2023年08月14日
日本海軍の隠れた名機に93式中間練習機がある。当時練習機には旧式化した実用機を当てていた海軍は航空機の進歩に旧式化した実用機では性能が不十分だったために海軍自ら新型の練習機を開発した。これが91式中間練習機で当時の第一線機を凌ぐ速度を記録するなどその高性能を見せつけたが、横安定に難があったために量産化されずその後91式中間練習機の主翼、胴体などを再設計して改修して試験飛行を行った結果申し分のない性能を示したことからこれを93式中間練習機として採用し、日本飛行機、中島、渡辺、三菱、川西、富士、日立などに量産が命じられた。エンジンは小型機用としては安定した性能で定評のある日立製500馬力級星型9気筒のの天風だった。生産機数は昭和8年から20年までに5500機以上が量産されたが、これは零戦、隼に次ぐ日本第3位の量産機数で4位の疾風を2000機以上も引き離している。この93式中間練習機は練習機としては申し分のない機体で長期にわたり海軍の練習機の主力となり多くの搭乗員を育てた他、連絡、偵察などにも使用されている。また水上機型も制作されて多くの水上機搭乗員を育てている。本機は容易に視認できるよう機体がオレンジ色に塗装されていて通称「赤とんぼ」と呼ばれて親しまれた。終戦時には陸上機型、水上機型合計2800機以上が健在であった。この93式中間練習機は沖縄戦では特攻機にも使用されている。機体を濃緑色に塗装して後席に増槽としてドラム缶を積み250キロ爆弾を搭載して台湾から出撃したが、さすがに遠距離すぎて失敗、基地を石垣島、宮古島に変更して再度出撃した。米軍側のレーダーピケット艦は接近してくる正体不明の複葉機を視認、距離200メートルで敵機と認識、射撃を開始したが、激しい対空砲火にも全く被害を受けていないかのように悠々と接近、駆逐艦の中央部に激突、機関室内で250キロ爆弾が爆発してこれを撃沈した。米軍が接近する機体に気づかなかったのは本機が鋼管に布張りで低空飛行をして接近したことと相まって現代のステルス機のようにレーダーに反応しなかったこと、対空砲火も布張りの機体をただ貫通するだけだったことなどがある。時速200キロそこそこ、複葉の練習機を特攻に使用するなど追い詰められた日本海軍の絶望的な姿が垣間見えるが、旧式の複葉練習機だからこその戦果でもあった。ただ搭乗員、そして米軍駆逐艦の乗組員には悲劇ではあった。93式中間練習機は複葉で「赤とんぼ」と言う牧歌的な愛称に似合わず極めて優秀な練習機であった。
Posted at 2023/08/14 12:33:37 | |
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2023年08月13日
12試三座水上偵察機は傑作と言われた94式三座水上偵察機の後継機として川西と愛知で競作が行われたが、川西の1号機は試験中の事故で破壊、2号機は試験飛行中行方不明で川西の機体は採用中止となってしまった。愛知の機体は期限に間に合わなかったために失格となっていたが、機体を完成させて社内で試験飛行中、川西の機体が2機とも失われたために急遽採用となって試験飛行が行われ「性能優秀、操縦安定良好、性能は要望に達する」として零式三座水上偵察機として採用となった。翼はハインケル系の楕円テーパー翼、胴体はセミモノコックで風防は三座とも密閉風防となっていた。エンジンは安定していることで定評のある金星43型、プロペラは住友ハミルトン系の直径3.1メートルの三翔定速型、武装は後方の7.7ミリ旋回機銃1丁、爆撃兵装は250キロ1発、60キロ4発だった。この機体は大型水上艦の偵察用として、または基地の偵察哨戒、連絡などに使用された。速力は380キロ弱で敵の戦闘機に捕まれば撃墜される可能性が非常に高かったが、それでもよく働いて敵の発見に努めている。またソロモン方面では偵察、哨戒、夜間爆撃や機体下部に20ミリ機銃を装備してソロモン方面で跳梁していた米軍の魚雷艇狩りに駆り出されて成果を挙げている。また戦争後期には偵察や哨戒に従事するとともに夜間の哨戒や攻撃にも従事している。またフィリピン戦、沖縄戦では通常攻撃以外に特攻にも参加している。さらには電探や磁探を装備して海上護衛作戦にも従事している。