2023年09月13日
ガダルカナル島への強行輸送で多くの伊号潜水艦を失った海軍は「伊号潜水艦は敵艦船に対する攻撃に当てるので輸送は波号潜水艦を供与するので陸軍でやってもらいたい」と申し入れた。これに対して陸軍は潜水艦輸送の指揮権と乗組員を海軍に取られると考えて「陸軍は独自に潜水艦を建造して輸送を実施する」と海軍に申し入れた。しかし造船所のスケジュールはすべて海軍に抑えられているために民間のボイラー工場などに依頼、設計は困難を極めたが、小型潜水艇の設計者である西村一松氏の指導を仰ぎ、資材は戦車の装甲板を流用するなどして電気溶接で組み上げたブロックをリベットで結合する方式で排水量270トン(水中370トン)、輸送人員40人または物資24トン、速力水上10ノット、水中5ノット、潜航深度100メートル、航続距離1千キロの潜水艦を作り上げた。潜航試験では通常の潜水艦は航行しながら潜舵を使って潜行するが、この潜水艦は静止したまま潜航したので海軍側は「落ちた(沈んだ)」と大騒ぎになったと言う。また航行をコントロールする装置も深度計もなくすべては乗組員の技量にかかっており安全潜航深度を超えてしまったとか海底に衝突したとかいろいろあったようだ。またトイレは通常の潜水艦は汚物を圧搾空気で艦外に放出するのだが、陸軍の潜水艦は汚物をドラム缶に溜めておく方式で艦内は悪臭がひどかったと言う。また艦内は極めて狭く海軍の潜水艦を見学した陸軍側はうらやましがったそうだ。しかしさすがに戦闘行動中に敵機などに発見されるとじっとして潜航と言うわけにもいかないので急速潜航ができるようにしたりプロペラを改修したり内部空間を拡大したりそれなりに改造が行われたようだ。陸軍はこの潜水艦を400隻建造する予定だったようだが、完成したのは38隻だった。完成するとフィリピン、南西諸島、伊豆諸島、小笠原、硫黄島、朝鮮半島などへの輸送任務に従事した。この潜水艦がマニラに入港した際に素人のような操艦でのろのろ進む陸軍潜水艦に在泊中の海軍艦艇から「汝は何者なるや。潜航可能なりや」と問い合わせを受けたとか。陸軍側は「陸軍潜水艦なり。潜航の可否については回答を要しない」と回答があったと言う。また海上で行き違った輸送船は見慣れない潜水艦を敵と誤認して体当たりをして双方が損傷したとか、この潜水艦は修理のために釜山に向かっていたところ輸送船団の護衛艦に敵と間違われて砲撃を受け追跡してくる護衛艦から全速力で逃げるうちに船体の日の丸が見えたためか「汝は何故軍旗を掲げるや」と問い合わせを受け「我陸軍の潜水艦なり」と回答して撃沈を免れたとか。この潜水艦は損傷が激しいことから帰還後に任務を解除されたと言う。また海軍の輸送艦が海上をのろのろ進む小型の潜水艦を敵として攻撃準備をしたが、相手があまりにも小さくのろのろ進むだけで何もしてこないので攻撃を中止して危うく同士討ちを回避したという事例もあったとか。高松宮殿下は「戦時にこんな遊戯のようなことをやっていないで海軍と一緒にやればいいじゃないかと説得したが言うことを聞かない。困ったものだ」と日記に記載しているが、陸軍にしてみれば島に放り出して輸送補給もろくにやってくれないと海軍に対する不信感があったのだろう。こんな陸軍の潜水艦だが、レイテ湾輸送に成功したことがあるそうだ。陸軍潜水艦は3隻でレイテ湾を目指し、1隻は哨戒機と駆逐艦に発見されて撃沈されたが、残る2隻は輸送に成功、米600梱、救急食50梱、バッテリー30梱、大発修理用部品などを陸揚げして大本営陸軍部を狂喜させたと言う。その後2隻はリンガエン湾に移動したが、米軍の攻撃で撃沈されたと言う。陸軍の潜水艦は白昼堂々と日章旗を掲げて浮上航行するとか樹木などで船体を偽装するとか海の常識に外れたことをしたのでそのあまりの非常識さに米軍潜水艦も攻撃を躊躇うなどのこともあったそうだ。しかし建造方式は大量生産に向いている方法で行われ安全潜航深度も100メートルと海軍の潜水艦に劣らなかったようだ。38隻建造された陸軍潜水艦のうち5隻は戦没または事故で失われ残った33隻と未成艦1隻は戦後米軍によって海没処分とされたと言う。改良型のⅡ型は海軍が技術指導を行い波号101型の技術を取り入れ大型化し航行性能、潜航性能も向上したが、完成した艦はなかったそうだ。海軍も陸軍が潜望鏡を発注したことから計画を察知して陰ながら技術支援を行ったと言う。世界で陸軍が潜水艦の建造運用を行ったのは日本陸軍だけだったそうだ、・・(◎_◎;)。
Posted at 2023/09/13 23:56:59 | |
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2023年09月13日
