
1983年6月13日。39年前の今日、私はバイクで大きな事故に遭いました。これはその時のヘルメットです。
毎年6月13日が来るとあの日を思い出します。ブログには初めて書きます。長いです。
当時の私は大学生。ホンダのCB250RS-Zという非力な250ccのバイクに乗っていて、学校が終わると毎日のように近所の箕面山の峠を走ってました。
次期車に新型レーサーレプリカのNS250Rというバイクを注文していた私は、これまで乗ってたRS-Zで最後にサーキットでいいタイムを出したいと、峠で走りの調整をしていました。もちろん無理な走りをしてたわけではありません。
私は、いわゆるルーレット族とかローリング族とかという、同じ狭い区間をUターンしてクルクル走る集団と一線を引いていて、山を単騎でフルコースでツーリングするだけが昔から好きなのです。(周りから見たら同じ走り屋ですけどね…😅)
その頃の私は自分で言うのもなんですがけっこう乗れていて、事故のその日も下りで全日本選手権のゼッケンをつけたツナギのCBX400Fのバイクにコーナーひとつ離された状態で格下のバイクで何とかついていけてる、そんなコンディションでした。
そんな私に重大な事故の瞬間はいきなり訪れました。そこはローリング族が走っているエリアでの出来事です。
現場は見通しの悪い緩いカーブでした。黄色のセンターラインを越えて対向車を追い抜いた加害者バイクが、私の目の前に突然現れたのです。私はとっさに逃げようと左に寄りました。しかし加害者バイクは真っ正面から私のバイクの右側面に突っ込み、私の記憶はそこで失くなりました。
気を失った私が目を覚ましたのは救急車にのせられる寸前でした。私は救急隊員の方に免許証を渡し、周りにいた走り屋の後輩たちに実家へ走って伝えてくれるよう頼み、また気を失いました。
事故を見ていた人たちによると私の身体はは衝突の反動で7~8メートル空を飛び、ゴロゴロ転がって側溝にはまって止まったそうです。死んだと思われてたでしょうね。
事故車を引き上げてくれたバイク屋によるとバイクのスピードメーターの針は衝撃のためか120㎞で止まってたとか…。(そんなスピードは出してません)
バイクはもちろん全損。私は右手と右鎖骨、右大腿骨、右足首をすべてポッキリ骨折してて右背中の三角筋が断裂してました。頭はヘルメットのおかげで無事でした。
全身を石膏のギブスで固められ半年入院。その後も再手術で何度も入院しました。最後の手術は事故から10数年たった30歳を過ぎて結婚した後でした。
今でも身体の中にはチタンのボルトが数本入っています。しかしまぁよく死ななかったものだと思います。
入院中、母親や祖母が交代で泊まりがけで付き添って介護してくれて、大変な苦労を掛けました。友人たちもしょっちゅう見舞いに来てくれて、心配を掛けたなぁと思います。
加害者のバイク乗りは最初は同じ病院に運ばれたのですが、彼の怪我は膝の皿が割れた程度でした。彼が「山は事故する覚悟で走るのは当たり前やー」などと取り調べの警察に述べていると聞き、私の父が激怒して文句を言いに行くと、怖くなったのかすぐに転院して行きました。
この峠は私の入院中にも事故が多発し、病棟は事故で骨折したバイク乗りだらけになってました。そして新聞などにもとりあげられバイクは通行禁止となりました。友人たちの間でも峠やサーキット熱は私の事故で冷めていったようでした。
その後、この加害者は転居(夜逃げ)までして消息不明になりましたが、警察の捜査で見つけられ、裁判には掛けられたそうです。しかし彼は任意保険に入っておらず、1円も私の損害への賠償はありませんでした。私の入院費用だけは相手の自賠責保険で何とかなったとか…。
退院して数か月後警察の現場検証で加害者と立ち会った際、彼が「事故はお互い様やー」と私に面と向かって言ったのにはあきれましたし忘れられません。人生勉強になりました。私がこんな人間がいるエリアに走りに行ったのがそもそも間違いだったということです。
私は退院後も右足全体に装具を着け、松葉杖無しには歩けなくなってましたし、三角筋がない右腕は一生肩より上がらないよと医師に告げられました。必死にリハビリし何とか普通の健常者に見えるようになるまでには十何年も掛かりました。
