修正が極めて難しい。ミッドウエイ海戦ではそれまで無敗だった連合艦隊が手ひどくやられたので戦局の転機とか言われるが、実際には手痛い敗戦ではあったが、戦局がひっくり返るほどの負け方でもない。ミッドウエイ海戦後も海上戦力は日本側が優勢だったし、その証拠にその後も日本海軍はソロモン方面に攻勢に出ている。本当に戦局がひっくり返ったのはガダルカナル島攻防戦やソロモン方面での激戦でこの方面での戦いで日本側は艦船25万トン、航空機7千機を失い、完全に戦力が払底している。ミッドウエイ海戦で失ったのは空母4隻、重巡1隻、航空機300機強で痛手と言えば確かに痛手だがソロモンの消耗戦とは比較にならない。ソロモン方面の消耗戦が終わった段階で太平洋戦争は日本の敗戦として決着がついている。その後の戦いは米軍にしてみれば残敵掃討戦のようなものである。仮にミッドウエイ海戦で日本側が勝ったとしたらその後の戦争はどうなっただろうか。まあ敗戦が半年か1年延びただけで日本は負けただろう。昭和18年には米国の工業力が生み出した大量の空母やその他の戦闘艦が太平洋に繰り出してくる。ミッドウエイ島も補給が続かずに取り返されただろうし、ミッドウエイかソロモンかどこかで大きな海戦が行われて戦力差や個々の兵器の性能差で日本は負けただろう。工業力が日本の20倍もある国と戦争をしてたった1回の戦いなら勝つこともできただろうが、総力戦になれば全く勝ち目はない。ミッドウエイ海戦の敗戦は勝ちにおごった日本海軍の無様な失敗の結果だが、それが戦争の帰趨を決めたわけではない。太平洋戦争はどう戦っても最初から日本に勝ちはなかった戦争である。国家総力戦とは戦場に相手よりも大量の物量を投入できる側が勝つ戦いだからだ。爪に火を点すような思いで蓄積した軍備を使い切ってしまえば後が続かない日本に最初から勝ちはなかった、‥(^。^)y-.。o○。
Posted at 2022/06/05 14:24:31 | |
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