欧米では魚雷艇の研究、建造が行われていたことから日本海軍も1930年代後半に魚雷艇の試作に着手した。主に英国やイタリアの魚雷艇を購入して研究し、1942年に魚雷艇1号を6隻建造した。しかしその頃には米軍はPTボートという魚雷艇を大量に建造してソロモン諸島方面に投入、日本軍の海上輸送路を脅かしていた。日本海軍はその対応に苦心して大発に機銃を装備したり陸軍から借用した対戦車砲を載せて対抗したが、速力が40ノットと8ノットでは話にならず被害が増加した。日本海軍は魚雷艇を大量建造しようとしたが、問題はエンジンで当時の日本には小型軽量高出力のエンジンがなかった。そこで目をつけたのが旧式化した航空機から取り外した中古エンジンでこれを片っ端から搭載したが、多種多様なエンジンを搭載した上にエンジン自体の性能にもバラつきがあり艇の性能もまちまちで高速が出ないものもありそのような艇は雑役艇に編入された。また米軍の魚雷艇駆逐と味方輸送艇防護のために魚雷を搭載せずに機銃を増備した艇も作られた。しかしいずれにしてもしりに火がついてからの付け焼刃で慌てて高速艇を建造したが、例によってエンジンのトラブルが響いて日本海軍の高速艇は機能しなかった。結局西太平洋における日米の艦隊決戦思想に囚われてそれに向けた海軍を建造してきたので島嶼部で小型高速艇で戦闘するなどということには考えが到らなかった。小沢治三郎でさえ部下に「予算が余っているので魚雷艇でも作ってみましょうか」と具申されたが、「そんなもの役になんか立つものか」と言下に否定している。結局高速艇の建造に不慣れだったことや適当なエンジンがなかったことなどここでもエンジンで足を引っ張られている。それでも海軍水雷学校に魚雷艇部(のちに水雷学校分校)を設置して乗員の養成に努めてはいるが、乗員は震洋艇の要員となったのだろう。またエンジンもパワーウエイトレシオでは世界トップクラスの2ストロークディーゼルエンジンが開発されたが、これも例によって戦争には間に合わなかった。もう少し早めに計画しておけばいいのだが、貧乏海軍ではあっちもこっちもと言うようなわけにはいかなかったのだろう。小舟で島伝いに輸送などその時点で兵站補給が崩壊しているが、その小舟を守るために速力25ノットから30ノット程度、武装は25ミリ機銃1門、13ミリ機銃2門程度の中速艇が何隻かついていればPTボートの攻撃をある程度は防げただろう。でも日本軍て何時も遅いんだよな、・・(◎_◎;)。
Posted at 2023/09/13 13:03:08 | |
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2023年09月13日
1930年代になって航空機の性能が劇的に進歩して艦船にとって無視できない脅威になってくると英国は旧式巡洋艦の主砲や魚雷をすべて撤去して高角砲10門を搭載したダイドー級防空巡洋艦を建造、米国も12.7センチ高角砲12門を搭載したアトランタ型防空巡洋艦を建造した。日本海軍は旧式巡洋艦を改装する予定だったが、水雷戦重視の思想から中止となり1939年に高角砲8門、速力35ノット、航続距離18ノットで1万海里の防空艦建造が決まった。しかしこれでは排水量が4千トンを超えることから速力33ノット、航続距離18ノットで8千海里として艦形の小型化を図ったが、魚雷バカの日本海軍はこの時点で4連装魚雷発射管1基に予備魚雷4本を搭載することにして艦種は駆逐艦と決まった。それでも満載排水量は3800トンと4千トンに近かった。この艦の肝は98式長10センチ連装高角砲でこの砲は日本海軍の主力高角砲の40口径12.7センチ連装高角砲と比較すると最大射程も最大射高も1.4倍以上で最大射程は19500メートル、最大射高は14700メートルで砲自体は極めて優秀な砲だったが、光学照準装置だけでレーダーと連動した射撃指揮装置がなかったので射撃の精度は操作員の能力に頼っていた。後日レーダーが装備されると来襲する敵機の方位、距離、機数が分かるようになって対空戦闘には必須の装備となった。94式射撃指揮装置は2基装備される予定だったが、最後まで1基しか装備されず同時に2目標を射撃することはできなかった。一番艦秋月は1942年6月に竣工、以降11隻が完成している。秋月は完成するとソロモン諸島方面の輸送作戦に投入され、自慢の主砲でB17爆撃機1機を撃墜するなどしたが、魚雷を受けて大破、エンガノ岬沖海戦で沈没した。二番艦照月はソロモン諸島方面で沈没、三番艦涼月はソロモン諸島方面で被雷、修理後大和と沖縄に向かうが、大破、後進で佐世保に帰港、そのまま防空砲台として終戦を迎える。初月はマリアナ沖海戦に参加、次のエンガノ岬沖海戦で沈没艦の乗員救助中に米重巡洋艦3隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦12隻と遭遇、2時間の砲戦の後に撃沈されたが、味方艦が退却する時間をかせいだ。