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2022年02月22日 イイね!

秋篠宮家の長男悠仁様の文章盗用疑惑に慌てる宮内庁、・・(^。^)y-.。o○。

秋篠宮家の長男・悠仁さま(15)が筑波大附属高校(筑附)に合格し、4月から進学される。

「一般試験を受験されましたが、結局は『提携校進学制度』を利用しての進学であることが発表されました。これは、悠仁さまが在学されているお茶の水女子大と筑波大との間で結ばれた制度で、面接や書類審査などをパスすれば両大学の附属中高への転入が可能となるものです」(皇室ジャーナリスト)

2017年にできたこの制度は5年に限定されるといわれ、ちょうど悠仁さまの中学・高校入試までの時期に当たっていることから、「悠仁さまのための制度」「特別ルート」などと指摘する声もあがっていた。

「筑附は全国的な進学校で、難関高との併願を考えるのが普通だと思われますが、この点についても国民の間から疑問の声があがっていることは事実。もっとも、そういったことは宮内庁としては想定済みで、特に説明をする予定はないようです」(同前)

入試から合格に至るまでにあがる批判や不満の声はある意味で「想定内」だったようだが、合格発表の日に「想定外」の報道が相次いでしまった。その報道とは、悠仁さまが文学賞を受賞した作文に、それ以前に刊行された著作物(『世界遺産 小笠原』)と酷似する点が見つかったことを指摘するものだ。

「小笠原諸島を訪ねて」と題されたこの作文は、小学校5年生時に母親の紀子さまと小笠原諸島を訪れた際の出来事を振り返る内容である。中学2年生の夏休みに、悠仁さまは学校の課題として北九州市文学館が主催する「子どもノンフィクション文学賞」に作文を応募され、中学生の部で佳作に入選したのだった。『女性セブン』がこれを報じると、一般紙もこれを「後追い」。大きな話題となった。

この文学賞の応募上の注意事項をあげるまでもないが、そこには、<他人の文章を勝手に使ってはいけません。使う場合は、「」で囲んだり、段らくを落としたりして、自分の文章と他人の文章の区別がつくように工夫してください。また、どこから用いたかも必ず書いてください>などとある。

しかし、悠仁さまがあげた参考文献にこの『世界遺産 小笠原』はなく、引用されたようにわかりやすく区別したあともなかった。2月16日に宮内庁は、「引用元の明記を怠った」と認め、「悠仁さまは指摘について感謝なさっている」などと発表を行ったのだった。

「この件を指摘されたとき、宮内庁内には衝撃が走りました。将来の天皇陛下が、場合によっては盗用を疑われかねない行いをしたとあっては由々しき事態ですからね。

実際は記載漏れということで引き取ろうとしたわけですが、悠仁さまの胸の内を公表するなどというのはかなり異例のこと。紀子さまとご一緒された旅に関することでもありますし、悠仁さまの文章力は高い評価を受けてきたこともあって、それが否定されるような大変なことになるのではないか…と心配する声もあります」(宮内庁関係者)

高校合格の祝福ムードを吹き飛ばしかねない一件だったことは間違いないようだが、これから始まる高校生活に大きな影響がないことを願うばかりだ。(FRIDAYデジタル)


近い将来天皇に即位される皇族についてこんな記事が出ること自体が異常だろう。普通は宮内庁が押さえるだろうし、その前にこうしたことにもっと注意するのだろう。天皇に即位する皇族が他人の文章を登用まがいのことをしたと言うのは崇高高潔な人格が要求される天皇と言う地位に就く方にとって計り知れない痛手だろう。皇位継承について何かこれまでにない動きが始まっているのではないかと言う気がしないでもないが、・・(^。^)y-.。o○。

Posted at 2022/02/22 17:13:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | その他 | 日記
2022年02月18日 イイね!

