2023年08月16日
日本海軍は戦前米海軍との艦隊決戦に備えて水雷戦に特化した大型高速駆逐艦を大量に整備した。ところが戦争が始まると戦闘は空母同士の航空戦や島嶼争奪戦が主体となり駆逐艦は空母など大型艦の対空、対潜護衛、船団護衛、さらには最前線への高速輸送など戦前は全く想定されなかった任務に駆り出されて消耗していった。そのため駆逐艦の必要数を割り込みそうになり慌てた海軍は対空、対潜護衛や船団護衛を主任務とする駆逐艦の大量建造に乗り出した。主砲は12.7センチ高角砲単装1門、連装1基、速力は28ノット、魚雷は4連装発射機1基4発、機銃は連装または3連装4基12門以上を装備し、水中聴音器、対空、対水上レーダーを装備した。基準排水量は1260トン、艦形は量産を考慮して曲線を廃してできるだけ直線を使用、鋼材も高張力鋼板を使用せずに普通鋼材として電気溶接を多用したブロック建造を推進して量産性を高めた。推進軸は2軸で機関配置はボイラー、主機、ボイラー、主機のシフト配置として坑堪性を高めている。19隻目からさらに簡易化を推進した改良型が建造されている。こうして建造された駆逐艦には松、竹、梅、桜など植物の名前がつけられたので雑木林などと呼ばれた。建造された駆逐艦は昭和19年中期から戦線に投入されたが、あちこち簡易化された部分に問題はなく艦隊護衛、船団護衛、輸送任務など地味ではあるが、日々に傾いて行く海軍を支えて奮闘した。特にレイテ沖海戦以後のレイテ島オルモック湾輸送作戦の船団護衛には他の護衛艦と協力して輸送船団を護衛して奮闘した。船団を妨害してきた米海軍駆逐艦と戦闘になり魚雷戦で撃沈したこともあった。昭和20年になると日本周辺での船団護衛や来襲する米軍機との交戦などが主な戦闘になり、すでに海軍はその戦闘力を喪失していた。戦後スクラップとして浮揚された松型駆逐艦の1隻の梨が船体の程度がいいことから防衛庁に買い上げられて改修の上護衛艦として就役した。旧海軍の艦艇で海上自衛隊に就役したのはこの梨1隻であった。買取り価格が高すぎると問題になったが、当時の海上自衛隊の艦船は米軍から供与あるいは貸与された艦船ばかりだったので旧海軍の正統な後継者としての海上自衛隊の存在を旧海軍の艦艇を就役させることで証明したかったのかもしれない。旧海軍駆逐艦「梨」は「わかば」と命名されて昭和31年から昭和46年まで海上自衛隊の護衛艦として在籍した。わかばの武装はすべて撤去されて新たに米国製兵器が搭載された。主機は入念にレストアされたが、長い間海水に浸かっていたので運転すると凄まじい雑音を発生したと言う。また乗組員も旧「梨」の乗組員が当てられたが、何度か幽霊話が持ち上がったこともあったと言う。わかばは昭和46年に除籍されて解体された。戦時急造艦として32隻が量産された松型、改松型駆逐艦だが、戦時急造の割には使いやすい駆逐艦で地味ながら活躍もしたし、そのブロック工法による大量建造方式は戦後の日本の造船に貢献もした功労艦でもあった、・・(^_-)-☆。
Posted at 2023/08/16 18:56:38 | |
トラックバック(0) |
軍事 | 日記
2023年08月16日
米国のM4中戦車に手も足も出ずに完敗した日本戦車だが、M4中戦車を正面から撃破した日本戦車があった。一式砲戦車、正式には一式7糎半自走砲という。これは97式戦車の車体にフランスのシュナイダー社製75ミリ野砲を搭載したもので本来は自走砲として作られたものだが、距離千メートルでM4戦車の正面装甲を撃ち抜ける砲だった。そのため戦車部隊での運用も考慮していた。現実的にはM4戦車と正面から撃ち合える装甲車両は一式自走砲しかなかった。ただあくまでも自走砲で砲は防楯を備えたオープントップ砲塔で全周旋回は出来なかった。100両強が製作された一式砲戦車はフィリピンやミャンマー、中国に少数が送られた。フィリピンに送られた一式砲戦車は途中輸送船が撃沈されて4両だけがフィリピンに到着した。この4両は壕を掘って車体を隠蔽して歩兵を援護して進撃してくる米軍戦車を待ち伏せて米軍の激しい攻撃に退却してくる歩兵を尻目に距離500メートルで射撃を開始、壕を移動しながら射撃を続けて米軍のM4戦車の正面装甲を撃ち抜くなど米軍のM4中戦車に痛撃を加えた。