2023年08月12日
日本海軍は米海軍との艦隊決戦で進攻してくる米艦隊を航空機、潜水艦、軽快艦艇による魚雷攻撃で戦力を減殺するために長射程、高速魚雷の開発に邁進した。第一次大戦後の魚雷は燃料と圧縮空気でエンジンを駆動する内燃機関型と電池とモーターで走行する電気モーター型に分けられる。熱走機関式は高速かつ長射程だが、排気による航跡が明瞭で電気モーター式は航跡はないが、速力、射程ともに落ちる。それぞれ一長一短があった。熱走式魚雷の圧縮空気を純酸素にすれば排気ガスは炭酸ガスと水蒸気のみでどちらも水に溶けるので航跡が目立たない。
また出力も大きくなり魚雷の速度も上がり長射程を実現できるということで日本海軍は開発に取り組んだ。しかし酸素は非常に不安定で起動時などに爆発しやすくいという技術的問題点があった。日本海軍はこれをエンジンの始動時には空気と酸素を混合したものを使用し、徐々に純粋な酸素に切り替えていくという方法で解決している。こうして酸素魚雷を実用化した日本海軍だが、魚雷と言うのは燃料タンクにエンジン、そして魚雷が一定の深度でまっすぐに走るようにジャイロや舵などを備える精密機械で常に整備点検を必要とした。現代で言えば長距離対艦ミサイルのようなものである。酸素魚雷は長射程、高雷速、大炸薬量の魚雷だったが、その分扱いが難しく手がかかった。魚雷は艦砲と違い目標を二次元で戦で捉えるので三次元を飛んで点を捉える艦砲よりはずっと命中率がいいと言うが、射程2万メートルだの4万メートルだのと言うと魚雷の速度が60キロだの70キロと言っても20分から40分ほどもかかる。その間目標が同進路同速で走っていてくれればいいが戦闘状態であればそのようなことはまずあり得ない。そうなると命中精度が落ちることから日本海軍は多数の航空機あるいは軽快艦艇による多数射線による魚雷攻撃を計画、軽巡洋艦に片舷20射線、両舷で40射線などという魚雷発射管を備えた重雷装巡洋艦などを作り出している。こうして日本海軍は艦艇用、航空機用、潜水艦用など様々な酸素魚雷を制作しているが、航空機用は酸素魚雷のメリットが少ないことから通常魚雷に切り替えられている。日本の酸素魚雷はジャイロの作動不安定で魚雷が迷走したこともあるし、敵に向かって発射した魚雷が命中せずに遠方の射線上にいた味方輸送船団の船舶に命中、輸送船が沈没するなどの被害を出したこともある。また戦争前半期には米重巡を撃沈したりあるいは空母、駆逐艦を撃沈したり、戦艦を撃破したりと戦果を挙げているが、米国の航空優勢が確立してくると魚雷の使用できる場面が限られ、また搭載している魚雷が被弾で誘爆したりして被害を拡大している。日本の酸素魚雷は無誘導だったために長距離での命中率は極めて低かった。射距離1万メートルで使用した魚雷188本のうち命中したのは4本と命中率が極めて低い。52ノットで目標まで5千メートルで発射しても命中まで3分ほどもかかるためその間敵艦が変針増速した場合は命中率は極めて低くなるので長射程の利点はないと言ってもいい。そんなわけで魚雷は短射程、大弾頭化に進んで行く。そして行き着いた先は使う場面がなくなって大量に余った魚雷を改造した人間魚雷「回天」だった。無誘導で命中率の悪い魚雷を人間が操縦して確実に目標に命中させる。すべての物資が欠乏していく戦争末期に最も豊富な物資は人間だった。その人間を誘導装置にして兵器に組み込むと言う悪魔の思考が頭をもたげ、軍隊と言う命令機構の中で「お前が誘導装置になって敵を間違いなく仕留めろ」と命令するようになる前に戦争を止めるべきだった。日本海軍は優勢な米海軍を破るために世界中どこの国も採用しなかった純酸素を使った高速長射程、大威力の魚雷を開発した。しかしその命中精度の低さを埋め合わせる誘導技術を持たなかった日本海軍はその誘導装置に人間を使うことを思いついた。ごく限られた特殊な状況で体当たりと言う戦法は米軍も行っている。極限的な状況で「せめて敵に一太刀」は武人の自然な心理かもしれない。しかし軍と言う組織の中で命令としてそれが行われることだけは避けるべきだっただろう。「『「死んで来い』、それはもう命令の限界を超えている」と言った司令官がいたそうだが、まさにその通りである。
