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ntkd29のブログ一覧

2023年08月23日 イイね!

戦時急造艦艇の知られざる功労、\(^_^)/。

戦時急造艦艇の知られざる功労、\(^_^)/。太平洋戦争開戦前、日本海軍は太平洋を渡って進攻してくる米海軍主力艦隊を西太平洋で迎え撃って勝利するために来るべき艦隊決戦に勝利するための軍備を築き上げてきた。ところがいざ蓋を開けてみると戦闘は空母機動部隊による航空撃滅戦、物資輸送のための海上護衛戦、太平洋に散在する島嶼争奪戦へと変化していた。日本海軍はこうした戦争の様相の変化に水雷戦に特化した艦隊駆逐艦を当てて対応したが、駆逐艦の消耗が激しく艦隊編成に支障をきたすようになった。そこで対潜、対空に重点を置いた松型駆逐艦を大量建造するとともに商船護衛のための海防艦を160隻以上建造、さらに両用戦のために松型駆逐艦の船体を利用して一等輸送艦21隻、着岸して戦車や車両を直接揚陸できる二等輸送艦60数隻を戦争後半に建造した。さすがに開戦後に建造した正規空母は大和型戦艦を改装した信濃を含めて5隻だったが、戦争の様相の変化に対応するために小型の護衛艦や輸送艦を大量建造した。大量建造と言ってもその数は米軍の1/10にも満たないが、これらの艦艇は多大な損害を出しながら海上護衛戦に、あるいは揚陸戦に活躍した。戦艦や空母、巡洋艦、駆逐艦などの戦闘艦以上に多大な損害を被りながらよく働いて戦線を支えたのはこうした艦艇だった。戦後残存したこれらの艦艇は賠償艦として戦勝国に引き渡されあるいは解体されたが、一等輸送艦の一隻は短い期間だったが、捕鯨母船として運用され、海防艦の一部は海上保安庁に移管されて定点観測船として活動するなど戦後日本の復興にも貢献している。海防艦の一隻は海保から除籍された後千葉県千葉市で海洋公民館として利用されていたが、1998年に解体された。日本海軍籍の艦艇で現在残っているのは宗谷だけだそうだが、歴史的記念艦として解体せずに保存しておけば良かったのに残念である。これらの大量建造艦は決して高性能ではなかったし、戦時急造艦でいろいろ不具合もあったそうだが、日本を支えようと良く働き、その電気溶接、ブロック建造法は戦後の日本の造船産業にも大きな貢献をした。戦艦や空母のように派手さはないし、人目を引く船ではなかったが、功労艦と言ってもいいだろう、\(^_^)/🙆🆗🎃😅。
Posted at 2023/08/23 21:01:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 軍事 | 日記
2023年08月23日 イイね!

