2023年09月16日
太平洋戦争では日本陸軍は口径6.5ミリの三八式歩兵銃と口径7.7ミリの九九式歩兵銃の2種類の歩兵銃を装備して戦った。三八式歩兵銃は日露戦争当時の主力歩兵銃だった三十年式歩兵銃を部品点数を減らしたり満州での使用を考慮して機関部にダストカバーをつけたりした改良型である。仮制式化は明治38年、翌年制式となって採用されて昭和の戦争を明治の小銃で戦ったなどと揶揄されるが、射撃時の反動が小さく照準が正確で使いやすい歩兵銃で日本で最多の340万丁が生産された。しかし部品の規格化などは行われておらず組み立ては熟練工による微妙が調整が必要だったという。その後口径を7.7ミリに拡大した九九式小銃が作られたが、すべてを更新するに至らず太平洋戦争は2種類の歩兵銃で戦われたのは日本の工業力の問題だろう。三八式歩兵銃は騎兵銃、空挺銃、狙撃銃など多くの派生型が製造されている。それはこの銃が使いやすい優秀な銃であったことの証左だろう。また戦後は中国や東南アジア各国で接収された三八式歩兵銃が使用されているし、一部は警察予備隊でも使用された。また欧米ではスポーツ射撃銃としても人気でフィンランドで実弾が製造されているそうだ。最近では2013年にミャンマーの反政府武装集団が使用しているのも確認されているそうだ。明治の歩兵銃を昭和の戦争でも使ったと揶揄されるが、第二次世界大戦で各国で使った歩兵銃はほとんどが19世紀末から20世紀初頭に作られたもので米軍も1942年頃まではM1903という明治時代の歩兵銃を使っていた。現在自衛隊でも使っているブローニングM2重機関銃は1917年に完成した機関銃だが、未だにこれを凌ぐ機関銃が出来ず100年以上経った今でも西側の主力重機関銃となっている。歩兵銃や機関銃と言った完成されつくした武器は古いからと言って性能が落ちると言うことはない。ボルトアクション式の歩兵銃としては完成の域に達していた38式歩兵銃が明治にできた銃だからと言って性能が落ちるわけではない。その後の小火器の潮流として7.7ミリが主流になったために日本陸軍も7.7ミリ小銃を製造したが、貧弱な日本の工業力ではすべてを更新することが出来ず異なった口径の歩兵銃が一線部隊に装備されることになったが、中国配備部隊は38式歩兵銃、南方配備部隊は99式歩兵銃と区分がなされていたが、中国配備部隊が南方に引き抜かれていったことから補給上の混乱が生じたと言う。38式歩兵銃は反動が小さく命中率が良かったが、99式歩兵銃は威力の点では改善されたものの命中率はやや劣ったと言う。いずれにしても38式歩兵銃はボルトアクション銃としては良好な性能を持った銃で明治の旧式銃などという批判は当たらないそうだ、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2023/09/16 21:20:03 | |
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軍事 | 日記
2023年09月16日
日本陸軍の対戦車砲と言えば口径の小さい順に97式自動砲、これは20ミリの半自動砲で貫徹力は距離200メートルから700メートルで30ミリから20ミリ程度、戦車の重装甲化に伴い世界的にも消えて行った兵器だが、一部の部隊では全自動に改修して対空機銃として使用している。重量は60キロにもなり操作には10名を要したという。次は94式37ミリ対戦車砲でこの砲は広く陸軍に行き渡っていて戦車砲にも使用されたし二式複戦にも搭載された。貫徹力は至近距離、100メートル程度か、で50ミリ、300メートルで30ミリ、800メートルで25ミリ、1000メートルで20ミリ程度で米軍のM3軽戦車の前面装甲を貫徹できなかった。そのためハッチの蝶番を狙って射撃して撃破するとか操縦席の視察孔を狙うとか連続して命中させてその衝撃で内部の機器を破壊するとか神業のような戦闘を行った。装薬を増やして威力を上げようとしたが、軽量化のため各部の強度が不足して果たせなかったという。後に一式37ミリ対戦車砲では多少威力が増しているが、37ミリという口径自体が太平洋戦争ではすでに時代遅れだった。次は一式47ミリ対戦車砲でこの砲は太平洋戦争中期以降に使用された。貫徹力は距離500メートルで65ミリ、1000メートルで50ミリ、1500メートルで45ミリで米軍のM3軽戦車の前面装甲を貫徹して兵士を喜ばせたが、M4中戦車が出て来るとその前面装甲を貫徹することはできなかった。しかし側面、後面であれば貫徹できたという。また500メートル以下であればM4中戦車の正面装甲を貫徹できたというが、当時の戦車戦の交戦距離は1千メートル前後で500メートル以下だと相手の弾もガンガン当たるので巧妙な偽装隠ぺいをして複数でうまくカバーし合って戦ったようだ。そうして硫黄島や沖縄では高射砲や野砲などと連携して多数のM4中戦車を撃破している。日本陸軍は敵に劣った兵器で何ともよく戦う軍隊で同じ条件で戦えば強かっただろう。