見つかれば防御能力の低い自走砲なのでM4中戦車に撃破されるが、ノモンハン以来の優秀な戦車兵が残っていたので戦闘は完璧に行われた。その後もこの4両は他の部隊と共同で連日米軍に砲撃を加えて損害を与え続けていた。昭和20年3月31にはサラクサク峠で正面に展開する米第32師団に対して15センチ榴弾砲3門、機動90式野砲2門と協力して米軍に1千発の榴弾を撃ち込み米軍を退却させている。しかしこの4両の自走砲も次々破壊されて最後の1両は6月に撃破された。これら4両が所属した戦車第2師団機動砲兵第2連隊は圧倒的優勢な米軍と半年に渡って戦闘を続けた。1300名のうち85%を失って200名弱が生還した。日本の戦車兵は「M4戦車の正面装甲を撃ち抜ける砲を備えた戦車を与えてくれれば絶対に負けない」と言ったそうだが、その言葉は嘘ではなかった。
Posted at 2023/08/16 18:55:08 | |
トラックバック(0) |
軍事 | 日記
2023年08月16日
日本の機関銃はほとんどが英米独仏チェコなどの技術導入で作られたものが多い。それは日本の精密工作技術や冶金技術が劣っていたからだった。日本陸軍は口径6.5ミリの三年式重機関銃から世界的潮流の7.7ミリ機関銃を開発することとして航空機用の旋回機関銃を改造することを考えたが、改造は容易でないことから三年式重機関銃を改造して新たに7.7ミリ機関銃を開発することにした。これが92式重機関銃で命中精度と射撃持続性能を重視したことから発射速度は欧米の機関銃に比べて非常に遅かった。この機関銃は重量が重くて頑丈な三脚付きだったので命中精度が非常に良かったが、その分発射速度が遅く重くて整備に手間がかかった。発射速度は射撃した弾数を数えられるほどだったという。それでも射撃を始めるとすぐに故障して射撃不能になってしまう軽機関銃に比べて発射速度は遅くても持続射撃が可能な重機関銃が射撃を開始すると歩兵は非常に頼もしく思い安心したそうだ。米兵は92式重機関銃の射撃速度が遅いことをからかってウッドペッカーなどと呼んだそうだが、ベテランの兵士はこの機関銃に狙われると逃げることが難しいことを知っていて恐れていたそうだ。欧米の機関銃は発射速度を上げて弾をばらまき面制圧することを目的としていたが、92式重機関銃は狙撃のできる非常に珍しい機関銃だった。ただし故障が少ないと言っても他の機関銃と比べての話であり、実戦使用に際しては頻繁な精密整備を必要としたという。それでも安定した重機関銃であることは間違いなく海軍陸戦隊では92式重機銃という名称で使用され、戦後アジア諸国で日本軍が残した92式重機関銃が使用されたという。また警察予備隊発足時に同機関銃を使用したらどうかという意見があったそうだが、米国製のM1919機関銃が採用された。重くて整備が面倒という短所はあったものの安定した射撃性能で歩兵には頼もしい味方だったようだ、\(^_^)/🙆🆗🎃😅。
Posted at 2023/08/16 18:54:03 | |
トラックバック(0) |
軍事 | 日記
2023年08月16日
日本陸軍は欧米の陸軍に比べて銃砲の性能でも火力でも劣っていた。国産の砲は性能が低く近代的野砲はフランスの技術を導入して製作していたし、機関銃は英米独仏やチェコの技術を導入して製作していた。当時の日本は冶金技術や精密工作技術で欧米に比べて劣っていたからだった。そんな日本だったが、お手軽な兵器で極めて効果的な歩兵支援火器があった。それが89式重擲弾筒である。これは口径50ミリの軽迫撃砲で砲身254ミリ、全長610ミリ、重量4.7キロ、89式榴弾を最大670メートル飛ばすことができた。手榴弾も使用できたが、その場合は射程が200メートルに落ちたそうだ。この軽迫撃砲は底板を地面につけて砲身を固定して45度の角度で榴弾を発射した。砲身の角度は常に45度で射程は砲身底部にある調度器で調整した。この軽迫撃砲は基本3人で運用し、各自8~18発の榴弾を携行したというが、重くて大変だったようだ。この軽迫撃砲は発射音が大砲並に大きく米軍はずいぶん恐れたそうだ。この軽迫撃砲は島嶼防衛戦で活躍したそうで米軍の機関銃陣地などは射撃後頻繁に陣地を移動しないとこの軽迫撃砲に狙われて潰されたそうだ。