こうして零式水上偵察機は艦隊で、そしてまた基地航空隊で裏方として様々な作戦に従事して貢献した。総生産機数は1,400機強だが、終戦時には200機が残存していた。そのうち4分の一が外地にあったのは同機があらゆる戦地に配置されて活躍していたことがうかがわれる。変わったところでは48機の雷撃型が作られ配備されている。雷撃方法は敵艦の手前に着水して水上滑走で敵艦に接近して魚雷を投下、投下後は離水して帰投すると言うものだが、実戦に参加することはなかった。日本は四周を海に囲まれているので大量の水上機を保有していた。開戦時の海軍の航空機保有数は1,872機だったが、そのうち349機が水上偵察機で外地部隊に259機が、内地部隊に90機が配備されていた。これだけの水上偵察機を配備していた海軍は他にはなくその活動範囲は北はアリューシャン、南はオーストラリア、東は米国西海岸、西はインド洋に及ぶ。そして艦隊の目として、あるいは基地航空隊の連絡哨戒、攻撃用にと地味ながら活躍した。すべてが零式三座水上偵察機ではなく94式三座水上偵察機、95式水上偵察機、零式観測機、その他の水上機もあるが、日本の水上機はその性能に定評があった。零式三座水上偵察機は近代的水上偵察機としてその安定した性能で海軍の目としてあるいは局地攻撃用として地味ながら馬車馬のように働いた傑作機だった。
Posted at 2023/08/13 22:50:23 | |
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2023年08月13日
日本海軍は進攻してくる米海軍艦隊と劣勢で艦隊決戦を行って勝利するために様々な方法を検討して実施した。軽快艦艇による雷撃、潜水艦による雷撃、そして航空機による雷撃である。そのために駆逐艦には次発を含めて16本から18本の魚雷を搭載、潜水艦は水上航行能力を向上させて艦隊に随伴させ航空機には魚雷を搭載して長距離を飛行できるものを開発した。12試陸上攻撃機、後の一式陸上攻撃機がそれである。この攻撃機は魚雷を搭載して4千キロ以上を飛行することができたが、防弾は一切考慮されていなかった。海軍は縁起を飛行して米艦隊を攻撃できることを最優先していて長期戦を考えてはいなかったことが防御を省いた理由と思われる。一式陸攻は開戦後フィリピンのクラーク飛行場爆撃、英戦艦プリンスオブウェールズ、レパルス撃沈など戦果を挙げた。日本側が優勢なうちは被害は少なかったが、米軍の戦力が増すに従って被害が増加している。特に艦船攻撃で大きな被害を出しているが、元来この手の大型機を艦船攻撃に使用すること自体が暴挙でさらには戦闘機の護衛もなしでは被害が出るのは当然である。一方でガタルカナル島の米軍飛行の高高度爆撃ではさほどの損害はなかったという。基本的には大型機による昼間爆撃は日本ばかりでなく英米独も大きな損害を出している。しかし防弾皆無というのはやはり問題があり海軍も一式陸攻の防弾装備に意を用いるようになった。しかし米軍との戦力差が拡大するに従ってなまじの防弾装備など役に立たず被害は増加していった。戦後はこの機体を「ワンショットライター」などと揶揄するが、ガソリンにしてもごま油にしても油は気化して空気と混合しないと発火しない。だから弾が当たれば何でもかんでも発火したわけではない。しかしこの防弾装備の欠如が熟練搭乗員を失う原因になったことは間違いない。戦闘機であれば積極的に被弾を避けることも可能だが、爆撃機のように撃たれることが前提の機体には防弾装備は不可欠だっただろう。撃たれ弱いと言われながら一式陸攻は2400機以上も作られて海軍の攻撃の中核として奮戦した。山本連合艦隊司令長官を乗せて撃墜されたのもこの機体だった。戦争末期桜花を搭載して出撃して全機撃墜されたのもこの機体だった。最後の34型は翼の構造を一新して航続距離を捨てて燃料タンクに防弾を施したが、すでに手遅れで混乱した生産の現場では少数機を作るのが精一杯だった。三菱は試作の指示を受けた際に金星エンジン4発の機体を提案したが、海軍に却下された。海軍は艦隊決戦に勝利するために遠距離を飛行して雷撃ができる機体を必要とした。一式陸攻が4発機になっていたら雷撃ではなく爆撃主体の全く違う機体になっていただろう。撃たれ弱いと言われながら最後まで海軍の攻撃機の主力で被害も多かったが、海軍切ってのポイントゲッターでもあった、\(^_^)/😁🌀🎃😅。