B29爆撃機に対してそれなりよく戦った日本陸海軍、・・(^。^)y-.。o○。

木更津沖で発見された異様な鉄の塊
2020年11月30日、千葉県の木更津沖約8kmの東京湾でタチウオ漁に使われていた地元の小型底引き網漁船が、網に大きな物体を引っ掛け停止しました。その場所の水深は22mほど。慎重に引き揚げてみたところ、原因は海底に堆積した泥に埋まっていた、およそ1tはありそうな大きな金属製の物体とタイヤでした。

一見すると、航空機の主脚に思われたこの“拾得物”は、当初からマスコミやマニアのあいだで様々な憶測を呼び、なかには1960年代に墜落した民間航空機の物ではないかなどの珍説も飛び出します。しかし程なくして、その特徴的なダブルホイールの形状やタイヤのパターンなどから、戦時中に墜落したB-29爆撃機の内側左右のエンジン下に装備した主脚とタイヤであると結論が出ました。なお、その時の調査と一時的な劣化防止の処置に日本陸海軍機の研究家で報国515資料館を運営する中村泰三氏も立ち会っています。

B-29は、「スーパーフォートレス」の愛称を持つアメリカ製の軍用機です。4発エンジンの長距離戦略爆撃機として太平洋戦争後期に登場し、日本本土への空襲では国民の生命や財産に甚大な被害をもたらしました。与圧装置や冷暖房装置も備え、高度1万2000mを飛行して最大で9tの爆弾を搭載できる同機はまさに「超空の要塞」であり、空襲時の炎に浮かぶ全長30m、全幅43mの巨体は「空の巨鯨」を思わせるものだったのではないでしょうか。

移送途中の再調査でカギとなる新発見
引き揚げ当初、このB-29爆撃機の遺物は木更津市役所で保管する事になりましたが、公示しても持ち主が名乗りでる事はなかったので、昨年(2021年)12月、発見した漁師に権利が移りました。その後、この方の意向に基づいてB-29の主脚とタイヤは、栃木県那須郡にある戦争博物館に所有権を含めて移譲されることとなりました。

今年(2022年)の1月末に行われた移送作業では、その途中で前述の中村氏のご自宅に立ち寄り、短い時間ながら調査と劣化防止を兼ねたクリーニング措置が行われています。筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)もその作業に、東京文化財研究所の研究員の方々と共に立ち会わせて頂きました。

主脚が持つ想定外の大きさと重量感に圧倒されましたが、ほかにも胴体内部に存在した機銃弾や薬莢、雷管、そして光学機器と思われるガラス片などが、泥や海棲生物の死骸と共に付着し残っていました。これについて中村氏は、墜落中に胴体部が炎上しながら機銃弾が誘爆、海面激突時に主脚格納状態で下部からの強い圧力が加わり、主脚は下面を斜め上にして着底。その後、胴体内部に存在した上記の小物が降り注いだと推察しています。

さらに、その作業時には以前の調査では見つからなかった長方形の黒い銘板が見つかりました。場所は主脚の主軸中央の海棲生物が積層した固まりの下で、調査のために外されています。これは大変重要な発見で、銘板を基にすればシリアル番号の解読から機体の来歴が明らかになるでしょう。一説によると東京湾には合計8機のB-29が墜落しているといわれており、今後の東京文化財研究所による処置や科学調査による詳細の判明が待ち望まれます。

意外と多かった首都圏でのB-29撃墜
それではこの巨大なB-29爆撃機を撃墜したのは何者なのでしょうか。当時の日本軍の防空体制は非力で、B-29爆撃機には手も足も出なかったといわれることもありますが、実際はそうでもなかったようです。

