幕末の京都嵐山をあるく♪ その1の続きです
ここからはツアー番外編として、幕末以外の史跡も訪ねました。
●野宮神社…清浄の地「野宮」に由来する神社。
天皇が代替わりすると斎王が天皇の代理として伊勢神宮に仕えることになっていた。そして斎王が伊勢に向かう前に身を清めた場所がここで、源氏物語の「賢木の巻」の舞台にもなった。
また謡曲「野宮」の題材にもなっている。ちなみに歴代の斎王の平均年齢は12歳くらいで、未婚の皇女や女王から選ばれた。現在は「斎宮行列」として、その様子を再現している。
雨が降っていたのと夕方だったので「竹林の小径」は空いていました。
●大河内山荘(門前のみ)
昭和初期に活躍した時代劇俳優・大河内傳次郎の別荘と回遊式の庭園がある。敷地は約2万平方メートル。昭和9年(1931)、34歳の時、自分で設計して庭の造営を始め、64歳で亡くなるまでの30年間、映画の出演料の大半を注ぎ込んで作り上げた。
●津崎村岡局(むらおかのつぼね)の銅像
幕末の勤王家、津崎村岡局の像で、昭和3年(1928)に建てられた。
嵯峨に生まれ、父は津崎左京。近衛忠熈(このえただひろ)に仕え、村岡局と名乗った。嘉永6年(1853)ペリーの来航とともに幕末の政局は俄に慌ただしくなり、近衛卿は尊王攘夷派の公家として頭角を現した。局は、僧月照(げっしょう)や水戸の鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)らと親交を持ち、志士相互及び志士と公家との連絡に当たり、特に、近衛卿や西郷隆盛(さいごうたかもり)らの運動を助け活躍した。
このため、安政5年(1858)井伊直弼(いいなおすけ)による安政の大獄が起こると、局も捕えられて江戸に送られ、永の慎に処せられた。その後、近衛家を辞して北嵯峨の直指庵(じきしあん)に隠居、付近の子女の教育に尽くした。村岡局は維新の女傑といわれているが、晩年は嵯峨庶民の慈母でもあった。明治6年(1873)88才で没した。
私はこの方を存じ上げませんでした。
●角倉了以像
角倉了以(すみのくらりょうい)は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて京都で活躍した豪商。大堰川(保津川)や高瀬川などの水路の開発を行い、嵐山や木屋町の風景を作った人物といえます。
慶長11(1606)年に大堰川の舟運を開いた角倉了以(1554~1614)を記念し,大正元年に大堰川に臨むこの地に銅像が建立された。
なお銅像は第二次世界大戦中の金属供出で撤去されたが,昭和63年に有志により再建された。
京都を歩いているとあちこちで見かける角倉了以です。
●周恩来の碑
中国の元首相・周恩来(1898~1976)は1972年の日中国交正常化当時の中国首相。17~19年に日本に留学して、19年春に京都を訪れて詩を読んだ。
雨中嵐山――日本京都
雨の中を二度嵐山に遊ぶ
両岸の青き松に いく株かの桜まじる
道の尽きるやひときわ高き山見ゆ
流れ出る泉は緑に映え 石をめぐりて人を照らす
雨濛々として霧深く
陽の光雲間より射して いよいよなまめかし
世のもろもろの真理は 求めるほどに模糊とするも
――模糊の中にたまさかに一点の光明を見出せば
真(まこと)にいよいよなまめかし
1978年8月、日中平和友好条約が調印され、この条約調印を永遠に記念し、子々孫々にわたる友好を願う心を表わしたいという声が巻き起こった。そこで、京都にゆかりの深い、日中両国友好のために尽された周恩来総理の詩碑を建立しようという運びに至った。中国人観光客に人気のスポット。
今は台湾有事とか起きないことを祈るばかりです。
これにてツアーは終了。渡月橋をまた渡って帰途につきました。
雨の嵐山は紅葉真っ盛り。とてもきれいでした。
ちなみにこの日は阪急嵐山駅横の「嵐山ガレージ」というところをAkippaで予約して駐車しました。1日1800円と高かったですがとても便利なところでした。
●嵐山観光MAP
撮影機材
キヤノンEOS R6 MarkⅡ
キヤノンRF14-15mm F4 L IS USM
最後までご覧いただき有難うございます🌝
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史跡めぐり | 日記
Posted at
2024/12/11 16:42:41