Posted at 2023/08/13 18:14:37 | |
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2023年08月12日
日本海軍は米海軍との艦隊決戦で進攻してくる米艦隊を航空機、潜水艦、軽快艦艇による魚雷攻撃で戦力を減殺するために長射程、高速魚雷の開発に邁進した。第一次大戦後の魚雷は燃料と圧縮空気でエンジンを駆動する内燃機関型と電池とモーターで走行する電気モーター型に分けられる。熱走機関式は高速かつ長射程だが、排気による航跡が明瞭で電気モーター式は航跡はないが、速力、射程ともに落ちる。それぞれ一長一短があった。熱走式魚雷の圧縮空気を純酸素にすれば排気ガスは炭酸ガスと水蒸気のみでどちらも水に溶けるので航跡が目立たない。
また出力も大きくなり魚雷の速度も上がり長射程を実現できるということで日本海軍は開発に取り組んだ。しかし酸素は非常に不安定で起動時などに爆発しやすくいという技術的問題点があった。日本海軍はこれをエンジンの始動時には空気と酸素を混合したものを使用し、徐々に純粋な酸素に切り替えていくという方法で解決している。こうして酸素魚雷を実用化した日本海軍だが、魚雷と言うのは燃料タンクにエンジン、そして魚雷が一定の深度でまっすぐに走るようにジャイロや舵などを備える精密機械で常に整備点検を必要とした。現代で言えば長距離対艦ミサイルのようなものである。酸素魚雷は長射程、高雷速、大炸薬量の魚雷だったが、その分扱いが難しく手がかかった。魚雷は艦砲と違い目標を二次元で戦で捉えるので三次元を飛んで点を捉える艦砲よりはずっと命中率がいいと言うが、射程2万メートルだの4万メートルだのと言うと魚雷の速度が60キロだの70キロと言っても20分から40分ほどもかかる。その間目標が同進路同速で走っていてくれればいいが戦闘状態であればそのようなことはまずあり得ない。そうなると命中精度が落ちることから日本海軍は多数の航空機あるいは軽快艦艇による多数射線による魚雷攻撃を計画、軽巡洋艦に片舷20射線、両舷で40射線などという魚雷発射管を備えた重雷装巡洋艦などを作り出している。こうして日本海軍は艦艇用、航空機用、潜水艦用など様々な酸素魚雷を制作しているが、航空機用は酸素魚雷のメリットが少ないことから通常魚雷に切り替えられている。日本の酸素魚雷はジャイロの作動不安定で魚雷が迷走したこともあるし、敵に向かって発射した魚雷が命中せずに遠方の射線上にいた味方輸送船団の船舶に命中、輸送船が沈没するなどの被害を出したこともある。また戦争前半期には米重巡を撃沈したりあるいは空母、駆逐艦を撃沈したり、戦艦を撃破したりと戦果を挙げているが、米国の航空優勢が確立してくると魚雷の使用できる場面が限られ、また搭載している魚雷が被弾で誘爆したりして被害を拡大している。日本の酸素魚雷は無誘導だったために長距離での命中率は極めて低かった。射距離1万メートルで使用した魚雷188本のうち命中したのは4本と命中率が極めて低い。52ノットで目標まで5千メートルで発射しても命中まで3分ほどもかかるためその間敵艦が変針増速した場合は命中率は極めて低くなるので長射程の利点はないと言ってもいい。そんなわけで魚雷は短射程、大弾頭化に進んで行く。そして行き着いた先は使う場面がなくなって大量に余った魚雷を改造した人間魚雷「回天」だった。無誘導で命中率の悪い魚雷を人間が操縦して確実に目標に命中させる。すべての物資が欠乏していく戦争末期に最も豊富な物資は人間だった。その人間を誘導装置にして兵器に組み込むと言う悪魔の思考が頭をもたげ、軍隊と言う命令機構の中で「お前が誘導装置になって敵を間違いなく仕留めろ」と命令するようになる前に戦争を止めるべきだった。日本海軍は優勢な米海軍を破るために世界中どこの国も採用しなかった純酸素を使った高速長射程、大威力の魚雷を開発した。しかしその命中精度の低さを埋め合わせる誘導技術を持たなかった日本海軍はその誘導装置に人間を使うことを思いついた。ごく限られた特殊な状況で体当たりと言う戦法は米軍も行っている。極限的な状況で「せめて敵に一太刀」は武人の自然な心理かもしれない。しかし軍と言う組織の中で命令としてそれが行われることだけは避けるべきだっただろう。「『「死んで来い』、それはもう命令の限界を超えている」と言った司令官がいたそうだが、まさにその通りである。