たとえば、1945(昭和20)年5月23日深夜、空襲で東京に飛来した558機のB-29は、日本軍機の迎撃や高射砲の射撃で17機を失い69機が損傷を被りました。また2日後の5月25日深夜に再び東京を襲った498機は、26機を失い100機が損傷しています。この首都東京の防空戦には、旧日本陸軍は飛行第47戦隊の四式戦闘機「疾風」を含む第10飛行師団が、旧日本海軍については厚木基地の第三〇二海軍航空隊や横浜海軍航空隊から夜間双発戦闘機「月光」や急降下爆撃機「彗星」改造の夜間戦闘機型、単発エンジン戦闘機である「雷電」や「零戦」が迎撃に上がっています。

また九九式八糎(センチ)高射砲は最大射高1万400mでしたが、サーチライトと組み合わせた対空射撃はある程度有効で、加えて少数ながら配備された三式十二糎(センチ)高射砲は最大射高1万4000mという性能を有していたことから、高高度を飛行するB-29にも十分通用するものでした。

なお、1945(昭和20)年5月29日に横浜空襲で飛来した517機に対して、木更津の太田山に配置された高射砲がB-29を1機撃墜しています。その機体は木更津と君津の間の山中に墜落しましたが、今回の主脚がその時に東京湾に落ちた機体の一部であった可能性も考えられるでしょう。いずれにせよ、この遺物の素性は今回の調査で見つかった銘板を基にしないことには何ともいえません。東京文化財研究所からの新たな情報待ちですが、すでにB-29爆撃機の主脚とタイヤは那須の戦争博物館に移送されており、慰霊式典や春頃の公開に向けて準備中だそうです。新たな展示物は、同館の目玉となることを期待します。
※一部修正しました(2月18日10時10分・吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター))


B29は当時の日本の航空機技術をはるかに凌駕した米国の技術で作られた戦略爆撃機で日本を敗戦に導いた立役者であったことは間違いないが、当時の日本軍は確かに苦戦はしたが、手も足も出なかったわけではない。戦争後半の日本にはレーダーによる早期警戒システムもそれなりに整備されていたし、作動不安定なレーダーを補う監視体制や防空戦闘機隊や高射火器などもそれなりに整備されていたようだ。ただ高高度を飛行するB29に対しては過給機の開発が遅れて高高度性能が劣る日本戦闘機は苦労したようだ。また高射砲も最大射高が足りずに迎撃には効果が薄かったようだ。ただ米軍が中高度からの焼夷弾攻撃に切り替えてからは高射砲も効果を上げたと言う。こうして戦闘機や高射火器などで迎撃した結果、諸説あるものの、500機弱のB29を撃墜し、3千機ほどの機体に損傷を与えたと言う。撃墜率は攻撃機総数の1.5%ほどでこれは10%を超えると爆撃の効果は激減すると言うが、そこまでには至ってはいないようだ。もっともB17を相手にしたドイツも撃墜率は1.5%強なのでそれを考えれば日本もよくやったと言えるだろう。また攻撃に飛来するB29も決して安泰楽勝と言うわけでもなかったようだ。そんなわけで確かに当時の日本陸海軍はB29迎撃に苦労はしたが、手も足も出ないと言った体たらくでもなかったようだ。硫黄島が陥落してB29に護衛のP51などがついてくるとさらに迎撃が困難になったそうで20年6月以降は本土決戦に備えて戦力温存を図ったのでB29などの迎撃は低調になって行ったと言う。こうして日本を締め上げたB29も朝鮮戦争では37ミリ機関砲を装備したソ連のジェット戦闘機ミグ15にバタバタ墜とされて第一線を退かざるを得なかった。技術の進歩と言うのは個々の兵器に対しても非常なものではある、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2022/02/18 11:03:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | 軍事 | 日記
2022年02月17日 イイね!