Posted at 2023/08/12 22:29:44 | |
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2023年08月12日
太平洋戦争以前、日本海軍は艦隊に随伴して行動可能な大型潜水艦の開発に力を入れた。これは艦隊決戦前に米海軍の艦隊を攻撃して主力艦を減らすためだった。訓練では日本の潜水艦は艦隊の中まで侵入して主力艦を撃沈する戦果を度々挙げていた。そのため海軍は潜水艦に大きな期待を寄せていた。ところがいざ戦争になると日本の潜水艦は全く奮わなかった。ハワイ作戦の際はパールハーバー監視のために配置された日本海軍の潜水艦は米海軍の駆逐艦に頭を押さえられて逃げ回るのが精一杯で監視どころではなかった。それ以降も日本海軍の潜水艦は期待された活躍はしなかった。これは一つには潜水艦の用法に問題があったことに起因する。潜水艦の最大の武器は隠密性でどこにいるか分からないうちに攻撃してくるのが最大の強みだった。ところが日本海軍は潜水艦を哨戒線に張りつけたり米海軍の泊地に侵入して攻撃させるような作戦ばかりを立案して潜水艦の隠密性を奪っていた。戦況がひっ迫してくると離島への潜水艦による物資輸送なども行われ、これも潜水艦を失う原因になった。もう1つは日本海軍の潜水艦探知能力と潜水艦の防音防振対策だった。潜水艦を探知するには聴音器という音を探知する器械を使用するが、日本の聴音器は精度、信頼性が低く「大体この辺に潜水艦がいるらしい」と言う程度で米海軍のようにピンポイントで潜水艦を見つけることが出来なかった。また潜水艦の防音、防振についても不十分で戦争中ドイツに派遣した潜水艦をドイツのエンジニアが見て「よくここまで来れたものだ。これでは大西洋を太鼓を叩きながら渡って来たようなものだ」と呆れ、日本の潜水艦に防音、防振工事を施してくれたと言う。ドイツと英海軍は潜水艦戦を巡って互いにしのぎを削るような戦闘を繰り広げていた。また米海軍は狩猟民族の執念深さを発揮して潜水艦を完全に撃沈するまで2日でも3日でも交代で追撃したと言う。その点で日本海軍は淡白でちょっと油などが浮いてくると撃沈したとして攻撃を止めたそうだ。毎月15隻くらいの米海軍潜水艦を撃沈したという報告が上がってきたが、戦後実際に撃沈した米海軍潜水艦は52隻と聞いて対潜戦を指揮していた幹部は愕然としたそうだ。日本海軍は米海軍の艦隊泊地であるウルシー環礁を潜水艦で攻撃したが、出撃した潜水艦はすべて撃沈されている。戦争末期になって潜水艦や小型艦艇しかなくなった日本海軍は米国から沖縄に至る長大な補給線を特攻兵器の回天を搭載した潜水艦に自由攻撃させて大きな戦果を挙げた。この戦果にについて米国はすべてを公表はしていない。大本営発表は日本だけの話ではなかったようだ。ほとんど護衛なしに自由航行していた米海軍の輸送船は攻撃に無警戒で被害を拡大した。潜水艦側は「自由にやらせてくれれば戦果を挙げられるんだ」と胸を張ったと言う。いずれにしても日本海軍の潜水艦は150隻程あったが、その大部分が撃沈された。その原因は潜水艦の用法や作戦のまずさとともに米軍側の潜水艦探知・攻撃方法が日本側をはるかに上回っていたこと、日本側の防音、防振技術が劣っていたことなど日本の技術が劣っていたことが原因である。兵器の用法とともに技術と言うものは戦時でも平時でも物事の結果に大きな影響を与える。地道な技術開発はもちろんのこと相手の技術レベルを把握しておくことは重要なことである。それを怠り潜水艦の用法まで間違えた日本海軍が潜水艦戦で大きな戦果を挙げられなかったのは当然だが、そうした誤りで犠牲となった潜水艦乗組員が気の毒である。
Posted at 2023/08/12 18:40:14 | |
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2023年08月12日