しかしもうバイクは二度と乗らないと親たちに誓った私でしたが、結局退院後数か月後にはまたミニバイクには乗ってました。ミニサーキットとかも走りに行ってて、今考えるとまだ事故で懲りてないバカだったなぁと思います。心配を掛けたであろう両親には申し訳なかったと思います。
その後(何故か)兄弟がバイク免許をとりレーサーレプリカのTZR250というバイクを買いました。でもまったく乗らなくてずっと車庫に置いてあるのを見て、何度かそのバイクを借りてあちこち乗ってみたのです。ところが今度は私もかってのようにバイクを自在に操れないことを感じました。
自分のバイクを操る感覚とバイクの動きにズレがある。思った感じに走らせることができないと感じた私はバイクに乗ることをやめました。今でいう高齢者の免許返納と同じですね。自覚しないと乗るのをあきらめられないもんです。
その後は峠はクルマで走るようになるわけですが、時代で峠に来るクルマもまた変わっていきます。センターラインを割りまくりで、事故の危険のあるクルマの「族」が増えていったのです。「事故はお互い様」のこんな奴らがいると危なかしくって走ってられません。ということで峠に行くのもやめました。
信号は赤ならSTOP,.クルマは左側通行。こんなあたり前のことすら守れないというか理解のできない輩には、近づかないのが賢い振る舞いだということでしょう。
それからさらに何年も経ってBPレガシィに乗るようになってまた峠には時々行くようになりましたが、土日とかはロードバイクが多くて危ないですね。「族」は減りましたが夜はまだいるそうなので近寄りません。君子危うきに近寄らずです…。
話はそれますが、昨今ロードバイクとかリターンライダーとか流行ってて大型バイクに乗ってる人が増えました。見てるとバイクに乗せられてる人ばかりで、ついつい独り言で文句を言ってしまいます。ライティングマナーも悪いですし、何でこんなのが流行ってるんだろう、危ないなぁとぼやいています。横断歩道で停まる大型バイクやロードバイク見たことありますか?今の彼らはまず停まりません。
事故をした私が言うのもなんですけど、今のクルマ社会の中でバイクは異物、異分子的な存在で、クルマと共存してないと思います。乗ってるといつかスマホ運転とか自動運転のクルマに轢かれて事故をすると思います。昨今のロードバイクも同じですね。
私は若い頃にこうした大きな事故を経験したにも関わらず、クルマでも当てられる事故に遭うことが多く、何で自分は被害者にばかりなるのだろうと何年も思ってたことがあります。若い頃から一度も自分から事故を起こしたことはないから余計にそう思ってたんですけどね😃
そんな私が事故に遭わなくなったのは、何年か前の免許の講習の中で、元F1ドライバーの中嶋悟さんの「予測運転テクニック」とか「交通危機管理術」ってのを聞いたあたりでしょうか。中嶋さんは道路の高架工事をしているところすら、危険回避のために通るのを避けるってのを今でも覚えています。
とどのつまり、バイクにしてもクルマにしても運転を愉しみながらも
「事故に遭わない運転」を心掛けなきゃならないというのが結論だと思います。
結局、ぶつけられない、事故に遭わないってのも運転テクニックで、危険リスクをできるだけ避けること「無事是名馬」が何よりなんだと思います。そういう意味で前に乗ってたBPレガシィはまさしく名馬でした。
今の時代に対し欲を言えば、警察による違法な改造車両や危険運転車両の取り締まりの強化をしてほしいです。昔に比べたら警察は仕事してないと思います。社会も自動運転ばかり推進するのではなく、メーカーにも飲酒やスマホながら運転ができないクルマづくりをしてほしいです。何より任意保険をもっと加入徹底を厳格にして、私のような交通被害者を一人でも減らしてほしいと思います。
私も毎日このヘルメットを見て自らを戒め、引き続き安全運転を続けていきたいと思います。
在りし日の私の愛車です。私の身代わりになってくれました。
つまらない独り言に最後までご覧いただき有り難うございました。