新型コロナオミクロン株の次はステルスオミクロン株とか、・・(^。^)y-.。o○。

東京都で2月17日、新たに1万7864人が新型コロナウイルスに感染していることが確認された。前週の木曜日は1万8891人だった。また新たに24人の死亡が確認された。16日時点でのオミクロン株の特性を踏まえた重症者は236人で、重症者用病床使用率は31.5%となっている。

年代別では
10歳未満が2754人、
10代が2076人、
20代が2736人、
30代が3169人、
40代が3117人、
50代が1759人、
60代が969人、
70代が646人、
80代が439人、
90代が184人、
100歳以上が12人
などとなっている。

全国の新規感染者は午後5時20分の時点で、7万6104人、新たな死者は214人。(FNNプライムオンライン)


新型コロナオミクロン株感染はピークアウトしたようだが、今度はステルスオミクロン株と言う変異種の感染が始まっているとか。これが第7波になるかは不明と言うが、デンマークなどではこのステルスオミクロン感染が主流になっているとか。次から次といい加減困ったものだが、重症化のリスクは小さいもののまだまだウィルスの変異が続くと言う。まことに始末が悪いウィルスではある。こっちも持久戦でワクチン接種に加えてマスクに手洗い、うがい、飲み会宴会会食カラオケの自粛、不特定多数の異臭場所への立ち入り自粛、密閉された換気の悪い場所への立ち入り自粛など個人としてできる感染防止対策で対抗するしかないだろう。でももうそろそろ終息して欲しいものだが、・・(^。^)y-.。o○。


Posted at 2022/02/17 18:34:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | その他 | 日記
2022年02月17日 イイね!

2千馬力級エンジンを得て最後まで高性能機として活躍したスピットファイア戦闘機、・・。

第二次大戦機において最も美しい戦闘機と称される大英帝国の「スピットファイア」。この機体が大きな戦果をあげたのは、その優れた機体設計と、ロールス・ロイス製エンジンによるものだ。同機は今、30機程度が飛行可能な状態で現存しており、私たち取材チームは、かつてイギリスとアメリカでこの機体を取材してきた。今回は、大英帝国の守護神スピットファイアの取材記をご紹介したい。

最大の特徴は薄い楕円翼
2016年7月、筆者たちは米ノース・ダコタの航空関連施設で、F4Uコルセア、P-51マスタング、P-40ウォーフォークなど、計5機の空撮を行ったが、そのうちの一機がスピットファイアだった。スピットファイアの最大の特徴は楕円型の主翼だ。主翼を真上から見た際の形状を平面形というが、その面積が広いと揚力(機体を浮かせる力)が増して、同時に、戦闘機に強く求められる旋回性能も向上する。そして楕円型の主翼は空気抵抗も減らした。通常、翼の翼端では渦が起こり、そこでは機体を後ろに引っ張る力(誘導抵抗)が発生する。すると機速が伸びず、または燃費が悪くなるのだが、スピットファイアは主翼平面形を楕円型にすることで、その抗力を低減している。旅客機の翼端はピョンと跳ね上がっているが、それも同じく翼端のドラッグ(抵抗)を減らすための策だ。



また、スピットファイアの主翼はとても薄い。層流翼という厚い翼型(翼の断面形)を採用しているP-51マスタングと比べるとそれは特に顕著であり、従来設計の大戦機と比べてもその薄さは際立っている。主翼が薄くなれば空気抵抗が減り、機速が伸びるというメリットがある。ただし、戦闘機は主翼に重い機銃を搭載し、大きなGがかかる空戦を前提として運用されるため、過度に主翼を薄くすると強度が保てない。しかし、スピットファイアの広くて楕円型の主翼はその強度を補う効果もあった。前後長(翼弦)が長い楕円翼は、機銃を搭載するにも好都合だったという。

ラジコンで感じるスピットファイアの飛行特性
スピットファイアを設計したのは、若き天才レジナルド・ジョセフ・ミッチェル(1895年生)。彼は1917年にスーパーマリン社へ入社し、その3年後、若干25歳の時に主任設計士に選ばれ、スピットファイアの原型となる水上機「Sシリーズ」を設計している。この機体はかの有名な水上機レース「シュナイダー・トロフィー・レース」に出場するためのものであり、同機もやはり流麗な機体フォルムと薄翼が特徴だった。結果、1927、29、31年と三度出場し、三度の優勝を成し遂げている。この高速水上機のDNAを受けて誕生したのが、希代の名機スピットファイアなのだ。