太平洋戦争以前、三菱はイスパノ社やユンカース社から水冷エンジンの製造権を購入して航空機用水冷エンジンを製造していたが、パワーが増すに従ってトラブルが続出したことから水冷エンジンを諦めて米国のP&W社から空冷星型エンジンの製造権を購入して新たに明星という試作エンジンを製作、これを基に金星というエンジンを製作した。三菱は金星を海軍に売り込んだが、当初は興味を示さなかった海軍もその性能を認めて正式に金星を採用した。三菱は金星の縮小型の瑞星、大型化した火星など金星を基にしたエンジンを次々に製造、さらには金星の18気筒型2千馬力級のハ42、ハ43なども試作している。金星は順調に発展して4X型1千馬力、5X型1300馬力、最終型の6X型では燃料直噴式として出力増強のために水メタノール噴射を行って1500馬力まで出力を上げているが、安定した性能でトラブルは少なかったという。戦争中期以降中島の誉(ハ45)、ハ43など戦闘機用の2千馬力級エンジンが作られたが、いずれも試作あるいは当時の日本の製造技術を超えたエンジンでトラブルが絶えず少ない戦闘機の稼働率や性能そのものを下げていた。海軍は96陸攻、零式3座水偵、99式艦爆、瑞雲、零式輸送機など多数の機種に金星を使用していたが、いずれも安定した性能の機体だった。また陸軍も100式司偵、キ96、キ102などに使用し、戦争末期にはエンジン不調で製造が滞った三式戦の水冷エンジンを換装して五式戦を製造したり四式戦のハ45エンジンを金星(陸軍呼称ハ112Ⅱ)に換装した試作機を製作している。海軍も水冷エンジン装備の彗星艦爆のエンジンを金星に換装している。金星は原型が1930年に作られた古いエンジンだが、安定した性能には定評があり、太平洋戦争当時日本が入手可能な最高の戦闘機用エンジンだった。海軍は2千馬力級エンジンの中島の誉に惚れ込んですべての新型機に誉を装備するよう指示していたが、誉は混乱していた戦争末期の状況で数を要求された製造側の粗製乱造が祟りトラブルが絶えずせっかく作った航空機も性能が落ちたり飛行できないと言った状況が続いた。戦争中期以降米軍は2千馬力級エンジンを搭載した新型機を多数戦線に投入して日本陸海軍を圧倒した。日本陸海軍で安定した性能でこれらの米軍機に対抗できたのは金星装備の五式戦だけだった。当時の日本が入手できる最高の戦闘機用エンジンは1500馬力の金星でその原型は米国のP&W、同様に零戦などに装備された栄エンジンも手本はP&Wのエンジン技術だった。米国の技術を手本に航空機用エンジンを開発して1500馬力級エンジンまで作り上げたが、日本の当時の技術ではそれが限界だった。その時手に入る最高のものを使っていいものを作る。それでは戦争に勝てないと言うなら当時の日本は米国と戦うような国力も技術もなかった。敗戦は師匠にケンカを売った日本がたどり着く当然の帰結だった、(○_○)!!😱😨😁🌀🎃😅。
Posted at 2023/08/12 18:38:42 | |
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2023年08月12日
零式艦上戦闘機、零戦は太平洋戦争前半の最強戦闘機として有名な戦闘機である。零戦は12試艦上戦闘機として海軍から試作の指示があった。時速500キロ以上、20ミリ機銃装備、航続距離3千キロ以上、96艦戦に劣らない空戦性能と当時の最新戦闘機の性能を遥かに凌駕する要求性能に中島は試作を辞退、三菱は機体の構造を徹底的に軽量化するとともに防弾の要求がなかったことから防弾装備は一切省いて速度、重武装、高速、航続距離の要求を達成した。零戦は高速で重武装、そして長距離を飛行することができたが、機体強度が弱く高速降下に耐えられず防弾装備皆無のために撃たれ弱い戦闘機だった。開戦当初は米軍の戦備不十分と鍛えに鍛え上げた搭乗員の技量、中低空での卓越した運動性で米英軍を圧倒したが、米軍の戦備が整い新鋭機を多数戦線に投入して来るようになると防弾装備皆無で機体強度の弱い零戦の被害は増加していった。零戦も11型、21型、32型、22型と改良を重ねていったが、装備が増加して重量が増加するのにエンジンは中島の栄でパワーアップがなく米軍の新鋭戦闘機との相対的性能は徐々に低下していった。