日本海軍のレーダーの性能は、\(^_^)/。

日本海軍のレーダーの性能は、\(^_^)/。日本海軍のレーダーはずいぶん遅れていたように言われる。出だしは「軍艦に花魁の簪みたいなものを付けて電波を出すなどとんでもない」と言って見向きもせず陸軍の方が積極的であったが、英国などのレーダー活用情報に刺激されてレーダーの研究、開発を始めた。その後、開戦を過ぎて昭和17年になって戦艦伊勢に2号1型対空見張レーダーが、日向に2号2型水上見張りレーダーが試験的に装備されたが、日向の2号2型水上見張りレーダーはミッドウェー海戦時に悪天候の中、敗戦で混乱する艦隊を見事に統制して円滑に撤退させたと言う。しかし当時のレーダーは雨で電波が反射して探知できなくなるなど精度に問題があった。また当時の日本は強力な大出力のマグネトロンが作れず正確な探知に必須の極超短波レーダーが作れなかった。一方米国は当時レーダー技術の最先端を行っていた英国からの技術供与でレーダーを開発していた。当時の米軍のレーダーと日本海軍のレーダーでは天と地ほども開きがあったように言われるが、確かに探知の正確性や機械の信頼性は米軍のレーダーが上だったが、米軍のレーダー射撃もそうそうビシビシ当たったわけでもないようだ。サボ島沖海戦では初弾が重巡青葉の艦橋に命中したりもしたが、スリガオ海戦では米軍の大口径砲の命中率は1%以下などと言う話もある。何より戦艦山城、扶桑は魚雷命中で炎上していたのでレーダー射撃も何もなかったようだ。戦艦山城、扶桑を撃沈したのは駆逐艦と魚雷艇の魚雷だったそうだ。また日本海軍もレーダーの改良を続け、戦争後半には光学測距より正確に探知できるまでになっていたそうだ。またレーダー射撃についてもレーダーと光学測距を併用することでかなり精度を上げて実用の域に達していたと言う。実際にレーダー射撃で命中弾を出したこともあったと言う。ただ米軍はレーダーと原始的なコンピューターを組み合わせた射撃指揮装置を配備していたそうだからやはり米軍の方が先を行っていたようだ。しかし日本海軍のレーダーは目標を単体として捉えることができないなどと言うが、実際には大型艦なら距離2万メートル前後で、航空機でもB29などの大型機なら100キロほどで単体として捉えることができたそうだ。また戦争末期には海防艦や駆潜艇などの小型艦を含めてほとんど全ての艦艇に対空、対水上レーダーが装備されていた。当時の日本の電子技術もそうそうバカにしたものでもないようだ。レーダーについては戦後に捕鯨船団が出漁する際に連合軍の監督官が同乗することになっていたが、連合軍の監督官はレーダーが装備されていない捕鯨母船に乗り組むことを嫌がったそうだ。しかし敗戦国の日本にレーダーを開発させるわけにもいかず困っていたところ軍艦から外した2号2型水上レーダーが大量に保管されていることに目をつけ旧海軍の技術士官やメーカーの技術者を召集して整備して取り付けたところこれが大活躍で連合国軍の占領期間中捕鯨母船で使用されたと言う。日本海軍のレーダーはマグネトロンの出力や真空管の信頼性や耐久性など問題がなかったわけではないが、それなりの性能を持っていたのは事実で使い物にならないなどと言うことはなかったようだ、\(^_^)/🙆🆗😁🌀🎃😅。


Posted at 2023/08/23 20:58:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | 軍事 | 日記
2023年08月20日 イイね!

86GRと過ごす時間も短くなってきた、・・(◎_◎;)。

86GRと過ごす時間も短くなってきた、・・(◎_◎;)。今日は86GRで一回りしてきた。この車もあと数ヶ月で手放すことになる。これほどの車を手放すのは何だか残念ではあるが、そう言っていると次に乗れなくなってしまうので仕方がない。日曜の午後なので134号や129号が大渋滞かと思ったが、平日とさほど変わらなかった。ちょっと時間が早かったのもあるが、さすがに夏のレジャーもそろそろ終わりなのだろう。静かになるのは結構なことではある。129号から新東名に入って新秦野ICまで走った。直進安定性の良さは特筆もので両手を離していても不安がない。新秦野で降りて246で山北まで行く。そこからは山裾をくねくねと走る。集落の中は速度を落として40キロほどで走ると大体後ろにぴったりとくっつくやつがいる。集落を出たら山坂道をちょっと飛ばしてやるとついて来れずに見えなくなる。86GRは恐るべきコーナリングマシンではある。結構な速度でもきれいにコーナーをクリアするし、コーナリング中もあまり傾くこともない。今日は後ろについたのはメルセデスのSUBだったが、追いかけてくるが、あっという間に見えなくなった。それでもお上のお手を煩わせることのない程度の速度ではあるが、もしかしたらそうでもなかったかもしれない。そんなことで100キロほど走ってきたが、この酷暑の中、車の中はエアコンで調整されて24度程度に保たれて快適だった。実家に車を入れてから周囲の雑草せん滅作戦を実施した。とにかく夏は雑草との戦いではある。よくぞまあちょっとの間でこれだけ草が生えてくるかと思うほどあちこち草が生えまくっている。お隣さんも雑草せん滅作戦をやっていた。削り取ってやるのだが、あっという間に汗が流れてくる。そして暑さに加えてやぶ蚊の攻撃、ムカつくので撃墜してやった。まあそんなこんなで86GRを楽しんできた。来週はちょっと遠出してやろうかと思っている。残り少なくなった86GRと過ごす時間、できるだけ楽しんでおこうと思っている、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2023/08/20 17:57:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記
2023年08月20日 イイね!