筆者はかつてラジコン飛行機雑誌の編集長を務めた時期がある。侮ることなかれ、ラジコンといえど飛行理論は実機同様であり、それを飛ばすことによって機体フォルムからくる操舵の「味」や「クセ」などを大まかに感じることができるのだ。そのため限られた機種にしか搭乗できない実機パイロットにもラジコンマニアは多い。

マスタングは主翼面積が狭く、スロットルを落とすと即座に高度が落ちる。そのため初心者には少々難しい。しかしスピットファイアは零戦同様、主翼面積が広いためスロットルを下げてもフワッと浮き続け、なかなか落ちてこない。プロペラの回転数を上げればシャキシャキ飛び、低速時にもコントロールしやすいので着陸も比較的容易だ。実機パイロットに対するインタビューによると、この操作フィーリングは実機も同様とのことだった。ただし、スピットファイアの実機においては、主脚の間隔が狭すぎた。1943年からは艦上戦闘機(シーファイア)としても運用されているが、着艦時の失敗で失われた機体は、戦闘による喪失よりもはるかに多かったという。

ロールス・ロイス製の名機「マーリン」
スピットファイアの制式採用は1936年で、零戦よりも4年早い。大戦後は朝鮮戦争(1950-53年)にも投入され、アイルランド空軍では1961年まで運用されている。四半世紀に渡って使用されたのはひとえに、基礎設計が優れていたことと 、ロールス・ロイス 製 エンジン による。そして、長きに渡って運用されたため、その型式は非常に多い。仕様が変更される際の一番のポイントは、搭載エンジンの換装だ。初期のスピットファイアでは、ロールス・ロイス製の「マーリン」が搭載された。液冷正立V型12気筒、総排気量27リットルの高回転型エンジンである。最も初期型のスピットファイアMk.Iは、「マーリンII」を搭載。同エンジンには1段1速過給器を搭載していたが、その出力は1060hp前後だった。

しかし、1941年から生産されたMk.Vには「マーリン40系」や「50系」に換装され、出力が1185~1230hpへ向上。さらにMk.VIの「マーリン47」では1415hpまでパワーアップしている。続いて、1942年から部隊配備されたMk.IXには「マーリン61」が搭載され、過給器を二段二速に変更したことで最大出力は1700hpオーバーに。ここでやっとドイツの最新鋭戦闘機フォッケウルフFw190と同等以上に戦える状態になった。結果、スピットファイアMk.IXはシリーズのなかで最多機数が製造され、同機における主力型式となっている。

「グリフォン」搭載で出力が2倍へ
こうしたマーリン・エンジンのスペック・アップと並行して、ロールス・ロイス社ではその後継機「グリフォン」の開発も進められていた。マーリンの総排気量が27リッターだったのに対し、グリフォンは36.7リッターにボワアップしている。同じく液冷正立V型12気筒のハイパワーエンジンだ。同エンジンは1942年10月から部隊配備されたスピットファイアMk.XIIにはじめて搭載され、最大出力1735hpを記録。Mk.X IVには、その一段過給機を二段二速にしたグリフォン60系が搭載され、離昇出力が2035hpまで向上している。つまり、もっとも初期型の「マーリンII」(1060hp前後)と比較すれば、スピットファイアはロールス・ロイス製エンジンによって、たった6年間で2倍ものパワーを得たことになる。