52型になると武装強化、防弾装備の追加などを実施、それまでの軽戦闘機から速度重視の重戦闘機へと性格が変わっていた。しかしエンジンは航続距離が減少することを嫌った海軍の指示で栄のままでその飛行性能は低下する一方だった。もしも52型の改修時にエンジンを中島の栄から三菱の金星に換装しておけば400馬力程度のパワーアップになるので性能的にまだ何とか米軍の新鋭戦闘機に対して対抗できたかもしれない。昭和18年後半から19年前半を金星零戦で凌いで19年後半に烈風または紫電改に引き継ぐというのが日本の国力に合った筋道だろうけど零戦の後継の烈風は開発に失敗して間に合わず海軍期待の新鋭戦闘機紫電改も後継とはなり得ず零戦は最後まで海軍の主力戦闘機として絶望的な戦いを続け、最後には特攻機として米軍の艦船に突入していった。最後の最後に五式戦のように金星エンジンに換装された零戦54型が試作されたが、その頃には日本の国力も生産能力も底をついていて量産どころではなかった。零戦のたどった道筋は日本の運命同様に精一杯背伸びして列強に追いつき一部はそれを超えたが、それが限界でその後は本格的に稼働を始めた米国の国力に圧倒された。まさに日本の国力を象徴しているような戦闘機だった、😁🌀🎃😅。
Posted at 2023/08/12 18:37:26 | |
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2023年08月12日
日本陸軍には五式戦闘機あるいはキ100と言う機体があった。しかしこの呼称は制式なものではないと言う。また疾風や隼と言った愛称もない。この機体は三式戦闘機飛燕の水冷エンジンを空冷エンジンに換装した機体だった。三式戦闘機のエンジンはドイツのDB601水冷エンジンをライセンス生産したものだが、日本の生産技術力を超えたエンジンで水冷エンジンの取扱いの不慣れと合わせて故障が頻繁したエンジンだった。このエンジンをさらにパワーアップしたハ140と言うエンジンはさらに難物で飛燕1型を改良した2型改はエンジンの装備されていないいわゆる首なしの機体が300機ほども工場に溜まってしまっていた。戦況が逼迫する中で1機でも戦闘機を必要とする陸軍は飛燕2型改の機体に安定した性能で定評のある三菱のハ112Ⅱを装備するよう川崎に指示した。水冷エンジンに合わせて作った細い機体に直径の大きい空冷エンジンを装備するとエンジンと機体に段差が出来てそれが抵抗になるが、川崎はその段差にフィレットをかぶせてそこに単排気管を並べて乱れた空気の流れを吹き飛ばすようにして解決した。完成した機体は速力こそ低下したが、冷却系がなくなったことで300キロの軽量化が出来て上昇力、運動性が向上した。すでに300機以上の機体が完成していたことから五式戦の生産は順調に進み戦争末期の貴重な戦力となって米軍機と戦った。頑丈な機体で運動性が良く降下速度に優れる五式戦は米軍機と互角の戦闘が出来て「五式戦ならどんな敵機と戦っても絶対不敗」と言うパイロットもいた。これは当時の陸軍戦闘機のうち一式戦は古すぎる、二式単戦は数が少ない、三式戦、四式戦はまともに飛ばないで燃料とオイルを入れればカタログ通りの性能を発揮する五式戦が好まれたのは当然だった。1930年に作られて発展してきた完成度の高い安定した金星エンジンと開戦前に作られた頑丈な機体は技術的に新しさはなかったが、きちんと確実にその性能を発揮した。五式戦は急場の間に合わせ的な戦闘機だったが、故障せずに確実に稼働するという兵器として最も重要な性能を発揮した。戦後この機体を調査した英国は「技術的に見るべきものはないが、その時最善のものの組み合わせが、良い結果を生むことがある」と素っ気ない言い方だが、的を得た評価をしている。日本陸軍最後の機体が特攻機などではなく良くできた性能の良い戦闘機だったことは一抹の救いのようにも思う、😁🌀🎃😅。
Posted at 2023/08/12 18:36:06 | |
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