轟かなかった雷鳴、局地戦闘機「雷電」、・・(◎_◎;)。

轟かなかった雷鳴、局地戦闘機「雷電」、・・(◎_◎;)。日中戦争当時、日本海軍はソ連のSB高速爆撃機を装備した中国国民党軍の飛行場空襲の対応に頭を悩ませていた。当時使用していた96艦戦では迎撃しても追いつかず、ドイツから購入したハインケル112戦闘機は役に立たず、結局海軍は自前での開発を決心して昭和14年9月に14試局地戦闘機の名称で三菱に試作を指示した。要求性能は速度が高度6千メートルで600キロ以上、上昇力が6千メートルまで5.5分以内、武装が20ミリ機銃×2、7.7ミリ機銃×2と言ったところであった。試作を指示された三菱は直ちに検討に入ったが、小型高出力のエンジンがなく使用できるのは愛知の液冷エンジンか自社の空冷星形の火星だけであった。結局実用性を第一に考えて火星を選択したが、直径が大きいという欠点があった。そのためにプロペラを延長軸で駆動して機首を絞り込むと言う手法を取って空気抵抗を減少させることを選んだ。設計チームは零戦の開発チームと同じであったために開発は遅れて昭和17年3月に初飛行が行われたが、エンジンの出力が足りないことから速度、上昇力の不足が指摘された。そのためエンジンを水メタノール噴射付きの火星火星23型に変更、プロペラもVDM式4枚羽のものに交換された。ところが今度はエンジンが黒煙を吐き出す、飛行中激しい振動に襲われるなどのトラブルが発生、エンジンの不調については水メタノール噴射装置の不調と分かり改善されたが、振動についてはエンジン架の防振ゴムを変更してプロペラの羽の肉厚を増すことで一応の解決を見たが、トラブル解決に1年を要し、実用可能と判断されたのが昭和18年12月であったが、それ以前から生産が開始され、155機が生産されていた。しかし正式に採用されたのは昭和19年10月だった。試作指示から実に5年の歳月が流れていた。当初海軍では雷電の大量生産を考えていたが、振動やエンジンの不調、視界不良、離着陸が難しいなどの問題があって月産30機程度と細々と生産を続けていたが、海軍は雷電を見限って紫電改に生産の重点を移すことにした。しかし紫電改は誉エンジンの不調で性能も稼働率も低下し、B29を確実に迎撃できる戦闘機は雷電だけという状況になってしまった。そこで海軍は完成したばかりの雷電33型の生産を急がせたが、時すでに遅く30数機を生産したところで終戦となってしまった。33型の性能は高度6千メートルで時速614キロ、高度8千メートルまで9分45秒と当時の海軍機としては最高の性能を示していた。雷電の各型の中で最も多く生産されたのは21型で280機、その他視界を改善した31型、排気タービン装備型も作られたが、少数だった。雷電は最終的には優れた性能を示したが、振動問題に悩まされて開発に5年を要し、結局戦争には大きく貢献はしなかった。堀越技師の設計は詰め過ぎという面があるようでプロペラ延長軸などと言う日本の技術ではトラブルが発生しそうなものを使わずに陸軍の二式単戦のようにエンジンカウリングから後ろを絞り込むとかしていればそれでもよかったのではないだろうか。あるいは二式単戦をそのまま使ってしまうとか零戦のエンジンを金星に換えて翼面積を縮小して機体構造を強化して急降下性能を上げるとかいろいろ方法はあったと思う。ただ設計陣の問題だけでなく用兵側がこうした運動性を犠牲にして加速と上昇力にかけた戦闘機を嫌ったことや日本の技術的問題もあったのだろう。要するに安定した性能の高出力エンジンがあれば機体は何でもよかったのだから、・・。雷電は迎撃戦闘機として優れた性能を持っていたが、日本の技術の遅れに泣いた戦闘機だった。雷鳴は轟かなかった、・・(◎_◎;)。
Posted at 2023/08/20 17:23:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 軍事 | 日記
2023年08月19日 イイね!