こうした個人が携行できる89式重擲弾筒の効果を評価した米軍は戦後40ミリ擲弾銃や60ミリ軽迫撃砲などを開発している。また米軍以外の国も似たような軽迫撃砲を開発装備している。それだけこの89式重擲弾筒がお手軽ではあるが、効果的な兵器だったということだろう。ところで戦場では敵が遺留した兵器を使用することは当たり前で米軍も日本軍も敵の兵器を利用していた。この89式重擲弾筒を使用した米軍はその底板の形が大腿部にぴったり合うことからニーモーター(膝撃ち迫撃砲)と名付けて実際に片膝をついて底板を大腿部に当てて発射して大腿骨を粉砕骨折する者が続出したとか、😁🌀😨🎃😅。そのために「日本軍の軽迫撃砲を使用する際は底板を大腿部に当てて発射してはいけない」と指示が出たとか、\(^_^)/🙆🆗🎃。89式重擲弾筒は貧乏陸軍の簡便で効果的な歩兵支援火器であった、\(^_^)/😁🌀🎃😅。
Posted at 2023/08/16 18:52:48 | |
トラックバック(0) |
軍事 | 日記
2023年08月16日
日本陸軍は昭和5年に89式戦車として初めての国産戦車を採用した。この戦車は短砲身57ミリ砲を装備したが、トーチカや機銃陣地の破壊用で対戦車戦闘能力はなかった。装甲も厚いところで17ミリ程度で小銃弾で貫通することもあったそうだ。次は95式軽戦車でこの戦車は37ミリ対戦車砲を装備していたが、貫徹力が低く装甲も12ミリ程度で防御力も弱かったが、快速で故障も少なかったと言う。次は97式中戦車でこの戦車は新式の優れた戦車だったが、武装は89式と同様の57ミリ短砲身砲で後に47ミリ速射砲に換装された。これらの戦車は装甲がリベット止めされていて被弾するとリベットが飛び散って車内の乗員を殺傷したというが、当時の日本には厚板を溶接する技術がなかった。次は一式中戦車でこの戦車は97式の車体及び砲塔前面の装甲を50ミリに増厚して車体と砲塔を溶接して組み立てた。車体強度はかなり上がったが、火力は97式と変わらなかった。一式の47ミリ速射砲では米軍のM4戦車を撃破できないことから一式の車体に新砲塔を載せて75ミリ野砲を装備したのが三式中戦車でこの戦車砲であれば米軍のM4戦車を500メートルの距離から正面装甲を貫通することが可能だったが、原型が野砲のため射撃手が引き金を持たず車長がりゅう縄を引いて発射するなど射撃に問題があった。最後は四式、五式中戦車だが、四式は75ミリの装甲とスウェーデン製75ミリ高射砲を改修した75ミリ戦車砲を装備した対戦車戦闘用の戦車だった。五式は四式を大型化して37ミリ速射砲を副砲として装備したが、主砲は四式と同じだった。一式、三式は米軍が制海権を取っていたため外地に持ち出すことが出来ず本土決戦用として本土に置かれた。四式、五式は試作として数両が製作されたのみだった。日本の戦車は装甲、火力ともに米軍の戦車に著しく劣っていて待ち伏せや側面、後面攻撃で撃破したこともあるが、ほとんど一方的に撃破された。また生産数も桁違いに少なく移動もインフラが整備されておらず大型の重い戦車を作ることが出来なかった。また溶接、鋳造技術が遅れていて車体や砲塔の一体鋳造が出来ず、砲も高初速大口径砲が製造出来ず、冶金技術の遅れから硬度の高い砲弾が製造出来ず、米軍戦車の装甲を貫通することが出来なかった。また生産力も大きく劣っていて米国はM4中戦車を5万両も製造したが、日本は89式から三式まで合わせて5千両程度だった。日本は技術も遅れていて軍を機械化装甲化するための予算もなかった。人員を減らして軍の機械化装甲化を推進しようという意見もあったが、組織が縮小するとポストが減って出世が遅れると反対する勢力が多かった。日本の戦車は装甲、火力ともに弱く数も少なかったことから最後は車体を埋めて砲塔だけを出して火力拠点として使用されたりした。日本陸軍の戦車兵は非常に優秀で完璧な偽装をして待ち伏せて米軍戦車を撃破したりハッチの蝶番を狙って射撃して撃破したりしている。せめて米軍戦車の装甲を正面から撃ち抜ける砲を装備した戦車を与えればむざむざ負け続けることはなかっただろうと言うが、技術や予算の問題でかなわなかった、😁🌀😨🎃😅。
Posted at 2023/08/16 18:51:19 | |
トラックバック(0) |
軍事 | 日記