まあそれが出来なかったから負けたのだが。一式47ミリ対戦車砲は太平洋戦争当時の標準砲が75ミリクラスだったのですでに威力不足だったが、英軍はこの砲を「威力のある嫌な砲」と言っているので撃たれる側には嫌な砲だったのだろう。最後は試製57ミリ対戦車砲だが、これは威力不足ということで試作で終わっている。その他対戦車砲として転用された砲で代表的なものは90式野砲でこの砲は一式砲戦車や三式中戦車の主砲としても採用されている。また88式7センチ半高射砲も水平にして戦車を射撃して撃破している。38式野砲や41式山砲なども対戦車砲として転用している。巧妙に偽装して至近距離から射撃すると装甲を貫徹できなくても衝撃で破壊できたそうだ。四式戦車の主砲はスウェーデンのボフォース社製高射砲のコピーだが、量産出来ず戦車砲用の割り当てはごく少数だったそうだ。戦車の装甲板を潜水艦に転用されたり日本陸軍は戦車をあまり重視していなかったようだ。対戦車砲もなく転用できる火砲もなく歩兵用の対戦車兵器もなかった場合は布団爆雷と言って20キロの梱包爆薬を人間が背負って戦車に飛び込んで破壊したという。それでも接近する前に戦車の機銃で倒されて接近するのは至難だったという。こうなるとただひたすら悲惨でしかない。日本陸軍はは火砲製作技術レベルが低くて独自の火砲が製作出来ずドイツやフランスの技術を導入していた。機動力が貧弱な日本陸軍は火砲を軽く作る必要がありその分砲各部の強度が低く機動性や射程などで欧米の火砲に劣ったそうだ。味方が撃つ弾はみんな弾かれ敵の弾はまるで段ボールでも貫くように味方の戦車を破壊していく。最後は体当たりして零距離で射撃して敵と刺し違える。「敵の戦車の装甲を貫徹できる砲をくれれば絶対に負けない」それは威力の低い火砲で米軍戦車と神業のような戦闘を行った日本陸軍対戦車兵の血の叫びだったのだろう。
Posted at 2023/09/16 21:18:43 | |
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軍事 | 日記
2023年09月16日
陸軍が空母を建造して運用していたというと驚く👀‼️かもしれないが、実際陸軍は空母を持っていた。それはあきつ丸という船で通常は日本海運が所有する貨物船だった。しかしあきつ丸は排水量9100トン、飛行甲板の長さは150メートル、速力21ノット、高射砲や高射機関砲を備えて97式戦闘機13機、3式連絡機8機などを搭載、後に艦載機は対潜哨戒機として3式連絡機とオートジャイロに換装された。船体は全通甲板に右側にブリッジを設けてまさに空母そのもので米軍も見間違えたようだ。またこの船はウエルドックを備えて大発を発進させることもできたというから今でいう強襲揚陸艦に近かった。実際にあきつ丸は世界初の強襲揚陸艦だった。戦闘機は発進させることはできたが、着艦は出来ず付近の陸上基地に降りるか機体を捨てて塔乗員は落下傘降下することになっていたそうだ。1942年1月に竣工したあきつ丸は蘭印作戦に参加、作戦終了後はラバウル、シンガポール、トラック、スラバヤ、マニラなどに人員や装備、物資などの輸送に従事している。特に海軍の空母機動部隊でさえ連日の空襲を避けて入港しなかったラバウルに3回も輸送のために入港している。この時に米軍に写真撮影されて海軍の特設空母海膺に誤認されている。戦況が悪化するに従い米軍の輸送船団攻撃が激化、輸送船の被害が増加するが、海軍は米軍の主力艦隊攻撃に血道を上げて輸送船団護衛にはあまり熱心ではなかった。そんな海軍に対する不信感からか陸軍はあきつ丸を対潜護衛空母に改装、艦載機を三式連絡機とオートジャイロに変更、これらを対潜哨戒機として運用、爆雷や対潜用迫撃砲、聴音器を装備するなどして門司、釜山航路の対潜哨戒を行った。1944年11月、先月始まったフィリピン決戦で部隊や物資輸送のために艦載機を陸揚げして部隊、兵器、弾薬糧食を満載して海軍特設空母神膺他駆逐艦、海防艦の護衛でマニラを目指したが、あきつ丸は聴音器で対潜警戒を行うもあきつ丸の聴音器は故障がちで対潜警戒は主に目視だったという。そして11月15日正午頃五島列島沖で米潜水艦が発射した2本の魚雷があきつ丸に命中、搭載していた弾薬が誘爆して転覆沈没した。ほとんど轟沈という状況で乗組員、便乗者合計2600名のうち2300名があきつ丸と運命を共にした。一部は護衛艦に救助された。あきつ丸は揚陸強襲艦として誕生、人員物資輸送で太平洋から東南アジアを走り回り、その後陸軍の海軍不信で護衛空母に改装され、対馬海峡の対潜警戒にも活躍したが、最後はその主敵であった潜水艦に止めを刺されて不死身の陸軍空母という数奇な運命に幕を下ろした。合掌、・・(^_^ゞ。
Posted at 2023/09/16 21:16:41 | |
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