カリフォルニア州には大戦機のエンジン専用のレストア工房があり、筆者が2012年にそこを訪れた際には全バラ状態のマーリンを仔細に観察させていただいた。同エンジンを搭載するマスタングがゴロゴロあるアメリカでは、マーリンの需要はいまだ多く、そうした工房はフル回転している。また、英空軍には第二次大戦を保管・運用するための専門部署がある。それはロンドンから北に60kmほどの「ダックス•フォード飛行場」にあり、コロナ禍でなければ毎年7月に航空ショー「フライング•レジェンド」が開催される。

この航空ショーでは、スピットファイア、シーフューリー、P-51マスタング、アブロ•ランカスターのほか、F4Uコルセア、P-38ライトニング、F8Fベアキャットなどの米国機も実際にフライトする。ここを訪れれば、マーリンとグリフォンの生サウンドを聞き比べることもできるという、夢のようなイベントである。

スーパーマリン社とロールス・ロイス社
スピットファイアを生んだスーパーマリン社の起源となる会社は1913年に設立。第一次世界大戦下では単座戦闘機を試作していたが、軍からの受注には至らなかった。同社は1916年にヒューバート・スコット・ペインに譲渡され、社名を「スーパーマリン・アヴィエーション・ワークス」社に変更。同年に開発した飛行艇が27機製造され、イギリス海軍に採用されている。1917年には、先述したレジナルド・ジョセフ・ミッチェルが入社し、高速水上艇「Sシリーズ」などを開発した。1928年には軍需企業ヴィッカーズ・アームストロング社の傘下に入り、社名を「スーパーマリン・アヴィエーション・ワークス(ヴィッカース)」社に変更。1934年、イギリス空軍からの要請を受け、レジナルドを中心とした開発チームによって、単葉全金属製の引込脚機「タイプ300」を試作。これが後にスピットファイアと命名される。しかし、ミッチェルはこの開発途中からガンを患い、量産第1号機の完成を見ることなく1937年に42歳で死去している。同社は、大戦後はジェット機なども製造していたが、1960年にブリストル社など、他の航空機メーカーとともにBACに統合され、スーパーマリンのブランド名は消滅した。BACとは、ブリティッシュ・エアロスペース社であり、超音速旅客機コンコルドの英国側の担当企業として知られる。現在は他社との統合し、BAEシステムズと社名が変更されている。

一方、ロールス・ロイス社は1906年、自動車メーカーとしてイギリスで設立された。1914年から航空機用エンジンの開発に着手している。第二次大戦下でマーリン、グリフォンなどで成果を上げた同社は、航空機用エンジンメーカーとして不動の地位を確立した。しかし、1960年には経営難に陥り、1971年には国有化されている。1973年には、「ロールス・ロイス・ホールディングス」社と社名を変えて再生を図り、今日に至るまで航空機エンジンや船舶などを開発している。旅客機が搭載するジェットエンジンにおいては世界第3位を誇り、全シェアの2割を獲得している。1973年に国有化から脱する際、同社は自動車製造部門を「ロールス・ロイス・モータース」として分社化していて、それを重工業メーカーであるヴィッカース社に売却している。このヴィッカース社とは、1920年代にスーパーマリン社もその傘下に入った、かつての軍需企業である。その後、ロールス・ロイス・モータース社はBMW社に売却され、自動車の製造販売を行う「ロールス・ロイス・モーター・カーズ」社へと移行している。


