2023年09月24日
元々少数精鋭主義だった海軍航空隊はソロモン諸島方面の消耗戦で大量の搭乗員を失い、その補充が間に合わず泥縄式に搭乗員の大量養成を始めたが、その質は低下するばかりで米軍との航空戦力の量的、性能的な差に加えて搭乗員の練度不足も航空戦の劣勢に拍車をかけた。そして通常の艦船攻撃をしていたのでは成果が上がらないと体当たりの特別攻撃隊を編成するようになった。そんな時期に海軍航空隊の源田実大佐は「精鋭戦闘機隊を編成して局地的にでも制空権を奪還してそこから戦局の転換を図るべき」と主張して海軍第343航空隊を編成した。この飛行隊が使用する戦闘機は紫電改、搭乗員は当時の海軍の精鋭を集めたと言うが、飛行時間が1千時間を超えていたのはごく一部で飛行時間が少ない未熟な搭乗員が大部分だったと言う。それでも一部の熟練搭乗員を中心として燃料、資材などの不足に苦しみながら訓練を続け、4対4、8対8、16対16などこれまでは一騎打ちを好んだ日本海軍搭乗員とは異なり徹底的な編隊空戦の訓練を行った。また戦闘機隊でありながら彩雲偵察機を装備する偵察飛行隊も持っていてレーダーや地対空、空対空の通信システムも整備して敵状の早期把握を目指したと言う。本来は6カ月の訓練を経て実戦投入の予定だったが、戦況はひっ迫して半年の訓練期間などと悠長なことを言っていられる状態ではなくなり1945年3月に戦闘に参加、呉などに来襲した米軍艦載機を迎撃、撃墜57機を報告する大戦果を挙げている。米軍側の記録では未帰還機14機となっているそうだが、米軍も負け惜しみが強いので本当のところを公表してるとも限らない。実際に彼我の被害が同数としても3倍の敵機と戦って同数なら勝ち戦だろう。その後も沖縄戦の特攻機の進路啓開や制空、B29の迎撃など戦闘を継続したが、機材の補充が続かず搭乗員の戦死も多く最後には稼働機数が20機程度まで落ち込んでしまったが、1945年8月まで来襲する米軍機と戦闘を続けて74機程度の損害に対して米軍機170機を撃墜したと言う。実際の戦果はその半数以下とも言うが、半数以下としても絶対的に優勢な米軍機との戦闘で互角に戦ったのであれば勝利と言ってもいいだろう。このような航空隊があと4個飛行隊あれば米軍の侵攻を相当程度食い止めることが出来ただろうと言うが、仮に4個飛行隊が揃っていても戦況が変わるなどと言うことはなかっただろう。しかしそれなりに来襲する米軍機を苦しめただろうが、当時の破壊され尽した航空機生産設備や封鎖された海上輸送路などを考慮すると紫電改を4個飛行隊分生産するなどと言うことは不可能だっただろうし、燃料の確保もできたかどうかわからない。また搭乗員も4個飛行隊分を集めることはできなかっただろう。混乱する国内状況の中圧倒的に優勢な米軍を正面から迎え撃って最後まで戦い続けた海軍第343航空隊はたとえその戦果が言われるよりも少なかったとしても負け戦が続く海軍にとっては最後の意地だったのだろう。搭乗員も勝てるとは思わなかったが、負けるとも思わなかったそうで搭乗員にしても互角以上の戦いを繰り広げているという意識だったのだろう。戦後もこの戦闘機隊のことはずいぶん持ち上げられているが、圧倒的な劣勢の中で健闘した隊員に対する敬意があるのかもしれない、・・(^_-)-☆。
Posted at 2023/09/24 18:20:42 | |
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軍事 | 日記
2023年09月24日
海軍士官を目指して難関の入学試験を突破して海軍兵学校に入校してさらに激烈な4年の学校生活を終えて少尉候補生として艦隊配置になると「士官、下士官、兵、牛馬、候補生」と言う牛🐄や馬🐴以下の待遇が待っていたそうだ。少尉に任官するとやっと人間扱いしてもらえるが、金欠病で懐は寒風が吹き抜けていたそうだ。海軍兵学校に入校した生徒の目標は連合艦隊司令長官と言ってもそうそう簡単になれるはずもなく最も人気があったのは大佐で戦艦の艦長をやって予備役編入と言うコースだったそうだ。しかし戦艦艦長と言っても日本海軍に戦艦は10隻しかなくこれもなかなか狭き門だったようだ。海軍にはハンモックナンバーと言う序列があってこれは兵学校の卒業成績の順位だが、これが悪いと出世は難しかったようだ。それでも順位が下の方でも米内光政のように海軍大臣から総理大臣になった人もいる。また将官になるには海軍大学校を卒業することが条件だったそうだが、木村昌福のように海軍兵学校の卒業順位はどん尻、海軍大学校にも入校しないで中将になった人もいる。また中にはあまりにも枠を踏み外して少佐で予備役編入なんて人もいたそうだ。