日本海軍機動部隊を担って散った空母瑞鶴、・・。

日本海軍機動部隊を担って散った空母瑞鶴、・・。空母瑞鶴は日本海軍の正規空母で太平洋戦争開戦直前に翔鶴型空母の2番艦として完成した。翔鶴型空母建造時は条約明けで制限がないことから飛行甲板の全長248メートル、全幅29メートル、基準排水量26000トン、満載排水量32000トン、搭載機80機以上のフルサイズ空母として建造された。大きさで言えば海上自衛隊のいずも型護衛艦よりちょっと長くて幅が狭く排水量は6000トンほど重い。これは弾薬庫、航空機用ガソリンタンク、機関部などに装甲を施していたこと、当時海軍最大の16万馬力を出した機関の重量だろう。翔鶴、瑞鶴は完成と同時に第5航空戦隊を編成、真珠湾攻撃に参加したが、航空隊の練度が低いと陸上目標の攻撃を命じられたそうだ。瑞鶴は真珠湾攻撃で搭載機を1機も失わず幸運艦の片鱗を見せている。その後ラバウル攻略、インド洋作戦に従事西太平洋からインド洋まで米英軍を駆逐した。次はポートモレスビー攻略のために珊瑚海に進出、ここで阻止に出てきた米機動部隊と史上初の空母対空母の海戦が生起した。結果は日本側が翔鶴大破、小型空母1隻喪失に対し、米軍側は大型空母1隻喪失で戦術的には日本側の勝利だが、戦略的には日本側の進攻を阻止した米軍側に分があったと言う。ミッドウェー海戦は翔鶴の修理と航空機の補充が間に合わず不参加、その後ソロモン諸島方面で米軍機動部隊と激戦を繰り広げるが、南太平洋海戦で翔鶴は再度被弾して大破するが、瑞鶴は被害を受けなかった。その後しばらく大きな海戦がなかったことから瑞鶴は戦訓によって対空火器の増設と不燃不沈化工事を行いながら訓練に励んだ。そしてマリアナに進攻してきた米海軍機動部隊を迎え撃ってマリアナ沖で迎撃するが、このころにはもう日米の戦力は質量ともに大きく開いていて空母大鳳、僚艦の翔鶴、飛鷹が撃沈され、艦載機はほとんど全滅してしまった。瑞鶴も開戦以来初めて被弾して中破した。内地に戻った瑞鶴は母艦部隊の錬成やなお一層の不燃不沈化に努めた。航空用ガソリンタンクと船体の間にコンクリートを流し込みガソリンの漏洩を防ぐとともに艦内のペンキや床に貼ったリノリウムをはがすなど不燃化を徹底した。そして昭和19年10月、レイテ沖海戦に米艦隊をおびき寄せるためのおとり機動部隊として小型空母3隻、航空戦艦2隻を率いて出撃、4空母が搭載した航空機はわずか116機だった。瑞鶴は日本海軍最後の艦載攻撃隊を発進させたが、これと言った戦果はなかった。逆に米軍艦載機が3波にわたって来襲、瑞鶴は魚雷7本、爆弾5~7発を被雷、被弾して沈没した。開戦以来、幾多の海戦に参加して生き残ってきた瑞鶴は講師て沈んだ。瑞鶴の喪失によって米国と覇を競ってきた日本海軍空母機動部隊は完全に壊滅して以後空母機動部隊の組織的運用は不可能となった。日本空母機動部隊の最後を見守っていた小沢治三郎中将は次々沈んでいく空母を見ながら「これが世界最強を競った日本海軍機動部隊の最後かと思うと情けなくもあり、また日本の先行きもこうなって行くのか」と感じたと言う。瑞鶴は建造当初は魚雷2本程度の被雷に耐えられるように建造されたと言うが、戦訓による不沈化改造で魚雷7本の被雷によって沈没するまで強化された。瑞鶴より大型で新鋭の大鳳や信濃もあったが、いずれも戦局に貢献することなく撃沈された。開戦時から日本海軍機動部隊の中核を担って戦い続けた瑞鶴は日本海軍機動部隊の終焉を看取るようにして散って行った、🎃😅。
Posted at 2023/08/19 21:27:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | 軍事 | 日記

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ntkd29です。CB1300スーパーボルドールに乗って11年、スーパーボルドールも2代目になりました。CB1300スーパーボルドール、切っても切れない相棒にな...
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