2023年09月04日
主力艦の保有トン数を決定したワシントン条約で主力艦の保有トン数を厳しく制限したが、補助艦艇については特段の制限がなかったことから各国は補助艦艇の建造に血道を上げることになった。そのために補助艦艇の保有トン数を制限するロンドン条約が1930年に締結された。この条約では巡洋艦を5インチ以上8インチ以下の主砲を装備する1万トン以下の艦艇と定義し、8インチ以下の備砲を装備するものをカテゴリーA、6インチ以下の備砲を装備するものをカテゴリーBとした。こうして各国は排水量1万トン、主砲8インチ砲の巡洋艦の大量建造に乗り出した。日本海軍は古鷹型から高雄型まで12隻、後日6インチ砲装備の最上型4隻の主砲を8インチに換装して16隻、条約廃棄後に建造した利根型2隻を含めると18隻と言う大量建造を行った。しかしこれらの艦は主砲の割には1万トンと言う排水量制限があったために防御力が弱くアンバランスな艦艇ではあった。しかし戦艦に準ずる砲力を有する有力艦と言うことで米国は何と37隻、英国は海外に広大な植民地を有していたことから個艦優勢ではなく機動性に優れる軽巡洋艦の建造を優先して行っていたために18隻の建造に止まっていた。日本海軍の場合これらの重巡洋艦は甲型巡洋艦、カテゴリーBの巡洋艦を乙型巡洋艦と称していたが、開戦と同時に空母機動部隊の護衛艦としてあるいは輸送船団の護衛、攻略作戦の支援など様々な任務に従事したが、さほどの戦果は挙げていない。戦争後半になると米軍の航空攻撃の激化に防御力の弱さが弱点となり魚雷や爆弾1発の被弾で行動不能になったりしている。これはやはり1万トンと言う排水量を制限されたところに8インチ砲10門を搭載してその分防御力を犠牲にした結果だろう。また日本の重巡洋艦は魚雷を搭載していたが、被弾に寄って魚雷の誘爆を招き被害を拡大している。米国はこの手の巡洋艦には魚雷を搭載していないが、これは日米の戦術の相違によるものではある。結果、日本の重巡洋艦はレイテ沖海戦およびその後の米軍のしらみつぶしの掃討戦でほとんどが撃沈されており、本土に帰還していたのは利根と青葉だけでその2隻も呉空襲で大破着底している。戦争末期に日本の艦艇がボカスカ撃沈されたのは圧倒的な米軍の航空戦力のせいではあるが、英米ともに1万トンの船体に十分な防御力を持たせることには苦労したようで英国は砲力を減らしたが、それでも不十分で結局は重巡洋艦の建造を止めている。米国は3連装砲塔3基9門の構成で長大な航続力と砲力を兼備していたが、圧倒的航空優勢下では喪失艦はなかったが、それでも日本海軍の雷撃で大破しているので似たようなものだろう。日本の重巡洋艦は重武装のために居住性が極めて悪く遠路南方などに出張って行くと乗員の体力の消耗が激しかったと言う。条約で縛られているので仕方がないが、重巡洋艦と言うのはいかにも中途半端な艦に思える。どうせなら高速の戦艦の方が火力、防御力とも十分で活躍できたように思う。戦争後半の圧倒的な米軍の航空戦力の前には何ものも抗し得ないだろうが、重巡洋艦と言う艦種はやや期待外れではあったように思う、・・(◎_◎;)。
Posted at 2023/09/04 13:48:47 | |
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