新月はソロモン諸島方面で輸送作戦従事中米艦と交戦沈没、若月はソロモン諸島方面の輸送作戦などに従事、マリアナ沖海戦、エンガノ岬沖海戦を生き抜いたが、レイテ島輸送作戦で沈没、霜月はマリアナ沖海戦、エンガノ岬沖海戦を生き抜いたが、その後レイテ方面に移動中、米潜水艦の雷撃で沈没、冬月は戦艦大和とともに沖縄に出撃、その後は門司で防空砲台として使用され戦後解体、船体は涼月とともに若松港の防波堤に利用された。春月、宵月、夏月、満月、花月は竣工したが、戦闘に参加することなく戦後は復員艦として利用されるなどした後に賠償艦として戦勝国に引き渡されあるいは解体された。これ以降の艦は建造中止となった。秋月型防空駆逐艦は戦時中の建造で竣工と同時に戦線に投入され数が揃わないまま完全な戦隊を組むことなく戦没して行った。後期竣工艦はすでに連合艦隊は壊滅して活躍の場はなかった。しかし背負式に4基の砲塔を備えた艦形はなかなか重厚で駆逐艦とは思えない艦容ではある。この艦が数が揃って戦隊を組んで空母の護衛として活動したらそれなりに成果を挙げたかもしれない。エンガノ岬沖海戦で米巡洋艦群と砲戦を交えて撃沈された初月を米軍は阿賀野型軽巡洋艦と認識していたようだが、それもやむを得ないような艦形ではある。日本海軍はこの防空駆逐艦の大量建造を計画していたようだが、それは正しい決断だったと思う。まとまった数があれば防空の任務をよく果たしたと思う、\(^_^)/🙆🆗🎃😅。
Posted at 2023/09/13 13:01:52 | |
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2023年09月13日
日本海軍は近接防御火器に25ミリ機銃を使用した。その生産数は3万丁以上、特に米軍の航空戦力が急増した1944年には2万丁を生産している。海軍は近接防御火器として英国ビッカース社の40ミリ機銃や7.7ミリ機銃を使用していたが、威力不足や弾道特性が悪く故障が多いなどの理由でこれらに代わる機銃を求めていたところフランスホチキス社製の25ミリ機銃に着目、これを改良して対空火器として使用した。この機銃は戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦などの戦闘艦艇から輸送船、タンカー、特務艦艇、魚雷艇、監視艇、地上施設の防御火器としてまでありとあらゆる艦艇に搭載、あるいは施設防御に活用された。弾薬の給弾方式は15
発入りの箱形弾倉を差し込んで行い、発射速度は毎分220発程度で初速は900メートル/毎秒、有効射程は公称4千メートルというが、実際には1500メートル程度だったという。装備方式は単装、連装、3連装で基本は連装だが、戦争後期には3連装と単装が併用された。3連装は重量が架台を含めて3トン近くあり人力で取り回すには問題があったというし、航空機の動きに追従できなかったようだが、艦艇装備の場合は電動で駆動していたようだ。単装は1名で運用出来て航空機の動きにも追従できたようだ。この機銃の欠点は弾倉の装弾数が少ないことと威力不足というが、装弾数はともかく25ミリの大口径機銃で威力不足はあり得ない。有効射程の問題でそう言われたのだろうが、投弾前の敵機には当たらなかったという話もあった。また米軍の航空機に当たっても弾が弾かれたというが、戦車ではあるまいし、航空機にそんなことはあり得ない。有効射程を超えた威力のなくなった弾が弾かれたのだろう。エンガノ岬沖海戦で空母瑞鶴の25ミリ機銃が来襲した米軍機を撃墜した場面が映像で残っている。ただ確かに当たっているのだが、なかなか墜ちないという戦訓は米軍機が予想以上に頑丈だったからだろう。海軍は12.7センチ高角砲とこの25ミリ機銃で対空戦闘を戦ったが、米軍のように間に40ミリ機銃のような中口径機銃を入れた方がよかったかもしれない。しかし当時の日本は機銃のような精密銃器の設計製作は欧米に比べて劣っていて開戦前に適当な機銃を入手しないと間に合わなかっただろうし、仮に中口径機銃があったとしても戦争後半の米軍の怒涛のような航空攻撃には焼け石に水だっただろう。それでも撃つ側はともかく撃たれる側には自分に向かって飛んでくる機銃弾はずいぶん恐ろしかったという。威力の有り無しにかかわらず撃たれる側には「嫌な機銃」だったのだろう。この機銃は陸上でも対空機銃としてだけでなく地上戦にも使われたそうだが、水平に射撃すると米軍の軽装甲車両などは簡単に撃破したそうで米軍に恐れられたそうだ。それを見ても威力不足というのは違うだろう。この機銃には機銃員を守る防弾装置がなく戦闘では機銃員の死傷が多くそのために土嚢、マントレット、防弾板などが弾避けとして有効だったという。この機銃、本家のフランスでは発射速度が遅すぎるとして使用されずルーマニアとスペインに少数が輸出されただけでライセンスを購入して大量に使用したのは日本だけだったという、😁🌀😨🎃😅。
Posted at 2023/09/13 13:00:11 | |
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