Posted at 2023/08/12 22:29:44 | |
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2023年08月12日
太平洋戦争以前、日本海軍は艦隊に随伴して行動可能な大型潜水艦の開発に力を入れた。これは艦隊決戦前に米海軍の艦隊を攻撃して主力艦を減らすためだった。訓練では日本の潜水艦は艦隊の中まで侵入して主力艦を撃沈する戦果を度々挙げていた。そのため海軍は潜水艦に大きな期待を寄せていた。ところがいざ戦争になると日本の潜水艦は全く奮わなかった。ハワイ作戦の際はパールハーバー監視のために配置された日本海軍の潜水艦は米海軍の駆逐艦に頭を押さえられて逃げ回るのが精一杯で監視どころではなかった。それ以降も日本海軍の潜水艦は期待された活躍はしなかった。これは一つには潜水艦の用法に問題があったことに起因する。潜水艦の最大の武器は隠密性でどこにいるか分からないうちに攻撃してくるのが最大の強みだった。ところが日本海軍は潜水艦を哨戒線に張りつけたり米海軍の泊地に侵入して攻撃させるような作戦ばかりを立案して潜水艦の隠密性を奪っていた。戦況がひっ迫してくると離島への潜水艦による物資輸送なども行われ、これも潜水艦を失う原因になった。もう1つは日本海軍の潜水艦探知能力と潜水艦の防音防振対策だった。潜水艦を探知するには聴音器という音を探知する器械を使用するが、日本の聴音器は精度、信頼性が低く「大体この辺に潜水艦がいるらしい」と言う程度で米海軍のようにピンポイントで潜水艦を見つけることが出来なかった。また潜水艦の防音、防振についても不十分で戦争中ドイツに派遣した潜水艦をドイツのエンジニアが見て「よくここまで来れたものだ。これでは大西洋を太鼓を叩きながら渡って来たようなものだ」と呆れ、日本の潜水艦に防音、防振工事を施してくれたと言う。ドイツと英海軍は潜水艦戦を巡って互いにしのぎを削るような戦闘を繰り広げていた。また米海軍は狩猟民族の執念深さを発揮して潜水艦を完全に撃沈するまで2日でも3日でも交代で追撃したと言う。その点で日本海軍は淡白でちょっと油などが浮いてくると撃沈したとして攻撃を止めたそうだ。毎月15隻くらいの米海軍潜水艦を撃沈したという報告が上がってきたが、戦後実際に撃沈した米海軍潜水艦は52隻と聞いて対潜戦を指揮していた幹部は愕然としたそうだ。日本海軍は米海軍の艦隊泊地であるウルシー環礁を潜水艦で攻撃したが、出撃した潜水艦はすべて撃沈されている。戦争末期になって潜水艦や小型艦艇しかなくなった日本海軍は米国から沖縄に至る長大な補給線を特攻兵器の回天を搭載した潜水艦に自由攻撃させて大きな戦果を挙げた。この戦果にについて米国はすべてを公表はしていない。大本営発表は日本だけの話ではなかったようだ。ほとんど護衛なしに自由航行していた米海軍の輸送船は攻撃に無警戒で被害を拡大した。潜水艦側は「自由にやらせてくれれば戦果を挙げられるんだ」と胸を張ったと言う。いずれにしても日本海軍の潜水艦は150隻程あったが、その大部分が撃沈された。その原因は潜水艦の用法や作戦のまずさとともに米軍側の潜水艦探知・攻撃方法が日本側をはるかに上回っていたこと、日本側の防音、防振技術が劣っていたことなど日本の技術が劣っていたことが原因である。兵器の用法とともに技術と言うものは戦時でも平時でも物事の結果に大きな影響を与える。地道な技術開発はもちろんのこと相手の技術レベルを把握しておくことは重要なことである。それを怠り潜水艦の用法まで間違えた日本海軍が潜水艦戦で大きな戦果を挙げられなかったのは当然だが、そうした誤りで犠牲となった潜水艦乗組員が気の毒である。
Posted at 2023/08/12 18:40:14 | |
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