海軍も人物や能力を見ていたのだろう。平和な時代の海軍はなかなかリベラルな組織でそれは現代に持って来ても先進的かつ合理的な組織であったかもしれない。しかし艦隊派と呼ばれた対米英強硬派が台頭して来ると全体主義的な傾向が強くなって良識派が排除されて行った。それでも出世は能力に加えて派閥や運などもあっただろうが、戦争が始まると出世どころか尉官クラスは大部分が戦死してしまって敗戦で海軍は消滅してしまい踏んだり蹴ったりではあった。それでも生き残ったものは大学に入学したり事業を始めたり戦後の復興に貢献したようだ。井上校長が普通学を重視したり英語教育を続けたのは敗戦後を見据えてのことだったそうだ。海軍兵学校も生徒が出世主義に取りつかれてはいけないとかその辺の教育にはいろいろ苦労したそうだ。しかし戦艦の艦長はなかなか魅力がありそうだ。何しろ数万トンの巨艦に数千人の部下がいてその頂点に君臨出来るのだからハイティーンの少年が憧れた👀〰️💕のも無理はないだろう。それでもその艦長も極めて狭き門だった。いずれにしても出世するには個人の能力ばかりでなく人脈やタイミングなど様々な要素が絡み合うのでなかなか思うようには行かないが、人気ナンバーワンが戦艦の艦長というのは少年らしい夢があって微笑ましい。そんな少年の夢を根こそぎなで斬りにしてしまう戦争というものは悪逆無道な行為だが、人間の本性だから人間が存在する限りなくならないだろう。戦艦の艦長か。出来ればやってみたいな、\(^_^)/🙆🆗🎃😁🌀😅🌴。
Posted at 2023/09/24 00:10:39 | |
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軍事 | 日記
2023年09月24日
日本陸海軍にはそれぞれ士官を養成する陸軍士官学校と海軍兵学校があった。いずれも14歳から15歳の少年を選抜して4年間の教育を施して卒業後は初級士官に任命された。どちらも学校のレベルとしては旧制高校、今なら大学の教養課程、短大程度である。どちらも軍隊の幹部を養成するための教育機関だが、陸軍士官学校は完全隔離の環境で陸軍士官として必要な型にはめるために徹底した洗脳教育が行われた。海軍兵学校でも軍隊の幹部として必要な詰め込み教育や洗脳教育も行われたが、基本的には自由で合理的な気風があったという。海軍兵学校の入学試験の面接で面接官が「ここに5匹のサルがいて菓子が6個ある。5匹のサルに均等に菓子を分け与えるにはどうしたらいいか。」などという質問をして困っている受験生を見てニヤリと笑って「いいか、むつかしござると言うんだ」などと笑って話したという。どんな意図でそんな質問をしたのか本人聞かないと分からないが、質問された受験生の反応を見ていたのかもしれない。また陸軍の配属将校が嫌いで海軍を志望したと言うとにやりと笑って頷いたと言う。ただそんな自由括達な海軍兵学校の気風も戦争が始まると士官の大量養成のために期限短縮や遠洋航海実習の中止など余裕がなくなっていった。さらに敵性語廃止で陸軍士官学校が英語教育を廃止したが、海軍兵学校では当時の井上成美校長が「好むと好まざるに関わらず世界の公用語は英語である。海軍士官として外国語の一つも話せないような士官は世界で通用しない。海軍兵学校として外国語を学ぶ意思のない少年など必要としない。本職が校長である限り英語教育は廃止しない。」と言って英語教育を継続したそうだ。また井上校長は英語を学ぶにはいちいち日本語に置き換えたりしないで英語は英語で学ばないといけないと言って戦時で手に入らないオックスフォードのかわりに三省堂の英英辞典を入手して学生に配布したと言う。これはまさに的を得た外国語学習方法で戦後英語教育を継続したことに感謝した学生は多数に及んだと言う。ただ貴族的な気風や行き過ぎたエリート意識、排他性などが海軍機関学校や経理学校、下士官兵からは不評だったそうだ。一般の人気はスマートな海軍兵学校が陸軍士官学校を圧倒していたと言う。海軍兵学校側は陸軍士官学校のマキャヴェリズム的な思想を嫌っていたと言う。いずれも組織に必要な幹部を養成する機関でどちらがいいとか悪いではないが、陸軍士官学校はドイツを範とし、海軍兵学校は英国を範とした。しかし「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」の格言が効いているのか、戦後の評判は海軍兵学校が断然いいようだ、\(^_^)/🙆🆗🎃😁🌀😋🎃😅。
Posted at 2023/09/24 00:09:18 | |
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