スピットファイアも零戦と同時期に1千馬力級エンジンを積んだ戦闘機として登場した。太平洋戦争初期には日本の零戦や隼などと戦闘を交えている。その後同機は当時航空機製造の最先端国であった英国の航空機用エンジン技術を駆使した水冷2千馬力級エンジンを得て時速700キロの速度性能と高高度性能を得て戦争終結まで高性能を有する第一線機として活躍することができたのはやはり高性能エンジンのおかげで最後まで1千馬力級エンジンで苦戦した零戦とは明暗を分けている。航空機も車も船も動くものは何でもそうだが、その性能を上げるにはハイパワーのエンジンが必要だ。英国や米国、そしてドイツも戦闘機用高性能エンジンを開発することができたが、航空機用エンジン技術後進国の日本は高性能エンジン開発に遅れを取ってしまった。誉やハ43など何種類かは2千馬力級エンジンを開発したが、どれも試作の域を出ずにその設計性能を安定して発揮することができいなかった。零戦は艦上戦闘機で軽快な運動性を発揮することに主眼を置いた軽量戦闘機で仮にこの機体に2千馬力級エンジンを装備してもいい結果が出たか分からないが、少なくとも昭和12年に試作された1千馬力級戦闘機を昭和20年までそのまま使い続けたのではやはり急速な航空機の進歩には対応できなかっただろう。ただ日本にも三菱の金星と言う馬力は1500馬力級ではあるが、安定した性能を発揮できるエンジンがあったのだから昭和19年末などではなく昭和18年に52型を出したときに航続力が落ちるなどと言わずにエンジンもこの金星に換装しておけば零戦も第一線の戦闘機としてそれなりに活躍ができただろう。もっともエンジンの生産量などの問題もあっただろうが、栄も新型の誉などに押されて生産量が減少したので状況は似たり寄ったりだっただろう。戦争ではカタログ上の高性能よりも必要なときに必要な数の戦闘機を戦場に送り出せ、その戦闘機が安定した性能を発揮できることが重要視される。五式戦が持てはやされたのも燃料と油さえ入れればどんな時も安定して飛ぶことができると言う安定性にあった。仮に零戦に金星エンジンを装備したとしても時速700キロなどは不可能だっただろうが、そこそこの性能は出せただろうし、安定したエンジンで稼働率も高かっただろう。ドイツのBf109も2千馬力級エンジンを得て最後まで第一線機として活躍している。航空機用エンジン技術が欧米より遅れていた日本では安定した高性能エンジンの入手は難しかっただろうが、それでも三菱金星と言う適当なエンジンがあったのだから機体設計は悪くなかった零戦も早い時期に少しでもパワーのあるエンジンに換装しておけばと残念に思う、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2022/02/17 14:45:17 | コメント(1) | トラックバック(0) | 軍事 | 日記
2022年02月17日 イイね!

秋篠宮家の悠仁さまが筑波大学付属高校に合格、4月に入学されるそうだ、‥(^。^)y-.。o○。

宮内庁は、秋篠宮家の長男の悠仁さまが国立の筑波大学付属高校に合格し、4月に入学されると発表しました。悠仁さまは、今月13日に筑波大学付属高校の学力検査を受けられていました。

宮内庁によりますと、悠仁さまは現在通われている、お茶の水女子大学付属中学校で、「学業に秀で成績も最優秀グループに入っている」ことから推薦を受けて「提携校進学制度」を利用し、筑波大学付属高校を受検されたということです。

悠仁さまは、筑波大学付属高校の卒業生から学校生活について話を聞くなどして、第一志望に決められたということです。筑波大付属高校は都内屈指の進学校で、戦後、皇位継承権がある皇族が進学するのは初めてです。


近い将来天皇に即位する皇族の方が都内屈指の進学校に合格されたのはまことに結構なことだが、巷の評判はどうもよろしくない。「提携校進学制度」という特例的な制度による入学と言うことが影響しているようだ。東大入学も視野と言うが、それもあれこれ取り沙汰されているようだ。佳作に入選した作文の一部が他の文献の表現に酷似していたとかそんなことが記事になるなどこれまでになかったことでそうしたことが天皇制や皇室に影響が及ぶのではないだろうか。皇族は一般人と異なる人格や教養が必要ではある。そうした道が用意されているのだから敢えて高学歴を求める必要もないと思うが、それよりも必要なものは国家と国民の象徴となるべき崇高な人格や高潔さではないだろうか。まあ金枝玉葉の御身のことだからあれこれ言うのは畏れ多いが、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2022/02/17 13:20:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | その他 | 日記

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